チェリークール

フジキフジコ

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本編

1.【専業主婦】小田切晶

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ソファに横になって手に持ったリモコンで無造作にチャンネルを変える。
騒がしいだけでかわりばえのしない深夜番組はどれも退屈なだけだ。
わざと欠伸を作ってみるが、昼間寝過ぎているせいで眠くなるはずもない。
時計を見ると真夜中を過ぎているのに雅治まさはるが帰ってくる気配はなかった。

「早く帰って来いよ…」
言った瞬間にテレビ画面に雅治のアップが映し出されて、そのコマーシャルのタイミングにちょっとビックリしたあと、晶はテレビ画面越しのカッコいい自分の“夫”に見惚れて、やるせないため息を吐いた。

「違いの分かる男」がコンセプトのインスタントコーヒーの人気シリーズCMで、雅治は暖炉のある立派な書斎で六法全書をめくりながら片手にコーヒーカップを持ち、美味しそうにそれを飲む。
今時どこの家にそんな立派な書斎があるのかと思う、ちょっと非現実的な設定だったし、テレビにも出ているカリスマ弁護士といっても雅治はまだ二十代で、ゴージャスな革張りの椅子も似合うとはいえない。
それでもカップを口につけたあと微笑するその顔は、世の中の女たちが夢中になるのも無理はない、知的でノーブルで、そのくせ男らしい野性味を備えた極上品だった。

世の中をアッと言わせた電撃入籍から3ケ月。
毎日帰りの遅い夫に、あきらの不満は日々募っていた。

新婚、とは言っても雅治は高校のときのクラスメートで、付きあいはじめて10年目の入籍だったので、いまさら甘い蜜月を期待しているわけではないが、弁護士の仕事に加えてテレビの仕事を掛け持ちしている雅治は、朝早く家を出て、付き合いだなんだと帰りも遅く、やっと帰って来てもよほど疲れているのか、洗面所で手を洗いながら寝てしまっているという風で、会話も、夫婦生活の方もまったくご無沙汰だった。

はっきり言って晶は若い肉体を持て余している。
入籍と共にすっぱり仕事をやめて家庭に収まった晶の方は、はじめの頃こそ三食昼寝つきの気楽な専業主婦ライフを楽しんでいたが、いい加減それにも飽きてこの頃は退屈でたまらない。
夫の帰宅だけが楽しみなのだ。

雅治と付き合いはじめたときも、付き合っている間も、まさか、雅治と結婚出来るとは思ってもいなかった。

もともとは、晶の片思いで終わるはずの恋だった。

小田切雅治には、高校の入学式の日に一目惚れした。
1学年の時は同じクラスだったが、親しくはなれなかった。
いつも学ランの下に糊の効いた真っ白なワイシャツをきちんと着ていた優等生の雅治は、同じタイプの仲間に囲まれていたし、学ランの下には派手な色のTシャツしか着たことのない晶とはまるで対照的で、共通の話題もなく、ろくに話したこともないまま2学年になってクラスも別れ、ますます遠い存在になった。

遠い存在ではあったが、剣道部のキャンプテンであり、生徒会長でもある雅治を、晶は遠くから憧れの気持ちで眺めていた。

片思いでもよかったのだ。
告白して「男同士で気持ち悪い」とケイベツされるくらいなら、卒業までただ見ているだけでいいと思っていた。

けれどある日、思いがけず雅治の方から声をかけてきた。

「名取って」

それは、夕暮れの時の教室だった。
なぜその時、クラスの違う雅治と、教室で二人きりになったのか詳細は覚えていない。
西陽が差し込み、柔らかなオレンジ色に染まった教室の窓際で、晶は雅治と二人で向かい合っていた。

「名取って、もしかしてオレのこと好き?」
そう言われて、晶はカーッと顔を赤くした。
あまりにわかりやすい返答だった。
「な、な、な、なんで?!」
「なんとなく、よく見られている気がするから」
そう言う雅治はとても冷静で、余裕たっぷりに微笑していた。
「め、め、迷惑か?」
晶は身体中の勇気をかき集めて、そう聞いてみた。
心臓は今にも止まりそうにバクバクしていた。

雅治は「そんなことないけど」と言うと、凛とした眼差しを和らげるように笑って、前屈みになり、いきなり晶にキスした。
唇と唇が重なるだけの、淡い触れ合いだったが、晶は驚いて、雅治の唇が離れるまで硬直したまま身動きすら出来なかった。
唇が離れても無表情で固まっている晶に、雅治は「あれ、こういうことして欲しいんじゃ、なかった?」と言った。

からかわれた。
そう思うと悲しくて辛くて、涙がどっと溢れた。
雅治は晶の涙に驚き、すぐに謝ってくれた。
「ごめん、からかったんじゃない。オレが、したかったんだ、名取と」
うっうっう、としゃくりあげ、涙を学ランの袖でゴシゴシ拭い、濡れた大きな目で雅治を睨んで晶は聞いた。
「オレのこと、どう思ってんだっ!」
「名取のこと?そうだなあ…」
雅治はしばらく考えて、晶の顔をじっと見つめて「顔が…」と言う。
「え」
「顔が、小さいよね」
「は?」
「それなのに、目が大きい」
「……」
「こんなに近くで見たことなかったけど、名取はすごく可愛いと思う」
「………」
「あと、ちょっとヤンチャだけど、言動がおもしろい」
「…………」

その言葉からは、どう思われてるのかさっぱりわからず、眉間に皺を寄せて考え込んでいた晶の耳元に唇を運んで、雅治は、最後に口説くように言った。
「もっと知りたいな。名取のこと」

一度止まった涙がまた溢れて、晶はそのまま自分より背の高い雅治の首に抱きついた。
二度目のキスは自分から奪った。

法学部在学中に司法試験に合格し、雅治は予定通り弁護士になった。
そして1年前からテレビ番組に出演するようになり、ルックスの良いカリスマ弁護士として、あっという間に人気者になった。

けれどそのせいで、ストーカーまがいのファンや、写真週刊誌のカメラマンに追われるようになり、二人はただ会うのも難しくなった。
国民的人気者になった雅治とは対照的に、晶の方は大学を卒業してからフリーター状態で、雑誌のモデルのバイトをしたり、二丁目のバーでウェイターをしていた。

晶は諦めていた。
自分と雅治は、もう終わりなんだと。
雅治は違う世界の人間になってしまったんだと。

もともと高校生のとき付き合いはじめたのも、多分雅治の気まぐれで、男子校故の軽いノリだったのだろう。
物心ついたときからゲイを自覚していた晶と違って、雅治は晶と付き合う前は他校の女生徒とそれなりに浮名を流していた。
けれど二人の付き合いは高校卒業後、大学が別になっても続いた。
勿論長い年月の間には、別れの危機は何度もあった。
諍いの原因は晶の浮気だったり、雅治の浮気だったり、どんなカップルにもある倦怠だったりした。

しかし、今回は確実にもうダメだ、と晶は思った。
雅治はもう自分だけの雅治ではない。
有名人になった雅治に、腐れ縁の同性の恋人なんかは邪魔なだけだろう。
雅治がテレビに出るようになってからは、口にも顔にも出さなかったけれど、いつ雅治が「別れよう」と言うか、そんなことばかり心配していた。

「話がある」と、晶の働いているバーの閉店間際に、仕事帰りのスーツ姿で雅治が来たとき、とうとうその日が来たと、思った。
気を使ってくれたママや店の客が、奥の方の席を空けてくれた。

雅治が口を開く前に、晶の目には涙が浮かんでいた。
上手く、別れられるだろうか。
みっともなく叫んだり詰ったりしないでいられるだろうか。
雅治の前で涙を、我慢出来るだろうか。

ところが雅治は晶の目の前に小さな紺色の箱を差し出して、言った。
「晶、結婚しよう」
晶は驚いて椅子から立ち上がり、その拍子につまずいて椅子ごとひっくり返り、尻餅をついてしまった。

雅治は苦笑しながら、手を差し伸べて晶を起こし、そのまま腕に抱きしめてもう一度「結婚しよう」と言った。

店内からは拍手喝采が起こった。
晶は夢のようで、その瞬間のことをあまり覚えてない。

驚くことに雅治は自分がゲイ婚したことを世間に公表した。
勿論、日本では同性同士の結婚は認められていない。
性同一性障害者の場合は、戸籍の性別を変更することは認められ、結婚も出来るようになったが、雅治や晶のように自分の性を自覚して同性を恋愛の対象にしている者に対しては、法律上も認められず、世間の目も冷たい。
それをわかっていて、あえて雅治は、男性をパートナーとして選び、養子縁組という形式で「入籍した」と公表した。
日本中がひっくり返るくらい驚いたし、女性ファンは嘆き悲しんだが、その潔さには祝福の声のが大きくて、結果的に小田切雅治の人気は更にあがった。

二人の両親は学生時代から二人の交際を認めていて、問題はなかった。
雅治と晶は、ゲイ婚とは思えないほど、周囲に祝福されて結婚した。

10年間付き合った恋人との結婚に、晶はこのうえもなく幸せだったが、まさか3ケ月で身体を持て余すほどほっておかれることになるとは予想していなかった。
だが、レギュラー出演していた「行列の出来るザ・ジャッジ」の放送終了が決まり、今夜が最後の収録だった。

しかも明日は土曜で、会社も休みだ。
今夜こそ!と晶は気合を入れて1時間もかけてバスにつかり、カラダをピッカピッカに磨いて夫の帰りを待ちわびている。
頭の中では結婚してからハマっている、インターネットのBL系サイトのエロ小説の、めくるめくセックスシーンが渦巻いて、いやがおうでも期待が膨らむ。
明日はオフだから、時間を気にしないで朝までだって愛し合える。
腐女子の妄想より、もっともっとイヤラシイことをしてやる。
そんな気合充分だ。
きっと雅治もそのつもりに違いない。


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