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流されて子宝島
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「や、やっと着いたのか……」
船着き場に降り立った真也は、すでにこの島に来たのを後悔していた。
鹿児島港からフェリーで十二時間、延々と波に揺られ続けた末に辿り着いたのは小さな島――子宝島だ。島の周囲を一周するのにも歩いて一時間程度の本当に小さな島である。
しかし、こんな島にも人は住んでいるのだ。人口は五十人程度、そして学校もちゃんとある。
真也は教師として、この春からその学校に赴任する事になっていた。
桂木真也、二十六歳――教師生活四年目にしてこんな島へやって来たのには理由がある。
真也は鹿児島生まれで、地元の小学校で教鞭を執っていた。
そして、去年の春に赴任してきた後輩の女性教師と結構仲良くなったのだ。
そこで思い切って告白したのだが、返ってきた返事は――
「あの……私、結婚しているので……」
これは真也のリサーチ不足が悪いと言えるだろう。学生結婚という事だった。
だってそんなそぶりなかったんだもん!
とにかく、そういう理由でその学校に居るのも居たたまれなくなっていたところに、校長から転任の打診があったのだ。
そうして逃げるようにこの島にやって来たのだが……
「暑い……」
真也は背広の上着を脱ぐ。気温は二十五度を超えているだろう。
上着を肩に掛け、背中を丸めながらスーツケースを引いて歩き出した。
とりあえず目指すのは赴任先の子宝小中学校――こんな島でもスマホの電波が入るのにちょっと驚きながら、地図を確認して目的地を目指す。
この島にはタクシーなんてものはない。ガソリンスタンドもないのだ。とは言え、島民の自家用車とたまにすれ違う。
左手に小高い山、右手に牛が放牧された牧場を眺めながら歩を進めた。
目的地までは一キロほどと高をくくっていたのだが、運動不足の身には意外とキツい。自動車を買うような余裕はないが、バイク、あるいは自転車を買った方が良さそうだ。
と、道の端に自転車を停め、その傍らにしゃがみ込んでいる女性の姿があった。
長い黒髪に白のワンピース姿だ。この陽気なのでワンピースは半袖である。
近くまで歩み寄ってチラリと見てみれば、どうやら自転車のチェーンが外れてしまっているようだ。
「直しましょうか?」
真也は後ろから声をかけた。
女性はびっくりしたように背筋を伸ばし、振り返って真也を見た。
後ろ姿から何となくそんな予感はしていたのだが、美人である。年齢は二十歳過ぎくらい、清楚で大人しそうな女性だった。
女性はどことなく警戒するような目を真也に向ける。
初めて見る顔に驚いているのだろう。小さな島だから島民は全員顔見知り、親戚みたいなものだ。
「あ~、怪しい者ではないですよ。この春からここの学校に赴任する教師です」
「あっ、新しい先生ですね!」
真也の弁明に女性は手を打ち合わせ、立ち上がった。
立ち上がると結構背が高い事が分かる。165センチくらいはあるだろう。スレンダーな体格ながら出るところは出ている。なかなかのプロポーションだ。
「初めまして。私、野島ののかと言います」
女性――ののかは丁寧に頭を下げた。
「は、はい。桂木真也です」
その胸元へと視線を向けていた真也も慌てて頭を下げ返した。
「みんな新しい先生が来るのを楽しみにしていたんですよ」
ののかはニコニコしながら真也を見る。どうやら島民は真也の事を歓迎してくれているようだ。
「どうも――で、自転車直しましょうか?」
「あ、はい。直りますか?」
ののかは横にどいて真也に場所を譲る。
「チェーンが外れているだけですからね。簡単ですよ」
真也はしゃがみ込んでチェーンをギアへとはめていく。
高校時代、自転車通学をしていたのでこのくらいは出来るのだ。
「はい。直りましたよ」
そう言って立ち上がり、足でペダルを回して見せた。シャーと音を立てて軽快にチェーンが回る。
「わっ、ありがとうございます」
ののかは両手を合わせて声を上げた。その目が油で黒く汚れた真也の手にとまる。
「すみません。手を汚してしまって……」
ののかはワンピースのポケットから白いハンカチを取り出した。
「これを使って下さい」
「いや、でも、油汚れなんでハンカチがダメに……」
「構いませんから」
躊躇する真也の手にののかは無理矢理ハンカチを握らせる。
じっと見つめられ、厚意をむげにも出来ずに汚れた指をハンカチで拭った。
真也が指を拭き終わると、ののかが両手を差し出す。その手の上にハンカチを返した。
「すみません」
「いえ、こちらこそ助かりました」
ののかは汚れた面を内側に折り込み、ハンカチを仕舞った。
「チェーンははめ直しましたけど応急処置です。少し緩くなっているのでここを――」
そう言いながら真也は自転車の後輪の軸の後ろを指差した。
「このナットを締めるとホイールを後ろに引っ張れますから、チェーンのたるみを取る事が出来ます」
「? ? ?」
ののかは目を点にしながら首をひねっている。極めて簡単な事なのだが女性には敷居が高いのかもしれない。それに知らない人も多い機構だ。
「お父さんにでも頼んでみて下さい。やり方は多分ネットとかで調べれば分かると思うので」
「は、はい。お兄ちゃんに頼んでみます」
ののかはかしこまりながら答える。
「本当にありがとうございました」
そして深く頭を下げた後、自転車に跨がった。
「では、失礼させて頂きます。先生」
もう一度軽く頭を下げ、真也が歩いてきた港の方へ向かって走り去る。
真也はその背中を見送った。
いやー美人だったなぁ。あんな美人と知り合いになれるとは幸先がいい。
港に着いた時の後悔などすっかり忘れていた。狭い島だ。これから何度だって会う機会はあるだろう。
真也はウキウキした気分で学校に向かって歩き出す。
そして――期待通り、真也はののかとほとんど毎日顔を合わせる事になるのだった。
船着き場に降り立った真也は、すでにこの島に来たのを後悔していた。
鹿児島港からフェリーで十二時間、延々と波に揺られ続けた末に辿り着いたのは小さな島――子宝島だ。島の周囲を一周するのにも歩いて一時間程度の本当に小さな島である。
しかし、こんな島にも人は住んでいるのだ。人口は五十人程度、そして学校もちゃんとある。
真也は教師として、この春からその学校に赴任する事になっていた。
桂木真也、二十六歳――教師生活四年目にしてこんな島へやって来たのには理由がある。
真也は鹿児島生まれで、地元の小学校で教鞭を執っていた。
そして、去年の春に赴任してきた後輩の女性教師と結構仲良くなったのだ。
そこで思い切って告白したのだが、返ってきた返事は――
「あの……私、結婚しているので……」
これは真也のリサーチ不足が悪いと言えるだろう。学生結婚という事だった。
だってそんなそぶりなかったんだもん!
とにかく、そういう理由でその学校に居るのも居たたまれなくなっていたところに、校長から転任の打診があったのだ。
そうして逃げるようにこの島にやって来たのだが……
「暑い……」
真也は背広の上着を脱ぐ。気温は二十五度を超えているだろう。
上着を肩に掛け、背中を丸めながらスーツケースを引いて歩き出した。
とりあえず目指すのは赴任先の子宝小中学校――こんな島でもスマホの電波が入るのにちょっと驚きながら、地図を確認して目的地を目指す。
この島にはタクシーなんてものはない。ガソリンスタンドもないのだ。とは言え、島民の自家用車とたまにすれ違う。
左手に小高い山、右手に牛が放牧された牧場を眺めながら歩を進めた。
目的地までは一キロほどと高をくくっていたのだが、運動不足の身には意外とキツい。自動車を買うような余裕はないが、バイク、あるいは自転車を買った方が良さそうだ。
と、道の端に自転車を停め、その傍らにしゃがみ込んでいる女性の姿があった。
長い黒髪に白のワンピース姿だ。この陽気なのでワンピースは半袖である。
近くまで歩み寄ってチラリと見てみれば、どうやら自転車のチェーンが外れてしまっているようだ。
「直しましょうか?」
真也は後ろから声をかけた。
女性はびっくりしたように背筋を伸ばし、振り返って真也を見た。
後ろ姿から何となくそんな予感はしていたのだが、美人である。年齢は二十歳過ぎくらい、清楚で大人しそうな女性だった。
女性はどことなく警戒するような目を真也に向ける。
初めて見る顔に驚いているのだろう。小さな島だから島民は全員顔見知り、親戚みたいなものだ。
「あ~、怪しい者ではないですよ。この春からここの学校に赴任する教師です」
「あっ、新しい先生ですね!」
真也の弁明に女性は手を打ち合わせ、立ち上がった。
立ち上がると結構背が高い事が分かる。165センチくらいはあるだろう。スレンダーな体格ながら出るところは出ている。なかなかのプロポーションだ。
「初めまして。私、野島ののかと言います」
女性――ののかは丁寧に頭を下げた。
「は、はい。桂木真也です」
その胸元へと視線を向けていた真也も慌てて頭を下げ返した。
「みんな新しい先生が来るのを楽しみにしていたんですよ」
ののかはニコニコしながら真也を見る。どうやら島民は真也の事を歓迎してくれているようだ。
「どうも――で、自転車直しましょうか?」
「あ、はい。直りますか?」
ののかは横にどいて真也に場所を譲る。
「チェーンが外れているだけですからね。簡単ですよ」
真也はしゃがみ込んでチェーンをギアへとはめていく。
高校時代、自転車通学をしていたのでこのくらいは出来るのだ。
「はい。直りましたよ」
そう言って立ち上がり、足でペダルを回して見せた。シャーと音を立てて軽快にチェーンが回る。
「わっ、ありがとうございます」
ののかは両手を合わせて声を上げた。その目が油で黒く汚れた真也の手にとまる。
「すみません。手を汚してしまって……」
ののかはワンピースのポケットから白いハンカチを取り出した。
「これを使って下さい」
「いや、でも、油汚れなんでハンカチがダメに……」
「構いませんから」
躊躇する真也の手にののかは無理矢理ハンカチを握らせる。
じっと見つめられ、厚意をむげにも出来ずに汚れた指をハンカチで拭った。
真也が指を拭き終わると、ののかが両手を差し出す。その手の上にハンカチを返した。
「すみません」
「いえ、こちらこそ助かりました」
ののかは汚れた面を内側に折り込み、ハンカチを仕舞った。
「チェーンははめ直しましたけど応急処置です。少し緩くなっているのでここを――」
そう言いながら真也は自転車の後輪の軸の後ろを指差した。
「このナットを締めるとホイールを後ろに引っ張れますから、チェーンのたるみを取る事が出来ます」
「? ? ?」
ののかは目を点にしながら首をひねっている。極めて簡単な事なのだが女性には敷居が高いのかもしれない。それに知らない人も多い機構だ。
「お父さんにでも頼んでみて下さい。やり方は多分ネットとかで調べれば分かると思うので」
「は、はい。お兄ちゃんに頼んでみます」
ののかはかしこまりながら答える。
「本当にありがとうございました」
そして深く頭を下げた後、自転車に跨がった。
「では、失礼させて頂きます。先生」
もう一度軽く頭を下げ、真也が歩いてきた港の方へ向かって走り去る。
真也はその背中を見送った。
いやー美人だったなぁ。あんな美人と知り合いになれるとは幸先がいい。
港に着いた時の後悔などすっかり忘れていた。狭い島だ。これから何度だって会う機会はあるだろう。
真也はウキウキした気分で学校に向かって歩き出す。
そして――期待通り、真也はののかとほとんど毎日顔を合わせる事になるのだった。
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