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第一話:人形の目覚め
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鏡に映るのは、人間ではない。
陶器のように滑らかな白い肌、陽光を弾くプラチナブロンドの長髪、そして血のように赤い唇。大きな紫水晶の瞳は、作り物めいたガラス玉の光を宿している。
公爵子息、ルシアン・ド・ヴァルロワ。
それが、今の俺の名前だった。
「……冗談じゃない」
絞り出した声は、鈴を転がすような、あまりに甘美な響きを持っていた。
俺は思わず自分の喉に手を当てる。
日本のどこにでもいた、三十路過ぎの平凡なサラリーマンだった頃の、低く掠れた声の記憶が急速に薄れていく。
ここは、前世で熱中したBLゲーム『聖アングレームの薔薇園』の世界。
しかも、俺が転生したのは、第三王子ルートの悪役令息ルシアンだった。
このゲームは凄まじかった。
貴族の子弟だけが通う全寮制の男子貴族院を舞台に、純朴な男爵令息の主人公が三人の攻略対象と恋に落ちる。
だが、その裏で渦巻くのは嫉妬と欲望、そして権力闘争。
エンディング次第では、凌辱・監禁・調教が当たり前のように描かれていた。
とくに、俺が転生したルシアンのバッドエンドは、群を抜いて苛烈だった。
――『断罪イベント』
主人公を虐げた罰として、第三王子アルフォンスにすべてを暴かれ、ヴァルロワ公爵家は爵位を剥奪される。
そしてルシアンは……大勢の貴族の所有物となる。
見目麗しく、王子の元婚約者という立場は極上の餌となったのだ。
記憶が脳裏を灼く。ゲームのスチルが鮮明に蘇った。
夜会の中央、シャンデリアの光を浴びて、四肢を鎖で拘束され、首輪だけをつけた全裸のルシアンが、鞭打たれながら貴族に、そして王子に「お仕置き」される場面。
絶頂と屈辱に歪む、この人形のような美しい顔。あのスチルには、前世の俺も随分と世話になったものだ。
だが、自分がその立場になるなど、死んでも御免だ。
「……そうだ、嫌われればいい」
原作のルシアンは、アルフォンス王子に盲目的に恋い焦がれ、その寵愛を得ようと主人公を陥れた。
ならば、その逆をいけばいい。
王子に徹底的に嫌われ、関心を失わせる。そうすれば、断罪イベントそのものが発生しないはずだ。
幸い、まだゲームは始まったばかり。
俺は誰にも気づかれず、破滅の運命から逃げ切ってみせる。
決意を固めた俺は、貴族院の壮麗な廊下を歩いていた。
従者であるレオンが数歩後ろを静かに付き従う。
計画は単純明快。王子には会わない、話さない、関わらない。
もし遭遇してしまったら――無礼で傲慢、どうしようもなく愚鈍な男を演じる。
この完璧な美貌に不釣り合いな、粗野な魂をこれでもかと見せつけてやるのだ。
……だが、運命とは皮肉なものらしい。
角を曲がった瞬間、甘く冷たい薔薇の香りが鼻腔を突いた。
目の前に、見慣れた人だかりができていた。その中心にいる人物を見て、俺の心臓は氷水に浸されたかのように冷たく跳ねた。
艶やかな黒檀の髪、見る者を射抜くような冷徹なアメジストの瞳。長身痩躯の身体を包む寸分の隙もない制服は、彼が王族であることを示している。
――第三王子、アルフォンス・ド・ラ・ヴァリエール。
そして、その傍らには少し困ったように俯く黒髪の少年。
野暮ったい印象の彼こそ、原作主人公ノア・アシュトン。
間違いない。
ゲームのイベントシーンだ。
王子が他の生徒に絡まれていたノアを助ける――最初の出会いの場面。
原作のルシアンはこの光景を遠くから見つめ、嫉妬の炎を燃やすはずだった。
「……っ」
逃げろ。
本能が警告を鳴らす。踵を返し、この場を去るんだ。
だが、俺が動くより先に、アルフォンスの紫水晶の瞳が、僅かにこちらに向けられた。
その視線が、俺の身体を縫い止める。
まずい。見られた。
原作通りならば、ここで俺は王子に駆け寄り、甘い声で媚びを売るはずだ。だからこそ、俺は真逆の行動をとった。
フン、と聞こえよがしに鼻を鳴らし、わざとらしく顔を顰めてみせる。
興味などない、と全身で示すように、露骨に視線を逸らし、その場を通り過ぎようとした。
完璧なはずだった。
これで王子も、不敬な俺に不快感を抱き、二度と関わってこないだろう。
その、はずだった。
「待て」
低く、有無を言わせぬ声が、背後から突き刺さる。
俺の腕が、硬い何かに掴まれた。
振り返ると、アルフォンスが氷のような無表情で俺を見下ろしていた。
その指は、まるで鋼の枷のように俺の腕に食い込み、痛みが走る。
「……何か、御用でしょうか、殿下」
できる限り無礼に、気だるげに問い返す。
視線は合わせず、唇をわざと尖らせてやる。
アルフォンスは何も言わない。
ただ、そのアメジストの瞳がじっと俺の顔を観察している。
値踏みするような、獲物を見る肉食獣のような、粘つく視線。
原作の彼は、ルシアンのことなど眼中にない、冷淡な王子だったはずだ。
こんな目を、するはずがない。
「……ルシアン」
やがて、王子が俺の名前を呼んだ。その声は、囁くように甘く、それでいて肌を粟立たせるような声音だった。
彼は俺の腕を掴んだまま、その手を滑らせ、手袋に包まれた指で俺の手首をなぞる。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
「お前、いつからそんな顔をするようになった?」
「……は?」
「いつも私の前では、媚びた子犬のように尻尾を振っていただろう。だが、今の目はどうだ?まるで、飼い主に牙を剥こうとする、躾のなっていない駄犬の目だ」
王子は楽しそうに、愉悦に唇の端を吊り上げた。
違う。こんなの、俺の知っているアルフォンスじゃない。
彼の瞳の奥で、昏く、ねじれた光が揺らめいている。それは、退屈を持て余した捕食者が、新しい玩具を見つけた時の光だった。
「……気安く触れないでいただきたい」
恐怖を押し殺し、俺は彼の指を振り払おうとした。
だが、王子の力はびくともしない。それどころか、彼はさらに力を込め、俺の手首を軋ませた。
「面白い」
アルフォンスは俺の耳元に顔を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
「実に、面白い。ただ美しいだけの人形だと思っていたが……壊せば、啼き声を上げるのか。躾がいがありそうだ」
心臓が凍り付く。
計画は、最悪の形で破綻した。
俺は王子に嫌われるどころか、彼の歪んだ加虐心を、真正面から煽ってしまったのだ。
運命から逃れるための必死の抵抗は、結果として、俺を更に深く、甘美な地獄へと突き落とす引き金となった。
断罪エンドとは違う。
もっと個人的で、執拗で、逃れられない。
アルフォンスという名の捕食者のための、新しいルートが今、幕を開けたのだ。
目の前のサディストは、獲物を前にした獣のように、恍惚と微笑んでいた。
陶器のように滑らかな白い肌、陽光を弾くプラチナブロンドの長髪、そして血のように赤い唇。大きな紫水晶の瞳は、作り物めいたガラス玉の光を宿している。
公爵子息、ルシアン・ド・ヴァルロワ。
それが、今の俺の名前だった。
「……冗談じゃない」
絞り出した声は、鈴を転がすような、あまりに甘美な響きを持っていた。
俺は思わず自分の喉に手を当てる。
日本のどこにでもいた、三十路過ぎの平凡なサラリーマンだった頃の、低く掠れた声の記憶が急速に薄れていく。
ここは、前世で熱中したBLゲーム『聖アングレームの薔薇園』の世界。
しかも、俺が転生したのは、第三王子ルートの悪役令息ルシアンだった。
このゲームは凄まじかった。
貴族の子弟だけが通う全寮制の男子貴族院を舞台に、純朴な男爵令息の主人公が三人の攻略対象と恋に落ちる。
だが、その裏で渦巻くのは嫉妬と欲望、そして権力闘争。
エンディング次第では、凌辱・監禁・調教が当たり前のように描かれていた。
とくに、俺が転生したルシアンのバッドエンドは、群を抜いて苛烈だった。
――『断罪イベント』
主人公を虐げた罰として、第三王子アルフォンスにすべてを暴かれ、ヴァルロワ公爵家は爵位を剥奪される。
そしてルシアンは……大勢の貴族の所有物となる。
見目麗しく、王子の元婚約者という立場は極上の餌となったのだ。
記憶が脳裏を灼く。ゲームのスチルが鮮明に蘇った。
夜会の中央、シャンデリアの光を浴びて、四肢を鎖で拘束され、首輪だけをつけた全裸のルシアンが、鞭打たれながら貴族に、そして王子に「お仕置き」される場面。
絶頂と屈辱に歪む、この人形のような美しい顔。あのスチルには、前世の俺も随分と世話になったものだ。
だが、自分がその立場になるなど、死んでも御免だ。
「……そうだ、嫌われればいい」
原作のルシアンは、アルフォンス王子に盲目的に恋い焦がれ、その寵愛を得ようと主人公を陥れた。
ならば、その逆をいけばいい。
王子に徹底的に嫌われ、関心を失わせる。そうすれば、断罪イベントそのものが発生しないはずだ。
幸い、まだゲームは始まったばかり。
俺は誰にも気づかれず、破滅の運命から逃げ切ってみせる。
決意を固めた俺は、貴族院の壮麗な廊下を歩いていた。
従者であるレオンが数歩後ろを静かに付き従う。
計画は単純明快。王子には会わない、話さない、関わらない。
もし遭遇してしまったら――無礼で傲慢、どうしようもなく愚鈍な男を演じる。
この完璧な美貌に不釣り合いな、粗野な魂をこれでもかと見せつけてやるのだ。
……だが、運命とは皮肉なものらしい。
角を曲がった瞬間、甘く冷たい薔薇の香りが鼻腔を突いた。
目の前に、見慣れた人だかりができていた。その中心にいる人物を見て、俺の心臓は氷水に浸されたかのように冷たく跳ねた。
艶やかな黒檀の髪、見る者を射抜くような冷徹なアメジストの瞳。長身痩躯の身体を包む寸分の隙もない制服は、彼が王族であることを示している。
――第三王子、アルフォンス・ド・ラ・ヴァリエール。
そして、その傍らには少し困ったように俯く黒髪の少年。
野暮ったい印象の彼こそ、原作主人公ノア・アシュトン。
間違いない。
ゲームのイベントシーンだ。
王子が他の生徒に絡まれていたノアを助ける――最初の出会いの場面。
原作のルシアンはこの光景を遠くから見つめ、嫉妬の炎を燃やすはずだった。
「……っ」
逃げろ。
本能が警告を鳴らす。踵を返し、この場を去るんだ。
だが、俺が動くより先に、アルフォンスの紫水晶の瞳が、僅かにこちらに向けられた。
その視線が、俺の身体を縫い止める。
まずい。見られた。
原作通りならば、ここで俺は王子に駆け寄り、甘い声で媚びを売るはずだ。だからこそ、俺は真逆の行動をとった。
フン、と聞こえよがしに鼻を鳴らし、わざとらしく顔を顰めてみせる。
興味などない、と全身で示すように、露骨に視線を逸らし、その場を通り過ぎようとした。
完璧なはずだった。
これで王子も、不敬な俺に不快感を抱き、二度と関わってこないだろう。
その、はずだった。
「待て」
低く、有無を言わせぬ声が、背後から突き刺さる。
俺の腕が、硬い何かに掴まれた。
振り返ると、アルフォンスが氷のような無表情で俺を見下ろしていた。
その指は、まるで鋼の枷のように俺の腕に食い込み、痛みが走る。
「……何か、御用でしょうか、殿下」
できる限り無礼に、気だるげに問い返す。
視線は合わせず、唇をわざと尖らせてやる。
アルフォンスは何も言わない。
ただ、そのアメジストの瞳がじっと俺の顔を観察している。
値踏みするような、獲物を見る肉食獣のような、粘つく視線。
原作の彼は、ルシアンのことなど眼中にない、冷淡な王子だったはずだ。
こんな目を、するはずがない。
「……ルシアン」
やがて、王子が俺の名前を呼んだ。その声は、囁くように甘く、それでいて肌を粟立たせるような声音だった。
彼は俺の腕を掴んだまま、その手を滑らせ、手袋に包まれた指で俺の手首をなぞる。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
「お前、いつからそんな顔をするようになった?」
「……は?」
「いつも私の前では、媚びた子犬のように尻尾を振っていただろう。だが、今の目はどうだ?まるで、飼い主に牙を剥こうとする、躾のなっていない駄犬の目だ」
王子は楽しそうに、愉悦に唇の端を吊り上げた。
違う。こんなの、俺の知っているアルフォンスじゃない。
彼の瞳の奥で、昏く、ねじれた光が揺らめいている。それは、退屈を持て余した捕食者が、新しい玩具を見つけた時の光だった。
「……気安く触れないでいただきたい」
恐怖を押し殺し、俺は彼の指を振り払おうとした。
だが、王子の力はびくともしない。それどころか、彼はさらに力を込め、俺の手首を軋ませた。
「面白い」
アルフォンスは俺の耳元に顔を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
「実に、面白い。ただ美しいだけの人形だと思っていたが……壊せば、啼き声を上げるのか。躾がいがありそうだ」
心臓が凍り付く。
計画は、最悪の形で破綻した。
俺は王子に嫌われるどころか、彼の歪んだ加虐心を、真正面から煽ってしまったのだ。
運命から逃れるための必死の抵抗は、結果として、俺を更に深く、甘美な地獄へと突き落とす引き金となった。
断罪エンドとは違う。
もっと個人的で、執拗で、逃れられない。
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