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第1話 黄金の檻と冷たい密命
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大帝国グランドリアの王都、その中心に聳える白亜の王宮は、陽光を浴びて目も眩むほどに輝いていた。
しかし、その最上階にある王女の居室には、春の陽気さえも届かぬような、ひんやりとした静寂が満ちている。
エリアーナ・フォン・グランドリアは、窓辺の長椅子に腰を下ろし、眼下に広がる美しく整えられた庭園を眺めていた。
銀糸を紡いだような髪が、繊細なレースの肩掛けの上を滑り落ちる。
その碧眼は、誰もが「慈悲深い聖女の瞳」と讃える澄んだ色をしていたが、今その奥に灯っているのは、底知れぬ倦怠だった。
「……退屈ね」
誰に聞かせるでもない独白が、薄桃色の唇からこぼれ落ちる。
この十九年間、彼女の人生は完璧に管理されていた。
朝食のメニューから、社交界で交わす微笑みの角度、指先一つの動かし方に至るまで。
この国において、彼女は生きている人間ではなく、最高級の宝石を嵌め込んだ「王国の象徴」という名の人形に過ぎなかった。
ノックの音が響き、重厚な扉が開かれた。
入ってきたのは、眼鏡の奥に理知的な光を宿した外交官ルクレツィアと、腰に一振りの剣を帯びた近衛騎士セシルだ。
二人の表情には、隠しきれない困惑と緊張が張り付いている。
「エリアーナ様、陛下がお呼びです」
セシルの声は硬い。
エリアーナはゆっくりと立ち上がった。
絹のドレスが微かな衣擦れの音を立てる。
謁見の間ではなく、父王の私的な執務室。そこは、情を排した実利のみが支配する場所だ。
父であるグランドリア皇帝は、机上の書類から目を上げることなく、近づく娘に声をかけた。
「バルバドへ嫁げ、エリアーナ」
その言葉は、春の庭に冬の嵐を招くほどに唐突で、冷酷だった。
バルバド。
近年、周辺諸国を次々と武力で併合し、急速に勢力を拡大させている新興の小国だ。現王ヴォルグは、自らの父である先王を謀反で殺して玉座を奪ったという、血生臭い噂の絶えない「狼」である。
「……バルバドへ、でございますか」
「左様だ。あの蛮族の若造は、我が帝国の辺境を脅かしつつある。力でねじ伏せるのは容易いが、今は西方の戦線に戦力を割きたい。ゆえに、お前を友好の証として送り込む」
皇帝はようやく顔を上げ、氷のような眼差しを娘に向けた。
「お前の任務は二つ。一つは、その美貌と聡明さでヴォルグを懐柔し、帝国の傀儡に仕立て上げること。もう一つは、奴の軍事機密を内部から探り、密かに報告することだ」
それは、愛する娘へ贈る祝言の言葉ではない。
使い捨ての「間諜」へ下される冷徹な命令だった。
傍らに控えるルクレツィアが、堪えきれず一歩前に出る。
「陛下、あのような野蛮な国へ、エリアーナ様を一人で送り込むなど……! せめて外交特使としての正式な儀礼を――」
「黙れ、文官。バルバドに儀礼など通じぬ。あそこは力がすべての地だ」
皇帝の視線が再びエリアーナに戻る。
「失敗は許されぬ。もしあちらでボロを出し、生きて戻れぬような事態になれば、帝国はお前を見捨てる。……返事を聞こう、エリアーナ」
エリアーナは、深く、深く頭を下げた。
睫毛を伏せたその視界の中で、自身の指先が微かに震えている。
恐怖?
もちろん、それもある。
あのような獣の国へ行けば、二度とこの清潔な部屋には戻れないだろう。
だが、その震えの正体は、彼女自身にしか分からない別の感情だった。
(捨て駒……。人形として飾られるだけの毎日が、ついに終わるのね)
彼女の心臓が、今までになく力強く鼓動を打つ。
自分を「王女」として崇める者も、守ってくれる法律も届かない場所。
圧倒的な力に組み敷かれ、尊厳を剥ぎ取られるかもしれない未知の領域。
想像するだけで、背筋を氷が這うような、そして熱い火を押し当てられたような、奇妙な昂揚が突き上げてくる。
「謹んで、お受けいたします。お父様。……グランドリアの栄光のために」
淑やかな声で応じながら、エリアーナの口角が、ほんのわずかだけ綻んだ。
三日後。
エリアーナを乗せた馬車は、華美な護衛船団を伴うこともなく、数名の従者だけを連れて国境へと向かった。
付き従うのは、主を案じて唇を噛み締めるセシルと、不服そうに書類を抱えるルクレツィア。そして、不安のあまり今にも泣き出しそうなメイドのリナ。
馬車の窓から見える景色は、帝都の整然とした街並みから、次第に荒涼とした原野へと変わっていく。
エリアーナは、揺れる馬車の中で、ドレスの裾を強く握りしめた。
「私を壊してくれるような嵐は吹かないのかしら、なんて……願った罰が当たったのかしらね」
彼女の呟きは、ガタガタと鳴る車輪の音に消された。
国境を越えれば、そこはバルバド。
狼たちの住まう、血と鉄の地。
エリアーナは、自らの内に潜むどろりとした期待を押し殺すように、冷たくなった自らの手を、もう片方の手で強く、爪が食い込むほどに握り続けた。
しかし、その最上階にある王女の居室には、春の陽気さえも届かぬような、ひんやりとした静寂が満ちている。
エリアーナ・フォン・グランドリアは、窓辺の長椅子に腰を下ろし、眼下に広がる美しく整えられた庭園を眺めていた。
銀糸を紡いだような髪が、繊細なレースの肩掛けの上を滑り落ちる。
その碧眼は、誰もが「慈悲深い聖女の瞳」と讃える澄んだ色をしていたが、今その奥に灯っているのは、底知れぬ倦怠だった。
「……退屈ね」
誰に聞かせるでもない独白が、薄桃色の唇からこぼれ落ちる。
この十九年間、彼女の人生は完璧に管理されていた。
朝食のメニューから、社交界で交わす微笑みの角度、指先一つの動かし方に至るまで。
この国において、彼女は生きている人間ではなく、最高級の宝石を嵌め込んだ「王国の象徴」という名の人形に過ぎなかった。
ノックの音が響き、重厚な扉が開かれた。
入ってきたのは、眼鏡の奥に理知的な光を宿した外交官ルクレツィアと、腰に一振りの剣を帯びた近衛騎士セシルだ。
二人の表情には、隠しきれない困惑と緊張が張り付いている。
「エリアーナ様、陛下がお呼びです」
セシルの声は硬い。
エリアーナはゆっくりと立ち上がった。
絹のドレスが微かな衣擦れの音を立てる。
謁見の間ではなく、父王の私的な執務室。そこは、情を排した実利のみが支配する場所だ。
父であるグランドリア皇帝は、机上の書類から目を上げることなく、近づく娘に声をかけた。
「バルバドへ嫁げ、エリアーナ」
その言葉は、春の庭に冬の嵐を招くほどに唐突で、冷酷だった。
バルバド。
近年、周辺諸国を次々と武力で併合し、急速に勢力を拡大させている新興の小国だ。現王ヴォルグは、自らの父である先王を謀反で殺して玉座を奪ったという、血生臭い噂の絶えない「狼」である。
「……バルバドへ、でございますか」
「左様だ。あの蛮族の若造は、我が帝国の辺境を脅かしつつある。力でねじ伏せるのは容易いが、今は西方の戦線に戦力を割きたい。ゆえに、お前を友好の証として送り込む」
皇帝はようやく顔を上げ、氷のような眼差しを娘に向けた。
「お前の任務は二つ。一つは、その美貌と聡明さでヴォルグを懐柔し、帝国の傀儡に仕立て上げること。もう一つは、奴の軍事機密を内部から探り、密かに報告することだ」
それは、愛する娘へ贈る祝言の言葉ではない。
使い捨ての「間諜」へ下される冷徹な命令だった。
傍らに控えるルクレツィアが、堪えきれず一歩前に出る。
「陛下、あのような野蛮な国へ、エリアーナ様を一人で送り込むなど……! せめて外交特使としての正式な儀礼を――」
「黙れ、文官。バルバドに儀礼など通じぬ。あそこは力がすべての地だ」
皇帝の視線が再びエリアーナに戻る。
「失敗は許されぬ。もしあちらでボロを出し、生きて戻れぬような事態になれば、帝国はお前を見捨てる。……返事を聞こう、エリアーナ」
エリアーナは、深く、深く頭を下げた。
睫毛を伏せたその視界の中で、自身の指先が微かに震えている。
恐怖?
もちろん、それもある。
あのような獣の国へ行けば、二度とこの清潔な部屋には戻れないだろう。
だが、その震えの正体は、彼女自身にしか分からない別の感情だった。
(捨て駒……。人形として飾られるだけの毎日が、ついに終わるのね)
彼女の心臓が、今までになく力強く鼓動を打つ。
自分を「王女」として崇める者も、守ってくれる法律も届かない場所。
圧倒的な力に組み敷かれ、尊厳を剥ぎ取られるかもしれない未知の領域。
想像するだけで、背筋を氷が這うような、そして熱い火を押し当てられたような、奇妙な昂揚が突き上げてくる。
「謹んで、お受けいたします。お父様。……グランドリアの栄光のために」
淑やかな声で応じながら、エリアーナの口角が、ほんのわずかだけ綻んだ。
三日後。
エリアーナを乗せた馬車は、華美な護衛船団を伴うこともなく、数名の従者だけを連れて国境へと向かった。
付き従うのは、主を案じて唇を噛み締めるセシルと、不服そうに書類を抱えるルクレツィア。そして、不安のあまり今にも泣き出しそうなメイドのリナ。
馬車の窓から見える景色は、帝都の整然とした街並みから、次第に荒涼とした原野へと変わっていく。
エリアーナは、揺れる馬車の中で、ドレスの裾を強く握りしめた。
「私を壊してくれるような嵐は吹かないのかしら、なんて……願った罰が当たったのかしらね」
彼女の呟きは、ガタガタと鳴る車輪の音に消された。
国境を越えれば、そこはバルバド。
狼たちの住まう、血と鉄の地。
エリアーナは、自らの内に潜むどろりとした期待を押し殺すように、冷たくなった自らの手を、もう片方の手で強く、爪が食い込むほどに握り続けた。
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