泥に咲く受難:薄幸の侍女と獣たちの共食い

猫野 にくきゅう

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第1話 ひび割れた手のひら

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 その水は、骨の芯まで凍えさせるほど冷たかった。

 石造りの巨大な洗濯場には、絶えず水音が響き、石鹸の不快な脂臭さが立ち込めている。リナは膝をつき、山のように積まれた兵士たちの汚れた軍服を、冷水が満ちた盥(たらい)の中で必死に揉み洗っていた。

(痛い……、指が、もう動かない……)

 かつてグランドリア帝国の宮廷で、王女エリアーナの柔らかな金髪を梳かしていたその手は、今や見る影もなく荒れ果てていた。爪は短く割れ、あかぎれが幾筋も走り、冷水に浸かるたびに針で刺されたような激痛が走る。

 帝都にいた頃の生活は、今思えば夢のようだった。  

 朝は温かいハーブティーの香りで目覚め、白亜の廊下を軽やかに歩き、主人の笑顔のために働いた。

 だが、あの日――
 帝国からの輿入れの際に蹂躙され、生け贄としてバルバドに捕らわれたあの日から、リナの時計は止まったまま、底なしの泥沼へと沈み続けていた。

「おい、ぐずぐずするな! 帝国の役立たずめ。今日中にその山を終わらせなければ、夕飯は抜きだぞ!」

 背後から、恰幅のいいバルバド人の洗濯女長が怒鳴り声を上げる。
 彼女の手には、牛追い用の鞭が握られていた。リナは震えながら肩をすくめ、再び洗濯板に力を込める。

 バルバド城の最下層。
 そこは王の光も届かぬ、汗と泥と絶望が支配する場所だ。  

 リナに与えられた役割は、洗濯と厨房の雑用。

 一日中、重い樽を運び、煤まみれになって床を磨き、兵士たちの汚物を洗い流す。特別な武力を持つセシルや、知識を持つルクレツィアとは違い、ただの「非力な娘」でしかないリナには、この過酷な労働が唯一の存在理由だった。

「……あ……っ」

 指先の傷から血が滲み、白い泡を赤く染める。  

 リナはたまらず、手を止めて唇を噛んだ。  
 ふと視線を感じて顔を上げると、洗濯場の入り口に数人の兵士たちがたむろしているのが見えた。

 彼らは、洗濯場の女たちが働く姿を、品定めするような卑猥な目で見つめている。特に、荒れ果てた姿になってもなお、帝国育ちの繊細な輪郭を残しているリナは、彼らにとって格好の獲物だった。

「見ろよ、あいつ。帝国の王女についてた侍女だってよ」 
「へえ、道理で肌が白い。この泥臭い場所には、不似合いなほどにな」 
「あの泣きそうな顔……。一度、思いきり鳴かせてみたいもんだ」

 男たちの下卑た笑い声が、石壁に反響する。  
 リナは心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖に襲われ、顔を伏せた。  

 エリアーナ様。
 助けてください、エリアーナ様。  

 心の中で何度も主の名を呼ぶが、その主もまた、どこかで王の戦利品として囚われているのだ。救いの手など、どこにもない。

 夕暮れ時、ようやく一日の労働が終わった。  

 リナの身体は泥のように重く、感覚を失った足取りで、彼女に割り当てられた粗末な寝床へと向かう。そこは兵舎の一角に仕切られた、カビ臭い藁が敷かれただけの空間だった。

 ふらふらと廊下を歩いていると、曲がり角で、一人の大柄な兵士とぶつかりそうになった。

「ひ……っ、申し訳ありません!」

 リナは咄嗟に地面に額を擦り付けた。
 バルバドで学んだ、もっとも重要な「生存術」だ。

 だが、その兵士は立ち去ろうとはしなかった。

「……リナ、と言ったな」

 低い、野太い声。  

 兵士はしゃがみ込み、リナの細い顎を無理やり持ち上げた。
 泥に汚れ、涙の跡がついたリナの顔が、松明の炎に照らされる。

「そんなに震えるな。……俺は、お前が熱心に働いているのをずっと見ていたんだぞ」

 兵士の大きな手が、リナの頬を撫でる。
 その感触は驚くほど優しく、それゆえに、リナの背筋を氷のような寒気が駆け抜けた。

「……あ……ああ……」

「いい顔だ。帝国の女は、こういう不憫な顔が一番そそる……」

 兵士の瞳に灯ったのは、同情ではない。  
 壊れやすい小鳥を、自らの手の中で握り潰したいという、歪んだ独占欲の萌芽だった。    

 リナの本当の受難は、過酷な労働ではなかった。  
 彼女の「弱さ」と「不憫さ」が、獣たちの本能に火をつけ、破滅的な愛執を呼び覚ましていく。

 洗濯場に響く水音は、今夜から、彼女の悲鳴にかき消されることになる。
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