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【番外編】白い花の家
前編
葉月が桐生の屋敷に住むようになったのは大学2年の春、4月のことだった。
古めかしい木の門をくぐったとき、春風に乗って甘い匂いが香った。
何だろうと足を止め視線を彷徨わせた葉月は、白い大きな花が満開の樹木を目にした。
「白木蓮だ」
門前から葉月を案内してくれた若松が言った。
それが、自分が目にとめた樹木の名前だと気がつくのにしばらく時間がかかった。
「なんじゃ、立派な大学行っとるお人でも、植木の名前もわからんのかのう」
からかうように言うが、声の温度には温かみがあった。
父親が生きていた頃には親しい付き合いがあり、葉月自身も子供の頃に可愛がってもらった記憶がうっすらとある。
「わからないことばかりです」
恥じ入るように答えると、若松は笑って「わからんことはひとつずつ覚えていけばいい」と言った。
植木の名前のことではなく、これから葉月が進もうとしている世界のことを言っているのだろうと理解しながら、葉月は曖昧に微笑した。
***
広々とした玄関をあがると、部屋を囲うように庭に面した長い廊下が奥まで続いている。
それは真っ直ぐではなく、幾度か角があった。
何度か廊下を直角に曲がると、部屋の端の柱に凭れるように、長袖のトレーナーとジーンス姿の少年が立っていた。
平凡な服装でありながら、端整な顔立ちが人目を引く、はっとするような美しい少年だった。
葉月には、その少年が桐生捷三の一人息子だとすぐにわかった。
少年が背にしている柱の横には障子があり、その部屋の中から苛立った男の声が漏れてきた。
「これだけ言ってもわかってもらえんのか」
若松が立ち聞きを咎めるように少年を睨むと、彼は顔をそむけてその場を立ち去った。
「すまんが、坊の後を追って自己紹介をすませてくれんか。親父さんは立て込んでいる様子だから、後でな」
長い廊下はその先、別棟に繋がっていて、葉月は少年が中に入っていったドアをノックした。
中から「入れ」と返事があった。
広々とした洋室は年頃の少年の部屋にしてはかなり殺風景で、内庭に面した大きな窓から見える手入れの行き届いた日本庭園だけが艶やかに目に飛び込んできた。
しかしその窓の前に立つ少年の方がより華やかな存在感を持っている。
「今日からこちらでお世話になります、相川葉月です」
「今、誰が来ていると思う。地検の波多野だ。近いうちに大矢製薬に薬害法違反の容疑で強制捜査が入るらしい。大矢製薬の社長の水田が親父のところに泣きついてきた」
葉月の自己紹介に興味がないのか、それとも承知しているのか、少年は探るような目を向けていきなりそう話しかけて来た。
「そうですか。水田社長と会長は以前から親しい間柄だと聞いてます」
葉月は、少年の真意のわからぬまま話を合わせた。
「親父は波多野から検察の情報を聞き出そうとして手を焼いている。大金を積んだつもりが断られて恥をかいてたぜ。おまえなら、どうする」
「自分は波多野氏のことを知りません。答えようがない。ただ」
「ただ?」
「人の心を動かせるのが金だとは限らない。人によっては色だったり情だったり、或いは義理だったりするものでしょう」
「今時ヤクザものでも義理じゃ動かねえよ。波多野のことを調べろ。定期的に東南アジアに行ってないかどうか」
「わかりました。ですが…」
葉月は困ったように苦笑して言葉を続けた。
「オレはあなたに勉強を教えろと言われてます」
「綾瀬だ」
「え?」
聞いたこととは違う返事に戸惑うと、少年は二度言わされることにうんざりしたように言った。
「名前。綾瀬尚紀。呼ぶつもりなら綾瀬だけでいい」
桐生の一人息子は父親と違う姓を名乗っている。
そしてそのことに拘りをもっているらしい。
ある程度事情は理解していたので、葉月は「わかりました、綾瀬と呼びます」と答えた。
古めかしい木の門をくぐったとき、春風に乗って甘い匂いが香った。
何だろうと足を止め視線を彷徨わせた葉月は、白い大きな花が満開の樹木を目にした。
「白木蓮だ」
門前から葉月を案内してくれた若松が言った。
それが、自分が目にとめた樹木の名前だと気がつくのにしばらく時間がかかった。
「なんじゃ、立派な大学行っとるお人でも、植木の名前もわからんのかのう」
からかうように言うが、声の温度には温かみがあった。
父親が生きていた頃には親しい付き合いがあり、葉月自身も子供の頃に可愛がってもらった記憶がうっすらとある。
「わからないことばかりです」
恥じ入るように答えると、若松は笑って「わからんことはひとつずつ覚えていけばいい」と言った。
植木の名前のことではなく、これから葉月が進もうとしている世界のことを言っているのだろうと理解しながら、葉月は曖昧に微笑した。
***
広々とした玄関をあがると、部屋を囲うように庭に面した長い廊下が奥まで続いている。
それは真っ直ぐではなく、幾度か角があった。
何度か廊下を直角に曲がると、部屋の端の柱に凭れるように、長袖のトレーナーとジーンス姿の少年が立っていた。
平凡な服装でありながら、端整な顔立ちが人目を引く、はっとするような美しい少年だった。
葉月には、その少年が桐生捷三の一人息子だとすぐにわかった。
少年が背にしている柱の横には障子があり、その部屋の中から苛立った男の声が漏れてきた。
「これだけ言ってもわかってもらえんのか」
若松が立ち聞きを咎めるように少年を睨むと、彼は顔をそむけてその場を立ち去った。
「すまんが、坊の後を追って自己紹介をすませてくれんか。親父さんは立て込んでいる様子だから、後でな」
長い廊下はその先、別棟に繋がっていて、葉月は少年が中に入っていったドアをノックした。
中から「入れ」と返事があった。
広々とした洋室は年頃の少年の部屋にしてはかなり殺風景で、内庭に面した大きな窓から見える手入れの行き届いた日本庭園だけが艶やかに目に飛び込んできた。
しかしその窓の前に立つ少年の方がより華やかな存在感を持っている。
「今日からこちらでお世話になります、相川葉月です」
「今、誰が来ていると思う。地検の波多野だ。近いうちに大矢製薬に薬害法違反の容疑で強制捜査が入るらしい。大矢製薬の社長の水田が親父のところに泣きついてきた」
葉月の自己紹介に興味がないのか、それとも承知しているのか、少年は探るような目を向けていきなりそう話しかけて来た。
「そうですか。水田社長と会長は以前から親しい間柄だと聞いてます」
葉月は、少年の真意のわからぬまま話を合わせた。
「親父は波多野から検察の情報を聞き出そうとして手を焼いている。大金を積んだつもりが断られて恥をかいてたぜ。おまえなら、どうする」
「自分は波多野氏のことを知りません。答えようがない。ただ」
「ただ?」
「人の心を動かせるのが金だとは限らない。人によっては色だったり情だったり、或いは義理だったりするものでしょう」
「今時ヤクザものでも義理じゃ動かねえよ。波多野のことを調べろ。定期的に東南アジアに行ってないかどうか」
「わかりました。ですが…」
葉月は困ったように苦笑して言葉を続けた。
「オレはあなたに勉強を教えろと言われてます」
「綾瀬だ」
「え?」
聞いたこととは違う返事に戸惑うと、少年は二度言わされることにうんざりしたように言った。
「名前。綾瀬尚紀。呼ぶつもりなら綾瀬だけでいい」
桐生の一人息子は父親と違う姓を名乗っている。
そしてそのことに拘りをもっているらしい。
ある程度事情は理解していたので、葉月は「わかりました、綾瀬と呼びます」と答えた。
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