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第1話 落下する光
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小山内誠一(おさない せいいち)は、人生の幕引きを静かに待っていた。
深夜。会社の屋上。
叩きつけるような雨が去った後のコンクリートは、不気味なほどに冷え切っている。湿った風が吹き抜けるたび、安物のワイシャツが肌に張りつき、誠一の体温を容赦なく奪っていく。
手すりに添えた指先は感覚を失い、鉄の錆びた匂いが、雨上がりの湿った空気に混じって鼻腔を突く。
この高さから一歩踏み出せば、重力に従ってアスファルトに叩きつけられ、すべてが終わるだろう。
死への恐怖はない。
ただ、凪(なぎ)のような静かな諦念が、深い泥のように彼の心に沈殿していた。
(……もう、いいだろ。十分に、耐えたはずだ)
***
「おい小山内! 何度言わせれば気が済むんだ。ここ、数字が間違ってるだろうが! おい、聞いてるのか? おいっ!」
至近距離で浴びせられる罵声。
上司の口から飛ぶ唾が頬にかかるが、誠一は拭うことさえ許されない。
「……申し訳ありません。ですが、そこは課長が指示された昨夜の資料に基づいて作成を……」
「……は? お前のミスを私のせいにするのか! 責任転嫁も見苦しい。全部やり直せ。終わるまで帰るなよ、この無能が!」
「…………承知いたしました」
誠一は、嵐が過ぎ去るのを待つ石像のように、深く頭を下げ続けた。
オフィスに響くキーボードの打鍵音と、冷房の乾燥した駆動音。同僚たちの、関心を遮断した冷ややかな視線が背中に刺さる。
胃の奥が焼けるように熱い。自律神経が悲鳴を上げているのを感じながらも、彼は無心でパソコンの画面に向かった。
(俺が悪いんじゃない。……だが、ここで声を上げても何も変わらない。世界はいつだって、声の大きい者の味方だ)
深夜、上司のミスの尻ぬぐいを終えて会社を出た。
街灯のオレンジ色の光が、水たまりに反射して、まるで行き先のない誠一を嘲笑うかのように歪んでいる。
家にたどり着いたとき、誠一は奇妙な違和感を覚えた。
玄関の鍵が開いている。
いつもなら閉まっているはずの灯りが、暗闇の中で場違いなほど明るく漏れていた。嫌な予感が、氷のような感触で背筋を駆け上がる。
そっとドアを開けた。
家の中には、異質な静寂と、鉄錆のような――血の匂いが充満していた。
リビングへ足を踏み入れた誠一の視界に、地獄が広がる。
妻と娘が、血の海の中で横たわっていた。
荒らされた部屋、倒された家具、そして物言わぬ家族の白い肌。
誠一は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。肺から空気が漏れるような、声にならない絶叫。指先を伸ばしても、愛する者たちの体温はすでに失われていた。
現実を受け入れられず、彼はただ血の匂いの中で意識を失った。
***
次に目を覚ましたとき、すぐさま警察に通報。
そして現在――
誠一は真っ白な取調室の、眩しいライトの下にいた。
「通報が遅すぎるんですよ、小山内さん。普通、あんな惨状を見たらすぐに警察に電話するでしょう。あなたがやったから、動転して座り込んでたんじゃないですか?」
「違います……俺じゃない……」
「職場の上司も言ってるぞ。お前はあの日、定時で帰ったってな。残業なんて記録にない。完璧な単独犯の状況だ。いい加減に吐け!」
刑事が机を叩く音が、誠一の弱り切った鼓膜を震わせる。
上司は保身のためにサービス残業の事実を隠蔽し、それが誠一を殺人犯へと仕立て上げた。
さらに追い打ちをかけたのは、現代特有の底知れない悪意だった。
事件を嗅ぎつけた動画配信者が「家族殺しのサイコパス」と題した憶測動画を拡散し、スマホの画面越しに無数の人々が誠一の人生を土足で踏み荒らした。
『会社でも無能なゴミだったらしい』
『目が死んでるから怪しいと思ってた』
通知音が鳴るたび、画面に踊る匿名性の暴力が誠一の精神を少しずつ削り取っていく。真実など誰も興味はない。ただ、安全な場所から石を投げられる娯楽が欲しいだけなのだ。
やがて、決定的な証拠がないまま捜査は停滞し、誠一は釈放された。
だが、真犯人は捕まらず、世間という名の裁判所は、彼に「限りなく黒に近い白」という判決を下した。
職場に戻っても、そこには居場所はなかった。「会社のイメージを汚した」という冷徹な一言で退職を余儀なくされ、親戚からも「人殺し」として絶縁された。
家族。仕事。名誉。居場所。
二十年間、耐えて守ってきたすべてを奪われた男の行き着く先は、もう決まっていた。
***
誠一は、ビルの屋上の縁に立っていた。
眼下を走る車のヘッドライトが、濡れた路面に反射して、まるで流れる血の川のように見える。靴の底が、水たまりを踏んでじゅくりと嫌な音を立てた。
(寒いな。……いや、もう寒さを感じる必要もなくなるのか)
ポケットから、くしゃくしゃになったハンカチを取り出す。
娘が去年の誕生日に、なけなしのお小遣いで買ってくれた安物のハンカチ。
『お父さん、いつも汗かいて頑張ってるから。これ、使ってね』
そう言って笑っていた娘の、小さな手の温もりが蘇る。
誠一は、そのハンカチを汚れた胸に強く押し当てた。
喉の奥が熱くなり、視界が滲む。
(……ごめんな。パパ、もう頑張れないよ)
一歩。
彼が虚空へと、重力に従い足を踏み出した、その瞬間だった。
――世界が、裂けた。
雲を割り、天から巨大な光の柱が降り注ぐ。
それは月明かりよりも眩く、太陽よりも清浄な、白銀と黄金の輝き。
風が止まり、街の喧騒が消え、空気そのものが凍りついたような絶対的な静寂。
「……っ!?」
落下するはずの誠一の身体が、ふわりと宙に浮いた。
死の恐怖ではなく、ぬくもりのような光が彼を包み込む。
視界が純白に染まり、境界線が溶けていく。
異世界への召喚。
それは、絶望した男に与えられた残酷な福音か、あるいは新たなる修羅の道の始まりか。
小山内誠一という男は、この夜、この場所で一度死に――。
そして、まだ誰も知らない伝説の幕を開けるべく、光の彼方へと消えた。
深夜。会社の屋上。
叩きつけるような雨が去った後のコンクリートは、不気味なほどに冷え切っている。湿った風が吹き抜けるたび、安物のワイシャツが肌に張りつき、誠一の体温を容赦なく奪っていく。
手すりに添えた指先は感覚を失い、鉄の錆びた匂いが、雨上がりの湿った空気に混じって鼻腔を突く。
この高さから一歩踏み出せば、重力に従ってアスファルトに叩きつけられ、すべてが終わるだろう。
死への恐怖はない。
ただ、凪(なぎ)のような静かな諦念が、深い泥のように彼の心に沈殿していた。
(……もう、いいだろ。十分に、耐えたはずだ)
***
「おい小山内! 何度言わせれば気が済むんだ。ここ、数字が間違ってるだろうが! おい、聞いてるのか? おいっ!」
至近距離で浴びせられる罵声。
上司の口から飛ぶ唾が頬にかかるが、誠一は拭うことさえ許されない。
「……申し訳ありません。ですが、そこは課長が指示された昨夜の資料に基づいて作成を……」
「……は? お前のミスを私のせいにするのか! 責任転嫁も見苦しい。全部やり直せ。終わるまで帰るなよ、この無能が!」
「…………承知いたしました」
誠一は、嵐が過ぎ去るのを待つ石像のように、深く頭を下げ続けた。
オフィスに響くキーボードの打鍵音と、冷房の乾燥した駆動音。同僚たちの、関心を遮断した冷ややかな視線が背中に刺さる。
胃の奥が焼けるように熱い。自律神経が悲鳴を上げているのを感じながらも、彼は無心でパソコンの画面に向かった。
(俺が悪いんじゃない。……だが、ここで声を上げても何も変わらない。世界はいつだって、声の大きい者の味方だ)
深夜、上司のミスの尻ぬぐいを終えて会社を出た。
街灯のオレンジ色の光が、水たまりに反射して、まるで行き先のない誠一を嘲笑うかのように歪んでいる。
家にたどり着いたとき、誠一は奇妙な違和感を覚えた。
玄関の鍵が開いている。
いつもなら閉まっているはずの灯りが、暗闇の中で場違いなほど明るく漏れていた。嫌な予感が、氷のような感触で背筋を駆け上がる。
そっとドアを開けた。
家の中には、異質な静寂と、鉄錆のような――血の匂いが充満していた。
リビングへ足を踏み入れた誠一の視界に、地獄が広がる。
妻と娘が、血の海の中で横たわっていた。
荒らされた部屋、倒された家具、そして物言わぬ家族の白い肌。
誠一は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。肺から空気が漏れるような、声にならない絶叫。指先を伸ばしても、愛する者たちの体温はすでに失われていた。
現実を受け入れられず、彼はただ血の匂いの中で意識を失った。
***
次に目を覚ましたとき、すぐさま警察に通報。
そして現在――
誠一は真っ白な取調室の、眩しいライトの下にいた。
「通報が遅すぎるんですよ、小山内さん。普通、あんな惨状を見たらすぐに警察に電話するでしょう。あなたがやったから、動転して座り込んでたんじゃないですか?」
「違います……俺じゃない……」
「職場の上司も言ってるぞ。お前はあの日、定時で帰ったってな。残業なんて記録にない。完璧な単独犯の状況だ。いい加減に吐け!」
刑事が机を叩く音が、誠一の弱り切った鼓膜を震わせる。
上司は保身のためにサービス残業の事実を隠蔽し、それが誠一を殺人犯へと仕立て上げた。
さらに追い打ちをかけたのは、現代特有の底知れない悪意だった。
事件を嗅ぎつけた動画配信者が「家族殺しのサイコパス」と題した憶測動画を拡散し、スマホの画面越しに無数の人々が誠一の人生を土足で踏み荒らした。
『会社でも無能なゴミだったらしい』
『目が死んでるから怪しいと思ってた』
通知音が鳴るたび、画面に踊る匿名性の暴力が誠一の精神を少しずつ削り取っていく。真実など誰も興味はない。ただ、安全な場所から石を投げられる娯楽が欲しいだけなのだ。
やがて、決定的な証拠がないまま捜査は停滞し、誠一は釈放された。
だが、真犯人は捕まらず、世間という名の裁判所は、彼に「限りなく黒に近い白」という判決を下した。
職場に戻っても、そこには居場所はなかった。「会社のイメージを汚した」という冷徹な一言で退職を余儀なくされ、親戚からも「人殺し」として絶縁された。
家族。仕事。名誉。居場所。
二十年間、耐えて守ってきたすべてを奪われた男の行き着く先は、もう決まっていた。
***
誠一は、ビルの屋上の縁に立っていた。
眼下を走る車のヘッドライトが、濡れた路面に反射して、まるで流れる血の川のように見える。靴の底が、水たまりを踏んでじゅくりと嫌な音を立てた。
(寒いな。……いや、もう寒さを感じる必要もなくなるのか)
ポケットから、くしゃくしゃになったハンカチを取り出す。
娘が去年の誕生日に、なけなしのお小遣いで買ってくれた安物のハンカチ。
『お父さん、いつも汗かいて頑張ってるから。これ、使ってね』
そう言って笑っていた娘の、小さな手の温もりが蘇る。
誠一は、そのハンカチを汚れた胸に強く押し当てた。
喉の奥が熱くなり、視界が滲む。
(……ごめんな。パパ、もう頑張れないよ)
一歩。
彼が虚空へと、重力に従い足を踏み出した、その瞬間だった。
――世界が、裂けた。
雲を割り、天から巨大な光の柱が降り注ぐ。
それは月明かりよりも眩く、太陽よりも清浄な、白銀と黄金の輝き。
風が止まり、街の喧騒が消え、空気そのものが凍りついたような絶対的な静寂。
「……っ!?」
落下するはずの誠一の身体が、ふわりと宙に浮いた。
死の恐怖ではなく、ぬくもりのような光が彼を包み込む。
視界が純白に染まり、境界線が溶けていく。
異世界への召喚。
それは、絶望した男に与えられた残酷な福音か、あるいは新たなる修羅の道の始まりか。
小山内誠一という男は、この夜、この場所で一度死に――。
そして、まだ誰も知らない伝説の幕を開けるべく、光の彼方へと消えた。
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