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第三部

2.逃げる

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目黒まではレンタカーを使うように言われた。
神が部屋を出た後、ルイとタケシはそのままホテルに宿泊し、翌朝、ホテルから手配した車に乗り、東京に向かった。

昨夜から、二人は会話をしていない。
車の中の重い空気とは対照的に、外は憎らしくなるような青空が広がり、平日のせいか車の少ない東北自動車道を無口な二人を乗せた車はいたってスムーズに西に向かって進んでいく。

ルイが助手席の窓を半分開けると、初夏特有の胸が騒ぐような匂いを含んだ風が吹いてルイの髪を靡かせた。
ハンドルを握りながら横目で髪を押さえるルイを見て、タケシは顔に出さないように心の中だけでやり切れないため息を吐いた。

昨日、神に抱かれるルイを見て、想いを殺したはずなのに、今でもやっぱりルイは自分の胸をときめかす。
側にいるだけで、苦しく感じるほど、愛しい。
充分過ぎるほど、わかったはずなのに。
神とルイが、強く互いを求め合っていることも。
深く、愛し合っていることも。
報われない想いというだけではない、この人を想うだけでも神が自分を許さないということも。

表情には出してないつもりでも、時々、ルイは気になることがあるかのようにタケシの横顔を伺ってはそっとため息を吐く。
けれどルイは、表情から相手の気持ちを汲むというやり方に慣れていなかった。
車が高速を降り赤信号で止まると、耐えきれなくなったように言った。

「……何か、言えよ。言いたいこと、あるんだろ」
タケシははっとしたようにルイの方に顔を向け、けれどすぐに視線を前方に逸らした。
「…ありません」
「嘘つくな。顔に書いてある。言えよ!はっきり、口で言え」

タケシはルイを見ないまま、ハンドルを握る自分の腕に視線を落としながら答える。
「何て、言えばいいんですか。久しぶりに神さんに抱かれて気持ちよかったですかって、そういうこと聞けば満足ですか」
「そうだよ!気になるなら、そう言えばいい。何だって答えてやる。もっとも、ナマで見ていたんだから、おまえの見た通りだけどな。むしろ、俺が聞きてえよ。なあ、タケシ、俺、昨夜何回くらいイッた?ブッとんでて記憶にねえんだよ、数えてたなら教えろ」
「ルイさん!」
二人は、運転席と助手席で睨み合った。

信号が赤から青に変わり、後ろの車がけたたましくクラクションを鳴らす。
それでもタケシは車を発車させない。
後続車は諦めて、車線を変更し、わざわざ窓を開けて悪態をつきながら追い越していった。

「やめましょう、こんな話」
根負けしたように、タケシが先に視線をそらした。
「意味がないですよ。あなたは、恋人と寝ただけです。それを俺に見られたからって、誰にも後ろめたく思う必要はないし、俺だって、嫉妬するなんて間違っている。俺の態度が気に障ったのなら、謝ります」
「嫉妬?嫉妬だって?誰に、嫉妬してんだよ。大事な神さんを、俺なんかに汚されて悔しいのか?」
「ルイさん!やめてください。俺の気持ちを、弄ばないでください。これでも、辛いんです」
「辛い…?おまえが、なんで辛いんだよ」
「あなたのことを好きだからですよ!たとえ、あなたが神さんのものでも、そんなことわかっているのに、好きだからです」
「…おまえが、俺のことを、好き?」
ルイの表情に素直な驚きが浮かぶ。

「好きです。おかしいですよね。自分でも、どうかしてるって思います。櫻井ルイを、本気で好きになるなんて。神さんの恋人である、あなたを、好きになるなんて」
恋心を打ち明けているとは思えない、投げやりな口調だった。

「だったらなんで、俺を奪おうとしない。なんで黙って、神に抱かせたんだ」
「奪う?無理です。俺は、神さんには逆らえない。あなただって、湊谷組の組長の愛人だった、あなただって、極道の流儀はわかっているでしょう。それに、あなたの気持ちは、わかってます。ルイさんは、神さんを愛してる」
当たり前のことなのに、口にすることでタケシは自分の心を傷つけた。
そしてルイも、同じように傷ついた顔をした。

「そう、だよ。俺は、神を、神のことを、愛してる。神に会いたくて、抱かれたくて、気が狂いそうだった。神に、飢えていた。だって、しょうがないだろ、俺には神しかいなかったんだ。ずっと、長い間ずっと、誰も、神の他には誰も、俺のことを想ってくれる人間はいなかったし、神は、俺の希望だった。だけど…、それでいいのか。俺は、神に、守られるばかりで、誰のことも守ることが出来ない…そんなんで、いいのか。俺…、自分でも、なんだかよくわかんねえんだよ。フクザツなこと考えられねえんだ、頭、悪いし」
「ルイ、さん…」

ルイが何を迷っているのか、タケシにはわからない。
それは多分、ルイ自身にもわかっていない。
ただ、この逃亡の旅の中で、今までの自分の生き方を振り返り、そしてルイなりに自身の将来を考えたのかもしれない。

「苦手なんだよ、考えるのは。今まで自分で考えて決めたのは、高校を中退して東京に来たことくらいだ。あとは流された。ただ、流されたんだ。だけど、もうイヤなんだよっ。誰かに守ってもらわないと生きていけないような生活は、ごめんだ…」

とうとうルイは泣き出した。
膝の上に組んだ両手の上にポタポタと涙が零れる。
俯いているせいで、タケシにはルイの顔は見えない。
「ルイさん…泣かないでください。俺、あなたの涙には、本当に弱いんです」

うっう…と、ルイの声から嗚咽が漏れる。
タケシは、途方に暮れた。

「……遠くに、行きたい。逃げたい。…湊谷も、若松組も、神も、いないところに」
泣きながらルイが言った。
「ルイさん……」

それがルイの本心なのか、不安定な心が言わせただけの言葉なのかわからない。
だけど、自分の横でルイが泣いている。
遠くに行きたいと言って、泣いている。
それだけがタケシに見える現実で、そしてそれは単なる衝動だったかもしれない。
タケシは車を急発車させ、中央分離帯をUターンして、車の進行方向を変えた。

逃げる。

湊谷から、だけではなく、神からも。
ルイを連れて二人で逃げる。
二人なら、ルイと一緒なら、どこへでだって行けるような気がした。
行こうと思った。
もうこの人を泣かせないですむ世界に。

「タケシ…?」
ルイが泣き顔をあげてタケシを見る。
その刹那、後ろに止まっていた車が勢いよく飛び出し、タケシの車を追い越して行く手を阻むように急停車した。

タケシが急ブレーキをかけたせいで危うく追突は免れたが、とても喜んでいられる状況ではなかった。
後ろには別の車が止まり、前後を塞がれた。

「ルイさん…」
まずいと思ったときには遅かった。
前方を塞ぐ車から出てきた男たちの手で、ナビシートのドアが開けられ、ルイの腕を掴んだ男が言った。
「ルイさん、随分手間をかけさせてくれましたねえ」


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