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magnolia
magnolia Ⅰ
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magnolia Ⅰ
泥中の蓮という言葉がある。
“蓮の花は泥の中でも美しい花を咲かせる”
それはつまりどんなに穢れた所に在っても浄らかなままでいる存在の事を言う。
祖母や親戚たちは幼い自分の頭を撫でながら事あるごとに「良い名前を付けてもらったねえ」「仏さまの花なのだからきっと清らかな子になるよ」と言ってきた。
名付けてくれたのは祖父だった。
皆から慕われており、自分も大好きな人だ。
褒められていることは分かった。
嬉しいと思わなければいけないとも分かっていた。
けれど、成長するにつれて胸の奥に溜まっていくのは泥のような違和感ばかりだった。
名付けられた名前が自分のものではないような気がした。
何処か遠くで浮かんでいる白く透けた花。
静謐で触れれば壊れてしまいそうなそれは自分とは明らかに違っていた。
蓮の花には似つかわしくなかった。
自分は、花じゃない。
自分は、花になれない。
清らかでも、美しくでも、誰かの心を癒せるような存在でもない。
どこにでもいる、何者にもなれない存在。
どうして、自分なんかにこの名前をつけたのだろう。
自分はこうして泥の中に沈んでいるだけなのに。
這い上がる手すら持たずに静かに溺れていく、名前だけの存在。
「路上で突然の発火死、だってさ」
春先の冷たい空気がまだ残る朝。
白木蓮(しらき れん)はオフィスの自席で書類を整理していた手を思わず止めた。爽やかな朝の空気には、あまりにそぐわない言葉だった。
「また?例のやつでしょ?都会は怖いねぇ」
オフィスの隅で上司たちが立ち話をしている。
声が大きいのと、蓮の席が近いせいで否が応でも反応してしまう。
壁に掛けられたテレビではニュース番組が無音のまま流れ続け、彼らはそれを囲むようにして画面を覗き込んでいた。
近頃、都内を中心に発生している連続異常死事件。
その異様さと残虐性は新聞やニュースサイトの見出しを思い出すだけで蓮の胸をざわつかせる。上司達に気付かれないように小さく首を振り気持ちを落ち着かせるべく両手で顔を覆い深呼吸をした。
ここU市はそんな首都から離れた地方都市。
歴史ある街並みと自然が穏やかに共存している。首都の繁華街のような華やかさは無いが、時間がゆっくりと流れているような、そんな場所だ。
そしてここ、蓮が勤める会社「株式会社オートリ」。
インテリアや海外輸入雑貨を取り扱う商社だ。入社してちょうど一年、新人という肩書きもそろそろ外れる時期だが、その毎日は目立った変化もなく、淡々と過ぎていた。
今日も変わらない日常の筈。
そうあって欲しい。蓮は自分に言い聞かせる。
「やっぱりさ、犯人は……「魔女」なんじゃないか?」
「……ホントに居るのかねぇ、そういうの」
「いるよ、俺のカミさんの婆さんがそうだったって聞いた事ある」
「ええ?そうなの?」
上司たちの雑談は遠慮なくヒートアップしていく。蓮はなるべく気にしないよう目の前のパソコン画面に集中する事にした。受信ボックスを開き、メールのチェックに意識を向ける。
『魔女』
ここで言う“魔女”とは、童話の中に登場するような存在でもなければ、歴史において弾圧され迫害受けた女性たちのことでもない。
彼女たちは“現実に存在する”とされている。
断定できないのは蓮自身がまだその目で見たことがないからだ。しかし現代社会において、ごく一部の女性が「人ならざる力」を宿しているという事実を国家はすでに黙認している。
“魔女”は生まれながらにして特異な力を持つ。
その能力は千差万別で、まるで手品師か超能力者のようだとも言われている。たとえば、空を飛ぶ、物を浮かせる、炎を操る──。
そういった異能が彼女たちには備わっているのだ。
“魔女”は太古より人知れず存在していたとされ、戦中・戦後の混乱のなかで、その存在と力が次第に公になっていった。
だが近代に入り彼女たちは社会秩序を乱しかねない「脅威」として捉えられ、政府によって法的・倫理的な規制が課されるようになる。
魔女は、政治や公安組織に所属してはならない。
魔女の能力は、公的な場で使用してはならない。
“魔女”は、社会からは一線を画された存在となった。国家にとって潜在的な脅威でありながら、その力に頼らざるを得ない場面もある。曖昧で、隔離された存在。それが現代に生きる「魔女」だった。
そんな彼女たちに興味本位で「一度会ってみたい」と考える人間は決して少なくない。テレビ番組で視聴者の好奇心を煽るように特集されているのを目にしたこともあったが、あれもほとんどが作り物で本当に魔女なのかどうかも怪しいものだった。
蓮はできることなら関わりたくないと思っていた。
昔から幽霊や妖怪といった、人智を超えた存在が怖かった。
正体の見えない、得体の知れないものが自分の生活に土足で踏み込んでくる、そうした存在に平穏をかき乱されることが何よりも嫌だった。
「白木くん、用意できた?そろそろ向かうよ」
「あ、はい」
デスク越しに部長が声をかけてきた。
今日は、隣接する企業への売り込みと宣伝業務で、部長と二人で外出する予定だった。
正直なところ、蓮はこうした外回りの営業が得意ではない。
いつまで経っても慣れず、緊張ばかりしてしまう。うまく笑うことすらできない自分が、そういう仕事を難なくこなせる人たちを羨ましく思うのは、もう癖のようなものだった。
しかも、今日の行き先は──あのMISだ。
『Magami Industry Systems』。
通称 MIS(マガミ・インダストリー・システムズ)。
世界規模で名を馳せる巨大企業。製薬、産業工学、情報技術など多角的に事業を展開し、その名は、誰もが無意識に耳にしている。
ここ、U市にもその支社や研究施設、工場などの大型施設がいくつもあり、都市の発展を牽引している存在だ。
そんな企業を前に、平常心でいられる自信は、蓮にはない。
オフィスの窓の向こう。
まるで塔のようにそびえ立つMISのビルが、無言の圧をもってこちらを見下ろしていた。
(……別に俺じゃなくても良いのに)
最初に話を振られたとき、蓮は一度、遠慮した。
あのMISに行きたがっている社員は、きっと他にもいるはずだ。
たとえば、蓮の一つ上の先輩である桧山。
体調を崩して最近は欠勤が続いているが、もし元気だったなら、真っ先に手を挙げていただろう。
MISへの訪問は、彼のような意欲ある人間にとっては“名誉”にも近い仕事だ。
だが、今の職場に若手と呼べる人間は蓮しかおらず、結局、自分が“消去法で選ばれた”のだと理解していた
(……早く終わって帰りたい)
平日の朝。
街には、出勤する人々の足取りが途切れることなく続き、MISの高層ビルの前には自然と人の流れができている。
その人波を前に立ち尽くしながら、蓮は思わず、ひとつため息を漏らした。
「そうだ白木くん、あれを見ておきなさいよ」
気後れする自分に構わず部長の方はさっさと入り口の自動ドアに吸い込まれていってしまう。
慌ててその後を追いかけながらロビーへと到着した蓮はその空間を見上げた。
自分の会社のものより幾分も広いロビーは磨き上げられた大理石の床が照明を映してまばゆく輝いていた。高く伸びる天井には幾何学的な意匠が施され、そこから降り注ぐ自然光が、空間全体に柔らかな明るさを与えている。
中央にある大理石の台座が目に留まった。
「ああ、あったあった。これだ」
部長が駆け寄り、誇らしげに指差す。
その上に飾られているのは鳥と花を象ったガラスのオブジェ。
海外の熟練職人が手掛けたというオーダーメイドの一点物だ。
自然光がガラスに反射し煌びやかな光を放つ。かつて、それを蓮の会社が手配した事、その依頼を受けたのは自分だと部長から何度も聞かされていた。
実物を見て、改めて、その優美さに納得しながらも蓮は別の思いを内心抱いていた。
此処は自分の日常がまるで子供の描いた箱庭のように思えるほど、すべてが洗練されている。一流企業とはこういう所なんだと思い知らされた。
ふと、あんなに賑やかだったロビーが静寂に包まれた気がした。周囲を振り返ると特に女性たちが妙に落ち着かない様子で、ある一点に視線を向けている事に気づいた。彼女たちの視線の先──そこに、いた。
長身の男と、その隣に立つ端正な女性。
男は一見地味なダークグレーのスーツに身を包んでいたが、その佇まいはまるで舞台に立つ役者のようだった。
涅色の艶やかな髪が額をかすめ、切れ長の目の奥に光るのは、異国の色を含んだ榛色の瞳。
静かに微笑みながら話すその姿は、美術館の彫像のように完璧だった。
「……あの人、真神(まがみ)さんだよ。MIS本部のスウェーデンから視察で来てるそうだ」
隣に立つ部長が耳打ちしてくる。
「君より幾つか年上…だったかな、あの若さで執行役員だなんて相当なやり手だよ」
部長のその後に続く話を聞きながら、蓮は記憶の底から引き上げられるような感覚に襲われる。
(あの人…どこかで…)
それは数日前、春先の、最後の雪がちらつく頃のことだった。
仕事からの帰り道、高級車が蓮の横をゆっくりと通り過ぎた。車内のガラスに透けて見えた横顔。その、あまりの美しさに息をのんだ。
その時も隣に美しい女性が座っていた。
まさに、今目の前にいる二人。
「……あ」
その瞬間だった。
真神がこちらの方に顔を向ける。その視線が蓮を捉えた。
偶然視線が合う。
いや、引き寄せられたような錯覚。
榛色の双眸が大きく見開かれ────
バンッ──ッ!
まるで爆発のような音とともに、空間に響き渡る破裂音。
蓮の意識が一瞬、真っ白になった。
誰かの悲鳴が上がる。
砕けたガラスの破片が空中を舞い、光を反射する。あのガラスのオブジェが、粉々に割れていた。
「っ……!」
咄嗟に顔を庇った腕に鋭い痛みが走る。
恐々見ると、スーツの袖が裂けその下の皮膚に細い傷が刻まれていた。
赤い血が、じわりと滲む。
「……白木くん! 大丈夫かい!?」
部長の声が遠くに聞こえる。
だが、蓮の意識は別のところにあった。
血のにじむ、蓮の腕を見つめる男。
それは真神だった。
正確に言えばにじむ血の赤さ、ただそれだけを一心に見つめている。
その視線は驚愕だけでなく、何か、全く別の感情に彩られていた。
背中をぞくりと冷気が撫でる。
「……あ」
真神という男の目から柔らかな光が消えていた。
何処か深い闇を湛えた色。
それを見た瞬間、蓮は、深淵を覗き込んでしまったような錯覚に陥った。
何か──決して見てはならないものを見てしまった、そんな感覚。
「ッ……!」
逃げ出したいのに、目を逸らすことができなかった。
体がその場に縛りつけられたように、動けなかった。
「怪我、大丈夫ですか?」
かけられた声に金縛りが解けたように全身の力が抜けた。
蓮は駆け寄ってきた男を見上げる。
真神は、端整な顔立ちを曇らせて心配な表情を浮かべていた。
先ほどのあの不気味な気配は、まるで幻だったかのように影も形もない。
「あ、あの…へいき、です……」
「直ぐに手当しましょう、医務室へ案内しますから」
真神は落ち着かせるような、労りを纏った声で蓮に話しかけてきた。背中に軽く手を添えられる。
(あれは……一体……?)
歩きながらも、蓮は混乱の只中にいた。
さっき自分の身に何が起きたのか、まるで理解できずにいる。
「……はぁ」
今日、何度目のため息だろう。
クリーム色で統一された、上品で静謐な休憩室。
蓮は柔らかなソファに身を沈め、細めた目元を手で覆った。
傷は浅い。
飛び散った破片は驚くほど鋭利だったが、そのぶん切り口は綺麗で、処置もしやすかったのだという。しっかりと巻かれた包帯は少し仰々しくも見えるが、これも数日で治るだろう。
あんな割れ方をしたのに、奇跡的にも大きな怪我人は出なかった。
部長は殆ど無傷で、周囲にいた人々も軽傷で済んだらしい。
まるで何かに守られていたような、信じがたい偶然だった。
小さなクリニックかと思われるほど充実した設備と人員が揃う医務室で、蓮はすぐに手当てを受けた。処置が終わるとそのままこの部屋へ通され、今に至る。
医務室まで付き添ってくれた真神は「ロビーの様子を確認してくる」と言い残し姿を消し、
途中まで同行していた部長も、管理課の社員に呼ばれ、先ほどの件について対応に追われていた。
(……あの時……あれは偶然だったのか?)
破裂したガラスの音。鋭く飛び散った破片。まるで見えない力に弾け飛ばされたような——。
蓮は目を開き天井を仰いだ。
(……あの人と目が合った途端、だった……)
まるで二人の間に火花が生まれ、そこから引火し爆発したような作用の仕方だった。
(そんな事、普通に考えても……ありえない)
何度思い返しても、蓮にはそうとしか思えなかった。
(喩えるなら……そう、あれは——)
明らかに、人知を超えた現象。
「……魔女」
ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋の中に沈む。
「失礼します。ご気分はいかがですか?」
外から控えめにドアがノックされた。
その後に続く低く、落ち着いた声。
蓮は慌てて返事をし、反射的に立ち上がる。
現れたのは真神だった。
こちらを安心させようとする微笑みを浮かべ、蓮の姿に、「楽にしてください」と促した。
「自己紹介が遅くなりました。真神雪也(まがみ せつや)です。今日は我が社へ来訪して下さったのに本当に申し訳ありませんでした。貴方に怪我をさせてしまった事、心からお詫びします」
真神──雪也は深々と頭を下げた。完璧な礼儀だった。
どう見てもこちらが格下の相手の筈なのにそんな事までするなんて。
蓮は狼狽えながら手を振る。
「い、いえっ! そんな、大丈夫ですから……!」
一方、雪也は真剣な表情のまま、蓮の腕に巻かれた白い包帯を申し訳なさそうに見つめていた。
「痛みますよね……」
「い、いえ!もう大丈夫!……です、思ったより浅い傷でしたし、血もすぐに止まりましたから……ほらっ」
気遣わしげな雪也の視線に、蓮はつい元気そうに腕を振って見せた。
だが、動かした途端、痛みが走って思わず顔をしかめる。
その様子に、雪也は怪訝そうに眉を寄せた。
「……あっ!あの……し、白木蓮と申します。こちらこそ、ご挨拶が遅くなってしまって、すみません」
「いえ、大丈夫です。先ほど貴方の上司の方からお名前はうかがいました」
そういえば、ここへ来る途中部長が雪也と話していたのを思い出す。
蓮の辿々しい自己紹介に眉をひそめることもなく、雪也は相変わらず申し訳なさそうに微笑みながら言葉を続けた。
「……事故とはいえ、今回の件は私の不注意でした。せめて、何かお詫びをさせてください」
「えっ……!?い、いえ、お詫びなんて、とんでもないです!そんな……」
思いがけない申し出に、蓮は慌てて身を引くような態度をとってしまう。
今思えば、適当に礼だけ言ってやり過ごすのが大人の対応だったのかもしれない。
「いえ、そういうわけにはいきません。私の気が済みませんので……どうか、助けると思って」
「そ、そんな……でも……」
どうしてこの男は、明らかに自分より立場の低い商社の一社員に、ここまで食い下がるのだろう。
蓮は、軽率な返答をしたことを後悔しながら、榛色の瞳にじっと見つめられたまま、観念したように口を開いた。
「……分かり、ました……」
ここは、蓮が折れるしかなかった。
その言葉を聞いた途端、雪也の表情がぱっと綻ぶ。
「お引き受けいただきありがとうございます、白木さん」
「……!」
雪也の柔らかな笑顔に、心臓が不自然に跳ねた。
戸惑いながらも、蓮はどんな提案が来るのか分からず、ざわつく気持ちを抑えて身構える。
「……あの、もしよろしければ。今度、一緒に食事でもどうですか?」
「…………え?」
蓮は言葉を失ったまま、呆然とその場に立ち尽くした。
その反応を気にした様子もなく、雪也は少し困ったように首筋に手を当てる。
「……恥ずかしい話なんですが、こちらに来てから、まだ一度も外に出られていなくて。
この辺りに詳しい方を探していたんです。でも、なかなか見つからなくて……。
もし白木さんさえ良ければ、食事でもしながら、この街のことを教えていただけたら嬉しいです」
咄嗟に「そんな馬鹿な」と喉元まで出かかった言葉を、蓮は飲み込んだ。
視察で来ているというのに、同行者もおらず、地元の案内も受けていないというのは、常識的に考えればあり得ない話だ。
警戒心が胸を締めつける。
けれど、それ以上に湧き上がってきたのは、正体不明の高揚感だった。
あれほど堂々として、“いかにもやり手”といった空気を纏っていた彼が、今はまるで別人のように控えめで、どこか不安げですらある。
本来なら、こんな場面ではまず疑ってかかるべきだ。
彼の言葉も仕草も、どこか芝居じみているようで、妙に自然で、どこにもほころびが見つからない。
(……何なんだ、この人……)
だが、そんな疑念とは裏腹に。
雪也の視線は、まるで縋るように、蓮を離さなかった。
それが決定的だった。
断るべきだとわかっていたのに、口からこぼれたのは──
「……はい、分かりました」
またしても、あっけないほど弱々しい、承諾の言葉だった。
────────────────────────
件名:都心部における異常死事案に関する第一次報告書
報告日:〓〓年〓月〓日
提出者:公安部 特殊事件捜査係 魔女取締課(Malleus/マレウス)
概要
本報告書は、〓〓年〓月以降、都心部を中心に相次いで発生している不可解かつ暴力的な異常死事案について、現在判明している事実および初動対応の記録をまとめたものである。これらの事案は、現代科学的知見および常識的法医学的見解に照らして説明不可能な要素を多数含んでおり、人智を超える案件として、公安部内に設置された特殊事件捜査係・魔女取締課(通称:Malleus)において対応を進めている。
発生事案の概要
以下、発生が確認されている主要事案の概要を記す。
(1)裂断死事案
発生場所:都内某所・高架下付近
概要:男性の遺体が“四方に裂けた”状態で発見される。司法解剖の結果、車両・鉄道・機械類との接触によるものではなく、内部からの強い力によって引き裂かれた痕跡が確認される。既知の物理的外力では再現不可能とされる。
(2)発火死事案
発生場所:電車内、商業施設前路上 等
概要:対象者が群衆の中で突如として発火。即座に全身が燃焼し、死に至る。外部からの着火痕や燃焼助材の痕跡は一切なし。遺体の損傷程度は高く、身元確認に時間を要する。
(3)爆散事案
発生場所:地下通路内
概要:通行中の人物が突如内部から破裂するように爆散。周囲の数名が負傷。映像記録によれば、爆発の兆候・予兆は見られず、突然の事象であった。化学的・機械的な起爆装置の関与は確認されていない。
現状の対応と組織体制
本事案の性質上、通常の刑事・科学捜査では対処不能と判断。公安部長官の指示により、特殊事件捜査係「魔女取締課(Malleus)」が専従捜査班として任命された。
Malleus構成員(〓〓年〓〓月時点):
• 足立 徳(課長補佐/統括)
• 鏑屋 京悟(主任捜査官)
• 槙 彗一朗(分析官・交渉補佐)
• 朱雀野 杏果(捜査官)
• 炬口 累生(捜査員/欠員補助員)
• 鐡 鷹斗(捜査員/殉職)
鐡鷹斗は、初期捜査活動中に殉職。詳細は別紙殉職報告書を参照。
今後の捜査方針
現在、U市にて関連性が疑われる不審事案が複数報告されており、事件との接点が存在する可能性が高いと判断。これを受け、主任捜査官・鏑屋京悟を単独でU市に派遣し、潜入調査及び接触者特定を進行中。
現地からの報告は逐次、Malleus本部に送信され、必要に応じて補助要員を派遣する体制を整えている。
当該一連の異常死事案は、通常の刑法・科学的枠組みに収まらない“特異災害”と認識すべきである。Malleusは引き続き、不可視の脅威に対し即応可能な捜査体制を維持し、早期解明と被害抑止に努める。
添付資料:
・事案別写真記録(閲覧制限:Aレベル)
・鐡鷹斗 殉職報告書(機密指定)
・U市関連地図・関係者リスト(暫定)
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「……ただいま、車両点検の影響により、下り列車に一部遅れが発生しております。ご利用のお客様には——」
機械的なその声が、春の陽気の中でどこか間延びして聞こえた。
U市の玄関口である中央駅。
利用する人々で賑わうロータリーを抜けると、花壇に囲まれた広場があり中央には装飾的な噴水がゆるやかに水を吐き出している。
人通りの多い駅前の待ち合わせ場所としてよく使われる駅前の噴水だが、今日は人手は思った程多くはなく静けさを湛えていた。
(早く着いたつもりだったんだけど……あれ……もしかして)
蓮は携帯を開き、時刻を確認した。約束の時間まであと十五分もある。
噴水のそばに立つ姿が見えた。
周囲の風景に溶け込む一人の男。
蓮の足が、わずかに止まる。
初めて見た彼は完璧に整ったスーツ姿で、言葉も動作も一分の隙もなく制御されていた。だが今、目の前にいる彼は、ラフで、それでいて洗練された雰囲気を纏っていた。
シンプルなシャツに薄手のジャケット。淡いグレーのパンツ。色味も素材も柔らかく、どこか春の街と調和している。それでいて、立ち姿から漂う空気はやはり特別だった。
風に揺れる前髪の奥から覗いた眼差しと、視線が合った。
「……あのっ!」
思わず声が漏れる。蓮は慌てて歩を進め、ほんの少しだけ頭を下げた。
「すみません!待たせちゃいました……よね……?」
雪也は蓮の姿を目にすると、その美しい双眸を僅かに細め「いえ、僕もちょうど今来たところです」と微笑んだ。
柔らかくも、芯を持った光を帯びたその笑みに、蓮はまた息を呑む。
気を遣わせないようにさらりと返されて、それでもどこか見透かされている気がするのはなぜだろう。
優しさの裏に、静かな知性と意図が確かに潜んでいる、蓮はそう感じた。
あの騒動に巻き込まれた後の事。
建物の外まで見送りに出てきた雪也に蓮は丁寧に礼を言い、一度会社へ戻ることにした。自宅まで送ろうかと申し出られたが、それはさすがに過剰だと感じて丁重に断った。
会社に戻ると、すでに部長から事情を聞いていたのか、上司や同僚たちが次々に声をかけてきた。その中で、蓮が帰社したと知った部長が、なぜか不自然なほど上機嫌で姿を現した。
まずは事故に遭ったことへの労いの言葉。
大事に至らずよかったと告げると、続けてこう説明した。
件のオブジェの損壊について管理課が調べたところ、風が原因だったらしい。
当時ロビーでは外気取り込みのため一部を開放しており、そこから春特有の突風が吹き込んだ可能性が最も高い——というのが、社内の結論だった。
蓮は黙ってその説明を聞いていたが、胸の奥に引っかかるものがあった。
(……あれが、本当に風のせい?)
自分がその場で感じた”異質な気配”も、ただの思い込みだと片付けられてしまうのだろうか。納得している様子の周囲とは対照的に、蓮だけが説明に違和感を抱いていた。
「それと今日の件だけど、再訪問の同行、白木くんに是非ともお願いしたくてね」
部長はそこからが本題だと言わんばかりに、身を乗り出してきた。
どうやら、あの会合には雪也も再び同席する予定で、先方との日程調整の際、彼から直接「よければ御社の特定の社員にも再同行してほしい」と連絡があったという。
もちろん、その「特定の社員」とは蓮のことだった。
それを聞いた瞬間、蓮は気づく。
やはり、全ては彼の思惑のうちだったのかもしれない。あらかじめ仕組まれていた一手。
部長の説明から自然と伝わってきたのは、あの“真神雪也”からの指名がどれほど異例なことかという事。そして、それを断るなど到底許されないという無言の圧力だった。
「こんな機会は二度とない」「逃すな」「断るなんてあり得ない」。
言葉にされなくても、そう強く突きつけられている気がして、蓮はただ、弱々しく了承することしか出来なかった。
雪也はきっと、ごく自然な流れの中で人を動かすことに長けている人物なのだろう。
表立って主張するわけでもなく、ただ空気を読み、相手に「自分でそう選んだ」と思わせるように。
それが若くして一流企業の上層に名を連ねる彼の力なんだと思った。そして同時に蓮は感じた。自分は今回、その彼の駒の一つにされたのだと。
「そうそう、あのね白木さん。そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「……え?」
くだけた口調の雪也が、じっとこちらを見つめていた。
いきなり距離感を縮めてきた事に対してにうまく反応できず、拍子抜けするこちらに彼は苦笑しながら言葉を続ける。
「嘘だと思うかもしれないけど、今日は本当に楽しみにしてたんだ」
まるで内心を読まれているかのような言葉に、蓮は背筋がさっと冷えるのを感じた。
確かにここへ来るまで、いくつもの可能性を頭の中で巡らせていた。どうして自分が誘われたのか、その理由ばかりを考えて。
脅しか、それとも罠か。両方か。
もしどちらでも無いとしても自分はどう振る舞えばいいのか。
MISを訪れたときと同じ——早くこの場が終わってほしいと、そればかりを願っていた。
「年、そんなに離れてないでしょ? 同世代で話せる相手が欲しかった。これも本当のことだよ」
「……そう、なんですか……」
まだ疑念が顔に出ていたのだろう。雪也の口調は、どこか宥めるようなものに変わる。
「ここでは、仕事の立場とか気にせず、普通に話してほしいな」
「……でも、その……」
「真神さんは偉い人だから」そう言いかけて、蓮は言葉を詰まらせる。
確か、雪也は三つか四つ上だったはずだ。それでいて、あの立場。自分の感覚では、到底そこまで上り詰められる年齢じゃない。
「周りは年上ばかりだからね。若いってだけで軽く見られることもある。だから、そういうの抜きで、ちゃんと話がしたいんだけど……なかなか難しいよね」
ふっと漏らされたため息に、蓮は意外そうに目を見開いた。
こちらの心を読んでいるようでいて、それを責めるわけでもなく、ただ同じ世代としての本音をそっとこぼす。その姿に思わず口が開いてしまった。
「……真神さんは、俺なんかよりずっと格好いいし、堂々としてるから、全然軽くなんて……ないです」
自分なりの精一杯の言葉だった。嫌味にならないように気を配ったつもりだが、まっすぐに向けられる瞳に耐えきれず、蓮は視線を逸らしてしまう。
「ありがとう、白木さん」
「い、いえ……」
穏やかで、どこか寂しさの混じった声が返ってくる。
「だから、というか……、その……そんな真神さんが、どうして俺みたいなのを 誘ってくれたのかなって思って……俺でいいのかなって、思ってしまって……」
これくらいなら大丈夫だろうか。
ほんの少しだけ、本音を言葉に乗せてみる。
雪也はわずかに首を傾げ、これまででいちばん優しい笑みを浮かべた。
「君のこと、もっと知りたいって思ったんだ。それが理由だよ」
道すがら、蓮は建物の窓ガラスに映る自分達の姿をみて、自分の格好を意識した。
休日の服装としてのいつもの地味なデニムとシャツとカーディガン。春の空気には少しだけ重たい色合い。街ゆく人たちと比べても、雪也と並ぶには明らかに見劣りがする気がして心が縮こまった。独りの時なら全然気にもならなかったのに。
(こんなことなら、もう少しちゃんと選べばよかったな……)
最初から疑いの姿勢でいた自分を雪也は全て解っていて敢えて誘ったのだ。
誤解を解こうと歩み寄る彼の思いに気付き、蓮は少し落ち込んだ。そんな沈んだ表情の自分に対し、雪也はただ穏やかな表情で、自然な距離感で寄り添い、歩幅を合わせて歩いてくれている。
最初に向かったのは、旧市街の歴史的建造物が立ち並ぶ通りだった。
駅から少し離れたこの場所へは、乗った事がないという雪也の希望で路面電車に揺られてやって来た。
蓮も普段、電車しか乗った事が無く、街中を走る姿はよく目にするが、そういえば乗るのは初めてだと溢し電車内で雪也と微笑みあった。
やがて着いた明治期の洋館やかつての市役所跡などの名所へと続く、石畳が残る細い路地を歩く。
春の柔らかな陽光が降り注ぎ、満開の桜が通りを華やかに彩っていた。
「……ここ、春と、もう少しすると夏にもお祭りがあって、屋台がずらっと並ぶんです。春のはもう終わっちゃったか……。その、けっこう賑やかで……。真神さん、は……お祭りとか行く方ですか?」
蓮の問いかけに、雪也は顎に手を添えて小さく考え込んだ。
「うん? お祭り? 楽しそうだね。こっちだと、パレードみたいなものなのかな。もうすぐ“ワルプルギスの夜祭”があるんだけど」
「ワルプルギス……?」
「魔女のお祭りだよ」
「えっ!? ま、魔女!?」
からかうような雪也の口調に蓮は分かっていながら、つい真に受けてしまう。
その後、雪也から簡単な説明を受けて誤解は解けたが、どこか楽しげな彼の調子に、蓮は苦笑をこぼした。
道中、すれ違う外国人観光客が何人か、雪也に話しかけてきた。
彼の、外から来た者の匂いを何となく感じ取るのだろうか。
一方の怖気付く蓮には見向きもしなかった。蓮には分からない言葉で話す人々に対し、雪也は自然に笑って応じていた。気取らず、軽やかに。
その姿に、ただ感心するしかなかった。
「……真神さんって格好良いですよね。堂々としてて、話し方も落ち着いてて」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
対する雪也は少しも動じず、やさしい笑みを浮かべて言った。
「そうかな? 僕は、君みたいに誠実な人のほうが、よっぽど素敵だと思うけど」
柔らかな声で返されたその言葉に、蓮は思わず視線を落とした。
そんなのはきっとお世辞だろう。
けれど、そんなふうに言われ慣れているわけもなく、頬の奥が熱くなる。
不意に雪也が身体をぐっと近づけてきた。端正な面がすぐ目の前にあったような気がした。
「……それとね、呼び方。ここではそんなに畏まらなくていいよ。“雪也”って呼んで?」
「え……あ、えっと……」」
雪也の、懇願するような声色にに戸惑いながら、どうにか口にする。
「じゃあ……雪也、さん……?」
ぎこちなくそう呼ぶと、雪也は目を細めて微笑んだ。
どこか、満足げに。
「ありがとう、白木さん」
その声が胸の奥に触れた瞬間、きゅっと何かが締めつけられる。
痛いような、あたたかいような、名もない感情だった。
昼になり、二人はとある場所へ向かった。
ことの発端となった肝心の食事だが、結局、蓮が時々利用する和食の小料理屋に決まった。
その佇まいは旧市街の外れの、川のほとりでひっそりと暖簾を掲げている。供された料理は、いずれも素朴ながら丁寧に仕立てられ、その一品一品に雪也は静かに驚きながら箸を進め、時折、深く頷いていた。
「ねえ、白木さん」
午後、川沿いの遊歩道を二人は並んで歩いた。
こちらも桜が満開で、世界全体が淡い桃色の光に包まれていた。
「白木さんの名前ってさ……」
蓮がふと川の流れに視線をやった瞬間、不意に投げかけられた言葉に、身体がわずかに強張る。
また、あの話をされるのだろうか——。
名の由来を聞かれるたび、無意識に身構えてしまう。
そんな蓮の隣から、静かに雪也の声が降ってきた。
「……木蓮の花から来てるの?」
意外な一言に、呆気にとられる。
(……木蓮?)
蓮の花のことを言われるのだとばかり思っていた。
これまでずっとそうだった。
名乗るたびに、水に浮かぶあの神聖で清らかな花の話を向けられてきた。
そのたびに、名の重さが胸にのしかかっていた。
けれど、雪也はためらいもなく、「木蓮」と言った。まるで、最初からそれしか思い浮かばなかったかのように。
「木蓮ってさ、冬の終わりに咲く花っていうイメージなんだ。昔……よく見かけてね。
寒さを乗り越えて春を迎える姿がどこか儚くて……。君の名前を聞いた時、僕は直ぐ白い木蓮の花が浮かんだ」
「……そう、なんですね」
蓮はそっと視線を落とす。
今まで、誰にも言われたことがなかった。
「蓮の花」ではなく、「木蓮」と。
ただそれだけの違いなのに、心にじんわりと広がるものがある。
「……ありがとうございます。ちょっと意外でびっくりしてしまって……」
「意外?」
「“蓮”って名前……大抵の人は“蓮の花”の事を思い浮かべるから……」
「ああ、たしかに。そっちの方が一般的かもね。でも、君は木蓮の方が似合ってる気がする」
そう言って雪也は、蓮を見つめ「嫌だった?」と済まなさそうに微笑んだ。
その眼差しは、どこまでも自然で、優しくて。
「いいえ、嬉しいです」
蓮も自然とつられ、笑っていた。
胸の奥で、何かがゆっくりと解けていく。
凍りついてしまっていた何かが。
蓮は静かに、けれど確かに鼓動が早まっていくのを感じていた。
「白木さん……僕も君のこと“蓮”って呼んでもいい?」
「え……?」
胸の奥に形作られていた形が変わっていく。
重たい水面で漂う白く、霞みがかったものが別の何かに。
控えめに差し出された願いに、蓮は小さく微笑み、こくりと頷いた。
散策の最終点は、待ち合わせた中央駅近くの喫茶店になった。
二人ともコーヒーを一杯ずつ頼み、他愛もない会話を重ねていた。
「……今日はありがとう。いろんな景色が見られて、楽しかった」
「こちらこそ。雪也さんと一緒に歩くと、いつもの場所が少し違って見えました」
帰り際、二人は自然に挨拶を交わした。蓮の穏やかな笑顔に、雪也は少し眩しそうに目を細める。
「また……こうして逢えたら、嬉しいな」
その言葉に込められた切実な願いに、蓮は迷うことなく答える。
「——もちろんです」
それは、命令されたからでもなく、恐れからの回避でもなかった。
気づけば、彼への警戒は、まるで春の陽射しに溶ける雪のように、跡形もなく消えていた。
泥中の蓮という言葉がある。
“蓮の花は泥の中でも美しい花を咲かせる”
それはつまりどんなに穢れた所に在っても浄らかなままでいる存在の事を言う。
祖母や親戚たちは幼い自分の頭を撫でながら事あるごとに「良い名前を付けてもらったねえ」「仏さまの花なのだからきっと清らかな子になるよ」と言ってきた。
名付けてくれたのは祖父だった。
皆から慕われており、自分も大好きな人だ。
褒められていることは分かった。
嬉しいと思わなければいけないとも分かっていた。
けれど、成長するにつれて胸の奥に溜まっていくのは泥のような違和感ばかりだった。
名付けられた名前が自分のものではないような気がした。
何処か遠くで浮かんでいる白く透けた花。
静謐で触れれば壊れてしまいそうなそれは自分とは明らかに違っていた。
蓮の花には似つかわしくなかった。
自分は、花じゃない。
自分は、花になれない。
清らかでも、美しくでも、誰かの心を癒せるような存在でもない。
どこにでもいる、何者にもなれない存在。
どうして、自分なんかにこの名前をつけたのだろう。
自分はこうして泥の中に沈んでいるだけなのに。
這い上がる手すら持たずに静かに溺れていく、名前だけの存在。
「路上で突然の発火死、だってさ」
春先の冷たい空気がまだ残る朝。
白木蓮(しらき れん)はオフィスの自席で書類を整理していた手を思わず止めた。爽やかな朝の空気には、あまりにそぐわない言葉だった。
「また?例のやつでしょ?都会は怖いねぇ」
オフィスの隅で上司たちが立ち話をしている。
声が大きいのと、蓮の席が近いせいで否が応でも反応してしまう。
壁に掛けられたテレビではニュース番組が無音のまま流れ続け、彼らはそれを囲むようにして画面を覗き込んでいた。
近頃、都内を中心に発生している連続異常死事件。
その異様さと残虐性は新聞やニュースサイトの見出しを思い出すだけで蓮の胸をざわつかせる。上司達に気付かれないように小さく首を振り気持ちを落ち着かせるべく両手で顔を覆い深呼吸をした。
ここU市はそんな首都から離れた地方都市。
歴史ある街並みと自然が穏やかに共存している。首都の繁華街のような華やかさは無いが、時間がゆっくりと流れているような、そんな場所だ。
そしてここ、蓮が勤める会社「株式会社オートリ」。
インテリアや海外輸入雑貨を取り扱う商社だ。入社してちょうど一年、新人という肩書きもそろそろ外れる時期だが、その毎日は目立った変化もなく、淡々と過ぎていた。
今日も変わらない日常の筈。
そうあって欲しい。蓮は自分に言い聞かせる。
「やっぱりさ、犯人は……「魔女」なんじゃないか?」
「……ホントに居るのかねぇ、そういうの」
「いるよ、俺のカミさんの婆さんがそうだったって聞いた事ある」
「ええ?そうなの?」
上司たちの雑談は遠慮なくヒートアップしていく。蓮はなるべく気にしないよう目の前のパソコン画面に集中する事にした。受信ボックスを開き、メールのチェックに意識を向ける。
『魔女』
ここで言う“魔女”とは、童話の中に登場するような存在でもなければ、歴史において弾圧され迫害受けた女性たちのことでもない。
彼女たちは“現実に存在する”とされている。
断定できないのは蓮自身がまだその目で見たことがないからだ。しかし現代社会において、ごく一部の女性が「人ならざる力」を宿しているという事実を国家はすでに黙認している。
“魔女”は生まれながらにして特異な力を持つ。
その能力は千差万別で、まるで手品師か超能力者のようだとも言われている。たとえば、空を飛ぶ、物を浮かせる、炎を操る──。
そういった異能が彼女たちには備わっているのだ。
“魔女”は太古より人知れず存在していたとされ、戦中・戦後の混乱のなかで、その存在と力が次第に公になっていった。
だが近代に入り彼女たちは社会秩序を乱しかねない「脅威」として捉えられ、政府によって法的・倫理的な規制が課されるようになる。
魔女は、政治や公安組織に所属してはならない。
魔女の能力は、公的な場で使用してはならない。
“魔女”は、社会からは一線を画された存在となった。国家にとって潜在的な脅威でありながら、その力に頼らざるを得ない場面もある。曖昧で、隔離された存在。それが現代に生きる「魔女」だった。
そんな彼女たちに興味本位で「一度会ってみたい」と考える人間は決して少なくない。テレビ番組で視聴者の好奇心を煽るように特集されているのを目にしたこともあったが、あれもほとんどが作り物で本当に魔女なのかどうかも怪しいものだった。
蓮はできることなら関わりたくないと思っていた。
昔から幽霊や妖怪といった、人智を超えた存在が怖かった。
正体の見えない、得体の知れないものが自分の生活に土足で踏み込んでくる、そうした存在に平穏をかき乱されることが何よりも嫌だった。
「白木くん、用意できた?そろそろ向かうよ」
「あ、はい」
デスク越しに部長が声をかけてきた。
今日は、隣接する企業への売り込みと宣伝業務で、部長と二人で外出する予定だった。
正直なところ、蓮はこうした外回りの営業が得意ではない。
いつまで経っても慣れず、緊張ばかりしてしまう。うまく笑うことすらできない自分が、そういう仕事を難なくこなせる人たちを羨ましく思うのは、もう癖のようなものだった。
しかも、今日の行き先は──あのMISだ。
『Magami Industry Systems』。
通称 MIS(マガミ・インダストリー・システムズ)。
世界規模で名を馳せる巨大企業。製薬、産業工学、情報技術など多角的に事業を展開し、その名は、誰もが無意識に耳にしている。
ここ、U市にもその支社や研究施設、工場などの大型施設がいくつもあり、都市の発展を牽引している存在だ。
そんな企業を前に、平常心でいられる自信は、蓮にはない。
オフィスの窓の向こう。
まるで塔のようにそびえ立つMISのビルが、無言の圧をもってこちらを見下ろしていた。
(……別に俺じゃなくても良いのに)
最初に話を振られたとき、蓮は一度、遠慮した。
あのMISに行きたがっている社員は、きっと他にもいるはずだ。
たとえば、蓮の一つ上の先輩である桧山。
体調を崩して最近は欠勤が続いているが、もし元気だったなら、真っ先に手を挙げていただろう。
MISへの訪問は、彼のような意欲ある人間にとっては“名誉”にも近い仕事だ。
だが、今の職場に若手と呼べる人間は蓮しかおらず、結局、自分が“消去法で選ばれた”のだと理解していた
(……早く終わって帰りたい)
平日の朝。
街には、出勤する人々の足取りが途切れることなく続き、MISの高層ビルの前には自然と人の流れができている。
その人波を前に立ち尽くしながら、蓮は思わず、ひとつため息を漏らした。
「そうだ白木くん、あれを見ておきなさいよ」
気後れする自分に構わず部長の方はさっさと入り口の自動ドアに吸い込まれていってしまう。
慌ててその後を追いかけながらロビーへと到着した蓮はその空間を見上げた。
自分の会社のものより幾分も広いロビーは磨き上げられた大理石の床が照明を映してまばゆく輝いていた。高く伸びる天井には幾何学的な意匠が施され、そこから降り注ぐ自然光が、空間全体に柔らかな明るさを与えている。
中央にある大理石の台座が目に留まった。
「ああ、あったあった。これだ」
部長が駆け寄り、誇らしげに指差す。
その上に飾られているのは鳥と花を象ったガラスのオブジェ。
海外の熟練職人が手掛けたというオーダーメイドの一点物だ。
自然光がガラスに反射し煌びやかな光を放つ。かつて、それを蓮の会社が手配した事、その依頼を受けたのは自分だと部長から何度も聞かされていた。
実物を見て、改めて、その優美さに納得しながらも蓮は別の思いを内心抱いていた。
此処は自分の日常がまるで子供の描いた箱庭のように思えるほど、すべてが洗練されている。一流企業とはこういう所なんだと思い知らされた。
ふと、あんなに賑やかだったロビーが静寂に包まれた気がした。周囲を振り返ると特に女性たちが妙に落ち着かない様子で、ある一点に視線を向けている事に気づいた。彼女たちの視線の先──そこに、いた。
長身の男と、その隣に立つ端正な女性。
男は一見地味なダークグレーのスーツに身を包んでいたが、その佇まいはまるで舞台に立つ役者のようだった。
涅色の艶やかな髪が額をかすめ、切れ長の目の奥に光るのは、異国の色を含んだ榛色の瞳。
静かに微笑みながら話すその姿は、美術館の彫像のように完璧だった。
「……あの人、真神(まがみ)さんだよ。MIS本部のスウェーデンから視察で来てるそうだ」
隣に立つ部長が耳打ちしてくる。
「君より幾つか年上…だったかな、あの若さで執行役員だなんて相当なやり手だよ」
部長のその後に続く話を聞きながら、蓮は記憶の底から引き上げられるような感覚に襲われる。
(あの人…どこかで…)
それは数日前、春先の、最後の雪がちらつく頃のことだった。
仕事からの帰り道、高級車が蓮の横をゆっくりと通り過ぎた。車内のガラスに透けて見えた横顔。その、あまりの美しさに息をのんだ。
その時も隣に美しい女性が座っていた。
まさに、今目の前にいる二人。
「……あ」
その瞬間だった。
真神がこちらの方に顔を向ける。その視線が蓮を捉えた。
偶然視線が合う。
いや、引き寄せられたような錯覚。
榛色の双眸が大きく見開かれ────
バンッ──ッ!
まるで爆発のような音とともに、空間に響き渡る破裂音。
蓮の意識が一瞬、真っ白になった。
誰かの悲鳴が上がる。
砕けたガラスの破片が空中を舞い、光を反射する。あのガラスのオブジェが、粉々に割れていた。
「っ……!」
咄嗟に顔を庇った腕に鋭い痛みが走る。
恐々見ると、スーツの袖が裂けその下の皮膚に細い傷が刻まれていた。
赤い血が、じわりと滲む。
「……白木くん! 大丈夫かい!?」
部長の声が遠くに聞こえる。
だが、蓮の意識は別のところにあった。
血のにじむ、蓮の腕を見つめる男。
それは真神だった。
正確に言えばにじむ血の赤さ、ただそれだけを一心に見つめている。
その視線は驚愕だけでなく、何か、全く別の感情に彩られていた。
背中をぞくりと冷気が撫でる。
「……あ」
真神という男の目から柔らかな光が消えていた。
何処か深い闇を湛えた色。
それを見た瞬間、蓮は、深淵を覗き込んでしまったような錯覚に陥った。
何か──決して見てはならないものを見てしまった、そんな感覚。
「ッ……!」
逃げ出したいのに、目を逸らすことができなかった。
体がその場に縛りつけられたように、動けなかった。
「怪我、大丈夫ですか?」
かけられた声に金縛りが解けたように全身の力が抜けた。
蓮は駆け寄ってきた男を見上げる。
真神は、端整な顔立ちを曇らせて心配な表情を浮かべていた。
先ほどのあの不気味な気配は、まるで幻だったかのように影も形もない。
「あ、あの…へいき、です……」
「直ぐに手当しましょう、医務室へ案内しますから」
真神は落ち着かせるような、労りを纏った声で蓮に話しかけてきた。背中に軽く手を添えられる。
(あれは……一体……?)
歩きながらも、蓮は混乱の只中にいた。
さっき自分の身に何が起きたのか、まるで理解できずにいる。
「……はぁ」
今日、何度目のため息だろう。
クリーム色で統一された、上品で静謐な休憩室。
蓮は柔らかなソファに身を沈め、細めた目元を手で覆った。
傷は浅い。
飛び散った破片は驚くほど鋭利だったが、そのぶん切り口は綺麗で、処置もしやすかったのだという。しっかりと巻かれた包帯は少し仰々しくも見えるが、これも数日で治るだろう。
あんな割れ方をしたのに、奇跡的にも大きな怪我人は出なかった。
部長は殆ど無傷で、周囲にいた人々も軽傷で済んだらしい。
まるで何かに守られていたような、信じがたい偶然だった。
小さなクリニックかと思われるほど充実した設備と人員が揃う医務室で、蓮はすぐに手当てを受けた。処置が終わるとそのままこの部屋へ通され、今に至る。
医務室まで付き添ってくれた真神は「ロビーの様子を確認してくる」と言い残し姿を消し、
途中まで同行していた部長も、管理課の社員に呼ばれ、先ほどの件について対応に追われていた。
(……あの時……あれは偶然だったのか?)
破裂したガラスの音。鋭く飛び散った破片。まるで見えない力に弾け飛ばされたような——。
蓮は目を開き天井を仰いだ。
(……あの人と目が合った途端、だった……)
まるで二人の間に火花が生まれ、そこから引火し爆発したような作用の仕方だった。
(そんな事、普通に考えても……ありえない)
何度思い返しても、蓮にはそうとしか思えなかった。
(喩えるなら……そう、あれは——)
明らかに、人知を超えた現象。
「……魔女」
ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋の中に沈む。
「失礼します。ご気分はいかがですか?」
外から控えめにドアがノックされた。
その後に続く低く、落ち着いた声。
蓮は慌てて返事をし、反射的に立ち上がる。
現れたのは真神だった。
こちらを安心させようとする微笑みを浮かべ、蓮の姿に、「楽にしてください」と促した。
「自己紹介が遅くなりました。真神雪也(まがみ せつや)です。今日は我が社へ来訪して下さったのに本当に申し訳ありませんでした。貴方に怪我をさせてしまった事、心からお詫びします」
真神──雪也は深々と頭を下げた。完璧な礼儀だった。
どう見てもこちらが格下の相手の筈なのにそんな事までするなんて。
蓮は狼狽えながら手を振る。
「い、いえっ! そんな、大丈夫ですから……!」
一方、雪也は真剣な表情のまま、蓮の腕に巻かれた白い包帯を申し訳なさそうに見つめていた。
「痛みますよね……」
「い、いえ!もう大丈夫!……です、思ったより浅い傷でしたし、血もすぐに止まりましたから……ほらっ」
気遣わしげな雪也の視線に、蓮はつい元気そうに腕を振って見せた。
だが、動かした途端、痛みが走って思わず顔をしかめる。
その様子に、雪也は怪訝そうに眉を寄せた。
「……あっ!あの……し、白木蓮と申します。こちらこそ、ご挨拶が遅くなってしまって、すみません」
「いえ、大丈夫です。先ほど貴方の上司の方からお名前はうかがいました」
そういえば、ここへ来る途中部長が雪也と話していたのを思い出す。
蓮の辿々しい自己紹介に眉をひそめることもなく、雪也は相変わらず申し訳なさそうに微笑みながら言葉を続けた。
「……事故とはいえ、今回の件は私の不注意でした。せめて、何かお詫びをさせてください」
「えっ……!?い、いえ、お詫びなんて、とんでもないです!そんな……」
思いがけない申し出に、蓮は慌てて身を引くような態度をとってしまう。
今思えば、適当に礼だけ言ってやり過ごすのが大人の対応だったのかもしれない。
「いえ、そういうわけにはいきません。私の気が済みませんので……どうか、助けると思って」
「そ、そんな……でも……」
どうしてこの男は、明らかに自分より立場の低い商社の一社員に、ここまで食い下がるのだろう。
蓮は、軽率な返答をしたことを後悔しながら、榛色の瞳にじっと見つめられたまま、観念したように口を開いた。
「……分かり、ました……」
ここは、蓮が折れるしかなかった。
その言葉を聞いた途端、雪也の表情がぱっと綻ぶ。
「お引き受けいただきありがとうございます、白木さん」
「……!」
雪也の柔らかな笑顔に、心臓が不自然に跳ねた。
戸惑いながらも、蓮はどんな提案が来るのか分からず、ざわつく気持ちを抑えて身構える。
「……あの、もしよろしければ。今度、一緒に食事でもどうですか?」
「…………え?」
蓮は言葉を失ったまま、呆然とその場に立ち尽くした。
その反応を気にした様子もなく、雪也は少し困ったように首筋に手を当てる。
「……恥ずかしい話なんですが、こちらに来てから、まだ一度も外に出られていなくて。
この辺りに詳しい方を探していたんです。でも、なかなか見つからなくて……。
もし白木さんさえ良ければ、食事でもしながら、この街のことを教えていただけたら嬉しいです」
咄嗟に「そんな馬鹿な」と喉元まで出かかった言葉を、蓮は飲み込んだ。
視察で来ているというのに、同行者もおらず、地元の案内も受けていないというのは、常識的に考えればあり得ない話だ。
警戒心が胸を締めつける。
けれど、それ以上に湧き上がってきたのは、正体不明の高揚感だった。
あれほど堂々として、“いかにもやり手”といった空気を纏っていた彼が、今はまるで別人のように控えめで、どこか不安げですらある。
本来なら、こんな場面ではまず疑ってかかるべきだ。
彼の言葉も仕草も、どこか芝居じみているようで、妙に自然で、どこにもほころびが見つからない。
(……何なんだ、この人……)
だが、そんな疑念とは裏腹に。
雪也の視線は、まるで縋るように、蓮を離さなかった。
それが決定的だった。
断るべきだとわかっていたのに、口からこぼれたのは──
「……はい、分かりました」
またしても、あっけないほど弱々しい、承諾の言葉だった。
────────────────────────
件名:都心部における異常死事案に関する第一次報告書
報告日:〓〓年〓月〓日
提出者:公安部 特殊事件捜査係 魔女取締課(Malleus/マレウス)
概要
本報告書は、〓〓年〓月以降、都心部を中心に相次いで発生している不可解かつ暴力的な異常死事案について、現在判明している事実および初動対応の記録をまとめたものである。これらの事案は、現代科学的知見および常識的法医学的見解に照らして説明不可能な要素を多数含んでおり、人智を超える案件として、公安部内に設置された特殊事件捜査係・魔女取締課(通称:Malleus)において対応を進めている。
発生事案の概要
以下、発生が確認されている主要事案の概要を記す。
(1)裂断死事案
発生場所:都内某所・高架下付近
概要:男性の遺体が“四方に裂けた”状態で発見される。司法解剖の結果、車両・鉄道・機械類との接触によるものではなく、内部からの強い力によって引き裂かれた痕跡が確認される。既知の物理的外力では再現不可能とされる。
(2)発火死事案
発生場所:電車内、商業施設前路上 等
概要:対象者が群衆の中で突如として発火。即座に全身が燃焼し、死に至る。外部からの着火痕や燃焼助材の痕跡は一切なし。遺体の損傷程度は高く、身元確認に時間を要する。
(3)爆散事案
発生場所:地下通路内
概要:通行中の人物が突如内部から破裂するように爆散。周囲の数名が負傷。映像記録によれば、爆発の兆候・予兆は見られず、突然の事象であった。化学的・機械的な起爆装置の関与は確認されていない。
現状の対応と組織体制
本事案の性質上、通常の刑事・科学捜査では対処不能と判断。公安部長官の指示により、特殊事件捜査係「魔女取締課(Malleus)」が専従捜査班として任命された。
Malleus構成員(〓〓年〓〓月時点):
• 足立 徳(課長補佐/統括)
• 鏑屋 京悟(主任捜査官)
• 槙 彗一朗(分析官・交渉補佐)
• 朱雀野 杏果(捜査官)
• 炬口 累生(捜査員/欠員補助員)
• 鐡 鷹斗(捜査員/殉職)
鐡鷹斗は、初期捜査活動中に殉職。詳細は別紙殉職報告書を参照。
今後の捜査方針
現在、U市にて関連性が疑われる不審事案が複数報告されており、事件との接点が存在する可能性が高いと判断。これを受け、主任捜査官・鏑屋京悟を単独でU市に派遣し、潜入調査及び接触者特定を進行中。
現地からの報告は逐次、Malleus本部に送信され、必要に応じて補助要員を派遣する体制を整えている。
当該一連の異常死事案は、通常の刑法・科学的枠組みに収まらない“特異災害”と認識すべきである。Malleusは引き続き、不可視の脅威に対し即応可能な捜査体制を維持し、早期解明と被害抑止に努める。
添付資料:
・事案別写真記録(閲覧制限:Aレベル)
・鐡鷹斗 殉職報告書(機密指定)
・U市関連地図・関係者リスト(暫定)
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「……ただいま、車両点検の影響により、下り列車に一部遅れが発生しております。ご利用のお客様には——」
機械的なその声が、春の陽気の中でどこか間延びして聞こえた。
U市の玄関口である中央駅。
利用する人々で賑わうロータリーを抜けると、花壇に囲まれた広場があり中央には装飾的な噴水がゆるやかに水を吐き出している。
人通りの多い駅前の待ち合わせ場所としてよく使われる駅前の噴水だが、今日は人手は思った程多くはなく静けさを湛えていた。
(早く着いたつもりだったんだけど……あれ……もしかして)
蓮は携帯を開き、時刻を確認した。約束の時間まであと十五分もある。
噴水のそばに立つ姿が見えた。
周囲の風景に溶け込む一人の男。
蓮の足が、わずかに止まる。
初めて見た彼は完璧に整ったスーツ姿で、言葉も動作も一分の隙もなく制御されていた。だが今、目の前にいる彼は、ラフで、それでいて洗練された雰囲気を纏っていた。
シンプルなシャツに薄手のジャケット。淡いグレーのパンツ。色味も素材も柔らかく、どこか春の街と調和している。それでいて、立ち姿から漂う空気はやはり特別だった。
風に揺れる前髪の奥から覗いた眼差しと、視線が合った。
「……あのっ!」
思わず声が漏れる。蓮は慌てて歩を進め、ほんの少しだけ頭を下げた。
「すみません!待たせちゃいました……よね……?」
雪也は蓮の姿を目にすると、その美しい双眸を僅かに細め「いえ、僕もちょうど今来たところです」と微笑んだ。
柔らかくも、芯を持った光を帯びたその笑みに、蓮はまた息を呑む。
気を遣わせないようにさらりと返されて、それでもどこか見透かされている気がするのはなぜだろう。
優しさの裏に、静かな知性と意図が確かに潜んでいる、蓮はそう感じた。
あの騒動に巻き込まれた後の事。
建物の外まで見送りに出てきた雪也に蓮は丁寧に礼を言い、一度会社へ戻ることにした。自宅まで送ろうかと申し出られたが、それはさすがに過剰だと感じて丁重に断った。
会社に戻ると、すでに部長から事情を聞いていたのか、上司や同僚たちが次々に声をかけてきた。その中で、蓮が帰社したと知った部長が、なぜか不自然なほど上機嫌で姿を現した。
まずは事故に遭ったことへの労いの言葉。
大事に至らずよかったと告げると、続けてこう説明した。
件のオブジェの損壊について管理課が調べたところ、風が原因だったらしい。
当時ロビーでは外気取り込みのため一部を開放しており、そこから春特有の突風が吹き込んだ可能性が最も高い——というのが、社内の結論だった。
蓮は黙ってその説明を聞いていたが、胸の奥に引っかかるものがあった。
(……あれが、本当に風のせい?)
自分がその場で感じた”異質な気配”も、ただの思い込みだと片付けられてしまうのだろうか。納得している様子の周囲とは対照的に、蓮だけが説明に違和感を抱いていた。
「それと今日の件だけど、再訪問の同行、白木くんに是非ともお願いしたくてね」
部長はそこからが本題だと言わんばかりに、身を乗り出してきた。
どうやら、あの会合には雪也も再び同席する予定で、先方との日程調整の際、彼から直接「よければ御社の特定の社員にも再同行してほしい」と連絡があったという。
もちろん、その「特定の社員」とは蓮のことだった。
それを聞いた瞬間、蓮は気づく。
やはり、全ては彼の思惑のうちだったのかもしれない。あらかじめ仕組まれていた一手。
部長の説明から自然と伝わってきたのは、あの“真神雪也”からの指名がどれほど異例なことかという事。そして、それを断るなど到底許されないという無言の圧力だった。
「こんな機会は二度とない」「逃すな」「断るなんてあり得ない」。
言葉にされなくても、そう強く突きつけられている気がして、蓮はただ、弱々しく了承することしか出来なかった。
雪也はきっと、ごく自然な流れの中で人を動かすことに長けている人物なのだろう。
表立って主張するわけでもなく、ただ空気を読み、相手に「自分でそう選んだ」と思わせるように。
それが若くして一流企業の上層に名を連ねる彼の力なんだと思った。そして同時に蓮は感じた。自分は今回、その彼の駒の一つにされたのだと。
「そうそう、あのね白木さん。そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「……え?」
くだけた口調の雪也が、じっとこちらを見つめていた。
いきなり距離感を縮めてきた事に対してにうまく反応できず、拍子抜けするこちらに彼は苦笑しながら言葉を続ける。
「嘘だと思うかもしれないけど、今日は本当に楽しみにしてたんだ」
まるで内心を読まれているかのような言葉に、蓮は背筋がさっと冷えるのを感じた。
確かにここへ来るまで、いくつもの可能性を頭の中で巡らせていた。どうして自分が誘われたのか、その理由ばかりを考えて。
脅しか、それとも罠か。両方か。
もしどちらでも無いとしても自分はどう振る舞えばいいのか。
MISを訪れたときと同じ——早くこの場が終わってほしいと、そればかりを願っていた。
「年、そんなに離れてないでしょ? 同世代で話せる相手が欲しかった。これも本当のことだよ」
「……そう、なんですか……」
まだ疑念が顔に出ていたのだろう。雪也の口調は、どこか宥めるようなものに変わる。
「ここでは、仕事の立場とか気にせず、普通に話してほしいな」
「……でも、その……」
「真神さんは偉い人だから」そう言いかけて、蓮は言葉を詰まらせる。
確か、雪也は三つか四つ上だったはずだ。それでいて、あの立場。自分の感覚では、到底そこまで上り詰められる年齢じゃない。
「周りは年上ばかりだからね。若いってだけで軽く見られることもある。だから、そういうの抜きで、ちゃんと話がしたいんだけど……なかなか難しいよね」
ふっと漏らされたため息に、蓮は意外そうに目を見開いた。
こちらの心を読んでいるようでいて、それを責めるわけでもなく、ただ同じ世代としての本音をそっとこぼす。その姿に思わず口が開いてしまった。
「……真神さんは、俺なんかよりずっと格好いいし、堂々としてるから、全然軽くなんて……ないです」
自分なりの精一杯の言葉だった。嫌味にならないように気を配ったつもりだが、まっすぐに向けられる瞳に耐えきれず、蓮は視線を逸らしてしまう。
「ありがとう、白木さん」
「い、いえ……」
穏やかで、どこか寂しさの混じった声が返ってくる。
「だから、というか……、その……そんな真神さんが、どうして俺みたいなのを 誘ってくれたのかなって思って……俺でいいのかなって、思ってしまって……」
これくらいなら大丈夫だろうか。
ほんの少しだけ、本音を言葉に乗せてみる。
雪也はわずかに首を傾げ、これまででいちばん優しい笑みを浮かべた。
「君のこと、もっと知りたいって思ったんだ。それが理由だよ」
道すがら、蓮は建物の窓ガラスに映る自分達の姿をみて、自分の格好を意識した。
休日の服装としてのいつもの地味なデニムとシャツとカーディガン。春の空気には少しだけ重たい色合い。街ゆく人たちと比べても、雪也と並ぶには明らかに見劣りがする気がして心が縮こまった。独りの時なら全然気にもならなかったのに。
(こんなことなら、もう少しちゃんと選べばよかったな……)
最初から疑いの姿勢でいた自分を雪也は全て解っていて敢えて誘ったのだ。
誤解を解こうと歩み寄る彼の思いに気付き、蓮は少し落ち込んだ。そんな沈んだ表情の自分に対し、雪也はただ穏やかな表情で、自然な距離感で寄り添い、歩幅を合わせて歩いてくれている。
最初に向かったのは、旧市街の歴史的建造物が立ち並ぶ通りだった。
駅から少し離れたこの場所へは、乗った事がないという雪也の希望で路面電車に揺られてやって来た。
蓮も普段、電車しか乗った事が無く、街中を走る姿はよく目にするが、そういえば乗るのは初めてだと溢し電車内で雪也と微笑みあった。
やがて着いた明治期の洋館やかつての市役所跡などの名所へと続く、石畳が残る細い路地を歩く。
春の柔らかな陽光が降り注ぎ、満開の桜が通りを華やかに彩っていた。
「……ここ、春と、もう少しすると夏にもお祭りがあって、屋台がずらっと並ぶんです。春のはもう終わっちゃったか……。その、けっこう賑やかで……。真神さん、は……お祭りとか行く方ですか?」
蓮の問いかけに、雪也は顎に手を添えて小さく考え込んだ。
「うん? お祭り? 楽しそうだね。こっちだと、パレードみたいなものなのかな。もうすぐ“ワルプルギスの夜祭”があるんだけど」
「ワルプルギス……?」
「魔女のお祭りだよ」
「えっ!? ま、魔女!?」
からかうような雪也の口調に蓮は分かっていながら、つい真に受けてしまう。
その後、雪也から簡単な説明を受けて誤解は解けたが、どこか楽しげな彼の調子に、蓮は苦笑をこぼした。
道中、すれ違う外国人観光客が何人か、雪也に話しかけてきた。
彼の、外から来た者の匂いを何となく感じ取るのだろうか。
一方の怖気付く蓮には見向きもしなかった。蓮には分からない言葉で話す人々に対し、雪也は自然に笑って応じていた。気取らず、軽やかに。
その姿に、ただ感心するしかなかった。
「……真神さんって格好良いですよね。堂々としてて、話し方も落ち着いてて」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
対する雪也は少しも動じず、やさしい笑みを浮かべて言った。
「そうかな? 僕は、君みたいに誠実な人のほうが、よっぽど素敵だと思うけど」
柔らかな声で返されたその言葉に、蓮は思わず視線を落とした。
そんなのはきっとお世辞だろう。
けれど、そんなふうに言われ慣れているわけもなく、頬の奥が熱くなる。
不意に雪也が身体をぐっと近づけてきた。端正な面がすぐ目の前にあったような気がした。
「……それとね、呼び方。ここではそんなに畏まらなくていいよ。“雪也”って呼んで?」
「え……あ、えっと……」」
雪也の、懇願するような声色にに戸惑いながら、どうにか口にする。
「じゃあ……雪也、さん……?」
ぎこちなくそう呼ぶと、雪也は目を細めて微笑んだ。
どこか、満足げに。
「ありがとう、白木さん」
その声が胸の奥に触れた瞬間、きゅっと何かが締めつけられる。
痛いような、あたたかいような、名もない感情だった。
昼になり、二人はとある場所へ向かった。
ことの発端となった肝心の食事だが、結局、蓮が時々利用する和食の小料理屋に決まった。
その佇まいは旧市街の外れの、川のほとりでひっそりと暖簾を掲げている。供された料理は、いずれも素朴ながら丁寧に仕立てられ、その一品一品に雪也は静かに驚きながら箸を進め、時折、深く頷いていた。
「ねえ、白木さん」
午後、川沿いの遊歩道を二人は並んで歩いた。
こちらも桜が満開で、世界全体が淡い桃色の光に包まれていた。
「白木さんの名前ってさ……」
蓮がふと川の流れに視線をやった瞬間、不意に投げかけられた言葉に、身体がわずかに強張る。
また、あの話をされるのだろうか——。
名の由来を聞かれるたび、無意識に身構えてしまう。
そんな蓮の隣から、静かに雪也の声が降ってきた。
「……木蓮の花から来てるの?」
意外な一言に、呆気にとられる。
(……木蓮?)
蓮の花のことを言われるのだとばかり思っていた。
これまでずっとそうだった。
名乗るたびに、水に浮かぶあの神聖で清らかな花の話を向けられてきた。
そのたびに、名の重さが胸にのしかかっていた。
けれど、雪也はためらいもなく、「木蓮」と言った。まるで、最初からそれしか思い浮かばなかったかのように。
「木蓮ってさ、冬の終わりに咲く花っていうイメージなんだ。昔……よく見かけてね。
寒さを乗り越えて春を迎える姿がどこか儚くて……。君の名前を聞いた時、僕は直ぐ白い木蓮の花が浮かんだ」
「……そう、なんですね」
蓮はそっと視線を落とす。
今まで、誰にも言われたことがなかった。
「蓮の花」ではなく、「木蓮」と。
ただそれだけの違いなのに、心にじんわりと広がるものがある。
「……ありがとうございます。ちょっと意外でびっくりしてしまって……」
「意外?」
「“蓮”って名前……大抵の人は“蓮の花”の事を思い浮かべるから……」
「ああ、たしかに。そっちの方が一般的かもね。でも、君は木蓮の方が似合ってる気がする」
そう言って雪也は、蓮を見つめ「嫌だった?」と済まなさそうに微笑んだ。
その眼差しは、どこまでも自然で、優しくて。
「いいえ、嬉しいです」
蓮も自然とつられ、笑っていた。
胸の奥で、何かがゆっくりと解けていく。
凍りついてしまっていた何かが。
蓮は静かに、けれど確かに鼓動が早まっていくのを感じていた。
「白木さん……僕も君のこと“蓮”って呼んでもいい?」
「え……?」
胸の奥に形作られていた形が変わっていく。
重たい水面で漂う白く、霞みがかったものが別の何かに。
控えめに差し出された願いに、蓮は小さく微笑み、こくりと頷いた。
散策の最終点は、待ち合わせた中央駅近くの喫茶店になった。
二人ともコーヒーを一杯ずつ頼み、他愛もない会話を重ねていた。
「……今日はありがとう。いろんな景色が見られて、楽しかった」
「こちらこそ。雪也さんと一緒に歩くと、いつもの場所が少し違って見えました」
帰り際、二人は自然に挨拶を交わした。蓮の穏やかな笑顔に、雪也は少し眩しそうに目を細める。
「また……こうして逢えたら、嬉しいな」
その言葉に込められた切実な願いに、蓮は迷うことなく答える。
「——もちろんです」
それは、命令されたからでもなく、恐れからの回避でもなかった。
気づけば、彼への警戒は、まるで春の陽射しに溶ける雪のように、跡形もなく消えていた。
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