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松葉杖
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雨は朝から降っていた。
細かい霧のような雨脚が、まだ春を脱しきれぬ曇天の下に煙のように漂っていた。道路は鈍い光を返し、舗装の継ぎ目には溜まった水が、車の通るたびに小さな波紋を立てた。
男は傘を差していなかった。片手には松葉杖、もう片方の手にはスーパーの袋をぶら下げていた。包帯に覆われた右脚は膝の下から少し曲がり、白いギプスの奥で骨がまだ確かな痛みを訴えていた。
彼は三十をいくつか過ぎていた。失職してからもう半年が経つ。職場での不注意が原因の転落事故だった。現場監督が怒鳴り、仲間の一人が笑った。骨が折れる瞬間の音を、彼はいまでも夢の中で聞くことがあった。
松葉杖での生活にも慣れたようでいて、やはり外に出るたびに苛立ちと羞恥が混ざり合った。道行く人々の視線が、まるで彼の不器用さを値踏みするように思えた。若い女たちは視線を逸らし、老人たちは一瞥してから口を引き結ぶ。
雨の冷たさが頬を刺した。信号が赤に変わり、彼は横断歩道の手前で立ち止まった。杖の先が濡れたアスファルトに軽く滑る。
こんな日に外に出るべきではなかった。だが冷蔵庫の中にはもう卵もなく、昨日の残りの味噌汁も腐りかけていた。
青信号に変わり、彼は歩き出した。片脚を庇いながら、杖を突き、もう一歩を出す。歩幅は不均等で、リズムは途切れがちだった。途中でビニール袋の持ち手が食い込み、指が痺れるように痛んだ。
歩道の向こうに、茶色いアパートの影が見える。そこが彼の住処だった。築四十年の木造、雨のたびに外壁が黒ずみ、階段には藻が生えていた。二階の角部屋。そこまであと三十歩ほど。
そのとき、彼は足を滑らせた。
ほんの一瞬だった。杖の先がマンホールの縁にかかり、金属の滑りで支えが抜けた。体が傾いた。バランスを取ろうとしたが、もう間に合わなかった。
視界が斜めになり、袋の中の食パンが宙に浮いた。白いギプスの脚が遅れて倒れ、雨水が弾けた。
地面に叩きつけられた音は、思ったよりも乾いていた。
そのまましばらく動けなかった。痛みよりも先に、彼は恥ずかしさを感じた。通りの向こうで小学生が傘を差しながらこちらを見ていた。女の子だった。彼と目が合うと、彼女はすぐに目を伏せて、母親の背に隠れた。
「……くそ」
口の中に雨が入り、舌の上で金属の味がした。手のひらは擦りむけて赤く染まり、杖は二メートルほど先の排水口に転がっていた。
体を起こそうとしたが、ギプスの脚が重かった。腰に力を入れようとすると、背中が冷たい水の中に沈むような感覚がした。周囲を通る人々は、まるで何かを見てはいけないように彼を避けて歩いた。
誰も助けなかった。
彼は自分がそういう存在になっていることを理解した。働けず、家賃を滞納し、片脚を引きずりながら、今日も誰にも必要とされずに生きている。
それでも腹は減るし、雨の日でも米を炊かねばならない。
そんな当然のことが、いまは途方もなく重たく感じられた。
やがて、雨が強くなった。
彼は泥のついた杖を拾い上げ、ふらつきながら立ち上がった。肩で息をしながら、唇の端から滴る雨水を舐めた。そこには苦味があった。
歩き出そうとしたとき、彼はふと自分の影を見た。
傾いた体、濡れたコート、片脚の不自然な形。その影がまるで別人のように見えた。
――これは本当に自分なのか。
事故のあの日、鉄骨の上から見下ろした景色が思い出された。地面の遠さ、風の冷たさ、そして足を滑らせる直前に見た空の青さ。あの瞬間、彼の人生の方向はすでに決まっていたのだと思った。
「なんで、あの時、死ななかったんだろうな」
独りごとが口をついた。雨音にかき消され、誰の耳にも届かない。
アパートの階段を上る途中、松葉杖の先がまた滑った。だが今度は転ばなかった。手すりに爪を立て、息を荒げながら一段ずつ上がった。
部屋に入ると、湿った空気とカビの匂いが出迎えた。薄いカーテン越しに、外の灰色が滲んでいる。彼は靴を脱ぐことも忘れ、床に座り込んだ。
スーパーの袋の中身は、濡れて潰れた食パンと、割れた卵が二つ。白い殻の破片が袋の底でぐちゃぐちゃに混ざり、黄身が滲み出していた。
彼はそのまま袋を見つめていた。何分そうしていたかわからない。時計の針の音だけが、部屋の静けさを引き裂くように響いた。
ふと、窓の外を見ると、雨脚が少し弱まっていた。
電線の上に、雀が一羽とまっていた。濡れた羽を震わせながら、しきりに嘴を動かしていた。
その小さな生き物を見て、彼はなぜか笑った。
笑いというより、声にならない呼吸のようなものだった。
――生きるというのは、きっとこういうことなのだろう。
転んでも、泥にまみれても、それでも腹が減る。
腹が減るから、また何かを食べようとする。
それだけのことが、なぜこんなにも苦しいのか。
男は立ち上がり、シンクの前に行った。
壊れた卵を慎重に掬い、フライパンに落とす。
じゅう、と小さな音がして、黄身の焦げる匂いが立ちのぼった。
焦げた部分を箸で突きながら、彼はもう一度、窓の外を見た。
雨はやんでいた。
雀の姿はもうなかった。
そのとき、彼の松葉杖が壁に立てかけられたまま、ゆっくりと倒れた。
音は小さかったが、部屋中に響いた気がした。
ただ、焼け焦げた卵を口に運び、噛んだ。
塩気も、味もなかった。
細かい霧のような雨脚が、まだ春を脱しきれぬ曇天の下に煙のように漂っていた。道路は鈍い光を返し、舗装の継ぎ目には溜まった水が、車の通るたびに小さな波紋を立てた。
男は傘を差していなかった。片手には松葉杖、もう片方の手にはスーパーの袋をぶら下げていた。包帯に覆われた右脚は膝の下から少し曲がり、白いギプスの奥で骨がまだ確かな痛みを訴えていた。
彼は三十をいくつか過ぎていた。失職してからもう半年が経つ。職場での不注意が原因の転落事故だった。現場監督が怒鳴り、仲間の一人が笑った。骨が折れる瞬間の音を、彼はいまでも夢の中で聞くことがあった。
松葉杖での生活にも慣れたようでいて、やはり外に出るたびに苛立ちと羞恥が混ざり合った。道行く人々の視線が、まるで彼の不器用さを値踏みするように思えた。若い女たちは視線を逸らし、老人たちは一瞥してから口を引き結ぶ。
雨の冷たさが頬を刺した。信号が赤に変わり、彼は横断歩道の手前で立ち止まった。杖の先が濡れたアスファルトに軽く滑る。
こんな日に外に出るべきではなかった。だが冷蔵庫の中にはもう卵もなく、昨日の残りの味噌汁も腐りかけていた。
青信号に変わり、彼は歩き出した。片脚を庇いながら、杖を突き、もう一歩を出す。歩幅は不均等で、リズムは途切れがちだった。途中でビニール袋の持ち手が食い込み、指が痺れるように痛んだ。
歩道の向こうに、茶色いアパートの影が見える。そこが彼の住処だった。築四十年の木造、雨のたびに外壁が黒ずみ、階段には藻が生えていた。二階の角部屋。そこまであと三十歩ほど。
そのとき、彼は足を滑らせた。
ほんの一瞬だった。杖の先がマンホールの縁にかかり、金属の滑りで支えが抜けた。体が傾いた。バランスを取ろうとしたが、もう間に合わなかった。
視界が斜めになり、袋の中の食パンが宙に浮いた。白いギプスの脚が遅れて倒れ、雨水が弾けた。
地面に叩きつけられた音は、思ったよりも乾いていた。
そのまましばらく動けなかった。痛みよりも先に、彼は恥ずかしさを感じた。通りの向こうで小学生が傘を差しながらこちらを見ていた。女の子だった。彼と目が合うと、彼女はすぐに目を伏せて、母親の背に隠れた。
「……くそ」
口の中に雨が入り、舌の上で金属の味がした。手のひらは擦りむけて赤く染まり、杖は二メートルほど先の排水口に転がっていた。
体を起こそうとしたが、ギプスの脚が重かった。腰に力を入れようとすると、背中が冷たい水の中に沈むような感覚がした。周囲を通る人々は、まるで何かを見てはいけないように彼を避けて歩いた。
誰も助けなかった。
彼は自分がそういう存在になっていることを理解した。働けず、家賃を滞納し、片脚を引きずりながら、今日も誰にも必要とされずに生きている。
それでも腹は減るし、雨の日でも米を炊かねばならない。
そんな当然のことが、いまは途方もなく重たく感じられた。
やがて、雨が強くなった。
彼は泥のついた杖を拾い上げ、ふらつきながら立ち上がった。肩で息をしながら、唇の端から滴る雨水を舐めた。そこには苦味があった。
歩き出そうとしたとき、彼はふと自分の影を見た。
傾いた体、濡れたコート、片脚の不自然な形。その影がまるで別人のように見えた。
――これは本当に自分なのか。
事故のあの日、鉄骨の上から見下ろした景色が思い出された。地面の遠さ、風の冷たさ、そして足を滑らせる直前に見た空の青さ。あの瞬間、彼の人生の方向はすでに決まっていたのだと思った。
「なんで、あの時、死ななかったんだろうな」
独りごとが口をついた。雨音にかき消され、誰の耳にも届かない。
アパートの階段を上る途中、松葉杖の先がまた滑った。だが今度は転ばなかった。手すりに爪を立て、息を荒げながら一段ずつ上がった。
部屋に入ると、湿った空気とカビの匂いが出迎えた。薄いカーテン越しに、外の灰色が滲んでいる。彼は靴を脱ぐことも忘れ、床に座り込んだ。
スーパーの袋の中身は、濡れて潰れた食パンと、割れた卵が二つ。白い殻の破片が袋の底でぐちゃぐちゃに混ざり、黄身が滲み出していた。
彼はそのまま袋を見つめていた。何分そうしていたかわからない。時計の針の音だけが、部屋の静けさを引き裂くように響いた。
ふと、窓の外を見ると、雨脚が少し弱まっていた。
電線の上に、雀が一羽とまっていた。濡れた羽を震わせながら、しきりに嘴を動かしていた。
その小さな生き物を見て、彼はなぜか笑った。
笑いというより、声にならない呼吸のようなものだった。
――生きるというのは、きっとこういうことなのだろう。
転んでも、泥にまみれても、それでも腹が減る。
腹が減るから、また何かを食べようとする。
それだけのことが、なぜこんなにも苦しいのか。
男は立ち上がり、シンクの前に行った。
壊れた卵を慎重に掬い、フライパンに落とす。
じゅう、と小さな音がして、黄身の焦げる匂いが立ちのぼった。
焦げた部分を箸で突きながら、彼はもう一度、窓の外を見た。
雨はやんでいた。
雀の姿はもうなかった。
そのとき、彼の松葉杖が壁に立てかけられたまま、ゆっくりと倒れた。
音は小さかったが、部屋中に響いた気がした。
ただ、焼け焦げた卵を口に運び、噛んだ。
塩気も、味もなかった。
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