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6話

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手すりに寄り掛かり、タバコを吸う。
文哉も、背広の内ポケットから、タバコを取り出して、私の隣で吸い始めた。
どっか行って欲しいのに…。

「最近、元気ないんだって?」

「別に。そんな事ありません」

こんな時、どんな顔すれば良いの?

「…前みたいに笑ってくれよ」

やめてよ。

「愛菜の笑った顔、可愛いんだからさ」

もうやめて。

「愛菜。なぁ~愛菜」

「やめて!!」

虚しい叫び声が、壁を使って反響する。
苦しくて。
哀しくて。
切なくて。
泣きたい。
どうしようもないのに、あの時と変わらない声で、名前を呼ばないで。
こんな時、彼が居てくれたら…。

「…お願いだから…一人にして下さい…」

声が震えてる。
私って、こんな弱かった?
こんなことで、泣きそうになるなんて。
ホント、私って情けない。
でも、これくらい拒絶したら、流石にどっか行くでしょ。
でも、文哉は、離れようとしない。

「俺さ。こっちに戻って来る事になったんだ」

だから、何だって言うの。
もう終わってるのに。

「それで、交換って形で、一人、向こうに行ってもらう」

だったら、何だって言うのよ。
私が行けって言いたいの?

「七瀬に行ってもらえないかと思ってさ」

なら、七瀬に話せば良いじゃん。
なんで、私に言うのよ。

「…離婚する事になった」

うそ。
そんなことある?
だって、すごく仲良さそうだったじゃん。

「やっと見てくれた」

やってしまった。
反射的に、文哉を見てしまった。
嬉しそうな文哉。
胸の奥が、ジンジンする。
今更、なんなのよ。

「俺、ずっと後悔してた」

嬉しくない。
そんなこと、今更言われても嬉しくない。

「いくら、教授の娘だからって、勝手に結婚してさ」

悔しい。
こんな簡単に、隙間に入ってこられて、悔しい。

「愛菜の事、傷付けたよな?」

やっと、傷が癒えたの。
もう、どうでもいい程、楽しくやってたの。

「ホント、悪かった」

琢君に出会って、笑っていられる生活になったのに。
今更、壊されたくない。
でも、琢君には、甘えられない。

「また、一緒に仕事しよう?」

どうして、私が弱ると優しくするのよ。
どうして、私が苦しくなると現れるのよ。
どうして、私なのよ。

「って、泣くなよ。そんな嬉しいか?」

戻って来るとか。
傷付けたとか。
一緒に仕事しようとか。
そんな事、言わないでよ。
忘れてたかったのに。

「よしよし」

文哉の手が、私の頭に乗せられ、優しく撫でられた。
本当は、払い除けたい。
でも出来ない。

「募る話もあるし、今度、飯でも食いながら、沢山、話そう。な?」


今の私は、そうする事が出来ない程、琢君の事で弱っていた。
琢君…。
助けてよ。
会いたいよ。
琢君…。

「そ連絡先教えてよ。余裕が出来たら、連絡するからさ」

「研究室か講師室にいますから、そちらにご連絡下さい」

ダメだ。
このままじゃ、絶対にダメ。
また同じになる。
違う。
今度は、確実に、立ち直れなくなる。
タバコの火を灰皿に押し付けた。
この手から逃れる為に、小走りで、講師室に戻った。

「また、すごい顔になってるね?」

講師室のドアを開けると、七瀬が、バカにしたような顔をしていた。
分かってるよ。
涙も拭かないで走ったもん。

「うるさい…バカ七瀬…」

普段なら考えられない程、精神的に荒れている。
優秀な七瀬なら、一目で分かる。

「話す?」

奥の部屋を指差して、七瀬は、困ったような顔をした。
ダメだ。
こんなこと話しても、私が動かなきゃ、何も解決しない。
それに、七瀬に甘えてばかりいられない。
私は、手で、涙を拭って、首を横に振った。

「話せば楽になるんでしょ?」

前に私が言った事。
人は、何かあっても、ちゃんと、自分の中で処理して、平常を保とうとする。
だけど、それには、許容量があって、それを越えてしまうと、心と体が、分離を始める。
そうなる前に、誰かに話したり、声に出す事で、それを防げる。

「七瀬に聞かせるくらいなら、自分でなんとかする」

「ボロボロに泣いてて、そんな事言っても、なんともならないでしょ。去年みたいになる前に、さっさと終わらせるよ」

手を掴まれ、引っ張られたが、私は、その場から動かなかった。

「愛。いい加減…」

「七瀬。フィールドワーク行くの?」

七瀬の顔が強張った。

「行くの?」

親友が遠くに行ってしまう。
七瀬も離れてしまう。
更に、苦しくなった。

「…まだ行くって言ってないよ」

溜め息をついたと思うと、予想と違う答えが返ってきた。

「なんで、知ってるの?」

「…佐藤さんが…言ってた…」

七瀬は、また溜め息をついて、手を引っ張った。
七瀬の答えで、気が抜けてたみたい。
足が、ガクンってなって、七瀬の腕に支えられた。

「愛菜。君が、しっかりしなきゃ、僕は、安心できないよ」

七瀬の声が、荒れていた感情を落ち着けようとしてくれてる。

「僕は、そんな無責任な人間?」

顔を振ると、優しい眼差しが、私を見下ろしていた。

「親友なら、僕の事分かってるでしょ?」

涙が引いていく。
そうだよね。
七瀬は、そんな人じゃないよね。
…よかった。
七瀬と親友やってて。

「やる事やろうよ。それから、決めても遅くないから」

さっきと違う涙が溢れ出す。
文哉のせいで、悔しくて苦しくて、どうしようもなかったのに。
七瀬の自然な優しさが、それを消してくれる。

「ありがと」

「にしても、ひどい顔」

泣き顔のまま、ニッコリ笑うと、七瀬に、またバカにされた。
ホントこいつは…。

「うるさい。バカ七瀬」

「その顔、彼に送ってあげたら?」

「イヤだよ。カッコ悪い」

「そうやって、カッコつけても仕方ないんじゃない?」

「分かってるよ。バカ七瀬」

「今更、暴言吐かないでくれる?」

普段と変わらない会話。
でも、普段とは違う。
七瀬に支えられて、私が泣いてるってこと。
一人だったら、こんな風になれなかった。
ありがとう七瀬。
本当にありがとう。
でも、私が笑って過ごすには、文哉の事や仕事よりも、琢君の誤解を解いて、修復しなきゃ。
それが、今の私がやらなきゃない事ね。
私は、涙を乱暴に拭き、スマホを取り出して、メッセージを送った。

《会って話したい》

読んでもらえなくても、私の真っ直ぐな気持ちを送ろう。
大人になってから、人を好きになるって、色んな障害があって、結構大変。
ほとんどは、諦めちゃう。
文哉の時は諦めた。
でも、今は、あの楽しい時間を諦めたくない。
もう諦めないよ。
絶対諦めないもん。
また聞かせてよ。
琢君(アナタ)の声で、色んな話を…。
また、笑わせてよ。
琢君と一緒に笑いたいよ。
何があっても、琢君と一緒に笑ってたいの。
だいぶ、年下だけど、素直で真っ直ぐで頑張り屋の琢君。
私は、琢君の隣に居たいんだよ。
かなり年上だけど、もう諦めないからね。
あのメッセージを送ってからも、なんの進展もない。
読んでくれてるかも分からない。
でも、琢君の気が向いたら、話が出来れば、それでいい。
花火を見た日。
なんで
話さなかった事を強く後悔してる。
なんで、ちゃんと話さなかったんだろう。
あの時、ちゃんと話さなかったんだろう。
幼い頃の事も。
文哉の事も。
全部話してたら、こんな状態にならなかったかな。

「とりあえず、迎えにでも行ってみたら?」

そんな日々を過ごしてたら、七瀬に提案された。
だよね。
こうゆう時は、行動あるのみ。
それから、仕事が早く終わった日には、校門の前で待ってみることにした。
でも、会えない。
てか、学校来てるのかな。
いや。
負けないもん。
絶対、捕まえるんだから。
今日も校門の前で、琢君の姿を探す。

「アンタ…確か、琢の…」

そこに、琢君と一緒に勉強していた先輩の二人組が、他の生徒と混じって現れた。

「愛菜ちゃんじゃ~ん。元気?」

「お前、目上にちゃん付けってどうなんだよ」

テンポの良い会話。
前と変わらない二人組。
そんな二人に、私は、ちょっとホッとした。
…ちょっと待って。
これってチャンスじゃない?
こうなれば、使えるものは、後輩だろうが、先輩だろうが使わないと。

「ねぇ。琢君、知らない?」

そんな二人に向かって、琢君の事を聞いたら、一瞬、片眉がピクッて動いてた。

「さぁ。迅は?」

「さぁな。もう帰ったんじゃね?」

何かを隠してる。
その時、気付ければ、少しは変われたのかもしれない。
でも、この時の私は、気付けなかった。

「そっか…有難う」

それを気付くことが出来ない程、私は弱ってた。
なんでも使えなんて、勢いに任せて聞いたから、余計分からなかった。

「それじゃ、気を付けてね」

二人に別れを告げて、車に乗り込んだ。
シートベルトを着けると、迅君が、窓ガラスをノックした。
なんだろ?
あ。
そうね。
とりあえず、窓開けなきゃね。

「アイツは、アイツで考えてるから」

いつもキツい迅君の口調が、柔らかく優しい。

「バカだけど、ちゃんと分かってるから」

一緒にいる時間が長い分、私よりも、彼らの方が、琢君の事を良く知ってるんだな。

「そうそう。だから、もう少し待ってやってよ。ね?」

無愛想な迅君に代わり、猛君が、ニコニコして笑って、私の重たかった肩が、少しだけ軽くなった気がした。
そうだよね。
琢君も、色々考えてるよね。
でもさ。
話して欲しいな。
私も、ちゃんと話すから。
どんなこと考えてるのか。
聞きたいな。

「…有難う。それじゃまたね?ばいば~い」

車を発進させた。
一瞬でも、ルームミラー見ればよかった。
そしたら、二人に呼ばれて、校門から、琢君が、出てきたのも分かったのに…。
苦しそうな顔をしていたのも、分かってあげれたのに…。
そのまま、自宅に向かって、車を走らせてしまった。
次の日からも、琢君からの連絡を待った。
スマホを気にしながらも、二人に言われたことに、ちょっと落ち着けた。
だから、次第に溜め息の数が減って、本来あるべき姿へと戻れた。
でも、時々、その反動で、息苦しくなった。
そんな中、冬期休講が近付いた。
学生たちは、レポートや論文の提出で忙しくなる。
そうすると、私たちの仕事も増える。
忙しい教授に代わって、提出の受付をしていたり、採点したり、レポートの確認したり…。
名簿にチェックをして、未提出の学生には、声を掛けて、提出を促したりで、やる事満載。
それが、文哉から、意識を反らしてくれた。
今日も一人。
未提出の学生に声を掛けると、レポートを自宅に忘れてしまったらしい。
なら、明日でもいいのに。

「…なんで?なんで、私まで一緒に待たなきゃないの?」

「だって、来たらすぐ渡せるじゃん?」

そんな理由で、学生とベンチに並んで座って、レポートが届くのを待つなんて…。
一応、私、准教授なんだけど。
まぁいいや。
てか、この子、誰かに似てる気がするんだよね。
誰だろう?
…分かんない。
てか、こんな時間に、誰に頼んだんだろう?
お母さんかな?
そしたら、もう来ててもいいよね?

「誰に頼んだの?」

「弟」

「へぇ。兄弟いたんだね」

「あぁ。それなんだけどさ。二人いるんだけど、今、頼んだ高一の弟。バカだったんだけど、今じゃすげぇんだ。前までは、喧嘩ばかりで、勉強なんて、家でしなかったんだけど、最近は、夜、遅くまで電気が点いてて、部屋を覗くと、机に噛み付くように、勉強しているみたいなんだよね」

そういえば、琢君も、最初は、そんな感じだったらしいんだよね。
今も頑張ってるのかな。
また教えてあげたいな。
素直に聞いて、なんでも吸収してくれるから、楽しいんだよね。
…会いたいな。

「相変わらず、喧嘩は、してるみたいなんだけどね」

ん?
なんか、琢君っぽいんだけど…。
でも、まさかね。

「ダメじゃん。てかさ…その子って…」

「な~に話してんの?」

学生の弟話を聞いてて、ちょっと期待して、聞こうとしたのに。
なんで、文哉が現れるのよ。
しかも、顔近いし。

「ただの世間話です。ちょっと、一服してくるね」

文哉から離れたくて、その横を通り過ぎようとした。
でも、腕を掴まれ、それは、阻まれてしまった。

「なんですか」

「それ、こっちのセリフ。なんで、避けるの?」

「避けてません。離してください」

「理由、教えてくれるならね」

「離してください」

「じゃ、話してよ」

「嫌です。離してください」

「そう言うなって」

私は、本気で拒絶してるつもりなのに、文哉の対応で、じゃれ合ってると、周りに勘違いさせたらしい。
学生の視線が冷たい。
ふざけないでよ。
もう終わってんだから。
これ以上、誤解されるわけにはいかないの。
殴ってでも、やめさせなきゃ。

「公衆の面前で、セクハラは、やめて頂けませんか?佐藤先生」

講師室から、文哉に捕まったのが見えたみたい。
七瀬が、急いで助けに来てくれた。
よかった。
殴る前で。

「七瀬。俺が、いつ、セクハラなんてしたよ」

「今ですよ。佐藤先生」

文哉の腕を七瀬が掴んだ。

「昔の女に触る事が、セクハラなら、世の中、セクハラだらけだろ」

なんじゃ、その理屈は。

「時と場合を考えてくださいよ。愛菜は、嫌がってるんですから」

「本気で嫌なら、ビンタでも、蹴りでも喰らわせれば良いだろ」

本当にやるよ?
パーじゃなくて、グーでいくよ?
グーで。

「愛菜は、そんな事しない。昔の女なら、知ってますよね?」

はい。
そうですね。
そうですよね。
やっちゃダメですよね。

「さぁな。七瀬、いい加減離せ」

「先生が離したら離しますよ」

醜い。
本当、醜い。
そんな醜いやり取りに巻き込まれた。
…違う。
巻き込んだのは私自身。
私が、七瀬を巻き込んだんだよね。
ごめん。

「お。来た」

そんな状況の中、学生は、弟を見付けたらしく、ベンチから立ち上がって、頭上高く手を挙げた。

「おーーい!!」

…うそ。
うそでしょ?
会いたくて、あんなに必死になってたのに。
なんで、今なの。
見られたくなかったよ。
こんなところ…。

「琢君…」

琢君は、持っていたレポートも渡さないで、来た道を走って戻って行く。

「あ!!おい!!琢!!」

「琢君!!待って!!」

文哉の手を払い除けて、琢君を追って、私も走り出した。
その状況に、学生は、何度も瞬きした。

「君。確か、2年だったよね?名前は?」

「藤城っすけど…」

初めて知った。
琢君の兄が、私が講師をしてる大学に居たのを。
学生だったことを…。
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