オミちゃん飛ぶ。

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オミちゃん飛ぶ。

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 チャイムの音がどんよりと残っていた。しだいに風と一つになっていく。
 僕たちはそれでも昼休みの続きをやっていた。決着がつかないまま終わってしまったドッジボールは二人対三人、という少人数にもかかわらず白熱していた。風が強く、それが変に僕たちの負けん気を煽っているみたいだった。
 グラウンドの真ん中、砂地に引いたラインは吹き荒れる風でぼやけ始めている。秋人が僕に狙いを定め、そのラインまで一気に走ってくる。
「ケイタ!おめー逃げてばっかじゃんか。受けてみよっ!」
 秋人は僕ら6年2組のなかでも抜群の運動神経の持ち主だ。だから彼はクラスのリーダーとして振舞っているわけだけど、どちらかといえば運動が苦手な僕のことを仲間に入れてくれていた。僕の父さんが、秋人の父さんが経営する工場の責任者だからだ。
「残念!」
 僕は剛速球を、小馬鹿にするようにかわした。けれど秋人の顔を見るとまるで何かのお面のように表情が固まっていた。黄色い砂地に彼のスポーツ刈りがポツリと浮いている。
「何?どうしたのよ」僕は秋人に聞いた。彼は僕の後ろ、いやもっと向こうを、それだけをにらんでいるようだった。後ろを見ると、外野にいた章吾もその方向を見ていた。
 その先には赤いタンクトップを着た、小さな男の子が立っていた。彼の髪の毛は赤みのある栗色で、それが風にぱたぱたとはためいていた。
「まぜてー」
 変な顔だった。母さんがよく父さんの酒のつまみに出す、塩辛のびんのようなずんぐりとした頭だ。へらへらしたふぬけた笑顔はいつまでも崩れることなく、その瓶のような顔面におさまっている。少し釣りぎみの細い目が、僕たちを馬鹿にしているように思えた。
「しっしっ」秋人が彼によっていく。男の子は本当に小さく、小学校に上がる寸前か、あるいは一年生のようにも見える。けれどどこか様子が変だ。
 なれなれしいというか、僕らを他人としてじゃなく、父さんか母さんか兄弟みたいに思っているかのようなのだ。
 グラウンドを囲む塀沿いのすももの木が風に揺れた。男の子は紙が宙に乱れ飛びそうなまま、変わらずへらへらし続けている。
「帰んな。学校の子じゃないだろ。てか誰だよ。勝手に入ってきてよ、教頭に見つかったら親に連絡されんぞ。めんどくさい事んなるんだから。帰んなって」
「やだー、やだー。入るのー」彼は引き下がらない。その場でぴょんぴょん跳ね、駄々をこね始めると、秋人の手が彼の耳に伸びた。
「いた、いた」彼は耳をつかまれつかの間、顔をひきつらせた。けどすぐに笑顔に戻る。
まるでこうされるのが嬉しいとでもいうように。
「やっぱそうだ。あれだよ。なんとか障害ってやつ。頭がさ、とんじゃってるんだ」
 秋人はみんなに向かって高らかに言った。心なしか、からかうのを楽しんでいるようだ。僕は秋人のこういうとこが嫌いだ。クラスの中に少しでもとろくさい事をしている子が
いれば、からかうためにまずは親切ぶって近づき、最後にはなじるのだ。
「やめろって」秋人の腕をつかんだ。うっすらにじんだ汗で砂が少しこびりついていた。
「邪魔されたんだぜ。これくらい」秋人がそう言うと男の子が、引き裂けんばかりに口を開いた。「びぃーっ!」彼は叫んだ。その時、信じられないものを僕は見た。
 彼の目が、何色かはわからないけど一瞬だけ光ったのだ。彼の顔にくぎ付けになり、そのまま見ていると手首をつかまれた。
「たっちゃ!」
 そう叫び僕の手を離さないままそのたっちゃ、という言葉を繰り返す。ほかの三人は突っ立ったまま僕と秋人を見守っているだけで何もしようとはしない。突然、車のエンジン音がうなりを上げた。
 正門の向こうに白い大型のワゴンが猛スピードで近づき、とまった。日産セレナだ。
 中から三人の大人たちが出てきた。走ってこっちに向かってくる。僕は怪しいその三人に気が行き、男の子の存在を忘れかけた。何かとんでもないことが起きるんじゃないかと不安になった。
「ここにいたか」
眼鏡をかけた、白髪交じりのおじさんが真っ先に僕らのもとにたどり着く。6月だというのに白い長そでシャツを着ている。ネクタイがだらしなくよれていてスーツを着て仕事をする人には見えない。僕は逃げようとしたがまだ男の子は手を離してはくれない。
「パパー!」男の子はけたけたと甲高い声で言った。秋人がおじさんに向き合う。文句を言うつもりだ。「パパなの?あのさあ」
「君。この子に触ったか、それか触られたりしたかい?」
秋人の言い分をさえぎり、おじさんは彼に聞いた。顔は、何かずるいことをしたのが見つかった時のように張りつめていた。何だろう。
「うん。耳引っ張ってやったよ。いうこと聞かないんだもん。知らないのに入れてくれ、なんてさ。めいわくなんだけど」
 秋人は強気だ。父さん譲りというやつらしい。ドッジボールを邪魔された事をまだ根に持っているのだろう。
 そしておじさんは僕をも見た。僕の手はまだ男の子につかまれたままだった。
「まずいな。ちょっと君たち。二人とも話があるんだけど。悪いんだが来てくれないかい」
おじさんは僕らがうん、というのが当たり前というような口ぶりだった。
 僕と秋人以外は勝手に帰っていき、僕ら二人もその場から逃げ出すように学校から出た。学校から少し離れ、正門からのびる通りを横切るドブ川沿いの小道に曲がると国道に出る。けれどその国道のわき道にセレナが僕らの目の前で止まった。逃げられなかった。
「なんだよお。ケイタ、どうする?」秋人はあきらめたようだ。
乗ると、車の中はクーラーがきいていた。学校の西方向にある、高市山という小高い山に広がる住宅団地へセレナは走った。しばらくすると団地を抜け、細い山道に入っていく。僕は運転席の後ろ、秋人は助手席に乗せられている。
運転しているのはおじさんよりだいぶ若い、宝田と呼ばれている男の人だ。一番奥に、少し怖い目をした、あごまでにしか届かないストレートヘアの女の人と、あの変な男の子がいた。
男の子の肩に手を回し、いとおしそうに頭を撫でつづけている。彼は気持ちよさそうに、にこにこしながら女の人に頭を預けていた。おじさんは僕のとなりで、平べったいタブレットとかいうやつをいじっている。何かを必死で打ち込んでいるみたいだ。
「出て行ったのはいつだ」
「昼過ぎにいなくなってました。鍵はかけていたんですが」
「本当か?まあ君がカギをかけ忘れたとは思えんが。窓は?」
「閉めてました。裏口も同じです。どこから出て行ったのかさっぱりです。やっぱり私、かけ忘れてたのかしら」
 女の人とおじさんは二人だけで話していた。それは二人が結婚しているという風にも見えた。話し方はよそよそしいけれど、温かいやり取りが二人の間にあったのだ。
 突然男の子が外を指さした。電信柱の電線だ。
「あー!悪玉カラスうー!」
10くらい山道を走ると大ぶりなログハウスがその先に見えた。ログハウスから少し離れた周囲には僕の首の高さくらいありそうな草が生え茂っている。草とログハウスの間には砂利が敷かれ、そのずっと奥には杉林が広がっている。
車を降り、玄関に向かわされた。ログハウスといっても、まるで屋敷、館のようで丸太の一本一本が、横じゃなく縦に立って並んでいる。それが壁になって、奥までおよそ2、30mかもっとありそうなほど伸びている。
「なんかえらい事んなっちゃったな。でもスリルじゃね?こんなの初めてじゃん」
秋人は車に乗せられた時から僕とは正反対でワクワクしていた。知らない大人に連れていかれるのは普通は怖いもののはず。けれど秋人の勇ましさは、ちょっとだけ僕を励ましてくれていた。怖さがうすまり、不思議な気分になっていた。それはきっとおじさんと女の人がやさしかったせいでもあった。
 犬や猫の声がいきなり鳴った。それもものすごい数の。時たま、聞いたことのない動物の鳴き声まで聞こえ、ぞっとした。何がいるのだろう。
 中に入ると、金属のケージや、ガラスが張ったケージが壁沿いに並んでいた。そしてその並びが玄関側の壁と一番奥の壁の間に二列あり、さらにその間は通路のようになっている。
 そのケージの一つ一つの中に、いろんな動物が入れられているのを見て僕はくらくらしそうになった。
 黒いヘビがいたからだ。カラスヘビというやつみたいだ。父さんが毎日飲んでいるお酒の缶くらいに太い。大人一人の背丈よりも長そうな体を、ホースのようにだらだらとさせている。
「すげえ!」秋人の高い声が僕の耳をつんざいた。母さんが持っている黒い羽毛のバッグみたいなものが金網のケージの中に見えた。それを秋人は興奮して眺めていた。
 コウモリだ。三羽いて一羽がケージの天井にぶら下がっている。しかも大きい。家の庭にある物置の中で一度見たことはあったけど、その時のやつより圧倒的にでかい。
 ログハウスの中は広いはずなのにそう思えないのはこれらケージが並んでいるせいだ。それにしてもすごい。犬かと思ったやつはオオカミだし、人間くらいに大きいサルもいる。インコやフクロウ、イノシシ、大きなトカゲまで。
「何なの?ここ」僕は女の人に聞いてみた。彼女は待って、と言い、黒くて大きなバッグの
中をガサゴソと探していた。おじさんは通路の奥へと消えた。宝田が秋人の背中へ近づいて
いくのを見たとき、いやな予感がよぎった。
「すごいだろ。ちょっとした動物園てとこ。ごめんね。ちょっと痛いかも」宝田が言った後、
秋人は振り向いた。その細い首に、車のタイヤ用の空気入れみたいな銀色の器具があった。その先っちょが首に刺さっているようだった。「あっ」僕の声と同時に、秋人が床に倒れ
ていく。そして僕のうなじにも蚊の刺したようなもどかしい痛みがはしった。
「ごめんね」女の人の声。目の前が上下に激しく揺れた。足から力が抜け、そのまま床に
尻もちをつく。やがて眠くなっていった。

「友達―!友達―!オミの友達―!」
 ガシャンガシャン。その音で目が覚めた。うすい視界に、横で寝ている秋人が見えた。
 ソファに寝かされているみたいだ。窓が一つだけある部屋で、薄暗い。部屋の広さはとい
うと学校の教室の半分ぐらいと言ったらわかりやすいかもしれない。
窓の向こうに暗いオレンジの空が見える。夕方になってしまったらしい。いや、夜に近い
ようだ。
「秋人」彼の肩を揺さぶった。もぞもぞと彼の肩と腰が動く。
「何時だよ」秋人が言ったその時、
「七時―!」
と、けたたましい声がした。僕ら二人はソファから腰が浮くほどに飛び上がった。
 ガシャガシャガシャ。金属の網の音のようだ。ケージか。何か動物がいる。においがする
のだ。犬のようで、少し甘酸っぱい感じの。僕はまだうろたえたままの秋人を残してその音
のするほうへと寄っていった。思った通り金属のケージがあった。大型犬用の大きなやつだ。
 1mくらいまで近づいた。けど暗くてまだ何も見えない。銀色のチューブがかたかた震え
ている。ぞくっとした。やっぱり何かがいる。ゆっくりと、本当にゆっくりと近づく。
「オミ、オミっていうーの」
 僕がびくっとした瞬間、またケージがガシャガシャと音を立てて揺れた。目を凝らしてみ
ると、ケージの中に人間の顔がかすかに見えた。
 あの男の子だった。オミという名前らしい。闇の中に大きめの彼の顔が浮かんでいるのだ。
 まぶたを隠すほどの長い髪の毛の奥で、眉毛がぞわぞわと動いた。飛び跳ねているらしい。けどなぜ彼、オミは閉じ込められているのか。これはもしかしたら虐待というやつじゃないのか。けれどどこか不思議だった。学校で見た時より明らかに背丈が小さく見えるのだ。
「おめー、な、なんで。そんなとこで何してんだよ!」
 秋人が僕の背後からおびえ切った声をあげた。ビビっている。少しいい気分だった。こん
な秋人を見れるなんて。普段から何かと勝気な彼が、彼の父さんに怒られているときみたい
にうろたえ切っているじゃないか。
 だけど次にびびってしまったのはやっぱり僕のほうだった。それは秋人が僕を追い越し
ケージに近づいたときだ。心臓が止まりそうになった。いや、一秒くらいは本当に止まって
いただろう。間違いない。
 目が、オミの目が緑色に光ったのだ。ぴかっと。
学校の時のように一瞬じゃなく、懐中電灯のように光り続けている。そのオミの全身がは
っきり見えた。僕と秋人は今度こそ本当に、叫ばんばかりに震え上がった。
 オミの首から下は、まるで小ぶりな樽、それか車のエンジンオイルの缶くらいの大きさで
丸っこくなっているのだ。そしてふわふわと羽毛でおおわれている。もっとよく見ると動物
のツメが生え、ちょこん、と変な角度でついているじゃないか。何だ、これは。
「わー!おにちゃーん!」
 彼はマントのように、がばっと何かを広げた。闇に、黒っぽくりっぱな羽が広がっていた。
 オミの体は、コウモリだった。
ところどころ歯の抜けた口の中が裂けんばかりなままで、悪魔を思わせた。吊りぎみだと
いう印象だった目は、口が広がるとともに丸い曲線になっていた。赤らんだ顔はやっぱり笑顔のままだ。
 ふにゃっ、と垂れた目元だ。口角にくっつかんばかりの。
 目の中の黒目はとても大きく、どこか可愛らしい。不気味さと可愛らしさが見事に混じ
りあっていた。
「あああっ!なんっ、何だよおっ!」秋人の叫びは情けなく響いた。
 その叫び声が面白かったようでオミはまたガシャガシャ鳴らしはしゃぎ始めた。羽を半
開きの位置まで開いたり閉じたりして、それを繰り返していた。嬉しそうに、笑顔のままは
しゃいでいる。しだいに目に灯る緑の光はうすれていった。
「オミはねー。夜こーなるの。何だかよくわからないけどこーなるのー」
 僕はオミの声に喜びを聞いた。怖かったけどその獣のような姿と正反対の、かん高く甘い
声に拍子抜けしそうだった。頭がでかく、三頭身と言っても言い過ぎじゃないほどチビだ。1mか、それより低そうにも見える。漫画じみた外見に、僕はなんだかほっとしていた。可愛い。これだけ怖い思いをしたあとで、マンガチックなおどけた声と姿を目の当たりに
したせいなのか、なぜだかそう思ってしまっていた。
 ドアが開いた。白衣を着たあのおじさんが入ってきた。
「パパだあー!」
オミは喜び、羽を大きく広げて宙にゆらゆら揺れた。本当に浮いている。すごい!
そのあと、ケージの中をぐるぐる回りだし、最後にぴょこっと宙返りした。
コウモリの、すっかりおなじみのあの逆さ吊りだ。栗色の髪の毛がだらん、とぶら下がっ
てふらふら揺れている。
「参ったな。君らのことを気に入ったようだ。秋人くん、君の行動のせいだよ。この子はあれをスキンシップだと勘違いしてしまってね」
 おじさんは疲れた顔で言った。
「何だってんだよー!コイツ何なんだよ!」おじさんは秋人の叫びをまたさえぎった。
「私の息子だった。今年で7歳になる。人間として生きててくれてたらね」
 だった、とはどういうことだろう。僕は思わず聞いていた。
「息子、ってなんでこんな格好してるんですか?人間なんですかこの子」
「母親が、私の奥さんだった人がね、もう亡くなってしまったが、ハーブっていうものに夢中でね。聞いたことないかい?脱法とか、合法とかいうやつを。その子の元だった赤ちゃんがお腹にいるとき、そのハーブをやって車を運転してたんだ。そして事故を起こした」
 聞いたことを後悔した。後ろでオミがふらふらと逆さのまま揺れていた。なんのはなしー、とのんきにつぶやく姿はインコを思わせた。なにー、なにー、と可愛くつぶやく。
「ごめんなさい。聞いちゃいけないことを」
「いやいいんだ。聞いてほしい。君たちはオミを知ってしまった。こうなったら、少しでも事情を知ってほしいと思った。まあ、同情っていうやつを求めてるわけだ私は」
 同情?
「私は若いころから動物の体の仕組みを研究しててね。ずっと大学にいたんだ。ある時、中国からスカウトの話があった。中国の大学にそれで行くことにした。ある機関が呼んでくれたんだけど、費用、お金まで出してくれた。動物の体のいろんな部位が、薬になるっていうのを信じている人間が中国にはいっぱいいるんだ。猿の脳みそとか、気持ち悪いからこれくらいにしとこう。奥さんは向こうでの生活に耐えきれなかった。それで、薬に夢中になったんだ。生まれてきたその子が、障害を持っているのはわかっていた。そして、死にかけてもいたんだ。だから、なんとか助けたかった。何とかしてやりたかった。何せ未熟児、五か月で生まれてきたんだから。気がすっかり動転してた。それで、だまされた。その機関に紹介された漢方医にね。コウモリが生まれる前、胚、って言うんだがそれに私の息子の脳細胞をつなぎ合わせろと。そして日本のお金で2千万円はする漢方薬をただでくれた。違う種の細胞同士を媒介する薬だとか言われてね。健全な体で生まれてくると。馬鹿みたいだろう」
 何を言ってるのかさっぱりわからなかった。オミがお母さんのせいで変な風に生まれたってこと以外は。
「コウモリの赤ちゃんに、子供の脳みそぶっこんじゃったってわけだろ?すげえじゃん」
 秋人は興味津々だった。
「脳のひとかけらだけ残してこの子は、いや私の子供は取られた。知らない間に。中国ではこんなことが隠れて行われている。赤ちゃんが生まれてくる前、胎児って言うんだが、生まれてくる前に取り出して乾燥させてミイラにして、それからすりつぶして粉末にする。薬にすんだよ。息子はそうなった。そしてコウモリの体を持ってもう一度生まれてきたわけだ」
 こもった変な音がした。そして酸っぱい、けどひどいにおいが漂う。オミがまた、なにー、と小さくうめいた。
 秋人が吐いたのだ。赤ちゃんのミイラを食べるという話を、そういえば前に彼から聞いたことがあった。中国の都市伝説だ。
それが目の前のオミの存在で、ありえないと思っていたことが実際にあるんだと思い知った、そんな感じだろうか。リアルにそれを感じてしまったのだきっと。
 僕のほうはというと、昔4年生の時に父さんの働いている工場に遊びに行ったときプレス機に手をやられた人が救急車に運ばれるのを見て以来、あの赤黒い肉とボロボロになった青い制服がごちゃごちゃ混ざったあれを見て以来、それまで怖がっていたゾンビ映画
が見れるようになったり、動物の死体を見てもなんとも思わなくなったり、挙句にはホラー映画の面白さにすっかりはまってしまっていたので、おじさんの話は平気だった。むしろ少し魅力的だった。かといって、動物をいじめたりなんかはしない。動物が死ぬのは嫌いだ。
「半分人間てこと?」僕は聞いた。完全に好奇心を、オミにかき立てられていた。羽音が聞こえ、そしてごとん、と音がした。振り返ると彼は着地していた。
「あー。きれーなおつきさまだあー」オミはうわあー、と声を上げた。何を言ってるのか。雲が出ていて、明日は降るかもしれないというのに。月なんて出ていないじゃないか。やっぱりこいつ知能が。
 秋人がひいっ、と声を上げる。見るとケージの中からオミの手、いや羽が突き出ている。秋人のシャツ襟をひっつかんでいた。けたけたと上下に体を揺らしている。
「オミはオミなのー。でもおにちゃん友達―」
 彼はきゃはきゃはと言った。羽を折り畳んだ手先をクンクンと嗅いだ。秋人の汗のにおいが気になるのか。匂いフェチかこいつ。
「人間としていられるのは朝から夕方までだ。コウモリは夜行性だからね。夜になるとコウモリの性質、気質が活発になるんだ。ホルモンの問題らしい。今日君たちをここに連れてきたのは、君たちが彼に触れられたことで何か体に影響はないか調べたかったからだ。眠ってる間調べさせてもらった。今のところは何もないがね。しかし参った。君ら二人を気に入るなんて。いったんは帰ってもらうけど、くれぐれも親御さんや友達には話さないでもらいたいんだ。勝手なこと言うようだが」
「まあ、それは別にいいけど」秋人は素直だった。
「できればまた来てもらいたい。来てくれるかい?」
「やだよ。気味悪い。あっ!」秋人は何かに気づいたようで、オミに顔を近づけた。その何かですっかり怯えが抜けきったらしく怒りを顔に浮かばせていた。
「返せ!」
 何だろうとオミのほうを見た。水の入った灰色のボウルの横に、チェーンのネックレスが落ちていた。5年2組のエリちゃんが去年の夏休み、海外旅行先のパリで秋人に買ってきたものだ。エリちゃんは秋人のことが好きで彼のほうもまんざらじゃないらしい。けど秋人は、ほかの女の子たちからもプレゼントをもらったりしている。秋人はモテるのだ。
「やだーやだー」
オミはネックレスを足の爪のあいだに挟んだ。ふわっと柔らかそうな黒い毛並みに、シルバーの三日月がきらり。すぐにバレた、と顔色を変えてがさがさとどこかへやってしまった。  
背を向けて羽をもどかしく動かす彼の後姿は歯の抜けた口とあいまってユーモラスだった。白い肌と黒い羽毛の胴体がコントラストをくっきり描いている。
「てめえ!」
 からかうようにふわふわと羽を広げ浮き始めた。笑顔を見るに、やっぱりからかっている。
「お月さまだあー!ぎんいろのお月さまだあー!オミのお月さまあー!」
 結局、秋人は返してもらえなかった。家の近くで降ろしてもらい、田んぼがつらなる道を二人で歩く。夕陽が沈み、残り火のように光がかすかに西に見え、秋人の横顔の輪郭を撫でている。
「言いふらしてやっか」秋人が道の石をこつんと蹴り、言った。しばらくぶらぶらしながら僕たちは話し続ける。
「絶対だめだ。みんな見に来るだろ」僕は返した。けどあんまり強くは言えない。秋人がネックレスを返してもらおうと、結局おじさんの頼みを聞くことにしたのだ。機嫌を損ねたら彼はついてきてくれなさそうなのだ。一人で行く勇気は今のところまだない。
 僕は内心うれしかった。オミの存在を知って。
ホラー映画がすっかり好きになっていた僕は彼の姿を見たとき、探していたものに巡り合ったような錯覚を感じていたのだ。担任の吉岡先生にホラー映画の趣味を、将来危ない人間になるからと注意されていたけど、30歳で独身女の吉岡先生は1組の担任田辺先生と付き合っている。田辺先生は40過ぎで、奥さんも子供もいるというのに。そっちのほうが危ない人間というものじゃないのか。そんな人間に趣味のことまでとやかく言われる筋合いなんてない。
「秘密ってかあ?ガキくせえこと言ってんなあ。卒業なんだぜ?今年」厭味ったらしい言葉なんてあいにく僕には通じなかった。
「みんな見に来るようになるだろ。そしたらどうなる?あのおじさん困っちゃうだろうが。そこまで考えられるんが大人なんじゃあないのか?」気持ちよく言い返してやった。けれど、
はんっ、と彼は鼻で笑った。
 オミが有名になってしまうのは、なんか嫌だった。僕ら二人のことを気に入っているのならそれ以上に人目にさらす必要もないことだし。それに、あのけらけらした顔は、ついついいじめたくもなってしまいそうだ。それも不安だ。実際、僕だって一瞬からかい、というかおちょくりたくなってしまった。秋人がとろくさい子をおちょくりたくなるのがちょっとだけわかるような気がした。それにしてもあの姿は可愛すぎる。僕が一人っ子だからそう思えるのかもしれないが。兄弟がいれば、可愛いなんてたぶん思わないことだろう。
 秋人と別れ、田んぼ道をひたすら歩く。家が見えてきた。僕の家は二階建て、築10年ものだけどデザインが30年前かそれ以上は古く見える。父さんが実家をイメージしたものを設計デザイナーに頼んだのだ。
 田んぼが広がる中を南ヘ進み、あるところで突き当たるとそこから家並みが東西に渡って立ち並んでいる。残念ながら僕の2階の部屋からは広大な田んぼの風景は見えない。東方向に窓があるからだ。玄関を出てさらに門を出るとやっとその緑いっぱいの、広々とした姿が目にできる。その向こうに倉庫やスーパーの群れが見え、少し奥に目立たないが学校が見えるのだ。学校との距離は1kmとちょっとだ。
 夜空の下の田んぼはすやすやと眠っているみたいで、光合成というやつは今は働いていないという。コウモリ少年とまるで逆だ。
 家に着いた。門をくぐるとちょっとした庭になっている。玄関の明かりがぼうっと浮いてて夜空の存在を忘れさせた。玄関へ着く前に石で囲まれた植木林が左手に見える。その中を小さな何かがササっと動いた。いつものことだ。
 母さんがエサをあげている猫の子供の一匹だ。門から誰かが入ってくるとこうして逃げていくのだが、5月に生まれたこいつらはまるでコウモリにも一瞬だけ見えなくもない。
 オミの毛皮は猫のやつそっくりだった。帰る前、なでてー!と僕に、ケージ越しに言ってきたので撫でてあげた。猫みたいにあごを上げ、満足そうにしていた。
 猫とは違い、ドッジボールに乱入してきたことといい、人見知りなんか全くしないのだろう。
 僕は奥を見た。するとちらりと猫の目が光った。一匹が僕だとわかったようで恐る恐る出てきた。白と黒のツートンで、一番なついてくれる奴だ。靴のにおいをくんくん嗅ぎ、そこで丸まって動こうともしなくなる。僕はかがんだ。手のひらで包んでやろうと。
 けれど様子が変だ。急にそわそわし、そっけなく逃げていく。僕が追おうとすると一気にスピードを上げた。もしやニオイか。オミの。
 きっと獣のにおいがするのだ。僕の体から。けどほかに家庭菜園の玉ねぎのにおい、雑草も甘い匂いなんかも漂っているのだ。それほど猫の鼻は、いや彼ら動物たちの嗅覚はすごい。 人間なんかとは比べ物にならないのだろう。
 気を取り直し、玄関を開けた。
 「遅かったじゃないの」
母さんが迎えに出てきた。僕はあやまり、どたどた廊下を走り台所に入った。ご飯を一人で食べるのは久しぶりで思わずにんまりした。父さんの疲れた顔を見ながら、ぶすっとした口調でいちいち会話を続けさせられるのが嫌になっていたからだ。
寝るときにオミの姿を思い浮かべた。ずっと離れなかった。まるで映画の世界みたいな話じゃないか。うとうとし始めたころには、彼のあの羽毛に包まれているような気分にもなっていた。

「何だったのアイツ」
月曜日だった。章吾が話しかけてきた。給食の当番をしている彼の前に盆を手に並んでいたときだった。ロールパンを彼は余計に一つ足してくれた。背後で、スプーンがこすれる音が聞こえる。
つい話したくなる。女の子たちの、何が面白いのかわからない馬鹿話がやかましくて、耳をふさがない限り勝手に頭の中にねじ込んでくるのだ。それでつい。
「障害児だって。よく一人であちこち歩き回ったりするんだってさ。あの眼鏡の人がお父さん。謝られたよ。んで家まで送ってくれてさ」
 とってつけた嘘は、無意識のようにすうっと口から出て行った。
 明人は秘密を守ってくれているみたいだった。章吾たちが聞いてくるということは。
 それにしても自分ながら、障害のある人に対しての意識は褒められたもんじゃないな、と思った。というかひどい。とっさに出てきた言葉というにしても。
変質者じゃあるまいし。どこから障害があってうろうろするという発想が浮かんできたのだろう。馬鹿にしているつもりなんて自分にはない。けどそんな発想があるということは、
僕だってうすうすは思っているに違いないのだ。特別学級はこの学校にはあるにはあるけれど、一か月に一回ぐらいある交流会くらいしかしゃべったことはない。言葉が通じない子だっている。オミが人間のときの姿、そのくらいの子が一人もいなかったのでそれだけに余計に彼のことが新鮮に見えたのかもしれない。
「すごいアホそうだったよな。あん時入れてやっても良かったんじゃない?面白そうだったし」
「うん。めちゃ元気なやつだったんだよなあ。秋人が許してりゃさ」僕は章吾の話に合わせてなんとかごまかすことができた。章吾がマスク越しに笑うと、くにゃっとマスクがゆがんだ。オレンジがかかった色のシチューをおたまですくい僕の盆にのった皿に、盛大によそってくれた。
 食べ終わるころ、やかましい声が教室に響いた。女の子たちの、迷惑なんて気にしないと言いたげな声が。給食を終えた子たちが次々に窓際の近くに集まってゆく。
 白い空が教室を真横から見張っているように、窓の外にあった。秋人が女の子たちの間を行き来している。これが彼の日課だ。いつものにやけ顔で、まさしくコウモリのように行き来するのだ。実は、僕は彼のこれがうらやましくてしょうがない。女の子と上手く話ができないのはホラー映画と何か関係があるんだろうか。
 でも趣味と、女の子のこと、そして秋人のように女の子の関心を得ること、その中でどれが一番心の中を占めているのかと言ったら、断然趣味のほうだ。
ホラー映画のほかには、僕は車が好きだ。父さんの影響だ。家族みんなで乗るヴォクシーと、もう一台父さんは専用の車を持っている。トヨタスープラというワインレッドの車を。僕はその助手席に乗るのが大好きだった。何とかタービンというやつをエンジンに積んでいるらしく、ものすごい加速で100キロの速さに、気がつくとなっている。ボアアップとかいうのをしているらしく、エンジンの排気量は通常より多いんだそうだ。
要は、刺激的なものに脳みそをかき回されるのが好きだということ、らしい。吉岡先生はそれを心配している、と母さんは言っていた。余計なお世話だ。オミにはまっているのを知ったら二人は何を言うのだろう。
放課後、ちょっとだけドッジボールをやった。みんなと別れると秋人の顔がきっ、と引き締まった。「さー。行こうか。エリに怒られたよ。なんでつけてないんだって」
その言葉で僕は理解した。秋人が約束を守ったわけを。いや、守ったというわけじゃない。多分、プライドというやつだ。ネックレスを不気味なコウモリ少年に無様に取られたこと
も、彼になつかれたことも、女の子にあがめられる彼からすれば、そのプライドを損ねられたと言っても言い過ぎじゃない事態なのだろう。そして不意打ちとはいえあの奇妙な姿にビビってしまったことも。恥ずかしいことを思い出してしまいたくないということだ。少なくとも学校にいる間は。高市山の坂をのぼるころには雨がぼちぼち降ってきていた。傘は持っているけど、帰るころには大降りになっているかもしれない。林の緑がだんだんと黒っぽく見え始めていた。
「おにちゃーん」
 オミは人間の姿だった。時間は4時50分。コウモリになるには早いということか。
 ということは、コウモリになる瞬間が見れるということじゃないか。胸が高鳴った。
 彼が閉じ込められていたのはログハウスの二階で、階段を上がるとパソコンが並ぶ部屋がまずあり、その奥にオミの部屋がある。
青いシャツを着た小さな姿と、僕たちへ猛ダッシュで、はにかみながら向かってくるのが本当に愛らしい。秋人はうっとおしがっているが。
また彼は動物たちを眺めていた。少し心配だ。女の子たちを連れてきたいとか思っていないだろうか。
「みてーみてー。キツネくんだあー」
 通路に並ぶ動物たちを次々と僕たちに紹介してくれている。秋人は次第にオミに笑顔を見せるようになっていった。
「いつごろ、変身するんですか?」待ちきれず、宝田に僕は聞いた。彼は左手に包帯を巻いていた。どうしたのだろう。
「この時期だと、大体六時半から七時までの間だね。今日は日が出てないからなあ。少し遅いかもしれない。コウモリの体は太陽の光の量で、夜が来たのかどうか判断するんだ。施設長もなあ。息子さんの血を引いてるからって、変態するまでは家の中で自由にさせてやりたいって言っててさ。だからこの前みたいなことになっちゃうんだよ。研究素材って割り切ってくれないんだよな。ああごめん。わかんないか」
 半分くらいは。
 うんざりした口調だった。施設長だというあのおじさんと彼は大学で知り合ったそうで、中国へ、助手としてついてきたときに向こうの動物の扱い方に嫌気がさしたらしい。それで帰国しようとしたが、おじさんが彼を帰さなかったらしい。
 オミが生まれるまで嫌々おじさんの手伝いをしていたが、オミという奇跡の存在ですべてが変わったと興奮ぎみに語った。僕はなぜか心が曇っていくような気分になった。嫉妬だ。
 人間が動物に生かされるというこの奇跡!とうっとり語る彼は、おじさんに彼の研究をさせてほしいとせがんだという。おじさんはオーケーし、中国じゃなく日本で、というわがままも聞いてくれたという。おかげでおじさんは日本と中国を行ったり来たりする生活を毎日送っているそうだ。ちなみに今日は姿を見ない。向こうで今頃何をしてるんだろう。
 ほかにもいろいろ聞いてみたけど、それ以上は機密事項ということだった。
途中いきなり、きゃーっ!という声が飛び出した。それは普段のオミの声をキンキンに
研いだような、金切り声に近い悲鳴だった。彼の声だと、僕にはなぜかわかった。宝田は慌てて二人へと走った。
「早いな。おい!ケイタくん。始まるぜ」
 僕は三人を追いかけた。彼らは階段の方向へ移動している。オミの姿を見たとき、気の毒になった。宝田に首輪をされているのだ。犬のように鎖のリードにつながれて。
そしてがちがち震えながら床の上を力なく四つん這いで移動している。きゃあきゃあと変な声を立てて。さっきの悲鳴に似た声で。けどそれでも彼は笑顔のままだった。
 二階につくと女の人が焦りながら駆けてきた。床で倒れ、震えるオミから無造作にシャツを脱がし、ズボンをはぎ取っていく。裸になったオミの体は毛で覆われ始めていた。
生々しく、まるで映画のコマ送りを思わせるようにゆっくりじわじわと肌を埋め尽くしてゆく。気がつくと彼の腋のあいだに、ムササビのような膜ができていた。
「やべえ。すんげ」秋人が一言漏らしスマートフォンを出した。
「悪いな。撮影はやめてくれないか」人が変わったように怒鳴るような言い方で宝田が言った。秋人はすぐに電話をしまう。けれどすぐに顔色を変えた。目の前の光景に、事故か何かの騒ぎでも除くような野次馬じみた目をむいていた。感動すらしているようにも見えた。
 みるみるうちにコウモリの体へと変化していくオミ。首輪につながれた鎖をこぶしに巻き付ける宝田は無表情にそれを見下ろしている。
「やだー。おにちゃんと遊ぶのー」完全にコウモリと化した胴体を振り乱し、オミが駄々をこねると宝田は無理やり鎖を引っ張った。
「おい。なんでだよ。言うこと聞けって。くそっ。君たち悪いけど手伝ってくれないか。ケージに入れるんだ。」
「やだーやだー」
 秋人がオミの両足をひっつかんだ。すると情けなく、じたばたとオミは暴れだした。たちまち胸を支点にしてオミの体が浮いた。足を上げられ、両腕を宙にぐるぐる、くねくねと乱暴に振り回し続けている。腋にあっただけだった膜がかなり大きくなっていた。ひじの関節のところからわき腹にかけて灰色の膜が張っていて、ぷよぷよとたわんでいるのが見える。
 部屋に並ぶ10台以上はありそうなパソコンのキーボードの上に、散って浮いた毛がひらひら舞い落ちている。まるで黒い花びらが部屋の中を踊るようなそれは幻想的だった。
「早く。翼が形成されちゃうわ」
 女の人がせかす。オミの胸を抱くようにして持ち上げ、それから彼女は腕をおさえつけた。
 焦りに支配された顔で僕を見ると、飛び出しそうな目は急に穏やかになった。僕にも手伝ってほしいと頼んでいる。クールな印象は、そのうろたえぶりで完全に掻き消えていた。
「オミはおにちゃんたちとあそぶんだあー!」
 暴れ続け、オミは痛ましく叫ぶ。引きずられていく彼がかわいそうだった。首輪のせいで頭のみが床にあり、擦られているのだ。
 首の下に手を入れ、僕は彼を浮かせた。
「ありがとう」宝田は息を切らして言ったあと、ドアを開けた。その時バタバタと音がした。
 両腕をおさえつけていた女の人が耐え切れずに手を離したのだ。羽が見事に出来上がっていた。体がでたらめに宙でもがき、それにつられて秋人も手を放してしまった。僕は彼の体の下で尻もちをついてしまっていた。
「いた、いた」
 オミはもはや首輪につながれているだけだった。
「オミ!」女の人が叱った。部屋中暴れて飛び交うオミは毛をまき散らしながらぎゃあぎゃあ叫び続ける。
 女の人がポケットから、僕らを眠らせたあの注射器を出し、恐る恐る彼に近づいて行った。
 苦いものがみぞおちにこみ上げた。事情は分かるけど彼は一応は人間なのだ。扱いがひどすぎるじゃないか。
 彼の、羽毛ソファのように柔らかそうな胸に、注射器が刺さっていた。しだいに飛び回る勢いが弱まっていき、ふり幅も小さくなる。しばらくするとオミは床に落下した。力尽きたようにしばらく空中を力なく漂ったそのあとで。
 首が産毛に覆われ、少しだけ人間の地肌がそこに見える。そこが首輪の中で抵抗し続けたために赤くなり、血がうっすらにじんでいた。
 羽をたたみ、繭のようになって床に転がるオミ。くうくう、と寝息を立ててうっすらとだけ開けた目はやがてゆっくり閉じていった。一つ不思議なことがあった。顔は人間のままなのに、あれだけ暴れた後だというのに、汗一つかいていないのだ。
 1mに満たない大きさの丸っこい体は、まるで抱き枕のようだ。丸まったシルエットと、彼の間の抜けた寝顔が子どもっぽさを醸していて、僕は寝転がる猫の面影をそこに見た。
「危ないとこだったわね。この子たちの影響かしら」女の人が僕らに気を使いながらも、遠回しに本音を吐き出した。僕らのせいだと言いたいのか?冗談じゃない。巻き込んだのはそっちのほうだろう。
「それもあるだろうけど、不満がたまってるのさ。外に出たいんだよこいつは。さ、早く入れよう」
宝田と女の人は二人がかりでオミをケージに入れた。
「ごめんな。悪いけど今日はもう帰ってくれないかな」宝田はそっけなかった。
「はあーっ?ネックレスはどこにあんだよ!」
 明人がケージを開けて身を乗り入れた。宝田が気まずそうに顔を背ける。しばらくして秋人の。てめっ!という声が響いた。
「ない。ない。ないっ!」秋人はケージを思い切り蹴りつけた。だけどオミは一つも反応せず、ぐーすか、とただ寝ているだけだった。
「食っちまったんだ。多分」宝田がぼそり。
「うんこの中ってことかよ!」
 明人の泣きそうな声に僕は吹き出しそうになった。なんて奴だこのコウモリ君は。
「前にしたのは?」女の人が宝田に聞いた。
「昨日だ」宝田の声には絶望感らしきものが漂っていた。なんでだろう。
「来週の月曜か、日曜あたりってことね今度は」
 明人の崩れる顔を楽しみながら、なぜ一週間も間があるのかと僕は首を傾げた。そんなに食べないのだろうか。
「おそいじゃねーか!何なんだよそれ。なんで毎日うんこしねーんだよ!
あー、なんてこった。エリのネックレスが。てか、どうしてくれんだよ。弁償とか意味ないんだかんな!エリの思いってやつが」
 始まった。秋人の恥ずかしいポエムが。
「代謝機能が、いややめとこう。わかりやすく言えばこいつは人間としての成長とコウモリとしての成長の速度、そのバランスが釣り合ってないんだ。コウモリのほうはこんなに成長しきって大きくなってるってのに、人間のほうはまだまだ大きくなろうとしてる。栄養分が」
 全然わからない。
「『彼』自身はよく食べるの。けれどすぐに吐き出しちゃうのよ。コウモリの体質が拒否しちゃうの。満腹中枢って言ってね。君たちもご飯食べたら必ずお腹一杯になっちゃうでしょ?コウモリの食べる分と、人間の食べる分が違いすぎるのよ。それで栄養を体に行き渡らせるのが難しいの。たまに二日続けて排便するときもあるにはあるんだけど」
 それじゃあその中に。
「ゲロの中にはなかったんですか?」僕は汚い言葉を遠慮なしに放った。
「なかったな。けどそれはそれで問題だ。金属を拒否しないってことだからな。まあ子供のおもちゃみたいに思ってるだけかもしれないけど。とにかく栄養過多だとコウモリが受け付けなくなっちゃうってことだ。それで、いつ成長が止まるのかわからない。多分もうそろそろ限界だ。前より食欲が落ちているからな。それでも君らの倍以上は食べるが」
 宝田はどうしてこうも僕らに難しい言葉を使いたがるのだろう。
「けどたいていは一週間。よかったら来週まで待てない?またきてくれたらいいから」
 僕らは帰った。秋人は今にもコウモリ少年をぶちのめしでもしそうな具合にいきり立っていた。ログハウスを出るときにはだいぶ雨は降っていた。けど坂を下りきったところにある踏切を渡ったあと、そこから弱まっていった。
「アイツ。腹ン中切り開いてやる!」
「待とうよ。来週の月曜日にって言ってたじゃないか」
「かんべんだって。うんこなんだぜ?ゲロのほうがまだいいって。なんか動物病院みたいな道具置いてそうじゃんか」
 というか、冗談だとは思うがお腹の中なんて言ったらそれこそホラーじゃないか。
「ああー。もういいや。考えてみりゃエリ一人に怒られるだけだし。ほかの女の子が喜びそうだしい。女のジェラシーってさ。ものすごいだって。煽っちゃうかあ?」
 一人で笑う秋人を見てほっとしたと同時に、負けた気分になった。秋人の余裕が、まるで生乾きの雑巾を頭の上にのっけられたかのようにいやらしく聞こえた。オミの足を乱暴にひっつかみ馬鹿笑いしていたさっきの秋人の姿が頭の中によみがえった。あの時、たしかに秋人は笑っていたのだ。ざまあみろ、という風に。
「最近一体何してるんだ?」
父さんが部屋に入ってきた。帰ってから僕は部屋でご飯を食べていた。心配してくれてるのはわかるけど、オミのことは話したくはなかった。
 雨が降る外を眺め、冷凍もののチキンナゲットをほおばりながらもぐもぐ言った。
「ごめん。夜にしか会えない友達ができたんだ。ほかの学校の子で、最近知り合ってさ。章吾の親戚の子なんだ」
 章吾の親戚と会ったことがあるのは本当だった。ドッジボールを馬鹿にしてサッカーの技術とルールが、「センレン」された競技のどうたらこうたらとかとか言ってたいやなやつだ。サッカーチームに入っているらしい。嘘に使ってやるにはちょうどいい存在だ。
「生活態度も面接官の耳にはあらかじめ入るっていうからさ。できれば夜に出歩くなんかはやめてほしいんだよ。勉強だってそろそろ始めなきゃお前さ」
 強気になれないのは僕の希望を押しのけているやましさからだ。
 父さんは僕を私立中学に入れるつもりなのだ。秋人は公立だけど将来は彼の父さんの事業を継ぐので学歴は問題ないと言ってるらしい。
 少しでも父さんは秋人の父さん、社長に見栄を張りたいのだ。二人は社長と現場主任とかいう間柄みたいなのだが、いつからかほぼすべて父さんが工場のことを仕切るようになり、社長は別の事業に夢中になっている。EVのスペックがどうのとか言ってアプリ開発やほかのIT企業やらと付き合っているらしい。
 二人は高校の時からの中で、進学組と就職組に分かれたという。秋人の父さんは大学に、僕の父さんはそのまま就職した。高校は、色んな技術を学べるところだったので父さんは「内燃機」というものを選び、船や車、飛行機のエンジンのことを勉強していたのだ。そして車の整備士の資格までとり、しばらくは整備工場で働いていた。秋人の父さんが声をかけてくるまで。秋人の父さんが最初に立ち上げた会社は、昔、「走り屋」という危険な遊びがブームになったおかげで、それで大もうけしたそうだ。エンジンのチューンや、フレームを軽量化したりバーを入れたりとかをしていたんだそうだ。
 今の部品製造事業は、そのブームが覚めたときにやけっぱちになって始めたことらしい。父さんがけん引したというその会社はトヨタやホンダといった日本の大きなところ向け
じゃなく、アジアや南米といった、海外の自動車メーカーを主に相手にしていて、これも当
たった。オーダーメイドの金型試作品から、会社でその部品のプレゼンが遠通ったあとの大
量生産までという事業だ。工作機械というやつを使わせたら県内で右に出る者はいないら
しい、父さんは。ささやかな僕の自慢だ。
「どうしても私立じゃないとダメなわけ?」
「なあ。その話は終わってるだろう。父さんの時と違って技術なんて今からはいらなくなるんだよ。アプリとか、AIとかが」
 僕は父さんの後を継ぎたかった。まずは父さんのスープラのような車をいじる店で修業。
そのためには父さんと同じ高専に行かなければいけない。父さんが望む私立中は残念ながら機械系への進学はできないのだ。
 同じ型のスープラが登場したアメリカ映画を見て僕は興奮した。緑色のやつだ。片方の主人公がメカニックをやっていてあこがれている。だから、できれば父さんと同じく整備士の資格がほしいのだ。なのにこれからは技術なんていらなくなる、なんて言う。
「じゃあ、何してようと文句言わないでよ。変なことなんてしちゃいないんだから」
「まあ、秋人といれば心配ないだろうが、くれぐれも妙な連中とは付き合うなよ」
 妙な連中。オミは、その妙な連中と見られるのだろうか。
 そんなことを長々と話したのち、やがて出て行った。昔は暴走族が多かったとか、不良がどうこうとか、そんな話だった。

「悪いね。あと一時間待ってってくれないか。変態しきってからじゃないと」
 火曜の放課後はメンバーが集まらず、そのまま高市山へ行った。
おじさんは僕たちが訪ねてくるのを素直にうれしがっているみたいだった。
オミは変態途中の姿を見られるのを嫌がっているらしい。そして僕と秋人がいればケージに入りたがらなくなる。なので完全にコウモリに姿を変えてからじゃないといけない、と判断したようだ。
 かん高い叫び声がログハウスの中から聞こえる。それは、喜びと悲しみが入り混じっているような声だった。時折僕は胸が痛んだ。
「なあー。もう動物も飽きちゃったって。アイツもやかましいだけでウザいし。帰らね?」
 秋人は僕を置き去りにするそぶりを見せた。けど僕に気を使ってくれているのが見え隠れしていて、僕はもどかしくなった。オミか秋人を選べと言われているみたいな。
 この日オミは秋人を怒らせた。
 女の人は、僕たちが来るなり猫砂の入った青いプラスチックのバケットを用意してくれた。高級な砂で、消臭力はバツグンなやつらしい。ニオイを嫌がるとは、そこは人間っぽい。
「くるくるしゅたたん。くるくるしゅたたん」
 ケージの中でいろんな一発芸を、オミは僕たちに見せてくれた。黒くりっぱな羽を広げてうちわのように僕らをあおいでくれたり、ブランコ、と言って逆さまにぶら下がったまま、高速で180の半円を描いて往復を繰り返したり。ぶらぶらと、まるでボクシングの練習に使うサンドバングのように揺れる。大きさも、似たような感じじゃないかと思った。
そして、クルクルシュタンと繰り返すこの芸に僕はくぎ付けになっていた。片足で立って
コマのように回転し続けているのだ。僕が喜んだので彼はそれを長く続けてくれた。
 なので当然、目が回りふらふらしたのちその場でぱたん、となってしまった。
「オミ、ぐるぐるぱーなのー。ぐるぱーなのー!」
 夕日が部屋に差し込む中、暗がりに置かれたケージから「きゃはっ」と声を上げるオミに僕はすっかり夢中になった。
キバになった八重歯をちょこん、とだして「きゃはっ」と笑うオミに。
秋人はしらけ、終始つまらなさそうにしていた。
「アホくせ。しょせん6歳か7歳の脳みそじゃん。あと、あれ」そこで秋人はにしゃにしゃし出した。「障害者」と馬鹿にしたいのだろう。
 秋人はオミに背を向け、スマートフォンでゲームを始めた。
 うらやましい。僕は買ってもらっていないのだ。
「わー。なにー、なにー。みせてー」
「やっかましいな。クソガキが。いや化け物か。化け物のくせにオレのスマホ触らすかって」
「やだー。みせてー」
「うるせえー!」大声を出し、秋人がスマホを放った。興奮してケージへとずかずか寄っていく。しゃきん、と扉のつがいを外して中に身を乗り入れた。
「いい加減返しやがれ!」怒鳴る秋人にびっくりしたオミはケージの隅へと身をよじって移動した。秋人は追い詰めたオミの首をしめようと手をかけた。
僕は秋人の後ろからそれを止めようとケージの扉をくぐった。引き離そうと秋人の腰をつかむ。野良猫の体臭みたいなにおいがぷんぷんした。
「くるちー!くるちいのー!」オミがゲホゲホしながらふざけた声を出した。それで秋人がますますエキサイトする。
 少しふざけ過ぎだオミは。僕は秋人のいら立ちがわかる分、オミの味方をするのに息苦しさを感じた。
「あーっ!」
 オミが切羽詰まった声を上げた。秋人はおどろき、そのままケージから出た。オミがにやにやしながら、開きっぱなしの扉を見ていた。その先には青いバケットが。
 突然ばっ!と右の翼を上げた。
「うんこー!」オミが甘ったれた声を出し、上げた翼をゆるく振った。
「マジか!」秋人が顔をほころばせた。
「でもねー。オミ、この中でしたくないのー。ニオイのこっちゃうの。そこでしたいのー」
と、ケージから出ようと四つん這いになる。
「な。いいよな別に。するっつってんだから!」秋人が僕の顔をのぞきながら返事を求める。
 僕も、ちょっとだけならいいかな、とつい許してしまいそうになる。もう何日も外に出ていないのだ。
「おいでオミ。でもすぐに入らなきゃダメだよ」僕は誘惑に負けてしまった。
「やったー」
平べったい声だった。ぱぱー、や、おにちゃーんとは全然違う、無愛想な声だ。何を考えているのかわからないというような。
オミがケージから、よいしょ、と出てくる。細い足と丸く膨らんだ胴体は、ニワトリそっくりだ。黒いニワトリそのものだ。
ひょこひょこと腰を左右に振りながらバケットに近寄る。しかし。
「くるくるしゅたーん!」
 部屋の中をものすごいスピードで、まさにニワトリみたいに駆け回りだした。だまされた。
「テメエ!」秋人が追いかける。こけにされたとか、そういうことには人一倍敏感なのだ。
 間抜けなコントが僕の目の前でくり広げられていた。くるくると逃げる7歳の男の子の顔ははちきれんばかりのはにかみようで、僕はつい応援したくなった。両方の翼を前ならえの姿勢で突き出して走り回っている。
「クソガキ!化け物!」秋人がサッカーボールをけるように彼に足を振り上げる。いた、とオミはつぶやいたが羽にかすっただけのようだった。けどしだいに息があがっていく。
ついにはゴキブリが追いつめられたときみたく、重々しく飛んだ。ばさばさと。
「飛んでるのー。ぱたぱたぺろん。ぱたぱたぺろん。ぱたぺぺろんちー!」
 天井まで行こうとしたいのか。けれど2mくらいのところでオミはそれ以上高く飛ぼうとしない。
「ザケんな!」秋人は怒鳴ってドアを開けた。出ていき乱暴に閉め、何かうなりながら荒々しい足音を立てている。帰っていった。追いかけようとしたけど、余計怒らせてしまいそうな気がした。そっとしておいてやろうと、僕は一人残った。
「オミ!入れって!」
「やだ」
 子供だ。しゃべれる分だけ猫や犬とちがい、たちが悪い。こうやって人をだますのだから。
「入ってくんないと僕が怒られるだろーが!入って!入ってってば」
「ほんとー」オミは僕のおろおろした様子にご満悦のようで、満足したという風にあっけなく下降した。ひゅるひゅると落ちてくる。羽を真っ縦てにかかげて落ちてくる。
 床に近づくと、器用に翼を水平に固定して着地した。パラシュートみたいに。
 ケージに入ったあと、おなかすいたー、と甘えてきた。僕は来る前にコンビニで買ったチョコパイを一つ、封をやぶった。オミはあーん、と口を開ける。赤ちゃんかお前は。
 ツメだけしかない手ではつかみ辛いのだ。きっと。僕はそう思うようにした。実のところものすごくうれしかったのだ。恥ずかしさが勝っただけで。
 がぶ。
一瞬でなくなった。そして僕の指をなめ始める。人間の男の子になめられる感覚しかなかったが、そのふわふわした翼の手を添えられ、猫になめられる感覚が混じった。手を引っ込めようとすると甘噛みされた。
「おいちかったの」赤ちゃん言葉で甘えるのは相当うれしかったということだろうか。
「ねえ。オミはいつも何食べるの?」
「みんなと一緒―。おにちゃんと一緒―!でも何でも食べるのー。葉っぱもコオロギもー」
 まるでペットだ。僕はそのままオミのあごを撫でた。猫みたいに。産毛が心地よかった。オミは目を細め、ふにゃりと弓なりに曲げた。喉を鳴らすまではしないけど、目を閉じた
まま気持ちよさそうにしている。羽マントが呼吸の動きに合わせて伸びたり縮んだりして
いる。「オミ、なでられるのだいすきなのー。みんなねー。なでてくれないのー」
 みんなって?どこかすねたような口調だった。

 秋人は怒ったままだった。もう行く気はない、と僕に言い、そしてオミの話はするなとまで言った。
「大体、いくつだってオレら。お前なんでそんなに熱くなっての?昔さー、100年くらい前らしいけど『ミセモノ小屋』っていうのあったんだって。変な形で生まれてきたヤツとか小屋に入れて、それを客に見せて金もうけしてたらしいんだ。それと同じようなもんだろアレ。バカみてー。あのおっさんも似たようなこと考えてんだってどーせ。息子とか、嘘なんじゃね?」
 オミの話をするなといったくせに、二時限目の授業の後、スマートフォンでその画像を見せられた。白黒の写真だ。
「エレファントマン」と書かれている。象と人間の融合?オミみたいな。
 全然違った。顔が象にも見えるというだけの、奇形というやつらしい昔の人間だ。変な顔だけど、オミとは全く違う。
「頭トロいっていうのがアイツと一緒らしくてさ。金もうけするんならオレらも入れてくれるといいけど。そうでもなさそうだし」
 いっちょ前に金もうけやらビジネスやらと語りだし、ゲラゲラ笑う。将来経営者として父親に仕込まれる人間はさすがに違う。
「やめてくれよ。オミは」
 口ごもった。これ以上言えばケンカになるかもしれなかったから。
 オミは、見世物なんかじゃない。おじさんが悲しんだあげくに、神様が生んでくれた奇跡の存在なんだ。
 給食当番の日だった。四時限目が終わるころ、おばさんがマスクとエプロンをしたままやって来る。チャイムが鳴り終わるとすぐにエプロンを付けた。
 ざわざわと教室がにぎわい、カレー風味のスープのにおいが漂っている。
 長テーブルに置かれた食材が次々となくなっていく。オミの食べっぷりを思い出した。昨日はチョコパイを3つも平らげられたのだ。
「秋人―。パン食べないー?」秋人の隣に並ぶ、ちょっぴりぽちゃっとした女の子が言った。
 5人の列ができていて、秋人は前と後ろを二人の女の子に囲まれている。見せつけているつもりなのだ。
「炭水化物ってさー」タンスイカブツとはなんなのだ。パンは焼きチーズがはさまれたやつで僕が結構好きなやつだ。
「オレはいいよ。チーズだろ?ケイタにやんな」
秋人はたまにこんな風に女の子との輪に入れようとしてくれる。そして、そこで何も話せなくなるのが僕という人間だった。
昼休みの試合はさんざんで、僕は始まって3分ほどでボールを当てられた。それからチャイムが鳴るまで外野から抜けることができず、悶々としながら掃除に向かった。
教室から見える青空が半分くらい雲に占拠されている。これもまたオミみたいだ
「秋人。行かないのはいいけど、絶対誰にも話しちゃだめだからな。いいよな?」
 廊下にはすでに机とイスを動かす、ガチャガチャした音が波のようにあふれ響いている。
無言でにやつき、秋人は持ち場の図書室へと走っていった。
三時ごろににわか雨が降った。上がったのは五時過ぎで、体育館でバレー用のボールで昼休みの続きをしたあと帰った。
一人で帰る途中、僕はどこか行き場のない思いにとらわれていた。いくら不思議な存在だからってオミとずっと遊んでいればほかの友達を失ってしまうかもしれない。秋人だって付き合い方を変えてしまうかもしれない。
ペットならまだしも、会話のできる人間で、けれど動物でもあるという普通から見たら「キモチワルイ」存在に違いないのだ。僕は決してそうは思わないが。
フリークス、という言葉はもちろん知っている。ホラー映画の世界にありがちな人間もどきだ。ああいうものが現実にいるとみんなが知れば、オミは受け入れられるだろうか。
それはあの秋人の態度でわかる。世間様というやつがどういう目で僕とオミを見るだろうかも。
オレンジシャーベットみたいな空がきれいだった。太陽のぎらつきが、白く濁った雲にさえぎられている。悔しそうに沈んでいく太陽はオミなのか。雲は世間様なのか。
逆かもしれない。雲みたいにあやふやで、形を変え続けるのがオミなんだから。そして影の存在を気にとめることもなく陽気に笑い続けるのが世間様だ。
濡れたアスファルトの黒さが鮮やかで、空のあいまいな美しさと違って切り立っている。
現実というものを見ているのだ、と背伸びしたがる秋人のように。
ドブ川が伸びた先に見える田んぼは、いつもならカエルみたく鮮やかな緑色なのに太陽の弱々しさのせいで濃く黒ずんで見える。空がきれいなのにその緑は逆に不穏な陰りにみちていて、僕の迷いとシンクロしていた。
空だけが現実離れしている。手の届かない理想、という言葉をふと思い出した。
「あれー。おにちゃん一人―。やだー」
秋人がいないのを残念がるオミは羽をマントにしたまま僕を見る。目に元気がなく、僕は悲しくなった。僕一人ではオミが喜ばないということに。秋人は女の子と一緒にいることのほうが楽しいと思ってるのに。
「僕一人じゃいやなのかい?」
「じゃないのー。オミのこと好きな友達いっぱいほしーの。もっといっぱいお友達つれてきてほしーの」
 垂れ目が広がり、僕をからかうように羽を小さく開閉しそれを繰り返す。
「おにちゃん優しいのー。でももう一人のおにちゃん楽しーの。オミ、コウモリだから下のみんなにきらわれてるのー。なでてくれないの。さわってくれないの。もう一人のおにちゃん、はじめてのときオミのことさわってくれたのー」
 下の動物たちにきらわれる、というのは多分、顔が人間で体が獣というのを恐れられているということなんだろう。にしてもコウモリだから嫌われる、という話をどこで知ったんだろう。おじさんがおはなしを聞かせたのか。イソップの。
 秋人が耳をつねり引っ張ったのがそんなにうれしかったというのか。スキンシップなんかじゃないというのに。僕は落胆した。僕の接し方に不満だというのだ。僕はオミを傷つけるつもりなんてないのに。
 とたんに彼が憎らしくなった。ケージを思いきり蹴りつけた。びっくりしたオミは目をしょぼしょぼさせ、なんでー、とふぬけた声を出した。けれどまたすぐに笑顔に戻っていった。
 きゃっきゃといななき続ける声は、僕のいら立ちを刺激した。秋人もこんな気持ちだったんだろう。
「おにちゃんもおもしろいのー。おもしろいのー」馬鹿にしてるのか。僕は許せなくなった。猫がじゃれつこうともせず、ソッポを向いたとしてもかわいいと許せてしまえる僕だというのに。オミの可愛さは憎らしさとまるで同じように、光と影のように相互いに伸び縮みしていく。
 僕はケージを開け、中に入った。獣のにおいがほんのりとし、けれど湿気と相まって僕をじめじめ包み込んだ。
「いた、いた」僕はオミの耳をつねってやった。彼は笑っていた。いら立ちがますますつのり、つい彼のほっぺをぶっていた。それでも笑いつづけていた。
 ふわふわの羽毛の肌が触れ合うたびにくすぐったかったけれど、オミが押し付けてくるとそれは急にチクチクしたものに感じられた。それも僕を馬鹿にしているようで腹が立つ。
「いた、いた。おにちゃんオミのこと好きなんだあー!オミうれしいのうれしいの!ー」
 その言葉で僕はぶつ手を止めた。おじさんが言っていた通り、オミはこれをスキンシップと思い込んでいる。間違いない。苦い気分に襲われ僕はケージから出ようとした。
「まってー!」
 オミが爪を立てて僕のシャツを引っ張った。僕は幻滅していた。僕より、乱暴な秋人のほうが好きなのだこいつは。悪そうな男にあこがれるという女の子みたいに。
 僕は憎たらしいコウモリ小僧を秋人がしていたように乱暴に振り払った。力強く。
「おにちゃんいたー!」
ガシャーン、とそのままふざけながら金網にぶつかった。けたけた笑いながら。羽のおかげで大事には至らなかったようだ。浮力をきかせたのだ。ずるいやつめ。
扉をしめてやった。オミが網のすき間から羽の手をのばす。
「ああーっ!」急に我にかえったように叫んだ。
目が潤んでいる。そしてなんと、こんどは赤く光った。まばたきのような点滅をともなって。
「おにちゃんまってー!いっちゃだめだあー!」
「うるさい!そんなにぶたれたきゃ秋人呼んでやるって。思い切りぶたれればいいさ!」
 赤く光る目が、とても怖かった。必死で僕を帰さないようにと興奮するオミも。頭がおかしくなりそうだった。彼は両方の手で金網にしがみつき、がしゃがしゃし始める。その音がパニックを呼んだ。
僕はちょこんと突き出たオミのおもちゃのような黒く小さな手を蹴った。やり過ぎた、と後悔した。けど遅かった。
 きゃー!とまた叫んだオミは、それが引き金だったかのようにゲラゲラと笑い出した。怖い。背筋が寒くなった。なんて不気味なんだ。イカれてるじゃないか!
 僕は秋人や、そしてほかの人たちがもしこの化け物を見て思うだろうことをこの時皮肉にも、自分で体感してしまった。
 キモチワルイ。
 ドアへと後じさり、そして背を向けた。「まってー!」オミの笑い声がピタッとやみ、ガタガタバタバタとケージを揺さぶる音がドア越しに聞こえた。
「あら、もう帰るの?」女の人がパソコン画面から顔を放した。
 僕を見た後、向こうの部屋の音を気にし、怪しむようにドアを見た。オミは一人で騒ぎ続けている。今にもケージを壊さんばかりに。
「騒いでる騒いでる。バカでしょ?こんなところがかわいいんだけどね。量産する計画があるの。ペットとしてね。もっとも、あの顔じゃ売れないでしょうけど」
 彼女の声は途中から聞こえなくなった。オミがすさまじい声を出しているのだ。きゅわああーん、きゅあわわあーん、というまるで耳を、ドアをこじ開けるバールのように無理やり
こじり回す音を。コウモリの超音波だ。
僕はまずいことをしたんじゃないかと急に焦り始めた。部屋に戻ろうとしたけど、女の人がその時立ち上がった。
「やめたほうがいいわよ。かまってちゃんなんだから。君たちが帰るといつもこう。だけど今日はいつになく激しいな。ひょっとしてさわっちゃった?」
 うなづいた。
「さわられるとね。喜ぶんだけど、調子乗っちゃうわけ。もう一人の子はそういやどうしたの?」
 この前のことを言おうかどうか迷った。けど暴れ狂うオミの絶叫と、ケージがきしみ続ける音に耐え切れず、走って階段を下りた。
 泣きたかった。オミに騙されていたような気分が胸にこもり続けていた。山道を全速力で走り、一刻も早くログハウスのことを忘れたかった。地面に茂る草が靴裏に突き刺さって痛かったけれど、それでも気にせず走り続けた。

「そっか!懲りちゃったろ?もう行かないほうがいいって。気味悪いだけじゃん。落ち着いて考えてみればさあ」
秋人は慰めてはくれた。けどまるで、そんなんだから女の子が寄ってこないんだというような口ぶりで、彼女たちがどんな噂話をしてるとか話し出した。3年のどのクラスか言わないけれど、その先生を彼女たちが嫌っているとか。
僕はしばらく行く気になれなかった。昼休みのドッジボールに久しぶりに胸を躍らせた。
馬鹿みたいな体験だったなあ、とオミのことは忘れようと、懸命に頭から追い出そうとした。そして思い切りボールを投げつけた。砂ぼこりが立つこのさわがしい空間は、やっぱり格別だ。
「おい!ケイタだ。ケイタをマークするんだあ!」
 秋人が叫ぶ。僕が吹っ切れたことに、少し後悔しているみたいにも見えた。快晴の空の下、僕は二人ほど仕留めてやった。爽快だった。コウモリ小僧に一泡食わせてやりたいという思いにも似た、やけくそな闘争心だった。もっともあいつのことは早く忘れてしまいたいけど。
「どうしちゃったんだよ!」秋人が半分ムキになり、その日一番のキレを誇るボールを放った。意地になり受け止めた。胸と二の腕がひりひりしびれるほどだった。

そのまま2、3日が過ぎた。高市山には行ってない。おじさんには悪いけど。
うんこから秋人のネックレスは出てきたのだろうか。まあ、本人があきらめているんだからもうどうでもいいか。
「秋人は?」
 帰りの会が終わり、ぞろぞろみんなが出ていく中、章吾が聞いてきた。秋人が昼からいないのだ。僕は見ていた。
「エリちゃんと帰った。掃除終わってからだよ。知らなかったの?」
 僕と章吾は一緒に帰った。いつぶりぐらいになるかわからない。帰り道は会話が途切れたり、片方が一方通行の話題を好き勝手に話し、お互いがそれを聞くふりしていた。
 特別仲がいいというわけじゃない。けど遠回りまでして僕と帰りたがってる章吾に冷たくはできない。白い空に見下ろされていたがいっこうに降る気配はなかった。
「ケイタ、言いにくいこと言っていい?怒らないできいてほしいんだけど」
「何だよ」
「やっぱやめとっかなあ」章吾はけっこう、こうやってもったいぶる。けど、声の調子はいつも通りだけれど、顔が、特に目が不安定に泳いでいる。
「何だよ!」いらいらした。
「ケイタさあ、なんか臭いって言われてるよ。みんなが、ってわけじゃないけど、僕も気になっててさ。怒んないでよ。言ってあげないと悪いんじゃないかって思っただけなんだ」
 あいつのニオイがなぜ?落ちにくいんだろうか。けど毎日洗濯はしている。僕は全く気付かなかった。オミに対するいら立ちがまたふつふつと浮かびあがってきた。あの野郎。
「んで、聞きたいことあるんだけど」章吾は僕の顔を見た。
「何?」
 なんだろう。もしや高市山のことか。
「なんかケイタ、最近付き合い悪かったじゃん。なんかあったの?」
「べつに。秋人、なんか言ってた?」
「ほっとけってさ」
「ふううん」
 秋人は約束を守ってくれてる。けどもうどうでもよくなっちゃっている。それでもあの人たちを無闇に怒らせたくはないので、あのことを章吾にも言う気はない。
「ケイタと秋人が仲よかったから、僕たちドッジボールのグループができたんだよなあ」
 そんなものだったか。ドッジボールにはまったのは、4年生の冬だ。それまでスマホゲームのパズルやオンライン対戦に夢中だった。ほとんどの子たちが。
田辺先生が、冬は体を動かさなきゃだめだと昼休み自分のクラスの生徒たちを誘ったのだが、4年から今の6年まで同じクラスで居続けた僕と秋人はある日彼らのぎゃーぎゃーやかましい声に文句言ってやろうかと見に行ったのだ。その熱狂ぶりに僕たちはうらやましくなった。それでハマった。
「何。何か言いたそうな顔」
 章吾の顔が不安に染まっていた。
「だからさ、ケイタが一番仲いいじゃん。秋人と。それで、なんかあったのかなって。二人の間で。エリちゃんと帰るなんて。やばいよ」
 章吾の心配事がわかった。彼も秋人が女の子と遊んでいることをよく思ってないのだ。そして、秋人が女の子たちと今よりひんぱんにつるむようになる、それによってドッジボールのメンバーの間の何かが崩れることを恐れているのだ。
 けど僕がどうこうという話でもないはずだ。いずれ秋人はそうなっていただろう。そうなればグループが散り散りになるなんて考え過ぎだ。秋人がいなくても、僕自身が、学校にいる間はドッジボール以外に燃えるものなんてないと思っているのだから。いざとなれば秋人なしでも。
 章吾の家は小さな理容室で、おじいちゃんが店主をやっている。彼の父さんは、美容院やそのほかの床屋が使うようなシャンプーやいろんな液体、用品を取り扱う会社で働いている。おじいちゃんの知り合いを通してその会社に就職したらしく、今では営業所所長だ。
 背が小さく、息子の章吾とあまり顔が似ていない。章吾も、どちらかというと背が小さいほうなので似ているところといえばそれくらいだ。
「電話しようかな。怒るかなアイツ」章吾は、秋人とエリちゃんが気になるみたいだ。
「僕が電話するよ。あんまり気にするって」
 こじれそうな予感がした。章吾の気持ちはわかる。だけど秋人がそっぽを向くことになっっちゃうかもしれないのだ。
 どぶ川をせきどめる、木の板の向こうからとめどなく水が流れている。その勢いを見て、僕はこの板を外してしまえばどうなるのだろうと考えた。ドッジボールグループの活気がうすれていき、みんなが散り散りになっていく。そんなイメージが浮かんだ。水が広がっていくのはそんな感じなんだろうか。
 秋人が何をしようと勝手だといえばそうなのだけれど、章吾が不安がるのは本当に理解できる。僕だってグループが大事だ。卒業するまでグループのみんなと仲良くやっていきたい。というか、そんなことを考える日が来るなんて思いもしていなかった。
 ドブ川の水流の音を、国道を走りすぎていく車の音がおおいかぶさり、もみ消していった。
 章吾と別れ、一人になってからもグループのことを考え続けていた。船長をうしなった海賊みたいだ。そうなると僕は副船長になる。
 みんな中学に上がれば、僕みたいに私立に行く子もいるし、家の場所の関係で遠くの中学に行く子だっているのだからそこでもう、グループは解散だ。だからこそ、卒業するまでは今いきおいを止めたくはないのだ。
「エリちゃんと何してたんだよ」
 家に帰り、僕は秋人に電話した。
「うん。ネックレス、安いやつ選んでくれって連れてかれたよ。モールのさ。そういう店3つくらいあるじゃん。知ってるだろ?」
 安い、と言うけどそれなら結構するはずだ。5千円とか8千円とかじゃない。一度行ったことがあるけど3万円のシルバーの指輪を見たときは目が固まった。エリちゃんはパリでいくら出して買ったのだろう。
「いくらぐらいの?」
「1万だったっけなあ。誕生日に買ってくれるってさ」
 来月だ。秋人は7月生まれだ。
「章吾がさ」
言いかけた。けど告げ口するのは好きじゃない。秋人だって守ってくれてるのだ。
「章吾と一緒に帰ったんだ今日は。わざわざ遠回りしてくれたからさ」
秋人と10時くらいまで電話で話した。そのあいだ高市山の話をすることは一度もなかった。
朝がきた。カーテンのすき間から、こがね色の東の空が見える。パジャマを脱いで何を着ていくか悩みだす。
と、思い出したように僕は一つ一つを嗅いでみた。あいつのニオイが残っているというが、柔軟剤の、甘いけどツンとした香り以外は何も匂わない。僕は別に鼻づまりだとか、耳鼻科のお世話になることなんて特にない。章吾が言ってきたのはいったいどういうことなんだろう。今は匂わないけども、学校では匂う。ということなんだろうか。ということは。
エリちゃんが前に言っていた。フランスの香水の話だ。フランスで作られてる香水のなかには汗のにおいと化学反応を起こすものがたくさんあるらしい。シャネルとか。それと一緒なんだろうか。汗をかけばかくほどにあのコウモリ小僧のニオイが高まっていくということじゃないか!なんてことだ。僕は覚悟した。
そういえばオミの獣臭もどこかほのかに甘ったるかったような気がする。香水とはまた別の感じだけれど。本当にあのコウモリ君は。
「ねー。今日も帰ろうよ」
 絵里ちゃんが正門を越えたあとに言った。朝日が、赤いランドセルを父さんのスープラみたいにぎらぎらしたワインレッドに塗りかえていた。
 たいてい彼女とはドブ川の前あたりで合流する。この日はどういうわけか国道と交差するところまで来ていて、僕たちを待ちかまえていた。昨日のことと関係あるんだろうか
 グラウンドは朝日を浴びてカスタードクリームのような色でまばゆい。朝見る校舎は、集会の時の校長先生と同じように僕たち生徒を見下ろしている。真ん中にどでかくそびえる時計台は屋上から10mは突き出ている。
「二日続けてだぜ?まずいだろー。だめだって」
 けどニヤついている。まんざらでもないというのはこういうことをいうのだろう。お前も早くこっち側に来いと言いたげな笑みを僕に見せる秋人は頼もしくも見え、そして憎たらしくもある。
 エリちゃんの髪に朝日が反射していた。肩に届きそうで届かないくらいの髪は新品のホウキの先みたいにスパッとそこで揃っている。顔は特に美人というわけじゃないけど、目の大きさはあのコウモリ小僧並みに目立つ。
「ケイタくんも一緒に帰っちゃえばいいんだよ!そしたらさ、みんなマネし出すんじゃない?私らさ、ファッションリーダーっていうの?なれるんじゃない」
 馬鹿らしい。
 さりげなく僕に話を振るのは秋人に気を使っているだけなのだ。こういうところがまるで、香水のようにわざとらしい。
 別にその日は、二人ともまた昼に帰っていくなんてことはなかったのだか、6時限目が終わると秋人はそそくさと一人で教室を出ていった。1組の衛、通称マモと、そのマモと仲がいい千尋ちゃん、そしてエリちゃんと、エリちゃんの友達のカオルちゃんの姿が、正門の前に見えた。窓から見えるそれは晴れの日にふさわしい、笑顔で彩られていた。
章吾をさがした。机に座ったままだ。漢字ドリルをパラパラめくって真剣な顔でそこから目をはなさず見続けている。よかった。見られなくて。かなり×マークで埋められているのだろう。成績があまりよくないのは秋人、そして僕も一緒だけど。
「おら!」
 僕はわざとらしく声を上げ、ボールを投げた。4対5でやっていたけれどみんな相変わらず熱中している。章吾が僕の空元気じみた態度に気づいたようで途中から、声を張り上げ始めた。後悔した。変な心配をさせているに違いないのだ。
「ショーやん!」
 背が高く、ものすごく痩せた木のような孝浩が笑いながら章吾を狙う。薄い緑のボールが
彼の筋力のみすぼらしさを物語っていた。ふらふらとたよりなく弧を描いて、章吾の腹にすこっとおさまった。章吾がラインまで走ると、煙のような砂ぼこりが上がった。ざざっと黄色い砂地が靴にかきむしられていく。
 秋人がいないことに、みんなは何を思っているのだろうか。このまま僕らだけで続けるのは、望むところではあるのだがぶっちゃけ、しっくりこない。何といっても秋人が中心だったんだから。
 章吾はほかの子たちと帰っていった。僕は遠慮した。章吾が、彼らと笑っているのに安心したからだ。今のところは秋人がいなくたって団結はしている。章吾がこのまま引っ張ってくれたらどんなにいいことか。
 次の日も秋人はエリちゃんと帰っていった。
「あっケイタくうん」エリちゃんが僕たちに近づく、秋人も、しょうがないとばかりによって来る。空は、日が照ってたり消えたりを繰り返している。
「あせくさあ」
 エリちゃんはみんなに聞こえるようなけっこう大きな声で言った。みんなが動きを止める。章吾がプイ、と顔をそむけた。僕と同じように彼女のことが好きじゃないのだ。
「あきとー。なんで帰っちゃうのよー。やろうよー」
 白と紺のシマが入ったシャツをおなかで膨らますヤン吉が言った。楊という名字の、父さんが中国人の子だ。秋人はやましそうな顔をしていた。エリちゃんにいこ、と声をかけ、さりげなさをよそおって帰っていく。ヤン吉があきとおー、元気のない声で言った。
 僕は走った。秋人のもとへ。
「もうやんないつもりなのか?」彼の目を見ていった。一歩も引かなかった。
「そんなんじゃなくてさ。けど、もう今年卒業なんだぜ。いつまでも」
「はっきり言えよ。僕たちがガキって言いたいんじゃないのか」
「何興奮してんのさ。だからそんなんじゃないってば」
 みんながいる手前、こう言っているだけだ。僕は何でこんなことをやっているのか自分でもわからなかった。前みたいに帰ってから電話して僕ら二人だけの話をすればいいことなのに。こんな卑怯なことを、こんな恥ずかしいことをどうして。
きっと、エリちゃんのせいだ。エリちゃんに馬鹿にされたような気がしたからだ。グループを、みんなのことを。彼女がどんなつもりで言ったのかはともかく。
「けいたあー」ヤン吉と章吾が僕の後ろに来た。僕を止めたがっているみたいだ。
「連絡するよ」
 それだけ残して秋人はエリちゃんを連れて帰っていった。
 その夜に僕は秋人に電話した。
「おかけになったでんわは、でんぱのとどかないところにあるかでんげんがはいっていないため、かかりません」
 こたえたんだろうか。僕は、秋人を傷つけてしまったんだろうか。けど、エリちゃんと二人で僕たちのことをほくそ笑んでいるみたいに見せていたのは秋人が悪い。これが秋人がぼくらよりもエリちゃんを選び、わずらわしくなった僕らから離れていくきっかけになってしまったら。
 僕のせいだ。
なんだか、図工の時間にすごくよくかけた絵を、ある部分のほんのちょっとのことが気に入らないとまた手を入れてしまったら、絵全体のシルエットがおかしくなってしまったような感じだ。
星空が、薄膜みたいな雲の向こうにちょっとだけ見えていた。オミを思い出した。あいつが現れてから、学校での生活がおかしくなりかけているじゃないか。
けどそれはきっと違う。秋人のことは前からだ。多分、僕がコウモリだからだ。秋人とエリちゃん、章吾たち、のあいだを行き来する馬鹿なコウモリだからだ。いっそ、秋人のほうに行けば楽なのかもしれない。章吾にきらわれようと。オミのけらけらした顔が、うっすらと浮かんだ。かわいいとも思えなくなっていても、どこかほっとする間抜け面だった。

おじさんたちがまたやって来たのは、金曜日だった。暑い日で、さすがに誰もかれもゲームをしていた。外に行こうなんてとんでもない話だった。
「おい。ケイタ。あれ」章吾が外を指さした。昼休み、教室の窓際に、地べたで座っていた。
 僕は外を見た。セレナが正門に停まっていた。おじさんが半そでのグレーのシャツを着て一人、こっちを見ている。僕は見ていないふりをしたかったが、遅かった。手を振り出したのだ。無視が、どうしたわけだかできなかった。周りの連中が、章吾が僕の名を出したせいで僕を注視していた。ドッジボールグループじゃない子たちまでも。
 慌てて走って出て行った。
「ケイタくん、聞いたよ。怒ってるんだろう?」
 僕はどう言おうか迷った。けどおじさんの顔は青っぽく、どこか気の毒に見えた。
「もう別に。それより、どうしたんですか」
「放課後でいいから来てくれないか。オミが、毎日暴れるんだ。君たちが来てくれないからって。もう、わめいてわめいて困ってるんだ。それで、あそこは団地からはだいぶ離れてはいるんだが、超音波って知ってるかい?興奮したときに、無意識に声に混ざってしまうんだが、その音が近所迷惑だって苦情が来てるんだ」
 笑いそうになった。無茶苦茶じゃないかアイツ。突然、オミの顔が浮かんだ。栗色の髪の毛を振り乱して笑うあの間抜け顔が。
「お願いだ。来てくれないか」
 結局、一人で行くことにした。団地の家並みが、懐かしい気がした。山道に入ると、草のにおいと虫たちの音が僕を迎えてくれた。
 ログハウスは日陰と、空からの太陽の光に半分半分の割合で染められていた。
「あー!」オミが裸足でばたばた駆けてくる。黒と白の縦じま模様のシャツの上でぱっと、笑顔がはじけた。
「ちび助ぇー!暴れたんだって?」僕は一応笑顔を返した。
通路をどたどた走り回り、オミはたいそう喜んだ。僕は許してあげてもいいか、と一瞬思った。可愛らしさのせいじゃなく、ふと人間の器が、みたいなことが頭をよぎったのだ。それはおじさんが正門で頭を下げて僕に頼み込んだせいだった。オミのために、おじさんは僕に頭を下げた。それが忘れられなかった。
笑顔を一瞬たりとも崩すことなく、動物たちのケージを一つずつ、カニ歩きのような格好で移動し続けている。あっかんべーを動物たちにしながら。
「おにちゃんきてー!おとといウリ坊くん入ってきたのー!」
ウリ坊が二匹、オミのケージより大きめのケースに入れられていた。
「オミ!近寄っちゃダメって言ったでしょ!」
 女の人が怒鳴った。
「あの、秋人のネックレス、どうなったんですか」僕は聞きづらいとは思いながらも、腹を決めて聞いた。
「まだ出てこないのよ。便も、吐いたものも両方見たけど、もしかしたらどこかに隠してるかもしれないわね」
 いきなり、ピイーッ!と鳥の声が鳴った。びっくりした。
 大きな鳥だった。とんびらしい。女の人がオミに走っていった。
「ほら、みんなが騒いじゃうでしょ。静かにしなさい」
「だってーオミ、みんなと仲良くしたいの。なんでだめなのー。なんでだめなのー!」
 オミが地団太を踏み出した。僕はそんな彼を見て心が和んだ。やっぱりコイツは憎めない。
「ダメでしょ!」女の人がオミを捕まえた。この人はどうしてこんなにエキサイトしているんだろう。
「ケイタくんが久しぶりに来て、安心できると思ったんだが、これじゃどっちがいいのかわからないな。しかし、超音波はとりあえずは今日は大丈夫みたいだな」
 いつの間にか白衣に着替えていたおじさんが言った。
「ちょっと!」女の人が盛大に床にこけた。そこからオミがスキップをして抜け出ていく。
「ぽーん。ぽーん」
 そうつぶやき続け、階段の歩行までスキップで移動する。その最中、サルと猫がグルルう、とうなった。動物たちがオミを恐れているのはどうやら本当のようだ。
「ぱっちーん!」
オミの声がしたと同時に、ログハウスの中の明かりが全部消えた。
「まずい!」裏返る寸前のような、情けない声を上げた。
 真っ暗だ。クーラーやそのほかの色んな機械の音がとまり、動物たちの鳴き声だけがあちこちから聞こえている。僕は怖くなった。彼らが、血に飢えているかのような気がしたからだ。少なくとも怒りをみな覚えている。インコがオミいややねん、オミいややねん、とアホのように繰り返した。オオカミのあおーん、という声を初めて生で聞いた。
 オミは何をやっているんだろう。
「しゅったーん!」
 羽音と一緒にオミの声がした。まさか。
「しまった!」おじさんが叫んだ。
 羽を広げたオミの影が、暗い中天井に見えた。どうしてだ。まだ5時前だ。早すぎる。
 照明を落としたのは、太陽の光をさえぎるためだったのだろうか?というか、なんで7歳の男の子が電気ブレーカーなんてものを知っているのだ。知能がいいのか悪いのか、どっちなんだ?
「やっほー!おにちゃーん!いいものみせたげるー。みてみてー」
 オミはまず、カラスヘビのケージの上にとまった。そして上部にある、ハンドルの上に立ち、あのコマの回転を始めた。おじさんが頭を抱え、外に出て行った。
 僕はそのケージの前へと歩いた。するとハンドル付きのハッチを開け、そこから顔を突っ込むオミの姿が見えた。ケージの中で、こんどは目が黄色く光っているのが見えた。カラスヘビが頭をもたげ、威嚇を始める。
「やだーやだー!」オミの笑顔はカラスヘビの禍々しさに対して、あまりにものほほんとして見えた。しゅーっ!とヘビは音を立てる。
「なんでー、なんでー!オミはみんなが好きなのにぃー!なんでオミのこときらいなのー」
 笑顔が曇っていった。僕に何を見せたかったのだろう。僕がまた来たことで、まさか何か勘違いしてしまっているわけでもあるまい。やっぱり自分は愛される存在なんだと。
動物と仲良くできるということを、おじさんたちに知らしめたかったとでもいうのだろうか。けど見ている限り、やっぱり動物たちは彼を恐れている。
どうしてだろう。切なくなった。人間からも、動物からも疎ましがられているなんて。
「ったくもう。君が来たらこれだわ。調子乗ってんのよ。でもここんとこ毎日、超音波まき散らして暴れてたんだから。それを思えばまだましってとこね」
 女の人が注射器を調整しながら言った。
急にワンワン!と声が響き渡る。次は柴犬のケージだ。柴犬も、オミが近づくと狂暴になった。尻尾を立てて、ケージの中をせわしなく回り、吠え続けている。
「なんでー!」オミは悲しげな声で叫んだ。
「やだー!」ウサギのケージ。ネズミのように一目散に隅に逃げ、仲間同士で固まり、震えている。
「逃げたらだめー!」ニワトリのケージ。クッククックー!と三羽のニワトリはウサギ同様にケージの隅に逃げた。
「だめだあー」クサガメのケージ。温厚なはずのカメが、バシャバシャと水面を波打たせて逃げていく。僕は胸が苦しくなった。頼みの綱、最後の望み、コウモリのケージへと行っちゃったのだ。コウモリにまで避けられるはずはないと。ものすごく嫌な予感がした。
「コウモリなのー。オミはー」
 それだけ言うとオミは黙った。僕はコウモリのケージに歩いた。通路側のガラスに、三匹ともへばりつきそうな勢いで身を寄せ合っているじゃないか!しかも震えている。
 きゃあああーっ!
 叫びながらオミは階段のほうへと飛んで行った。僕は耳をふさいだ。鼓膜がやぶれる!と怖くなった。女の人も、両耳をふさいでいる。
動物たちがケージを揺らす。柴犬が普通の鳴き声とは全く違う凶暴な声で吠え続ける。カラスヘビがものすごい速さでケージの中をのたうち回る。気持ち悪い。アライグマがケージをオミみたいに激しく揺らす。みんな彼の声に耐えられないのだ。
「あーあ。またよ。ケージがっ!」女の人がオミを追いかけた。
 二階ではすさまじい音が、それはもうそれはもうすさまじい音が吹き荒れていた。金属音と、空気を裂くような超音波、やけっぱちの絶叫、ケージを壁に投げつけているような衝撃音。足でケージをつかんででもいるのだろうか。
「きゅあぽおーん!」
 こんな感じだろうか。いや、実際には表現なんてしきれないほどの、金切り声を超えた、黒板を爪でああやる音以上の、ひずみ切ったものすごい叫びだ。女の人と僕は二人とも、当たり前だけど耳をふさいでいた。
「おうぃわきっきゃいなよー!」オミがきらいなのー、とかろうじて聞こえた。
「どうすりゃいいんですか?」耳をふさいでいるのに、愚かにも僕は聞いてしまう。それほど耳の中に、鼓膜に、まるで日曜大工のインパクトドライバーでねじ込まれるネジみたく食い込んでくるのだ。
 急に音がやんだ。騒ぎ疲れたのか。僕は様子を見たくなり、つい部屋のドアを開けてしまった。けれどオミの姿はなかった。ケージがバラバラになり、銀色の骨のがれきと化していた。
 どこだ、と思った瞬間、僕の肩に何かが落ちた。水だ。雨漏りだろうか。そう言えば外はすっかり曇っている。けど降ってはいなさそうだ。じゃあ何だろうこれは。
「えぐっえぐっ」
 その声は上からかすかに聞こえた。見上げると天井に逆さまでへばりついているオミの姿が映った。黒く丸い体がぶらぶら揺れている。その揺れに合わせて水が垂れ続けていた。
 涙だった。オミが泣いている。
「うっ、うっ。オミのこときらいなのきらいなの」
 そうつぶやき、しくしくと泣き続ける。僕はいたたまれなくなった。そして同時に安心感と、うれしさのようなものが胸にあふれた。少なくとも、彼、オミは僕を必要としてくれている。「オミ。ごめんな」
って言っても何のことで謝ればいいのか。どうでもいいなんて思ってしまっていたことを、か。ぶったことか。けど、心が離れたことに何かやましいものを感じていたことは確かなのだ。それが無意識にごめんと言わせていた。
「おいで。オミ」
 ひらひらと僕の足元に下降した。ふわりと栗色の髪の毛が空中に舞う。床に元気なさそうに着地するとオミは僕を見上げた。その目に涙をあふれさせて。涙が左目から一すじ垂れた。
 僕の腰の高さまでしかない、小さい体がたまらなくいとおしかった。太ったオタマジャクシのような、大きな垂れ目が震えている。でっかい黒目の下に涙のたまりが、ぷるぷると揺れている。冬の電気ストーブみたいにオミの目がだんだん赤く灯っていく。
うあーっ!と急に泣き叫んだ。そしてだんだんと、人間の幼児とまったく同じように低いうなり声になっていく。うなり泣き、とでも言えばいいのだろうか。目は赤く光り続けている。大きく開いた口の中にガタついた歯並びが見え、醜いことこの上ない。だけど僕はオミが愛らしかった。オミの少し大きな頭を胸に抱いてあげた。
彼はコウモリの羽をたたんだまま僕に体をあずけ、夢中で泣き続けた。
「よかったじゃない、オミ。片づけてくれたら言うことないけど」女の人が僕ら二人を呆れた目で見ていた。
「どうしたんだ」おじさんがやって来ても、オミは泣きやまない。
「危ないぞ!」おじさんの叫びの後、僕の腹に何かがずずっ、という感じで擦れていった。
 気が付くと僕は、オミの羽に包まれていた。
「オミ、離れろ」
「やだ」
 オミは僕を離したくないようだった。ぼくはうれしかった。秋人が僕から離れ、女の子たちと遊ぶことを本当は、章吾以上に怖がっていたのだ。見捨てられるんじゃないかって。
 オミが僕を必要としてくれるなら、こっちだって、秋人がどうふるまおうが知ったこっちゃない。どうでもいい。
 10時になるまで、オミは僕を帰してくれなかった。けど時間を気にすることなく、僕とオミは遊び続けた。遊ぶといっても、一方的にオミが僕に何かをしてくるだけだったが。
「んとねー。ばあー、なのー」
 いないいないばーが好きで何度も僕に見せてきた。羽で垂れ目を隠しそれから、ばあー、とするのだ。目を覆う羽がぱっと開くと裂けそうな口からべろん、と舌が突き出て、それが本当におかしくて、何度も笑った。そして髪を撫でてやった。
「おにちゃん、ばあー!」
 おじさんは今日だけ特別といい、オミをケージに入れなかった。僕がいれば出ようなんて気は起らないだろうということで。
オミの飛行能力は散々なものだった。コウモリの姿のときはずっと閉じ込められているので、飛ぶ時間なんて十分になかったのだろう。筋肉がついていないみたいだ。
ぱたぱたと僕の頭の上を旋回し、天井に向けて一生懸命飛ぼうとしている。頼りなく、けど懸命に翼をばたつかせている。必死こいて目をむき、馬鹿顔を赤らめて。
パラグライドは得意なのに、なんだかかわいそうだと思った。自由に飛ぶことが、コウモリの特権だというのに。「疲れたのー。オミ、おねむなのー」
 そう言って床に転がり、羽をたたんだ。いびきがその疲れを物語っている。人間の大人並みにうるさかった。
「今日は悪かったね」おじさんが新しいケージを持ってきた。もともとのケージは分解して折りたたむことができるタイプなので、暴れまくるとそれでばらばらになってしまうみたいだ。柴犬より少し大きいくらいか、あるいは同じくらいの大きさの生き物、しかも羽が生えていて飛べるとなれば壊れるのはたやすいだろう。
それに対しておじさんが持ってきたヤツは完全に一体型で、ちょっとやそっとじゃ曲がりもしなさそうだ。
「生まれた、いや生まれ変わったというのが正しいか。そのときは目を疑ったよ。そして怖くなった。中国人にだまされたという思い以上にね。殺してしまおうかとも思ったよ。なんせ化け物が生まれたんだから。どうやって生きていけるのかって、悩み続けたよ」
 オミを抱き、おじさんはそのままケージの中に入れた。おじさんは力持ちだった。一人で、30キロはあるという彼を持ち上げたのだ。入れて寝かしつけたあと、彼の体にタオルケットをかぶせた。おじさんは、きっとオミを殺したくても殺せなかったのだ。
「だけど、このままこうやって閉じ込めておくつもりなんですか?そりゃ、人目にさらせないっていうのもわかるけど」
 僕は気になった。一生このままなのだろうか。そのほうがオミのためなのだろうけど、明らかに彼は外に出たがっているじゃないか。
「狩猟は、一応できる。嫌がるけどな。外に出ればちゃんと生きてはいける。しかし、みんな、君たちみたいな人間ばかりじゃない。見つかれば」
 おじさんは相変わらずの疲れた顔を背け、それからほっぺたを膨らませ、ふうっと息を吐いた。
「野外の動物たち以外にも、外敵は増えるということだ。いや、動物以上に厄介だろう。人間なんてのは。興味本位で近づいて、気に食わなければ排除したがる。気に入ったとしても、君たちみたいな目では見てはくれまい。商売道具か、もっと怖いのは虐待だが、昔、見世物小屋っていうのがあって」
 知ってます、と言いかけた。でもおじさんの説明は秋人のものとだいぶ違った。より詳しく、細かく教えてくれた。
「だからね。危険が多すぎるってことだ。しかし、オミの精神のためにもこのままじゃいけないと思っている。個人的な事情からなんだが、あるプロジェクトを立ち上げたんだ。オミの遺伝子データを、ある企業に提供する。この子をペットとして売り込むんだ。個体数さえ増えれば、人々が理解を示してくれるかもしれないからね。現に、興味を示してくれた投資家がたくさん集まった。生まれた時からの記録映像を見せて、それで思いのほか気に入ってくれたんだ。この子を使って商売さ私も。けど、全部この子一人を守るためのことなんだ」
 おじさんは暗い顔になり、声もだんだん沈んでゆく。
「でもね」ぼそり、とこぼした。
「この子は障害者なんだ。人格と人権を考えれば、憂慮することがたくさんある。そして健常者の赤ちゃんで、という意見と、どうしてもオミじゃなきゃいけない、と意見とで分かれた。どうしてもオミじゃいけない理由?それはね。都合がいいからさ。健常者だと、人間の知能を獲得するんじゃないかとその投資家の人たちは言った。それでデザインベビーの技術を擁するヨーロッパの企業と提携するように言われた。知能はオミと同等で、なおかつ白人種の、美しい顔立ちの一体をつくれば出資してやってもいいと言われた。中国の連中は私にイエスを強いている。利権というもののために。人間である以上、オミにも人権てやつがあるんだ。それをないがしろにしろと」
 ほとんど話がわからなかった。けれど、オミの存在はどうもいろんな人たちに大事に思われていないということらしい。見世物小屋でお金もうけをした人たちに扱われたフリークスたちと同じということだ。そんなの、許せない。
 おじさんは疲れ切った顔で、強がりみたいな笑みを僕に向けた。
「君たちの体だけど異常はなかった。それはいいんだが。もしあれば言ってほしいんだ。本当に何もないかい?もしあれば、人体に有害ってことになる。オミの体は。そうなればプロジェクトは中止になる。こんなことを言ってはいけないかもしれないが、私としてはそっちのほうがいいかもしれない。とにかく、私は迷ってるんだ。オミのためにどうすればいいのか」
 体は、別に何もない。さっきから涙もろくなっているということ以外は何も。これはきっとオミのせいだ。オミのさみしさと、僕のものが混じりあったせいだ。
 帰ると子猫たちはやっぱり近寄ってこなかった。アイツ、うちの猫にまで。笑いが込み上げた。でも、これからは僕はオミの友達だ。コウモリだ僕も。秋人や省吾たちとも仲良くし、化け物とも仲良くするのだ。僕は猫たちを追いかけた。拒否られ続けたオミと同じように。
 草を踏みしめた。じゃっと音が鳴った。夜の闇に、庭に敷かれている砂利の音が吸い込まれる。いつの間にか雲がほとんどなくなっていた。紺色の空がラピスラズリのようにきらめいていた。オミのきれいな黒目みたいだった。涙でぼやけながらも、元からのある深い輝きは変わらずにそこにあるように。
たっぷり母さんに怒られた。その声はまるで嵐だった。急にうんざりした。ご飯も食べずに部屋へひた走り、鍵をした。涙が、僕の意思を裏切りあふれ出した。これまでもがオミのせいだというのだろうか。
僕のやりたいことをさせてくれない父さんに、僕を置いてきぼりにする秋人。父さんは見栄のためなだけで、秋人は大人への階段というやつを駆け上っていくのに僕たちが邪魔だと振り払う。こんなの、僕の勝手な、ばかげた思い込みなだけなのはわかっているけども。
僕は一緒にいるにそぐわないガキだということだ。それはそうだろう。コウモリの姿をした幼児に夢中になる僕なんて。
土曜日、僕は父さんに連れられ例の中学の見学会に行った。朝からブレザーを着せられ、とぼとぼ中学校の中を歩いていた。昼過ぎに終わった。急いで着替え、自転車で高市山へ走った。
「ごめんね。今日はいろいろ検査しなきゃいけないんだ。また明日来てくれるかい?」
 昨日と違っておじさんは厳しい口調でそう言った。昨日、泣き叫び暴れたことで異常がないか調べたいということだった。ロボットじゃあるまいし。検査なんて。帰ろうとすると背後でオミの声が空気を引き裂いた。まだ4時半だ。あいつ、またやったのか。叫び声がしたとき、屋根にいたカラスたちが一斉に飛び立ち、逃げていった。オミの超音波は鳥たちの耳にどんな感じで届いているのだろう。
 けれど変だ。叫び声はたった一度きりしか上がらず、そのまま彼の声は聞こえなくなったのだ。いつもならぎゃぎゃぎゃぎゃ、やら、きゃあきゃあと声が中から聞こえるものなのだけど。
奥の杉林が夕日が沈んだおかげで闇を取り戻しかけている。生い茂る草が不安をかき立てる。僕は三人に気づかれることはないだろうと高をくくり、ログハウスに入った。  
三人は、倒れているオミを見下ろし、何か話し合っていた。オミは動かない。ペンギンが寝ているような恰好をしている。ぼてっと膨らんだ黒い袋みたいに。床にオミの髪の毛が雑巾モップのように、べたりとだらしなく垂れている。
僕はそのまま動物たちの檻の通路に出る手前、猫が2匹入っているケージとインコのケージが二つ、離れてとなりあうその陰に隠れた。三人は通路のほぼ真ん中、「新人」のウリ坊のケージの横にいた。そこから、階段の方向とは逆の、卓球台のような真ったいらな台までオミを引きずっていく。僕は聞き耳を立てた。すると動物たちの声や足音に混じって、ぐうわうー、ぐうわうーと、豚かと一瞬思うような音が聞こえる。オミだ。トラかライオンのうなりじみたいびきを立ててオミは寝ている。三人は彼を見ながらまだ何か話している。何をする気なんだ。
何を話しているかはわからない。ただ、オミのいびきだけが聞こえるだけだ。国道で車が絶えず通り過ぎていく音のように。ペットにするとか遺伝子データだとか言っていた。ってことはオミの体をあちこち調べたりいじくり回したりしようとしてるということか?
台の上のオミは、ここから見ると皿の上に乗せられたオムレツみたいだった。もっとよく見ると、呼吸に合わせて体がゆっくり上下にうごめいているがわかる。
生きているんだとわかる。そう、生きている。問題はこれからオミがどう生きていくかだ。
そっと物音を立てないように、僕は出て行った。
寝つけなかった。おじさんの言葉がよみがえった。オミはそのうち連れていかれることになるんだきっと。ペットだなんて。
ペット。僕も人間としてじゃなくてそういう目でオミを見ているんじゃないか?会話ができるにしても、オミを「可愛がって」いるだけなのだ。ニワトリだとか、猫みたいだとか。 
彼の本当の意思をくみ取っていないに違いない。オミは人間でもあるんだ。
オミは出たがっている。自由に外を飛び回ったり、おじさんや僕とじゃれながら生きたがっている。きっと。

「エリちゃんの機嫌、直さなくっていいのかよ。」
 秋人はエリちゃんとカオルちゃんと遊びに行っていた。日中は遠慮し、オミの変態が終わるのを見計らって夕方に電話した。
「多分、オミのお腹の中にまだあると思う。ドレイクの下剤、まだ残ってんだろ?」
 ドレイクとは、秋人の家で飼っているセントバーナード犬だ。父親は大変かわいがっていて、市販のケア用品をほぼすべてそろえているのだ。
「そー言うこと。でもうんこさせるなんてなんかイヤだなあ。アホ面と同じようなくっせえニオイ出しそうでさあ。明日でいいよ。明日いこ」
「だめだ!今からじゃなきゃ。僕一人でも行く。せいぜい女の子とラインでもやってろよ。んじゃあね!」
 僕は切るふりをしてやった。どう出るだろうか。
「まてまてまて。しゃーないなあ。でももう風呂入っちゃったよ。汚れそうじゃんか。なんかおごってくれよなあ」
団地の道路に虫の音が染み入っていく。夕闇が近づくここら一帯はそれ以外に音はせず、たまに車が通るだけだ。住人が散歩している。普段見ない僕らを見るその目はどこか不安定に揺れていた。日曜日に、よその子供が紛れてきたのを喜んでいないのはわかった。
 山道の両脇から垂れた笹は食欲旺盛という言葉を思わせるほど伸び盛りで、体に当たると、その張りを感じる。体が過ぎればぴんとしなり、ざわあ、と音を立てる。
「どやって逃がすっての?方法は?」
秋人はめんどくさそうに言った。けど目がるんるんと輝いている。まるで授業のボイコットを計画しているかのようだ。一人より二人のほうがいい。それに、もしかしたら当分秋人と遊ばなくなるかもしれない。その前に彼と何かをしたかった。
あの日以来だ。顔を合わせるのは。あの時、帰っていった二人の後ろ姿が忘れられない。本当に秋人は楽しそうだった。
実をいうと今、胸のつかえが取れたような気分なのだ。ものすごく。
秋人は、たぶんこのままグループから離れていく。けど別にそれでいいんじゃないか。
オミと一緒だ。周りが自分たちの都合で引き止めたり、都合よく本人行く道を決めたり、挙句に体をいじくったりお金儲けのためにどこか遠くへ連れて行こうとしたりする。本人の意思を無視して。おじさんはオミを守るためだなんて言ってたけど、じゃあなんでトウシカとかいう人たちの言うことを聞いてまでオミのコピーを作ろうとするんだ。
オミを自由にすればもしかしたら彼は僕から離れていくかもしれない。それでも。
「ああ、もう終わったよ。上がってくれ」
 宝田が入れてくれた。おじさんはいない。中国だろうか。二階に上がると女の人がパソコンに何かを打ち込むのに集中する姿。そそくさと後ろを通り過ぎた。
「オミっ」
僕は彼の耳の穴をくすぐってやるような声で言った。オミはオレンジ色の日が差し込む中、寝ていた。すぅーすぅー、という静かな寝息だった。時たま、くぅ、くう、になる。
「起きろって」秋人が舌打ちした。ケージの中のオミはとても安らかな寝顔だ。
 声のボリュームを上げて呼びかけた。オミの上向きで、少しひしゃげたような耳がぴく、と反応した。肌色はほんのり赤く日焼けしているのがわかる。
「おにちゃん?」おみがぱちっと目を開けた。丸まった繭みたいな体から、細い枝のように突き出た2本の脚が振動して止まった。
「僕だよオミ。起きて」
「やだ。おねむなのー。いっぱいおくすりのんだの。ぼーっとしててオミ、元気ないの」
オミは目を、呼吸に合わせてゆっくり開け閉めする。僕はケージに手を入れようとした。
 そのとき、「起きろ!ガキ!」、と秋人ががなった。
「あっ、おにちゃん?お月さまのおにちゃんなのー?」
 やっぱりこいつは秋人が好きなのか。まあいい。僕のことは秋人以上に好きなはずなんだから。オミはよろよろと羽を広げた。栗毛がパサついていて大きめの鼻がヒクヒクしだした。
 そして四つん這いになってゆっくりのろのろ顔を上げる。
「わー!」
 いきなり立ち上がった。羽を大きく広げて孔雀みたいに花開いた。
「なんでいるのー。おにちゃんオミにあいたかったのー。あいたかったのー!」
 ぱっ、と顔を輝かせて目をぱちぱちさせている。フローリングの床が夕日を反射してそれがいっそうオミの顔をまばゆく見せていた。僕はケージの前でかがみ、そしてひざまずいた。
「オミ、開けるよ」
「ほんとー!」また目をぱちぱちさせた。激しく。直後秋人がうおっ!驚いた。僕はオミのそれを見たとき、脳みその底からじわじわ熱が広がっていくのを感じた。
 オミの目が、次第に赤くともっていく。と、思ったら今度はゆっくりピンクに変わってゆく。ピンクが落ち着いたあとには濃くなり、紫へと変わっていく。今度は青くなり、緑にかわる。そして黄色、オレンジになる。オレンジから赤へと戻り、その七色を繰り返しともし続けているのだ。
「きれいだな。もっとやってくれよオミ」秋人が初めてオミ、と呼んだ。
「うわー!おにちゃんオミって言ったのー。言ったのー!」オミはそれを何よりうれしがった。僕もうれしかった。嫉妬なんかじゃない。秋人がオミを認めてくれたのだ。
「しゅったあーん」ばさばさと羽音が立った。オミは宙返りして天井にぶら下がった。
「おにちゃん、お月さまほしーのー。オミねー。毎日食べてんだあー。いっつも吐いちゃうの。でもお月さまなくなんないの。なんでー。だからお月さまちょっとこわいの」
 秋人の顔がゆるんだ。しめた!いけるぞこれは。消化されないということまでオミには理解できない。それを怖がるのは当然だ。
「でもお月さまオミのことだいすきなの。お月さま、おにちゃんにあげちゃうと、おにちゃんきてくれなくなるのー」
「あほっ!来てやるっての!オメー、いつかしばき倒してやるんだからな。なー。もうあきたんだろ?返してくれよ」
「もっとお友達つれてきてくれるーっ」甘えだした。調子に乗ってるような口ぶりだ。動物のことはあきらめたんだろうか。
「連れてくればいいんだろ?ケイタ。別にいいだろ?」
 オミが、もし戻って来てくれるなら。
「ほんとー!」またガシャガシャ、を始めた。左右の羽を小刻みに揺らしはね続ける。

「静かにしろアホ。んでさ。こいつをな、飲んでもらう」秋人は緑のラベルが張られた白いボトルを袋から取り出した。下剤だ。英語がびっしり書かれたラベルは毒物にも見えなくはないけど、そうでなくてもオミは嫌がりそうだ。
 ふたを開け、秋人は部屋の隅にある机に2粒転がして袋にくるんだスマートフォンの角で砕き始めた左手を机に添えて右手で粉になった下剤をゆっくり押して左手に乗せる。
 オミは準備をするように情けなく口を大きく開けた。口角を広げ、垂れた大きな目を思いきりむいて、なにーなにー、とうめく。僕はケージの扉を開けてやった。オミがちょこちょこした足取りで公園の鳩みたいな動きをしながら出てくる。7さいの子供のつやつやした肌色が、窓からの太陽の残り火の中に照らし出される。恥ずかしがっているようだった。
「口開けるんだオミ」秋人がオミ、と強調した。秋人はさすがにうまい。エリちゃんたちを夢中にさせることができるのは納得だ。コウモリ小僧まで虜にするのだから。そこだけが僕は悔しかった。
秋人はオミの丸いあごを右手でつかんだ。するとオミが口を閉じた。なんでだ。
「おくすりやだー」
 多分今まで、いろんな薬を与えられてきたのだ。警戒心が口元にあらわれていた。うすい唇をとんがらせ、口笛を吹きそうな顔で秋人と僕を見回す。鼻筋が普通の子供のそれのように見えているが、とぼけたように鼻の穴を広げたりすぼめたりしている。怖いのか。
「たのむって!」
秋人はとうとうオミの前でひざまずいた。それは、ネックレスのためだけじゃない。たぶん。おそらく、僕を立ててくれているのだ。僕は秋人を見直しそうだった。
 考えてみれば、きょう電話に出てくれたのだってそういうことだったんだ。もっとも、勝手な解釈かもしれないが。けど秋人が今、ここまでしてくれているのだ。それは事実だ。
「おにちゃん、オミのことすきー」
 オミが不機嫌な声で言う。秋人はしょうがないというように無言でうなづく。オミはぱかっ、と口をまた大きく開いた。鳥の赤ちゃんのように。耳まで開きそうな口は相変わらず悪魔みたいだけれど。あーん、とふざけた声を出し上目で秋人を見た。
「そのままだぜ。そのまま」秋人は今度は、オミの下あごをやさしくなでた。力をこめずに。
 オミの目が、僕がした時の同じようにとろん、となった。満足げに。舌にパラパラと白い粉が落ちた。秋人はやっと終わったとばかりにパンパンと手を払って手のひらから粉を落とした。オミの、産毛にまとわれた喉がばこっと膨らみ、すぐに戻った。
「にがいのー!」
 15分くらいたった後、ううーっ!とオミがうなり始めた。「見たらだめなのー」
 お腹をおさえてケージの中に入っていく。ぎゅるぎゅると、くぐもった音が確かに聞こえる。隅に横たわってみないでー、繰り返す。恥ずかしいのかやっぱりぎゅるぎゅる中においてあるペットシーツをぐしゃぐしゃにし出した。パニックになっているじゃないか。かん高くわめいたあと急に覚悟を決めたように目をカッと開いた。
 いつかみたいに両足をピタッとくっつけて、しゃんと立ったあと右の翼を上げた。
「うんこー!」甘え声でオミは叫んだ。またか!すっとぼけた顔と声。もしやこれが排便のサインなんだろうか。右の翼を1秒くらい挙げ、またおろし、そしてまた上げる。これを繰り返している。
「砂がいいのー!」猫かっやっぱり。僕は部屋を出た。
「うそ。明日のはずよ」女の人はバケットを出してくれていた。彼女に、これからオミを逃がすのだかと言ったら僕はどうなるだろう。とっさに僕はうそをついた。
「はい。でもしたあとはまた寝るって言ってましたから。だから僕たちが子守歌っていうか、寝かしつけてやってもいいですか?」
「ほんとオミのこと気に入ってくれてるのねえ。別にいいわよ」
「すいません」
 笑顔が僕にはつらかった。嘘をついてしまったことも。
「ほら」バケットをケージの中に置いた。我慢しきれないという顔で秋人に助けを求めるようにうるうる目を震わせている。泣きそうだ。
「見たらだめー」狂ったように叫ぶ。がさがさ砂をかく音が絶えず鳴っている。
 まずニオイがした。そして音がした。終わると何もなかったかのように彼は鼻歌を歌い出した。さっきまで泣きそうな顔をしていたのにげんきんなやつめ。
「げえ」秋人がケージに近づいてから声を漏らした。かちゃん。
「お月さま」オミはなんと、自ら「あれ」を掘って、ネックレスを拾い上げていた!
 ちっちゃなツメにシルバーのチェーンがひっかかっていた。秋人がケージを開けた。
「うううー」荒波のように顔を波打たせた秋人の目の前でネックレスが揺れている。恐る恐るネックレスを嗅いだ。爆発が起きた。もちろん秋人の顔のことだ。
「しょうがねー。オミ、そのシーツよこせ」臭うネックレスをズタボロのペットシーツにくんで秋人はポケットに入れた。完了。
 このまま強引に玄関から出ていくか。窓から出してやるか。とうに空は暗くなっていて、月も出ていた。「オミ、出よう。外に行くんだ」
 僕はケージの入り口に向けて両手を広げて伸ばした。手招いた。するとペンギンみたいにペタペタと素早く出てきた。
「オミ、夜出ちゃダメなのー。パパがおこるの。おばちゃんもおいちゃんもおこるのー。でてったらねー。ごはんもらえないのー」
 おばちゃんはあの女の人で、おいちゃんは宝田だ。
「何言ってんだよ。オミは自由なんだ。飛べるんだって!」
「でもー」オミは迷いだした。急なことでどうしたらいいのかわからないみたいに。
「いいっつてんじゃんか!めんどくせえやつだなほんとに。出たかったんだろーが」
秋人がイラつきを爆発させた。「おにちゃん一緒―?」
「あたりまえだよ」
けどそのときドアが開いた。
「そういうこと」
 彼女は怒ってはいなかった。ただ、目がいつもより冷たく見える。
「気持ちはね、ほんとにわかるのよ。獣害って知ってる?畑荒らしたり、ごみを荒らしたり
カラスとかがそうね。この子は間違いなくやらかすわ。それだけじゃない。動物が、今度は本当に敵になるのよ。下のあの子たちを見たでしょ?」
僕たちは黙り込んだ。オミは50センチくらいの高さで、飛ぶ練習をしているのかうんしょ、うんしょとつぶやいて低空飛行をしている。
「だけど、おじさんは狩りはできるって」
「食べていけるぐらいの狩猟はね。そうじゃなくて外敵が増えるっていってなかった?」
「だけどオミは」
「ダメ。ネックレス戻ってきたんでしょ?じゃあ、もう帰ってくれない?それから、こんなことするんならもう来ないで。だましたってことよね私たちを」
 何も言えない。このまま帰るしかないのか。そんな。オミは遠くに行っちゃうっていうのか。どうすればいいんだ。
「やだー!」いきなりオミが空中で叫んだ。彼女にすがるように近づいてゆく。
「おにちゃんくるの!これからもいっぱくるのー。いっぱいオミのともだちつれてくるのー。やだあー!」
 オミは彼女の頭をの上あたりまで飛んだ。心なしか、前より翼か力強くなっている気がする。暴れた分だけ筋肉がついたんだろうか。僕はとっさに行動していた。空中で必死にもがくオミの横に立った。
「ガキ!お前なんか嫌いだよ!調子に乗りやがって!秋人にぶたれりゃいいって何度思ったことか!キモチワルイ化け物!なんだよ、のーっ、て。自分のことオミオミって。はずかしいんだよ。お前のことなんかただ単におちょくってやっただけだったんだ!」
 秋人が唖然となって僕を見た。女の人も何が起こったのかわからないような顔になっていた。そして肝心のコウモリ君は。
 目が赤く光っていた。そしてぼろぼろ涙をあふれさせている。床にぼとぼと流れ落ちる。
 仕上げに言ってやる。「くっさいんだよ!クソガキが!」実際僕は被害にあったし。
 殺虫剤をぶっかけてやったハチのように暴れ出すオミ。ぶっとい羽音を立てて空中をのたうち回る。目が点滅し、部屋の中はパトカーのランプのような、警報ベルが鳴り狂っているかのようなそんな有様になった。けどまだ僕の目的は果たせていない。
「ぼびヴぁ、ぎらびあおー!」よし。超音波発生だ。
「なんだよこれ!」秋人が耳をふさぐ。女の人も耳をふさぐ。僕はオミを手招く。一つしかない窓のほうに。
「来いよ化け物!下着ドロボーでもやってろ!畑荒らしなんてしたら秋人と一緒にしばきに行ってやるからな!」
「ぼぎぢゅあーん!」おにちゃーんだこれは。オミ。ごめんな。これしかないんだ。
 オミが暴れることになれば、脱出できるかと思ったのだ。賭けだった。心は当然痛んだ。
 予想していたことだったけどやっぱり窓に鍵はかかっていた。けどあと一押しかもしれない。現にガラスが、規則正しい間隔で振動を繰り返している。
 「何やってんだよ!気持ちワルイしゃべり方しやがって。顔だってふにゃふにゃしてて醜いし。大体その歯並びは何なんだよ!誰も、だれもお前なんか好いちゃくれないんだよ!
化け物コウモリが!なんで僕がお前の友達なんかやらなくちゃいけないんだっ!」
 言い過ぎたかもしれない。バタバタ羽を振り回し、顔中涙でべた濡らし、そして超音波を狂ったようにまき散らすオミは死に物狂いでこう叫んだ。
「おみはおにぢゃんがずぎなのー!」突風のような衝撃が僕を襲った。背後の窓ガラスがみしぃ、と笑うように音を上げた。直後、破裂音がした。
 やった。僕は破片を踏まないように窓にそっと近づいた。そして片手で早くいけ!と大きく振って合図した。けど急にわき腹に衝撃を感じた。涙でべとついている。
 オミが、宙に浮きながら顔を押し付けてくる。ぐりぐりと。栗毛を強く押し付け、翼で僕を抱きしめようと躍起になっている。僕は涙があふれるのを感じながらオミを振り払おうと踏ん張った。足で破片を踏んでしまった。痛さなんて感じてはいても気にならなかった。
「ぼにぢゅあーん!」そう叫ぶオミを僕は窓の外へ引っ張り、空中で手を離した。それから、秋人の手を引いて部屋を出た。階段を下りた。動物たちの咆哮と絶叫が吹き荒れる中、通路を走り抜けた。靴を履いて外に出た。
「オミ!」僕は叫んだ。オミの姿が見えなかった。秋人が杉林に走っていった。
「なんなんだ!何やったんだ一体」宝田が出てきた。僕に詰め寄る。僕は空にオミを探した。秋人が走ってこっちにやってくる。宝田と僕の間に入った。その直後、鋭い音が夜を裂いた。
 見えた。月のシルエットの中で羽を広げるあいつが。声が弱まっていた。聞き取れるくらいまで次第に落ち着いていく。
「おぢゅぎじゃまあー!」
 ばさばさと羽を仰ぎ続けて月の方向へと向かっていく。オミ、また戻ってくるんだよ。
 僕は彼を見上げ続けた。下着、いや服泥棒をうまくしてくれたらいいなと思いながら。
朝が来て、素っ裸になってしまう前に。僕はあの時あいつに負けないくらい叫び倒していたはずなのだ。伝わっているといいけど。
「オミー」
僕は月に手を伸ばした。帰る場所は、ここかもしれないし今から見つけることになるのかもしれない。でも、また戻ってくるんだ。必ず。
オミが旋回した。僕を見つけたようだ。隕石のような姿勢でまっしぐらに降下してくる。
宝田を振り切って、僕は明人と二人で同時に駆け出した。青い夜空の下、山道まで一気にダッシュした。
僕たちは走り続けた。月明かりが照らす足元の地面を、コウモリの影が過ぎ去っていった。僕たちの頭上を追い抜いて行った。
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