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爺さん

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お嬢が、イケメンのジャン君とやらと歌劇に出かけるという。

もちろん、俺は留守番をするわけだが、寂しくも何ともない。一応、悲しそうな声で鳴いて、お嬢を振り向かせはしたが、演技である。

犬も、気を遣うのだ。

召使いどもが屋敷の中で働いているが、俺に指図を出せる者などいない。なぜなら、とってもお利口である俺は、彼等に叱られることなどないからだ。

トイレも外の庭で済ませる。

食事も用意されるまで催促しない。

命じられたコマンドは、間違いなくできる。

完璧な犬である。

「お嬢様は、とても躾がお上手なのねぇ」

今も俺を見て、そう感嘆する給使のリタ。

当たり前だ。魔王様だぞ?

俺は、ご褒美の犬用サラミを齧りながら歩き、ご機嫌に書庫へと向かう。

白昼堂々と機会が来るなんて思わなかった。歌劇は夜に開演らしいが、スケベ心のジャン君は、昼間からお嬢を連れ出し、関係を深めたいと目論んでいるに違いない……デートというやつだ。

書庫の前に立った俺は、大きな扉を見上げ、次に周囲を窺う。

誰もいない。

絶好の機会。

開錠クリア

ガチャリ。

心地よい音である。

だが、ここで問題が発生した。

押しても、開かないのだ!

引くタイプか!? 

俺は、前足で扉をカカカカカカッとする。

開かない。

扉を見上げる。

ノブがある。

なるほど、あれを回さねばならんようだな。

無理だ。

俺のこの愛らしい前足は、そのようなことができない構造である。

諦められない俺は、右前脚だけで扉をガリガリとする。

駄目だ……。

ええい! 腹立たしい!

「アオーオ! アオー!!」

……いかん。

思わず吠えてしまった。

足音が聞こえ始めた。それは間違いなく近づいて来る。

隠れねば!

周囲を見渡し、壁際に等間隔で並んでいる柱の陰に身を隠した。壁に頭を向け、蹲る。

呼吸すら止めた。

「ロイ、あんた、何やってんの?」

クレアだ……。

「前もそうやって、丸くなってたよね?」

彼女に抱きかかえられた俺は、じっと見つめられ目を逸らした。

「あんた……私の言葉、わかるの?」

この女、始末すべきか? いや、お嬢の侍女だ。それはまずい。ここはとりあえず、誤魔化そう。

俺は考えた結果、顔を近づけ覗き込んできた彼女の口を、ペロリとしてやった。

「ひぃああああ!」

クレアの手から放り投げられ、俺は空を飛ぶ。

もちろん、華麗に一回転して着地……できない!

「キャイーン!」

痛い。

尻が痛い……。

「ごめん! 怪我してない?」

駆け寄るクレアを睨む。

貴様は、怒らせてはいけない相手を怒らせたのだ!

俺が魔法を発動しようとした時、書庫の扉が開いた。

……!

首を傾げた俺の先では、書庫の扉から半身の老人が見えている。彼はこちらを窺っていた。

「騒がしいの。何じゃ?」
「ご隠居様、申し訳ありません」

爺、お前は中にいたなら、さっさと開けろと言ってやりたい。

レイチェル嬢の祖父、前ローダー侯爵のウィリアム老。

お嬢の両親は滅多にこの屋敷には来ない。忙しいようだ。その両親に代わり、レイチェル嬢と暮らしているのがこの爺さんである。

「扉をカリカリしてたんは、コイツか?」

爺が俺を見る。

俺は、尻尾を振ってやった。

「クレア、ちょうどえかった。ブランデー持ってきてくれ」

爺の言葉に、クレアが一礼と共に反論する。

「申し訳ありません。侯爵様から、ご隠居へ酒類をお出しすることはきつく禁じられております」
「あいつはほとんどいないんだ。秘密にしてればええんじゃ」

我儘な爺だ。

だが、関係ない。

今のうちに、書庫へと侵入する。

さも当然といった態度で、俺が書庫へと入ろうとした。しかし、爺に尻尾を掴まれる。

「お前、図々しい奴じゃな」

……尻尾は弱い。

ゾワゾワして力が入らないんです。

離してくれ……ああ……噛みついて逃げよう。

パッと離された。

俺は、今しかないとヨロヨロしながら書庫に逃げ込む。

「ロイ! 駄目よ!」

クレアの声も無視だ!

「ええよ。本を取ってこさせる芸を仕込んでやれば、使える」

爺がそう言って、彼女に「酒、持ってこい」と続けると扉を閉めた。

俺は、書庫の中にいる。

目の前に、背の低い髭面の爺がいるのが計算外だが、許容範囲だ。

魔法をかけて眠らせてやろう。

後は、俺の自由時間だ!

怠惰睡眠カウント・シープ

魔法は一瞬で発動された。

しかし、それは爺によって防がれる!

爺は、目を細めて俺を見つめ、口を開いた。

「おい……何者じゃ?」
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