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第1章 おしかけパートナー
第6話 捨てちゃった
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「あっ、こっちが先に名乗らないで訊くのは失礼だよね。私の名前は明香っていうんだ。もしかしたら、知ってるかもしれないけど」
「ううん、知らない」
正直な所、名前などに興味は無い。だが余計なことは言わない方が良いだろう。
「良かったら名前で呼んで。呼び捨てで良いから」
「さやか?」
「うん」
「さやか……明香」
名前なんて個々を識別する記号でしかない筈。なのに彼女の名を呼ぶだけで、何かが満たされるような感覚を覚える。
(変なの。たかが名前を口にしただけなのに)
僅かな間に己が作り変えられたようにおかしな気分なのに、それが全く嫌ではない。これからも何か新しい変化があるのかと思うと楽しみだ。
「特に呼び難そうな感じも無さそうだね」
「うん、これからは明香って呼ばせてもらうよ。キミって呼ぶ時もあるかもしれないけど」
あまり誰かの名前を呼び慣れていない。長年の習慣は変わらないものだ。暫くは違和感を拭えない可能性がある。
「それで話を戻すけど、貴方の名前を教えて欲しいの」
おかしな質問ではない。先に名乗ったので礼を失した訳でもない筈。
なのに、それに対する反応は予想外のものだった。
「名前、ボクの、名前は……」
気軽に答えられる質問だと思ったのに、口ごもり俯くその姿に、地雷を踏んだのかと少しばかり戸惑う。
「あっ、もしかして『名前はまだ無い』ってやつ? それとも真名は明かせないとか? だったら悪いこと訊いちゃったかな」
隠そうとして隠し切れない焦りを滲ませつつ言葉を紡ぐ彼女から、こちらを傷付けないで済む着地点を探る心を感じ取り、身体が弛緩するのを感じた。気付かない内に強張っていたようだ。
彼女がどれ程心を軽くしてくれているのか計り知れない。
不躾な侵入からの諸々をあっさりと受け入れてくれるだけでも嬉しいのに。胸の辺りが疼いて、身体が浮き上がるような感覚に身を委ねる。
「あっ、また浮いてる」
「えっ? ああ、ホントだ」
無意識に浮いてたらしい。気付かぬ内に何かをしているなんて、赤子の時以来だ。彼の力の強さでは、下手をすると周囲に甚大な被害を齎す危険性がある。
(気を付けよう。彼女に何かあったら耐えられる気がしない)
「自分でも気付いてなかったの?」
「そうだね、何かふわっと? したような気分になったら、自然とそうなってたみたい」
そう言う間にもくるんと回ったり、空中で寝そべるポーズを取りながら明香を見つめたりと、色々な動きを見せてくれる。
見慣れた自分の部屋が異空間にでもなったようだ。
(名前については有耶無耶にした方が良いよね。この子に嫌な思いはさせたくないし)
「それでね、名前の件だけど」
このまま流してしまおうと決意した瞬間、相手に蒸し返された。なら向き合うしかないだろう。
「ボク、自分の名前が嫌いでね」
「あ、名前はあるのね。でも嫌いなの?」
どん名前なのか一瞬気になった。けれど本人が嫌がっているので、訊くのはご法度だ。
「キミの世界でもいるみたいだね、親に付けられた名前が気に入らない人」
「まあ自分で付けるものじゃないからね。あと、物凄く突飛な名前で苦労する人もいるよ」
「何処の世界でも一緒か。ボクの場合は名前を捨てたんだよ。どうせ呼ばれることも無いし、困らないから」
溜め息混じりに話す姿に、少し気の毒になる。
「で、ボクは名前ナシで良いと思ってたんだけど、キミは呼びたいの?」
「呼びたいって言うか、ちょっと不便かなって。でも、このまま二人だけで話すなら必要ないのかな」
「無いんじゃないかな。でも、キミに名前を呼ばれてみたい気もするし……そうだ! 明香が付けてよ」
名案とばかりに飛び跳ねる彼を呆然と見上げて呟く。
「私が?」
「うん。この世界では名前を変える人もいるんでしょ? それって凄く良いことだと思うよ。忌み嫌う名前を後生大事にとっておくなんて馬鹿げてる」
「忌み嫌うとまで言うのは相当だね。でも、私が付けて良いの? 名付けなんてやったこと無いんだけど」
今は入院中の猫は兄が名付けた。迎え入れた時、明香はまだ喃語しか話せない赤ん坊だったのだから、仕方ないことだが。
「明香に頼みたい。ね、お願い」
「分かったよ」
小首を傾げて頼むのは絶対にわざとだ。自分の可愛さを理解して利用している。
それが分かっているのに、屈してしまう。
(子供と動物には勝てないって本当だなあ)
そもそも、明香は別に名付けが嫌だとも思っていないのだが。
「でも責任重大だ。どんなのが良いかな。私が変な名前を付けたら、貴方は二度も名付けで不快な気分になるんだよね」
「明香なら大丈夫だよ」
不安の欠片も見せずに言い切る姿に嬉しいとは思うものの、少し重いと感じる。出会ったばかりで、何故そんなに無邪気に信じられるのか。
「キミは人を徒に傷付けない。それは良く分かるから安心してるんだよ」
「そっか。うん、ありがとう」
そう告げた瞬間、急にひらめいた。
「フラッフィーって、どうかな」
「フラッフィー?」
「うん。ふわふわとかモフモフって意味だよ」
余りに安直だ。でも、この子にぴったりだと思う。
「フラッフィー。うん、良いね。今からボクはフラッフィーだ」
空中で何度も宙返りしている姿を見上げ、改めて呼びかける。
「よろしく、フラッフィー」
「よろしく、明香」
「ううん、知らない」
正直な所、名前などに興味は無い。だが余計なことは言わない方が良いだろう。
「良かったら名前で呼んで。呼び捨てで良いから」
「さやか?」
「うん」
「さやか……明香」
名前なんて個々を識別する記号でしかない筈。なのに彼女の名を呼ぶだけで、何かが満たされるような感覚を覚える。
(変なの。たかが名前を口にしただけなのに)
僅かな間に己が作り変えられたようにおかしな気分なのに、それが全く嫌ではない。これからも何か新しい変化があるのかと思うと楽しみだ。
「特に呼び難そうな感じも無さそうだね」
「うん、これからは明香って呼ばせてもらうよ。キミって呼ぶ時もあるかもしれないけど」
あまり誰かの名前を呼び慣れていない。長年の習慣は変わらないものだ。暫くは違和感を拭えない可能性がある。
「それで話を戻すけど、貴方の名前を教えて欲しいの」
おかしな質問ではない。先に名乗ったので礼を失した訳でもない筈。
なのに、それに対する反応は予想外のものだった。
「名前、ボクの、名前は……」
気軽に答えられる質問だと思ったのに、口ごもり俯くその姿に、地雷を踏んだのかと少しばかり戸惑う。
「あっ、もしかして『名前はまだ無い』ってやつ? それとも真名は明かせないとか? だったら悪いこと訊いちゃったかな」
隠そうとして隠し切れない焦りを滲ませつつ言葉を紡ぐ彼女から、こちらを傷付けないで済む着地点を探る心を感じ取り、身体が弛緩するのを感じた。気付かない内に強張っていたようだ。
彼女がどれ程心を軽くしてくれているのか計り知れない。
不躾な侵入からの諸々をあっさりと受け入れてくれるだけでも嬉しいのに。胸の辺りが疼いて、身体が浮き上がるような感覚に身を委ねる。
「あっ、また浮いてる」
「えっ? ああ、ホントだ」
無意識に浮いてたらしい。気付かぬ内に何かをしているなんて、赤子の時以来だ。彼の力の強さでは、下手をすると周囲に甚大な被害を齎す危険性がある。
(気を付けよう。彼女に何かあったら耐えられる気がしない)
「自分でも気付いてなかったの?」
「そうだね、何かふわっと? したような気分になったら、自然とそうなってたみたい」
そう言う間にもくるんと回ったり、空中で寝そべるポーズを取りながら明香を見つめたりと、色々な動きを見せてくれる。
見慣れた自分の部屋が異空間にでもなったようだ。
(名前については有耶無耶にした方が良いよね。この子に嫌な思いはさせたくないし)
「それでね、名前の件だけど」
このまま流してしまおうと決意した瞬間、相手に蒸し返された。なら向き合うしかないだろう。
「ボク、自分の名前が嫌いでね」
「あ、名前はあるのね。でも嫌いなの?」
どん名前なのか一瞬気になった。けれど本人が嫌がっているので、訊くのはご法度だ。
「キミの世界でもいるみたいだね、親に付けられた名前が気に入らない人」
「まあ自分で付けるものじゃないからね。あと、物凄く突飛な名前で苦労する人もいるよ」
「何処の世界でも一緒か。ボクの場合は名前を捨てたんだよ。どうせ呼ばれることも無いし、困らないから」
溜め息混じりに話す姿に、少し気の毒になる。
「で、ボクは名前ナシで良いと思ってたんだけど、キミは呼びたいの?」
「呼びたいって言うか、ちょっと不便かなって。でも、このまま二人だけで話すなら必要ないのかな」
「無いんじゃないかな。でも、キミに名前を呼ばれてみたい気もするし……そうだ! 明香が付けてよ」
名案とばかりに飛び跳ねる彼を呆然と見上げて呟く。
「私が?」
「うん。この世界では名前を変える人もいるんでしょ? それって凄く良いことだと思うよ。忌み嫌う名前を後生大事にとっておくなんて馬鹿げてる」
「忌み嫌うとまで言うのは相当だね。でも、私が付けて良いの? 名付けなんてやったこと無いんだけど」
今は入院中の猫は兄が名付けた。迎え入れた時、明香はまだ喃語しか話せない赤ん坊だったのだから、仕方ないことだが。
「明香に頼みたい。ね、お願い」
「分かったよ」
小首を傾げて頼むのは絶対にわざとだ。自分の可愛さを理解して利用している。
それが分かっているのに、屈してしまう。
(子供と動物には勝てないって本当だなあ)
そもそも、明香は別に名付けが嫌だとも思っていないのだが。
「でも責任重大だ。どんなのが良いかな。私が変な名前を付けたら、貴方は二度も名付けで不快な気分になるんだよね」
「明香なら大丈夫だよ」
不安の欠片も見せずに言い切る姿に嬉しいとは思うものの、少し重いと感じる。出会ったばかりで、何故そんなに無邪気に信じられるのか。
「キミは人を徒に傷付けない。それは良く分かるから安心してるんだよ」
「そっか。うん、ありがとう」
そう告げた瞬間、急にひらめいた。
「フラッフィーって、どうかな」
「フラッフィー?」
「うん。ふわふわとかモフモフって意味だよ」
余りに安直だ。でも、この子にぴったりだと思う。
「フラッフィー。うん、良いね。今からボクはフラッフィーだ」
空中で何度も宙返りしている姿を見上げ、改めて呼びかける。
「よろしく、フラッフィー」
「よろしく、明香」
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