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バロック祭
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しおりを挟む俺が弦を弾いて彼に合図を送ったとき。その歌声と共に、エブリデイ・トゥ・シングはとうとう始まった。目に見えない熱は解き放たれ、俺たちを一瞬で包み込む。そこには俺がいつか見たケグの姿があった。音楽を愛し、心から歌を楽しもうとするその歌声。
彼が僅かな時間歌っただけで、観客たちは激しく歓声を上げる。俺ですらその盛り上がりに混ざりたくなってしまうほどの、彼の圧倒的な技術と情熱。精神の強さを象徴するような芯と、クラシック特有の太さに少しのしゃがれを含んでいる。どうして彼ほどのシンガーが今まで隠れていたのか、改めて疑問に思う。同時に高揚し、彼に追随して俺は弦を激しく擦る。更にそれを支えるように、ピンク、スチュー、フリックはそれぞれの音で演奏を盛り上げてくれる。ケグの歌声は俺たちの技術を根本から引き上げてくれているような気がする。そう感じるほどに俺たちの演奏はすべてが噛み合っている。それはひとえにこの曲の力とも言えるだろう。全ての楽器が生き物のように舞い、演奏者本来の長所をそれぞれで演出してくれている。
俺は観客の中の、先ほどニーナがスマホを構えていた辺りを見る。彼女は依然同じ格好で配信のカメラ役に徹していたが、俺の視線に気付くとこちらに向かって手を振ってくれた。その笑顔を見るに、俺たちの演奏を相当楽しんでくれている。視聴者の反応も良いのかもしれない。俺は更に勇気が湧いて、彼女にウインクを返す。面食らったような彼女に気付かないまま、俺はまた他の観客の方に向く。
それからは、まるで弾く旋律のすべてが正解のような感覚がした。曲そのものが作ってくれる俺たちの見せ場は聴く者を飽きさせない。どんなアドリブを入れても仲間が返してくれるその様は、ロックのようであってロックでない。これこそケグの追い求めていた音かもしれない。自由な彼を見ていると楽しくなって、時間は早く進んだ。
そうして曲は終盤へと差し掛かる。最後の音はボーカルから繰り出される、はち切れるようなシャウト。俺はケグを煽るように弦をかき鳴らす。彼はそれに追随し、叫ぶ。同時にマイクを持ちながら翼を羽ばたかせ、空へと飛び上がる。今度は俺がそれに追随し、飛び上がる。彼は空中に留まることなく、速さを増して夜空に飛び込んでいく。俺も弦を弾く指を速めながら彼を追った。
見えるものは次々に変わっていく。観客の俺たちを見上げる顔、仲間の顔、遠くの審査員席に見える学長の顔。ステージは遠くなり、二人だけになる。景色は光と共になくなっていく。
やがて長い時を経て……いや、実際は十数秒程度だったかもしれない。俺たちが月へと飛翔していく時間はその何倍にも感じられた。羽ばたきを止めて重力に支配される瞬間、俺は彼と目が合った。シャウトを止めた彼は困憊しているようにも見えるが、表情は清々しい。その清流が心を超えて俺まで染み渡ってくるかのような。これまでの苦しみがすべて嘘だったかのような、初めての感覚。
「一番にならなきゃいけないって言ったよな。お前と出会ったとき」
俺は彼に言った。夜の最中、ライブステージを照らす光を目指し下へと落ちていきながら。
「今の俺たち、絶対に世界で一番だって思わないか?」
全身の力を抜いて頭から落ちていく彼は息が切れていて、それでもこの色とりどりの景色に取りつかれたかのようにずっと真下を見つめている。
俺は彼に何か特別な返答を求めていたわけではなかった。彼とこの時間を共有できればそれだけで幸せだった。しかし、彼は神妙に言う。
「ぜんぶ幻想だったらどうする? 俺たちよりすごい奴なんかこの世にいっぱいいる。そういう不安といつだって隣合わせだった。なのに一番だなんて、言っていいものなのかな」
「良いんだよ。俺たちは種族も違えば考え方だって違うんだから、そりゃあ、誰かにとってみれば俺たちの演奏なんて大したことないのかも。世界を一つにするなんて無理だよ」
「意外だな。お前はそういう夢想家だと思ってた」
「でもさ、みんなそういう感覚を、きっと心のどこかでは求めてるんだよ。音楽をやってるとその感覚が満たされていくのがわかる。みんな繋がってるって感じがする。それが勘違いだっていいんだ。俺が感じてる幸せは本物だから」
俺たちの落ちていく先は、まるでもう一つの星空だ。観客たちの持つ光と、ライブステージの放つ光。ミューボウルが放つ光。すべてが絡み合い、唯一無二の景色を生み出している。
「この景色をずっと誰かと見たかった。お前とだから見られたんだよ」
基地が燃えたとき、その苦しみは俺の人生で一番といっても良いくらいだった。きっとこれからも苦しみは訪れる。俺はまだまだ未熟で、そういう場面を避けて通ることはできない。
でも、彼と一緒なら。仲間たちと共にいられるなら必ず乗り越えていける。そういう確信は胸をついて止まない。
いつだって助けられてきた。この恩を、彼らにどうやったら返していけるだろう。
「人生で最高のライブだった」
俺が言おうとしていた言葉は、彼に先を越されてしまう。
「お前と会えて良かったよ」
俺は本当にまだまだだ。わかっていないことはたくさんあるし、彼には感謝の一言だって適わない。もっと世界を知っていかなければならない。このライブがそのきっかけになってくれると信じて、俺は言う。
「行こう」
ライブステージが近づいている。彼は大きく息を吸い、俺はギターを振り上げる。みんなが俺たちの帰りを待っている。このライブを締めくくる、最後の一音を。
ピンク、スチュー、フリックの作ってくれたサウンドがそのステージにはある。虹色の空気で満たされたその音の中に、俺たちは二人で飛び込んだ。
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