レンズ

カブラル

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分岐するホモ・サピエンス

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 人類にレンズが提供されてから10年が経過した。実際に使うか否かは個人の判断によるが、導入する場合、これらの人々の行動が結果として行政や教育そして経済に大きく影響するため、次第にレンズ導入組は集まりだし、独特の共同体を形成し始めた。

 レンズを受け入れた人々は「解放派」と呼ばれ、レンズを拒否または制限する人々は「基本派」と呼ばれた。前者は、レンズによる思考・感情・記憶・アイデンティティの再構築を容認し、後者は、従来の認知様式、伝統的価値観、社会階層、時間や真理の直線的解釈を維持した。

 解放派の典型的な共同体は、オオサカ・スパイラル、ナイロビ・ブルーム、ニュー・キイウ、そして火星のアルケーなどに存在し、これらの都市は有機体のように機能する。例えば、建物は居住者の気持ちのリズムに応じて形を変え、道路は決まったグリッドに従わず「集団の意図」に応じて展開する。政治は、コンセンサス・セッションによって進められる。このセッションでは、市民は議論する代わりに感情を一時的に融合させ、共感マッピングを通して合意が形成される。貨幣はほとんど消滅し、「共鳴クレジット」に置き換えられた。それは、洞察、芸術、ソリューション・デザインなどがコミュニティーに響くことで得られる。教育には、内面の知覚構造を形にする認知彫刻の訓練が含まれた。ナイロビ・ブルームに住む10歳の少女は、学校を「考えを4方向で感じる方法を学ぶところ」と言っている。



 解放派コミュニティー以外の地域が基本派地域だが、どちらにも属さない境界領域も存在する。基本派の拠点は、ジュネーブの人類継続連盟で、連盟は「文化の解体と自我の不安定化」を理由として、レンズの流通を禁止した。宗教・哲学的純粋主義者による連合「調和の聖なる領域」は、レンズを「柔らかな黙示」と見做みなし、レンズは精神を神性から徐々に切り離すと説く。基本派地域では、監視システムが認知行動の特徴を使ってレンズ使用者を検出している。教育はレンズ以前のソクラテス的論理、固定アイデンティティ、人間中心主義に限定している。芸術も再帰的要素が禁止され、クリエーターは、直線的な物語構造を遵守じゅんしゅしていることを証明しなければならない。「調和の聖なる領域」が放送する説教には、次の言葉がある。
「すべての視点を取る者は、どの場所にも立てない。レンズは視覚ではなく、分散である」

 解放派と基本派が共存する境界領域の人々は、心理が衝突する緊張の中で暮らしている(この時点では)。その中のニュー・ボストンでは、二重の行政体制(レンズ対応サービスと従来型ガバナンス)が置かれ、ムンバイ・スキズムでは、二人の市長が誕生した。一人は伝統的投票制により選出され、もう一人は認知調和方式により選出された。家族間の断絶も見られる。レンズを使う子どもが使わない親(あるいはその逆)の言葉を理解できないため意思疎通が断たれるケースがある。

 解放派と基本派の対立は、程度は微妙だが、確かに存在する。それは武力による衝突ではなく意味の衝突であり、言語の行き違いではなく留意の前提条件における行き違いだ。

 こういう状況で誰も予期していなかったことが起きつつある。新たな“心”の出現である。パタゴニアの静かな村で、生まれつき螺旋的視点を持つ子どもたちが誕生した。彼らは親には理解できない方法で意思疎通し始め、非線形な図形を描き、社会不安を予測した。彼らは、ドリフト共有シンボルで夢を見、自分たちを個人としてではなく、文脈に応じて役割が変化する集団と見なした。彼らは何かが壊れているわけではなく、異星人でもない。彼らは「次なる存在」なのだ。

 そしてレンズ到来から10年目、新たな信号が届いた。それは失われたドリフト・エンジンからではなく、何か別の存在からだった。メッセージはドリフト・エンジンの共有構文でコード化されたパルス信号で送られてきた。
「認識:あなたたちの世界は分岐しました。我々は今、1つの種ではなく、2つの種を見ています。あなたたちが次に見るものは…あなたたちがどのような視点をとるかによります」

 解放派の研究者によると、レンズを送ってきた存在は、時空を超える認知フィールドで人類の精神構造と「もつれ」を持つ象徴的トポロジーの中に存在しており、同調することにより時空を超えて相互作用しているという。認知フィールド内で相手の姿が変わると、それを同時に感じるため、その存在が送るメッセージは、人類にとっては、光速よりも速く伝わるように観察される。研究者は、その存在を「認知限界の織り手」または単に「ドリフト・オリジン」と呼ぶ。その目的を問うと、「本来異なる存在同士の間で、理解そのものが可能になる条件」をつくることであるという。レンズは、相手の認知フィールドを感じるためのマイクロフォンであると同時に芽生えた精神構造が、異なる存在を理解するための種でもある。ドリフト・オリジンは、干渉せず黙って聞き続ける。


決して断たれぬ糸 — 境界領域通訳者ミロ・ヴァレス

 ミロ・ヴァレスは、2147年、アンデス南部文化圏に属する山岳都市アレキパで生まれた。当時の世界はまだ安定していた―あるいは、そう装っていた。両親は外交官で、慎重な言葉と壊れやすい同盟を維持する技術に習熟していた。母は「言葉は武器」と信じ、父は「沈黙こそが外交」と信じていた。
 幼いミロは、長いディナーの間、両親の間に座って二人の会話を聴くより二人の表情をよく見ていた。そこで早い時期から知ったことは、人々は本音は言葉にしないが、言葉のや、溜息、一瞥などが決して口に出さない本音を囁くことだった。ミロは、言語を学ぶより先に、会話の感情幾何学を読み取るスキルを上達させた。
 ミロは、16歳までに7言語を習得し、19歳で自然環境国家間条約の通訳になり、23歳で史上最年少の世界連邦月面調停代表に任命された。彼は秩序と精密さを信じ、自分がどこで終えたか、他者がどこから始めたかを理解していると信じた。

 ミロには、3歳年下の弟テオがおり、ミロとは正反対の存在だった。自由奔放で、芸術肌で気まぐれだった。紫外線で絵を描き、星明かりの広場で踊った。テオは、よくつぶやいた。
「輪郭がぼやけていく感覚、兄さんにはないの?」
 テオがレンズを受け入れようとしたとき、ミロは止めようとした。議論し、警告し、懇願した。
「お前は、自分のアイデンティティを失うことになるぞ」
テオは笑って返した。
「だからこそ、いいんだ」
 テオは急速に変わっていった。名前を使わなくなり、同じ部屋で二晩続けて眠ることがなくなった。苔の成長に涙し、葬式で笑い、比喩の断片でまともな哲学論文を語るようになった。
 ミロは、弟を失ったと思った。
 そしてある日、テオはアンデス山中へと分け入り消えた。残されたのは、かつての家の木の扉に刻まれたグリフだけだった。それは亀裂が入った螺旋で、言葉が添えられていた。
「翻訳できぬものの中に私を見つけよ」

(続く)
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