青は藍より出でて藍より青し

フジキフジコ

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【完結編】天に在らば比翼の鳥

12.連理の枝《前編》

ありすはロビーで高谷を待ち侘びていた。
「遅いわ。今まで何してたの!ひどいじゃない」
高谷の顔を見るなり、そう詰った。

ありすは制服姿で、腰まで長く伸ばした豊かな金髪を二つに編んでいる。
身長は170センチ近い。
ありすは18歳になっていた。

「ありす」
名前を呼ぶと、わっと声をあげて泣き出した。
ずっとこらえていたという様子で、高谷の胸に顔をつけ、拳で叩く。
「バカ!高谷のバカ!」
高谷は慰めるように抱擁したあと、やんわりと体を離して、言った。
「綾瀬と二人だけにしてくれ」

もとより邪魔をするつもりはなかった。
ありすは高谷を睨むと、涙を拭って病院の外に出て行った。

綾瀬が入院していた都内の大学病院から、誰にも相談せず、那須高原にある終末医療専門のホスピスに転院したとき、高谷は激しく綾瀬を責めた。
延命に有効な手術があるのに、それを断ったからだ。

けれどしばらく見舞いに来れなかったのは、諍いのせいではない。
今、日本で一番大きな組織の暴力団が分裂騒動をおこしている。
日本中の大小様々な組が巻き込まれ、極限の緊張状態が続く中、高度な政治的判断が必要とされていた。
綾瀬がいない青竜会にとっては、その判断は高谷に委ねられている。

病室には、綾瀬の他に篤郎がいた。
「あれ、高谷さん。いいんですか、組のほうは」
顔に疲労の色を滲ませながらも、篤郎の口調はいつもと変わらず飄々としている。

「小康状態だ。今日明日中に状況が変わることはない。誰かが撃ち殺されでもしない限りな」
物騒なことを平然と言うが、実際は緊張が続いている。
その証拠に高谷は畏まったスーツ姿だった。
このあと、どこかで大物に会う予定があるのだろう。
しばらく二人で状況判断を確認したあと、篤郎は「ちょっと、出てきます」と言って、病室を出た。
高谷に向けた笑顔には、翳りがあった。

「ここにはもう来るなと言っただろ」
綾瀬は、口を開くなりそう言って顔を顰めた。
とりあえず、きちんとベッドに座っていることに安堵した。
病室のドアを開けるまで、ありすの取り乱した様子から、もっと悪いのかと想像して肝を冷やしたが、毎日のように側にいるありすは、心配からくる不安や心細さに疲弊しているのだろう。

今日の綾瀬は顔色も悪くない。
無理な治療を止めたことで、以前に比べて体調は良さそうにすら見える。

「それに、こんなところにいる暇はないはずだ」
「もう言うな。オレにも息抜きは必要だ」

側にいって、綾瀬の頬に指で軽く触れた。
「それに、顔が、見たかった」
「のぼせたこと、言ってんじゃねえよ」
そう言いながらも、綾瀬は口元だけで笑った。

残された時間は長くないと、わかっている。
しばらく二人は言葉もなく、ただ、黙って寄り添った。
伝えるべき言葉は、もう多くはなかった。

綾瀬が癌を宣告され、それを高谷に打ち明けた日から、充分過ぎるくらいに伝え合った。
それは時に無茶な身体の交わりだったり、感情をぶつけ合い傷つけあうような言葉だったりしたが、涙はどちらも、一度も流さなかった。

「人は誰でもいつか死ぬ」
綾瀬は何度となく、そう言った。
「早いか、遅いかだけだ。オレは自分が死ぬのが早過ぎるとは思わない。もう充分だ。それに、病院のベッドで死ぬなんて、生業を思えば贅沢な末期さいごだ」
それは綾瀬の本心に違いなかった。

癌を宣告されたときから、綾瀬は積極的な治療を拒んでいた。
おそらく、宣告されるかなり前から痛みや兆候があったはずなのだ。
誰にも言わず、綾瀬は粛々と自分の死に向かいあった。

「迎えに来るつもりなのか、最近、葉月の夢をよく見る」
遠くを見つめるように、窓の方に視線を移して綾瀬が言った。

「銃弾で死ぬくらいなら、堅気になる必要なんか、なかったのにな。馬鹿だ、あいつは」
「葉月は、自分の人生に満足しているだろう」

葉月が拘った砂漠の国へ行って、その乾いた風に吹かれてみて、綾瀬も感じた。
葉月はここで、思う通りの生き方を貫いたのだと。

「高谷、篤郎を連れて帰ってくれ。ここにいたら、オレより先にあいつの方が倒れる」
綾瀬が言った。
高谷も、篤郎のことは気になっていた。
篤郎にも組の中でやるべき仕事があるのだが、綾瀬が病院を移ってからそれを放棄してずっと綾瀬の側にいる。

「出来れば連れて帰るが、篤郎が嫌だと言ったら?」
綾瀬は苦笑した。
「あいつの好きにさせろ」

篤郎には、意外に頑固なところがある。
綾瀬でも手に負えないその頑固さで、篤郎は綾瀬の側にいることを常に選んできた。
高谷には、真似の出来ないことだった。

日が傾きはじめ、柔らかな西日が窓から差し込んだ。

わざと目を逸らすように頑なに窓の外に視線を向ける綾瀬の横顔を、高谷は思う存分に、見つめた。

もとから白い顔は透けるほど白くなり、痩せたせいで一層顔が小さくなって、瞳の強さがやけに際立つ。
死に直面して、綾瀬の美しさは妖しいほどの領域にある。
透明感が増して、本当はすでにもうこの世にはいないのではないかと思えて、「綾瀬」と、高谷は呼んだ。
綾瀬は振り向いて高谷を見たが、高谷に話題はなかった。

今ここで、思い出話しをするほど愚かではない。
けれど高谷は思い出さずにいられなかった。
はじめて綾瀬と口を聞いたあの日を。
「来ないか」と、まるで断られるはずがないというような強気な口調で言いながら、本当は、拒絶を恐れていた。
あれはまるで切ない懇願のようだった。

綾瀬はどうやって、嗅ぎ分けたのだろう。
自分という存在を。
まるで住む世界が違いながら、一緒に生きていくことになると、知っていたかのように。

そしてまた、高谷は思い出す。
はじめて綾瀬を抱いた夜を。
あのとき綾瀬は自分の腕の中で震えていた。
高谷も、男を抱いた経験はなく無我夢中だった。

綾瀬は終わらせるつもりで身体を投げ出したのかもしれない。
けれど本当は知っていたのではないか。
高谷はあのときすでに、桐生捷三の思惑に絡めとられていて、のがれる術はなかった。

高谷は綾瀬を抱きながら、必死でわかろうとしていた。
綾瀬という男のことを。
綾瀬に対する自分の感情の正体を。
快感があったのか、わからない。
欲望というより、契約の儀式のような交わりだった。
いまにして思えば、確かにあれは契約だった。

自分の嗅覚で高谷を見つけてスカウトしたくせに、綾瀬は高谷が卒業後すぐに組に入ることは頑なに拒んだ。
高谷を得たいと望みながら、綾瀬は迷っていた。
2年間は、高谷にではなく綾瀬に必要な猶予期間だった。

綾瀬は、名前を呼びながら何も言わない高谷を、ただ黙って見つめていた。

高谷は、ふっと笑って言った。
「おまえとは、離れているときのほうが、おまえのことがわかるような気がする。手の届く距離にいると、何を考えているのか、まったくわからない」

今も、高谷にはわからない。
死にゆく綾瀬の望みが、わからなかった。

「だから、言ってくれ。オレは、どうすればいい」
おまえを失って、どう生きればいい。
そう聞いているようだった。

綾瀬は不思議そうな顔をした。
おまえは、わかっているはずだ。
自分が成すべきことをすべて。

「組の跡をとれ。おまえが四代目だ」
「四代目か。その次はどうする」
「次はない。おまえが、組をしまえ」
「自分が出来なかったことを、オレに押しつけるのか」

高谷が呆れたように言うと、綾瀬は懐かしいものを見るように目を細めて笑って言った。
「それも、運命だったんだろ。はじめからな」

不意に高谷の感情は激しく揺さぶられた。
自分は、泣くかもしれない、と思った。

「高谷…」
綾瀬が、高谷に向かって、手を伸ばした。
血が通っているとは思えないような白くて、細い腕だった。

高谷はその手をとった。
掴んだ手の冷たさが、胸にこたえる。
指を絡めるように強く握って、自分の唇に運ぶ。
そして、綾瀬の手を握ったまま自分の額に押し付けて、床に膝をつけ、ひざまづいた。
流れる涙を隠すように。

「言いたいことは、全て、言った。もう二度と、ここには来るな。いいな」

それが、二人の、永遠の別れだった。



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