青は藍より出でて藍より青し

フジキフジコ

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朱に交われば赤くなる

1.ワイルドキャット

身体に触れた水滴より先に地面に出来た染みが目に入って、雨が降っていることに気づいた。
足を止めて顔を上げると、突然降り出した大粒の雨に急かされるように傘のない人々が小走りに前を通り過ぎて行く。
一瞬だけ眉を寄せた綾瀬は、何事もなかったように今までと同じ速度で歩き出した。
行くあてがあって歩いているわけではない。
濡れるのは構わなかった。

「綾瀬」
呼びとめられて振り返ると、路肩に止めた車の脇に真琴が呆れたような顔で立っている。
「濡れてるよ」
「知ってる」
構うな、と言う口調で言ったのに、真琴は意にも介さない。
「乗りなよ」
今度は綾瀬の方が呆れた顔で真琴を見た。
車を止めた前のレストランで食事でもしていたのだろう、真琴の後ろには赤い傘をさして、成り行きに戸惑っているような表情をした若い女が立っていた。

綾瀬が何か言う前に真琴はジャケットのポケットから万札を出すと「悪いけど、タクシーで帰って」と言いながら、女の手にそれを握らせた。
どう見ても軽くあしらっていいような類の女ではない。
元国会議員の息子が付き合うに相応しい、それなりの家柄の令嬢だろう。
そういう相手にも平然と無礼を働く真琴に綾瀬は呆れる。
けれど綾瀬には関係のないことだった。
少し考えて綾瀬は滑るような動作で真琴の愛車の助手席に座った。



***



真琴の住んでいるマンションはそこからさほど遠くない場所にあった。
実家も同じ区内にあるのに、マンションで一人暮らしをしながら大学に通っている。
2LDKとそれほど広くはないが、新築で12階建てマンションの最上階の部屋は学生には贅沢な物件だった。
真琴に言わせると、よくある政治家の財産隠しのためらしい。

「今日は一人なんだね」
濡れた身体を温めるためにシャワーをすませた綾瀬に、グラスを渡しながら真琴が聞く。
「どういう意味だよ」
「別に意味はないけど。御身大事な跡目が一人で出歩いてるなんて珍しいと思って」
愉快そうに笑いながら言う真琴を、綾瀬は睨む。
けれどその目には敵意はない。

「おまえこそ、よかったのか」
「彼女のこと?」
真琴は持ってきた赤ワインの講釈を語ったあと綾瀬のグラスにそれを注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。
「某大企業の重役のお嬢さんでね、僕の婚約者候補の一人」
そんなところだろうと予想をしていたので、綾瀬の表情には特別驚いたような様子はない。
「父が今度の選挙、出馬するつもりらしくてスポンサー探しに躍起になってるんだ」
「こんなことして破談だな」
「そう思うなら、責任とってくれる?」
「別のお嬢さんをオレに紹介しろと言われても、生憎そんな毛並みのいい女はご存知ないね」
真琴は目を細めて笑った。
綾瀬との会話はいつも真琴を楽しくさせる。

「毛並みのいい女じゃなくても、目の前にいる機嫌の悪い猫でいいんだけど」
一口だけ口をつけたグラスをテーブルに置いて、真琴は綾瀬の前に立った。
「君を見るといつもワイルドキャットって言葉を思い出すよ。猫は人に飼われていても野生の本能を決して忘れない。君と似ている」
「誰が誰に飼われてるって…」
顎に指をかけて、上向かせた唇に唇を重ねる。
ワインに濡れた唇や舌は、甘い香りがする。
「…真琴、よせ」
次第に深くなる口づけに抗うように、綾瀬は真琴の身体を押し離した。
真琴は前髪をかきあげて、ふうとやるせないため息を吐く。

「相変わらず、頑なな人だな。どうしていやがるの」
真琴は諦めたように綾瀬の向かいに腰を下ろした。
隙を見ては綾瀬に触れるのを楽しんでいる真琴は、だが決して無理強いはしない。
無理を強いれば側にさえいられないとわかっているからだ。
真琴がソファーの横のテーブルに置いたグラスにワインを注ぎ足すと、上質な芳香が空気を潤した。

「下世話なこと、聞いてもいいかな」
そんな風に前置きして「あの人とも、しないの?」と、目の前にかざした赤い液体を眺めながら、たいして興味のなさそうな調子で訊く。
そうしながら真琴は、いつも綾瀬の傍らに影のようにいる男の、綾瀬を見つめる眼差しを思い浮かべていた。
かつては綾瀬の同級生だったその男を、真琴は二人が同じ制服を着ていた頃から知っている。
あの頃から、そして今でも、二人の間には他者が入りこむことの出来ない種類の感情の交感があることも。

「高谷とは、そういうんじゃない」
「そうかな」
あの眼差しに欲望がないはずがない。
そして綾瀬もまた、心の奥深いところで彼を求めているように思う。
それでも高谷が組に入ったことを知ったときは真琴は意外に思った。

高谷俊介は高校を卒業してから地元の工務店に就職した。
だが一年後には会社をやめて、桐生の屋敷に住むようになった。
詳しい経緯は知らないが、真琴は二人がそういうふうに繋がっていくとは予想していなかった。
「あの人、高谷さん。随分感じが変わったよね」

真琴にそう言われて、綾瀬は、思案に沈んだ。
『なんで高谷を同行させるんですか。そんな必要ない!』
二日前にした父親との口論。
ここ数年、良好な関係の続いている神戸の組の襲名式に、高谷を同行させると言った父親に綾瀬は猛反対した。
『高谷はおまえの遊び相手として置いているわけじゃない』
『高谷を行かせるくらいなら、オレが行く』
『おまえは、関西に名乗りをあげるにはまだ時期が早過ぎる』
父親の桐生は綾瀬が正面から向かっていっても決して太刀打ちできない力を、鋭い目の中に示威的に見せる。
『尚紀。あれはいい拾いもんかもしれんぞ。今のうちせいぜい勉強させてやれば、将来はおまえの片腕になる』
『勝手なことを言うな。オレはそんなこと望んでいない!』
どんなに反抗しても無駄だった。
高谷が組に入ったときと同じように。

高谷が組に入ることを、綾瀬は最後まで反対した。
勝手に段取りをした葉月に反抗して、自室に閉じ篭りハンストまがいのことまでしたが手遅れだった。
鍵をかけたドアの向こう側で、高谷は静かに言った。
『諦めて、オレを手に入れろ。おまえと会ったときからこうなることは運命だったんだ』
高谷の声を、綾瀬は泣きながら聞いた。
それが運命というのなら、高谷の運命を変えてしまったのは自分ということになる。
自分の身一つでも重荷だったのに、もう一つ罪を背負えと言われているような気がした。

高谷は桐生に同行して神戸に立った。
襲名式に出席したあと、関西の状況を見るため戻るのは半月ほど先だと言っていた。
帰ってきたとき、高谷はまた少し変っているのだろうか。
染まっていく。この世界に。
自分のように。或いは自分以上に。

「最近君のところ、随分派手なことしてるよね。台湾マフィアと喧嘩の末、念願の新宿を押さえて、今度はなにを企んでるの」
考え事に沈んでいた綾瀬は真琴の声で我に返った。
「オレが知るか」
うんざりしたように、言う。

実際綾瀬は、組織の中で具体的な仕事を任されているわけではなかった。
昼間は面白くもない大学に通い、時々、料亭やホテルで父親の桐生が政治家や経済界の大物と座をともにするとき、同席する。
腹黒い大人たちが交わす会話の中に、世の中の裏の仕組みを理解していく。

要するに桐生もまだ綾瀬のことは勉強期間としか見ていない。
桐生の言う綾瀬の将来と言うのは、十年も二十年も先の話だ。
三代目を襲名するそのときのために、器を磨けと言う。
けれど綾瀬は若い。
そんな先のことは考えられない。
あれほど跡目を継ぐのをいやがったくせに、今度はあてにされないことを不満に思う。
何者でもない自分に苛々する。

「だけど、鬼島組を完全に叩いたのは君がしたって評判だよ。清竜会の跡取りは二十歳そこそこの美青年だけど、見かけで判断すると大怪我をするって噂」
「鬼島には私怨があった。それだけだ」
不意に綾瀬は不思議そうに真琴を見る。
「それにしてもおまえ、やけに詳しいな」
「君のことを心配してるから、そっち方面の情報収集は怠らないよ」
「あんまり深入りして、足元を救われないようにしろよ」
綾瀬にしては親切な忠告に、真琴は嬉しそうに目を細めた。






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