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【番外編】月を抱く
中編
心理学を専攻している女友達に相談すると、彼女はあっさりと言った。
「いるわよ、思春期に自慰の出来ない男の子って」
「また、どうして。そんなこと、誰でもしている、普通のことだろ」
「原因はいろいろあるわ。病的に潔癖症とか、性的虐待にあったりしたトラウマとか」
そう言われ、思い当たるふしはあった。
確かに、綾瀬は人に触られることを嫌がったし、自分から他人に触れることはない。
潔癖症には違いないと以前から気にはなっていた。
しかし原因が過去のトラウマにあるとしたら、厄介な問題だ。
「どうすればいい」
「さあ、私もそこまで専門じゃないから。一番いいのは、カウンセリングを受けることね。専門医に診てもらったら」
綾瀬がカウンセリングなど受けるはずがないことはわかっていた。
綾瀬のデリケートな秘密を知ってしまい、葉月は気が重かった。
そんな頃、綾瀬の担任から保護者の呼び出しがあり、その役はなぜか葉月に回ってきた。
保護者として学校を訪ねると、三十代の若い女の担任は葉月を見て、顔をしかめた。
「保護者をと、お呼出したのですが、お兄様ですか。綾瀬君に、ご兄弟がいることは聞いていませんでしたけど」
「いえ、兄のようなもの、です。すみません、綾瀬の父親が多忙で」
綾瀬の家庭の事情はもちろん承知しているのだろう、担任はそれ以上言っても仕方ないというように、溜息をひとつ吐いて見せて、葉月に着席を促した。
「綾瀬君の一学期の成績です。確か、明和高を希望していたと思いますが、これでは内申点は難しいです」
見せられた綾瀬の成績は、惨憺たるものだった。
葉月は驚いた。
「先生、これは何かの間違いではないでしょうか。綾瀬は、その…」
「ええ、頭は悪くないんでしょうね。中学に入ったときの一斉テストでは、かなり上位の成績をとっていました」
葉月は、綾瀬の勉強を見ることがあるため、綾瀬の頭の良さはよく知っていた。
「じゃあ、いったいこれはなんですか」
「ふざけているのか、反抗しているのか、私にもわかりませんけれど。ただ言えるのは、このままでは志望校への進学は難しい、ということです。とは言え私立の学校ですし、お家の方で、ご準備がおありなのでしたら、余計なことかもしれませんけれど」
女教師は、興味の薄い口調でそう言った。
綾瀬に学校での成績のことを問うと、綾瀬は平然と言った。
「学校の成績なんか、どうでもいいだろ」
「ですが、今のままでは明和への進学は難しいですよ」
「高校なんか、どこだっていい」
「どこでもいいなら、明和でいいじゃないですか。あそこは歩いても通えるくらい近いですし、スポーツも盛んで校風も爽やかです。しかも、男子の制服が今時珍しく、詰襟なんですよ」
綾瀬は不可解な表情で葉月を見る。
「それがどうした」
「きっと綾瀬に似合うと思います。学ラン姿の綾瀬を見たいと思いまして」
「馬鹿じゃねえの、おまえ」
少しくらい探りを入れたところで、綾瀬の心はわからない。
もしかしたら綾瀬自身、自分がしていることに理由なんてないのではないか。
綾瀬はただ、混沌の中にいる。
流されることを嫌い、流れに逆らうことに必死になって、結果を顧みない。
中途半端に反抗しても無駄だということを、理解していないはずはないのに。
「どちらにしろ、正門から入学出来そうにない場合は、別のルートで入るしかなくなる。あなたがどうしても裏から入りたいというなら、こんな情けない成績でも構いません。無駄金を惜しむ親父さんでないことを感謝するんですね」
最後には、大人の論理で綾瀬を言い負かすしかない自分に、葉月は落胆した。
***
二学期の中間では綾瀬の成績は悪くないものだった。
しかし父親の桐生も、若松も、綾瀬の学校の成績のことを気にかけることはない。
葉月だけが、機嫌を良くしていた。
そんなとき、事件は起こった。
綾瀬が、放課後の教室で担任の女教師、北里美奈子をレイプしたという。
一報を聞いて、葉月にはそれがなにかの間違いだとわかったが、若松は「奥手だとばかり思っていたが、坊もなかなかやるなあ」と、嬉しそうに感想を述べた。
「未遂だというんで警察沙汰にはならんらしいし、学校も内密にしてくれるそうだ。一応、学校で形だけの事情聴衆はやるそうだ。悪いが葉月、今から坊を迎えに行ってくれ」
保護者の役目は今回も葉月に回ってきた。
学校の校長室を訪ねると、初老の学校長は気の毒なほどうろたえていた。
向かい合うソファーには、制服姿の綾瀬と、肩に毛布をかけた担任の北里美奈子が座っている。
美奈子が両手で押えた毛布の隙間から、胸元の下着が見えて、葉月は顔を顰めた。
「綾瀬、先生に乱暴したというのは、本当ですか」
綾瀬は口を利こうとしない。
「北里先生」
葉月は美奈子に聞くしかなかった。
「見たとおりですけれど」
生徒に襲われかけたにしては、落ち着き払った口調で美奈子は言った。
葉月にはそれが嘘だとわかっていたが、綾瀬が否定しない限り、加害者になるしかなかった。
「大変、ご迷惑をおかけしました」
葉月は美奈子と校長に頭を下げて詫びた。
「まあ、未遂ということですから。思春期の男子生徒にはありがちなことです。このことはくれぐれも内密にしますので。どうか、親御さんにもそうお伝えください」
自分が一番の加害者のように、何度も頭を下げて校長が言った。
処分は下らなかった。
校長室を出たところで、葉月はきつい口調で綾瀬に言った。
「オレの女友達では無理でも、担任の先生になら、あやしてもらえるんですね」
嘘だと知っていてそう言ったのは皮肉にすぎない。
綾瀬はやっぱり何も言わず、葉月の前を歩いて行く。
後ろ姿が、悲鳴をあげているように見えた。
「いるわよ、思春期に自慰の出来ない男の子って」
「また、どうして。そんなこと、誰でもしている、普通のことだろ」
「原因はいろいろあるわ。病的に潔癖症とか、性的虐待にあったりしたトラウマとか」
そう言われ、思い当たるふしはあった。
確かに、綾瀬は人に触られることを嫌がったし、自分から他人に触れることはない。
潔癖症には違いないと以前から気にはなっていた。
しかし原因が過去のトラウマにあるとしたら、厄介な問題だ。
「どうすればいい」
「さあ、私もそこまで専門じゃないから。一番いいのは、カウンセリングを受けることね。専門医に診てもらったら」
綾瀬がカウンセリングなど受けるはずがないことはわかっていた。
綾瀬のデリケートな秘密を知ってしまい、葉月は気が重かった。
そんな頃、綾瀬の担任から保護者の呼び出しがあり、その役はなぜか葉月に回ってきた。
保護者として学校を訪ねると、三十代の若い女の担任は葉月を見て、顔をしかめた。
「保護者をと、お呼出したのですが、お兄様ですか。綾瀬君に、ご兄弟がいることは聞いていませんでしたけど」
「いえ、兄のようなもの、です。すみません、綾瀬の父親が多忙で」
綾瀬の家庭の事情はもちろん承知しているのだろう、担任はそれ以上言っても仕方ないというように、溜息をひとつ吐いて見せて、葉月に着席を促した。
「綾瀬君の一学期の成績です。確か、明和高を希望していたと思いますが、これでは内申点は難しいです」
見せられた綾瀬の成績は、惨憺たるものだった。
葉月は驚いた。
「先生、これは何かの間違いではないでしょうか。綾瀬は、その…」
「ええ、頭は悪くないんでしょうね。中学に入ったときの一斉テストでは、かなり上位の成績をとっていました」
葉月は、綾瀬の勉強を見ることがあるため、綾瀬の頭の良さはよく知っていた。
「じゃあ、いったいこれはなんですか」
「ふざけているのか、反抗しているのか、私にもわかりませんけれど。ただ言えるのは、このままでは志望校への進学は難しい、ということです。とは言え私立の学校ですし、お家の方で、ご準備がおありなのでしたら、余計なことかもしれませんけれど」
女教師は、興味の薄い口調でそう言った。
綾瀬に学校での成績のことを問うと、綾瀬は平然と言った。
「学校の成績なんか、どうでもいいだろ」
「ですが、今のままでは明和への進学は難しいですよ」
「高校なんか、どこだっていい」
「どこでもいいなら、明和でいいじゃないですか。あそこは歩いても通えるくらい近いですし、スポーツも盛んで校風も爽やかです。しかも、男子の制服が今時珍しく、詰襟なんですよ」
綾瀬は不可解な表情で葉月を見る。
「それがどうした」
「きっと綾瀬に似合うと思います。学ラン姿の綾瀬を見たいと思いまして」
「馬鹿じゃねえの、おまえ」
少しくらい探りを入れたところで、綾瀬の心はわからない。
もしかしたら綾瀬自身、自分がしていることに理由なんてないのではないか。
綾瀬はただ、混沌の中にいる。
流されることを嫌い、流れに逆らうことに必死になって、結果を顧みない。
中途半端に反抗しても無駄だということを、理解していないはずはないのに。
「どちらにしろ、正門から入学出来そうにない場合は、別のルートで入るしかなくなる。あなたがどうしても裏から入りたいというなら、こんな情けない成績でも構いません。無駄金を惜しむ親父さんでないことを感謝するんですね」
最後には、大人の論理で綾瀬を言い負かすしかない自分に、葉月は落胆した。
***
二学期の中間では綾瀬の成績は悪くないものだった。
しかし父親の桐生も、若松も、綾瀬の学校の成績のことを気にかけることはない。
葉月だけが、機嫌を良くしていた。
そんなとき、事件は起こった。
綾瀬が、放課後の教室で担任の女教師、北里美奈子をレイプしたという。
一報を聞いて、葉月にはそれがなにかの間違いだとわかったが、若松は「奥手だとばかり思っていたが、坊もなかなかやるなあ」と、嬉しそうに感想を述べた。
「未遂だというんで警察沙汰にはならんらしいし、学校も内密にしてくれるそうだ。一応、学校で形だけの事情聴衆はやるそうだ。悪いが葉月、今から坊を迎えに行ってくれ」
保護者の役目は今回も葉月に回ってきた。
学校の校長室を訪ねると、初老の学校長は気の毒なほどうろたえていた。
向かい合うソファーには、制服姿の綾瀬と、肩に毛布をかけた担任の北里美奈子が座っている。
美奈子が両手で押えた毛布の隙間から、胸元の下着が見えて、葉月は顔を顰めた。
「綾瀬、先生に乱暴したというのは、本当ですか」
綾瀬は口を利こうとしない。
「北里先生」
葉月は美奈子に聞くしかなかった。
「見たとおりですけれど」
生徒に襲われかけたにしては、落ち着き払った口調で美奈子は言った。
葉月にはそれが嘘だとわかっていたが、綾瀬が否定しない限り、加害者になるしかなかった。
「大変、ご迷惑をおかけしました」
葉月は美奈子と校長に頭を下げて詫びた。
「まあ、未遂ということですから。思春期の男子生徒にはありがちなことです。このことはくれぐれも内密にしますので。どうか、親御さんにもそうお伝えください」
自分が一番の加害者のように、何度も頭を下げて校長が言った。
処分は下らなかった。
校長室を出たところで、葉月はきつい口調で綾瀬に言った。
「オレの女友達では無理でも、担任の先生になら、あやしてもらえるんですね」
嘘だと知っていてそう言ったのは皮肉にすぎない。
綾瀬はやっぱり何も言わず、葉月の前を歩いて行く。
後ろ姿が、悲鳴をあげているように見えた。
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