夏の終わりに

佐城竜信

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「やったなあ、彰久君!」
彰久に与えられた選手控室の中で、正義は大興奮していた。
「ええ。なんとか勝ちましたよ」
笑顔で答える彰久も、若干の疲れを感じ始めていた。なにしろ今日1日で全試合を戦い抜いてきたのだから、疲労が体に蓄積されるのは当たり前だ。
それでも次は決勝戦というところまで歩みを進めている。あと一歩でプロの格闘家になれるのだと思うと、体の奥底から力が湧いてくるような気がした。
「それで、最後は誰と当たるの?」
「ああ、ベテランの選手だよ。名前は――佐崎十郎太だ」
正義に告げられた名前に、彰久は目を丸くした。
「ええっ!佐崎さんが相手なの!?」
「ああ、そうだよ」
「たしかその人って、去年準優勝だった人だよね?大丈夫なの?彰久」
千里は不安げに尋ねた。
「……さあ、どうだろうな」
彰久にはそう答えることしかできない。
相手がベテランの選手だから、ということは抜きにしても。今年こそは優勝しなくてはならない、というあの気迫。あの意気込みを、果たして自分が邪魔をすることができるのだろうか?
「彰久、顔色が悪いぞ?」
「あ、ああ……」
彰久は慌てて取り繕った。そんな彰久に正義は語り掛ける。
「彰久君。確かに彰吾は君の優勝を喜ばないかもしれない。君がプロの格闘家になることを快く思わないかもしれない。だけどな、君が自分の夢をかなえたいと思うその気持ちは誰も邪魔をしてはいけないものだと私は思うんだ。それに、もし彰吾が反対しても、私が彰久君を応援するよ。それが私の役目だと思っているからね」
「師匠……」
彰久は心の底から感謝をした。ここまで親身になってくれる人は他にいない。正義に背中を押されることは、何よりも勇気づけられる。
それでも。
試合開始まであと15分、それまでに心を決めなくてはならない。
「……すいません、師匠。ちょっと頭を冷やしてきます」
「ああ、行っておいで」
正義は優しく微笑んでくれた。
彰久は静かに立ち上がると、控室の扉を開けて外へと出た。
「ふう……」
外の空気はひんやりと冷たく、心地よかった。
彰久は空を見上げた。そこには太陽と青空が広がっている。
「眩しい……」
思わず呟いてしまうほどに、太陽の光は強かった。だが、その光が今の自分にとってはとてもありがたかった。
(そうだな……。悩んでいる場合じゃないよな。師匠に言われたじゃないか。自分のやりたいようにやればいいって)
よしっ!と小さく呟いて戻ろうとしたとき。一人の子どもが走ってくるのが見えた。ここには選手とその関係者しか立ち入ることを許されていない。ということは彼は十郎太の子供なのだろう。
その子どもは彰久の前で立ち止まると、彰久の顔を見て言った。
「お兄ちゃん、お父さんの相手の人ですよね?……お願いがあります!」

***
(今年こそは優勝するんだ!)
その思いだけで十郎太は大会を勝ち進んできたが、辛勝を重ねてきたせいで疲れとダメージが蓄積されている。
控室のベンチに座り込み、肩で息をしながら回復を待つ。すると、控室にノックの音が響いた。
「はい」
ドアを開けた相手は、なにも言わずに部屋に入ってきた。そこに立っていたのは。
「耕太?どうしてここに」
佐崎耕太。十郎太の息子であり、九歳になったばかりの男の子である。
「お母さんはいっしょじゃないのか?」
「うん!僕だけで来たんだよ!お父さんを応援したかったから!」
「そうか……」
こんなにもまっすぐな目で見つめられて、父親は嬉しく思わないはずがない。十郎太は自然と笑みを浮かべていた。
「ねえ、お父さん!お父さんは総合格闘技、っていうののすごく強い人なんだよね?」
「ん?そうだなあ……。昔は強かったけど、最近はそうでもないなぁ」
「そうなの?」
「ああ、そうだとも」
「じゃあ、なんでそんなにつらそうにしてるの?」
「……っ!」
子供というのは時に鋭いものだ。特にこの年頃は物事の本質をよく見ている。
「お父さんはね、負けちゃいけない試合があるんだ。そのために頑張ってきたんだけどね、もうダメみたいなんだ」
「えっ?なんで?なんで負けちゃいけないの?」
「……それはね。お父さんはこの試合に負けたらプロになれないんだ。……それに、もう年だからプロを目指すことも厳しくなってきているんだ」
耕太に言い聞かせるというよりも、まるで自分自身に言っているようだった。
「お父さん、負けちゃうの?」
「……いや、絶対に負けられないんだ。だから、今年は優勝しないとな」
「でも、もうお父さんは勝てないんでしょ?」
「……まだわからないさ。でも、今年が最後かもしれないな」
十郎太は総合格闘技では相当に強い方だ。それでも毎年、自分なんかよりもはるかに強い選手が出場している。だが、だからこそ諦めることだけはできなかった。たとえ、優勝できなかったとしても。
「お父さん!」
「ん?」
「僕、知ってるよ!そういうのを"あきらめたらそこで試合終了だよ"って言うんでしょう?」
「……ははっ。耕太、お前本当に賢いなあ!その通りだよ」
十郎太は耕太を抱きしめると、その頭を撫でた。
(そうだよな……。俺はまだまだ頑張れるよな)
「ありがとうな、耕太」
「えへへ……」
照れくさそうにする息子に、父親として最大限の愛情を注ぐ。
「お父さん!お父さんが勝てるように僕頑張るよ!」
「おお!それは頼もしいぞ!」
「だから約束して!優勝したらご褒美をあげるって!」
「ご褒美?いいぞ!なんでも買ってやる!」
「本当!?」
「ああ!男に二言はない!!」
十郎太は大きく宣言した。
「それなら、お父さん。勝って!絶対!!」
「おう!!」
息子の期待に応えなくては、男が廃るというものだ。
耕太は立ち上がり、控室を出て行った。

***
そして耕太は今、十郎太の対戦相手。彰久の目の前にいる。
「お願い?」
彰久は首を傾げた。彼の視線の先にいるのは、小学生ぐらいの少年である。
「はい!僕の願いはただ一つです!!」
「わかったから落ち着いてくれ」
彰久は苦笑いしながら言った。しかし相手は落ち着く様子もなく言葉を続ける。
「お父さんに勝たせてあげてほしいんです!」
「……どういうことだい?」
「あの、僕のお父さんは毎年準優勝かそれよりも下で。だから優勝できなくてプロになれないんです。だから……」
「君のお父さんに勝たせてあげてほしい、ってことか」
「はい!」
「それは……」
断るべきだと思った。わざと彰久が負ける、というのは八百長試合だ。格闘家になることを目指す者としてそれは決してやってはいけない行為だ。
だが。
「……それは、君のお父さんがそれだけ勝ちたがっているってことだよね?」
幼い子供が勝たせてくれと頼んでくるくらいには。
「はいっ!」
「そっか……」
彰久は考える。正義の言葉を思い出しながら。
(自分の夢をかなえたいと思うその気持ちは誰も邪魔をしてはいけないものだと私は思うんだ)
(自分のやりたいようにやればいい)
「……俺は……」
彰久はゆっくりと口を開いた。
「彰久君、どうしたんだい?戻ってこないと思えば、その子と何を話しているんだい?」
正義の声が聞こえてくる。だが、彰久は言葉を紡ぎ続ける。
「俺の夢はプロの格闘家になることだ。でも、その夢を叶えるためには勝ち続けなくちゃならない。どんなに苦しくても、辛いことがたくさんあったとしても、諦めることなく前に進み続けること。それが夢をかなえるための一番の近道だと思っている」
彰久は耕太の目を見据えた。
「だから、君のお父さんの気持ちを尊重することはできない」
「そんな!お父さんはあんなにボロボロなのに!それでも勝つために頑張ってるのに!!それでも無理だって言うんですか!?」
耕太は目に涙を浮かべて叫んだ。それほどまでに父親の勝利を願っているのだ。それでも、彰久の考えが変わることはない。
「ああ。君がどれほどの想いを込めて頼み込んできても、俺が手を貸してあげるわけにはいかないんだ」
「どうしてですか……」
「君のお父さんが望んでいるのは、きっと自分の力で掴み取ることだと思うから」
「そんなのってないよ!お父さんが可哀想すぎるよ……」
耕太はその場に泣き崩れた。
「すまないな……」
彰久はそう言って立ち去った。
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