上 下
290 / 320

第290話 危険な香り

しおりを挟む
ハアハア息を切らせながら、森の中から這い出て来た者。
戦場に近いにも係わらず、場違いなドレスの格好をした女。
ここまでの道のりで、相当木々にぶつかったのだろう。
煌びやかだったその布地も、ボロボロに切り裂かれている。
腰を絞っていたコルセットの様な物も外れ、だらしない姿を晒す。
余程、心に余裕が無かったのだろう。
道へ出てすぐに。
皇帝のまたがる馬の方へ近寄ろうと、左足を引き摺って進もうとする。
このままでは、暗殺の邪魔になる。
咄嗟とっさにそう判断したパップが、女を制する。

「止まれ!」

それでも尚、歩みを止めようとしない為。
オフシグが傭兵達に命じ、女を取り押さえさせる。
腹這いになりながら、呻き声を上げる女。
年は自分達と同じ位だろうか、40才代後半に見える。
髪は、ボサボサになった茶髪で。
首筋辺りが所々長い、ショートヘア。
いや、どうやら元からでは無く。
森の中を歩いている過程で、不本意にもその様な髪型となったらしい。
目線から、やたらと髪を気にしている様子が見て取れる。
取り押さえられながらも、注意がそこへ向いている点は。
やはり女か、そう思わせる。
『そのまま押さえてろ!』と、傭兵へ強い調子で言いながら。
馬から降りると、女の元へ寄って行くオフシグ。
『俺がこの場を仕切る』と言わんばかりに。
呆れながらも、注意深く見守るパップ。
状況から考えて、得体の知れない者へ不用意に近付くのは危険だ。
だから敢えてここは、オフシグに任せる。
女の顔の前でしゃがみ込み、ジロッと睨むと。
オフシグが女に問い掛ける。

「誰だ、お前は?」

問いに対して、女が答える。
のどをからしながら。

「はあっ……。私は、〔セッタン軍とゴホワム軍の連合部隊〕と共に参りました。はあっ……。アストレル家当主エルスの妻、ジェーンと申します。はあっ……。」

息継ぎをしながらの発言だったので、はっきりとは聞き取れなかったオフシグ。
『何だって?』と再び問う。

「ですから、アストレル家の者です。はあっ……。胸のブローチを……。」

そう言って、胸元を開こうとする。
いきなり何をするっ!
思わず目を伏せるオフシグ。
代わりに、傭兵の1人が女の胸元へ手を突っ込み。
それらしき物を取り出す。
恐る恐る目を開け、胸元がはだけていない事を確認すると。
首から下がったブローチを手に取り、まじまじと見入るオフシグ。
コンコンとノックの様に叩きながら、材質を確認。
そしてブローチから手を放すと、押さえ付けている傭兵に命ずる。

「放して良し!」

すぐに女の身体から離れる傭兵達。
パップがオフシグに声を掛ける。

「ブローチは本物だったのか?」

「ああ。信じられん事にな……。」

ギロッと女を睨みながら発する、オフシグからの返事には。
未だに疑いの念が込められていた。
アストレル家の者、しかも女が。
何故ここに?
『先程申し上げたではありませんか』とボヤきながら、ゆっくりと立ち上がり。
軽くパンパンと、ドレスに付いた土埃つちぼこりを払う。
そしてオフシグの目の前まで進むと。
パンッ!
勢い良く、オフシグの左頬を平手打ち。
ギョッとするオフシグ。
一瞬、背中に冷たい感覚が走る傭兵達。

「何しやがる!」

お返しとばかりに、女をぶん殴ろうとするが。
馬から降りていたパップが、振り上げられたその右腕をガシッと掴む。
そして、オフシグに告げる。

「レディーに対する行いでは無いな。慎め。」

「何をーっ!俺ははたかれたんだぞ!こいつに!」

「『慎め』と言っておるのだ。相手は本物の12貴族なのだろう?無駄に汚名を着せられる事となるが、良いのか?」

「ぐっ……!」

貴族の女を殴ったとあっては、家名に傷が付く。
末代までの恥と、他家から揶揄やゆされよう。
ギリギリの所で踏み止まったオフシグ。
今回ばかりは、冷静に事へ当たったパップを褒める他無い。
少々、頭に血が上っていた様だ。
それでも負けず嫌いなオフシグは。

「と、取り押さえた事は謝らんぞ!どう見ても、怪しい奴だったのだからな!」

そう言って、プイとそっぽを向く。
仕方が無い、私が代わるか。
女に事情を聴く係を、オフシグから受け継ぐパップ。
落ち着いた、低いトーンで。
女に質問して行く。
パップが紳士的な態度を取ったので。
ペラペラとあれこれ話す女。
それもどう言う訳か、得意気に。



「と言う訳なのです。」

話し終わったジェーンは満足そう。
考え込むパップ。
ジェーンの話では。
別動隊は確かに、ワインデューへ到着していた。
こちらと同時期に、奇襲を掛けようとしていたとも。
しかし敵に動きがバレ、逆に攻められた。
その為、戦力はバラバラと成り。
兵士達は方々へ逃げて行った。
辛くも難を逃れたジェーンは、救援を求めて。
本隊が有る方を目指し、ずっと森の中を突き進んでいた。
そして漸く、道へと出た。
そこで、傭兵達に取り押さえられたと言う訳だ。
なるほど、筋は通っている。
通ってはいるが。
何かがおかしい。
帝国軍本隊を構成している、ヅオウ軍の兵士達。
そいつ等は国境付近を目指したまま、戻って来ない。
分隊が攻められて瓦解したのなら、ヅオウ軍の方へ逃げている兵士も居る筈。
ジェーンがここへ到達したのだ、とうに接触しているだろう。
なのに、何のリアクションも無い。
伝令がこちらへ向かって来る様子も見られない。
一概には信じられん。
眉をひそめるパップ。
入れ替わりに、オフシグが質問する。
ジェーンの醸し出す雰囲気を怪しむ様に。

「エルスの妻だと言ったな?」

「はい、そうですが?」

さも当然と言った感じに、返答するジェーン。
その耳元で、ボソッと言うオフシグ。
余計な奴等に聞かれない様。

『ならば、ケミーヤ教から遣わされた者だろう?なぜ逃げる?』

『と申されますと?』

何かを悟ったのだろう。
小声で返すジェーン。
続けるオフシグ。

『お前も使えるのだろう?不思議な術が。』

『それは人それぞれです。使える者も居れば、使えない者も……。』

淡々とそう言い掛けるジェーンの上から、言葉を被せるオフシグ。
不気味にニタリと笑いながら。



『エルスの奴から聞いたぞ?《俺の所へ来た奴は凄いんだ》って言う自慢をな。』



『な、何の事です?』

戸惑いの声を上げるジェーン。
オフシグが続ける。

『謙遜するな。俺は嬉しいんだ。強力な援軍が来てくれてな。』

そして今度は大声で。
隊列の後ろへ向かって右手を指しながら、オフシグは言い放つ。

「《あれ》もお前の仕業なんだろ?」

「あれ?あれとは何だ?」

気になったパップも、その方向へ振り向く。
すると、そこには。
森の中から伸びて来た木の根でグルグル巻きにされている、ホオタリと少女。
辛うじてかわしたスズメの魔物が、必死にツンツンつついて解こうとするが。
ガタイの小さい魔物では、まるで歯が立たない。
ガッチリと縛られ、身動きが取れず。
『ううっ……』と泣き出すホオタリ。
口を塞がれ、『ぐぉぐぉ』と何か唸っている少女。
それをボーッと突っ立って見ている、ケミーヤ教の残党3人。
話をしている間に、これ等をこなしたのか?
それとも、道に出た時から既に……。
そこまで考えた所で。
こ奴、ただ者では無い!
身体に戦慄が走るパップ。
一方鞍上のロイスは、皇帝の傍を離れず。
庇ったまま、少し離れた所から様子をうかがう。
その顔は、警戒心を露わにし。
まるで同類を見る目付き。
周りを取り囲んでいた、約100名の傭兵達は。
頭の中がこんがらがって、動きを止めている。
その中で。
逆に一番冷静となったオフシグが。
ジェーンへ向かって叫ぶ。

「正体は問うまい!きっちり仕事をしてくれればな!」

その発言に反応する様に。
シュッ!
瞬時に皇帝の右側へ回り込むジェーン。
右手を天高く振りかざし、手刀の形を取って。
フッ。
軽く振り下ろす。
すると、馬を傷付けずに。
鞍諸共、皇帝の鎧をぶった切る。
やった!
心の中で、オフシグは叫ぶ。
そして空しく、ガラガランと音を立てながら。
鎧の破片が、地面へと散らばった。
しおりを挟む

処理中です...