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1巻
1-3
『あの子、病気だよ~』
『なに? あの子って、シャレードのことか?』
『そうだよ! 決まってるじゃん!』
フィルは苛立ったように頬を膨らませる。
『さっきラルサスが触ったとき、感じたんだ』
『じゃあ、隙を見てそれとなく触れるから、治してやってくれ』
フィルは癒しの精霊で、ラルサスが触れた者の傷や病を見通し、治すことができる力を持っていた。
国家機密なので、シャレードに説明することができないのが難点だが、さりげなく触れるくらいならなんとかなるかとラルサスが考えていると、フィルがポカポカと殴りかかってきた。
『治せるなら、さっき治してたよ! ラルサスのお気に入りの子を死なせたくないし』
『死なせたくないって……』
『あれは死病だよ。胸を中心に黒いものが身体のあちこちを覆ってた』
『しびょう……?』
聞こえた言葉を理解したくなくて、ラルサスは言われたままの音をつぶやいた。
『そう。このままだと半年持つかどうかじゃない?』
『半年だって⁉』
あまりに信じがたい情報ばかりで、ラルサスはただ言葉を繰り返すことしかできなかった。
『……治療法は?』
『僕でも治せないのに、人間が治せるとは思わないけど?』
『それじゃあ、シャレードがあと半年で死ぬと言っているみたいじゃないか!』
『そうだよ。そう言ってるの!』
かわいそうにとフィルがラルサスの頭をなでるが、それに気づかないほど、彼は茫然とした。
目の前が真っ暗になる。
「嘘だろ……?」
めまいがして、額に手を当て、ラルサスはつぶやいた。
運命の人だと認識したばかりの相手が、よりによって死病に侵されているとは、とても信じたくなかった。
『ウソだったら、よかったんだけど』
悲しげにフィルも目を伏せて、ラルサスの肩に乗った。なぐさめるように今度は頬をなでてくる。
間違いであってほしいとラルサスは顔を上げて、フィルを見た。
『でも、初めてシャレードとダンスをしたときはなにも感じなかったんだろ?』
『ん~、感じたかどうかも覚えてないよ。それほど彼女を気にかけてたわけじゃないし』
ラルサスが触った人の状態が視えてしまうフィルだが、特別なことがなければそれに言及することはない。それがその人間の定めだから、意識しない限りは気にも留まらない。
今回はラルサスがえらくシャレードを気に入っているのがわかったから、認識したのだ。
フィルの能力を信頼しているラルサスは絶望に陥った。
と、ふいに思い出す。
期待を込めて、ラルサスはフィルに尋ねた。
『フィル、秘儀を行えば治せるか?』
『あぁ、あれ? うん、たぶん治せるよ。でも、そんなことをしたら、ラルサスが……。それにどうやって、そんな状況に持ち込むんだよ! 相手はこの国の王太子の婚約者だろ?』
『そうなんだよな……』
シャレードを助ける一筋の光は見えたが、それは実現すること自体、困難な方法だった。
ラルサスは力なくうなだれた。
*――***――*
屋敷に戻ったシャレードは、ラルサスに言われた通り医者を呼んだ。
このところの体調不良は尋常ではなかったからだ。我慢強いシャレードは痛みには耐えられると思ったが、さきほどのように倒れて他人に迷惑をかけることはしたくなかった。
「いかがされましたか?」
主治医がやってきて、シャレードを問診する。
彼女が症状を話すと、医者は少し顔をしかめて、目の下、耳の後ろ、口の中を診た。
「失礼いたします」
特に痛む胸を触診すると、彼は首を振った。
「寝不足と栄養不足かもしれませんね」
確かに、このごろ、シャレードはなかなか寝つけないし、食欲がなかった。
なんでもなさそうで、ほっとしたシャレードに主治医は告げた。
「念のため、精密検査をしましょう。私の同期に検査を専門にしている医者がいるのです」
そう言われ、シャレードは不安になる。
「念のため、ですか? なにか気がかりなことが?」
「念のためです。とりあえず、睡眠導入薬と栄養剤を出しておきますね」
主治医は安心させるように微笑んだ。
翌日、めずらしくシャレードからラルサスに近づいた。
「昨日はありがとうございました。また、ご迷惑をおかけいたしました」
「いいえ、お身体は大丈夫ですか?」
心から気づかい、心配してくれている様子のラルサスに、シャレードの胸は熱くなる。
(人に気づかわれるなんて久しぶりだわ……)
深刻な顔をするラルサスに、シャレードは静かな笑みを浮かべた。
「お医者様に診ていただいたら、不摂生がたたっただけだと言われました。お恥ずかしいですわ」
処方薬を飲んでよく寝たら体調がよくなっていて、シャレードはほっとしていた。
ラルサスはまだ気づかうようなまなざしをしていたが、「それはよかったです」とうなずいた。
「それで、もしよろしければ、なのですが……」
ためらいがちにシャレードが言い出して、ラルサスは「なんでしょう?」とやわらかい表情で先を促す。
シャレードは、昨夜ふと思いついたことを提案してみようと思ったのだ。
「昨日のディルルバの演奏がとても素晴らしかったので、それを孤児院の子どもたちにも聴かせてあげたいと思いまして」
「孤児院ですか?」
「はい。月に一度、孤児院に慰問に行っているのですが、そこの子どもたちはなかなか音楽に触れる機会がないのです。ラルサス様さえよろしければ、ディルルバを披露していただけないでしょうか?」
普段、シャレードは誰かになにかを頼むことはない。でも、あの音楽を自分だけのものにしておくのはもったいないと思った。
それに、正直なところ、シャレード自身もう一度聴きたかったのだ。
慣れない行為にドキドキしながらシャレードがラルサスを見上げると、彼はにっこり笑った。
「私の演奏でよければ、ぜひ」
「ありがとうございます!」
シャレードはめずらしく弾んだ声をあげ、花が開くような美しい笑みを浮かべた。
その満面の笑みに見惚れたラルサスだったが、いたずらっぽい顔をして言った。
「ところで、あなたもフルートを披露してくれるんですよね?」
「えっ⁉」
「私だけ演奏するのは気恥ずかしいので、あなたにも演奏してもらいたいのです」
シャレードは戸惑った。
子どもたちにフルートを聴かせたことはあるが、ラルサスのあの美しい音色とはあまりにレベルが違いすぎると思ったのだ。それでも、人に頼んでおいて自分はできないとは言えなかった。
「承知いたしました。拙い演奏になりますが………」
「いいえ、楽しみです」
彼女の承諾に、ラルサスはうれしそうに顔をほころばせた。
*――***――*
「王子殿下、おもしろい情報を入手しました」
定期連絡に訪れた情報員が開口一番、そう言った。
シャレードのことが気がかりで、なにも手につかない状態だったラルサスは、気のない様子で彼を見やった。
「なんだ?」
「密輸の件とは関係ないのですが、お耳に入れておこうと思いまして。なんと、カルロ王太子が借金まみれらしいです」
「借金?」
ラルサスもそうだが、王族が自ら支払いをすることは、滅多にないはずだ。
それなのにどうして借金なんてものができるのか、意味がわからない。
「ありえないだろ」
ラルサスは一蹴した。
「それがあるのです。あの王太子は調べれば調べるほどクズですね。公務をサボるぐらいはかわいいもので、メイドに手を出して孕ませたり、それを無理やり堕胎させたり、あげくの果てに賭け事に手を出して、多大な借金を負わされているんです」
「しかし、貴族同士の賭け事なんて、たかが知れているだろ? 王太子が相手となれば、多少手心を加えるだろうし」
賭け事は、晩餐会でも行われる人気の催しだ。
あくまで遊びの範疇なので、そこで借金まみれになるとは考えにくい。
そもそも、そんなことになったら、王太子に恥をかかせたと晩餐会の主催者の面目が潰れてしまう。
「違うのです。王太子は街の賭場に出入りしているようです」
「街の賭場⁉」
王太子どころか、貴族がそんなところに出入りしているなんて聞いたことがないラルサスは声をあげた。これも文化の違いかと思い、情報員に問いかける。
「うちの国ではありえないが、この国では普通なのか?」
「いいえ、この国でも前代未聞です」
目を瞠ったラルサスは、信じられないと憤慨した。
(王族は模範となるべき存在だろう! 校内の態度だけでも目に余るのに、そこまでひどいとは思わなかった……)
「なんであんなのが王太子なんだ!」
口をついて出たラルサスの言葉に、情報員は律儀に答えた。
「王太子以外の子どもは亡くなった側室の子だからでしょうね。歳も十近く下ですし」
「それでも、廃太子にしてもいいぐらいだろ?」
「王妃が溺愛しているから、王は強く言えないようです。さすがにこの事実を知ったら考え直さざるを得ないでしょうが」
「腐ってるな!」
吐き捨てるようにラルサスは言った。
穏やかな彼にはめずらしい様子に、情報員は驚きつつも深くうなずいた。
さらに、ファンダルシア王はカルロのことを注意しないどころか、シャレードに丸投げしているという。その責任感のない怠惰な姿勢は、初めての舞踏会でラルサスが覚えた違和感そのままだった。
かつて強豪国として名を馳せたこの国が国力を落とし、凋落していっている現状が、このありさまからも理解できる。
勢いでいえば、今はヴァルデ王国のほうが上だった。
だから、第三王子といえども、ラルサスは丁重に扱われているのだ。
──廃太子にしてもおかしくないほどの情報……
情報員が帰ったあと、ラルサスは長いことなにか考え込んでいた。
手にはカルロの借金の証文がある。情報員がカルロの借金の一部を支払い、手に入れたものだった。
ラルサスは一つの解決策を思いついていた。
ただ、それはシャレードをひどく傷つけるものだ。
(本当にその手しかないのか……?)
肘をつき、頭を支えたラルサスの様子は、そうしなければ身を起こしていられないというように力なく、その顔は翳りを帯びていた。そして、どこも見ていない瞳は沼底のように暗かった。
*――***――*
シャレードはディルルバの音色にすっかり心を溶かされていた。
やわらかくなった心に、ラルサスの存在が染み入ってくる。
(ラルサス様は私を見てくれる。公爵令嬢でも王太子の婚約者でもなく、一人の人間として)
そんな人がいると思うだけで、シャレードはこれまでにない安らぎを感じていた。
少し垂れ目のラルサスの笑みを見ると、心が温かくなった。
(彼と話すのは楽しいわ……。お友達がいたら、こんな感じなのかしら?)
立場もなにもかも違うのに、ラルサスに親近感を覚えてしまった。
必要以上に彼と仲よくするのは余計な憶測を生んで、外聞が悪いというのはわかってはいたが、ラルサスに話しかけられるとうれしくて、距離を置くことはできなかった。
(クラスメイトですもの。交流があってもおかしくはないわ)
言い訳のように、シャレードは考えた。
そんなふうに精神は今までないほどに凪いでいたが、反対に身体は異変を訴えていた。
胸がズキズキと絶えず痛むようになり、それどころか、身体の節々にまで刺すような痛みを覚えるようになった。
もちろん、それを表に出すことはなかったが。
(早く精密検査を受けたほうがいいわね)
シャレードは、近いうちに主治医に検査をセッティングしてもらおうと思った。
ラルサスは休み時間になると、相変わらず令嬢たちに取り囲まれ、にぎやかな声に包まれている。
シャレードはぼんやりそれを見やりながら、心がざわめくのを感じていた。
「ラルサス様。今週末のイソール侯爵の夜会には出席なさいますか?」
「いいえ、残念ながら、まだお近づきになっていませんので」
「それは残念ですわ。それなら、今度うちの晩餐会にいらしてくださいな」
「あら、うちは舞踏会を企画してるんです。ラルサス様はダンスがお上手だと聞きましたわ。ぜひ披露していただけませんこと?」
「それなら……」
競ってラルサスを社交に招こうとする令嬢たちに、彼はおっとりと笑って、かぶりを振った。
「お誘いいただきありがたいのですが、まだ不慣れな身ですので、もう少しこの国のことを勉強してから参加させてください。それまでは、社交界のことを教えていただけますか?」
「まぁ、もちろんですわ!」
「なんでもお聞きになって!」
ラルサスを誘うのは失敗したが、情報を求められ、令嬢たちは喜んで次々と噂話を披露した。
それを彼は興味深そうに聞いている。
噂話が一段落したところで、ラルサスが尋ねた。
「そういえば、王太子殿下の仲がよろしい方はどなたなのでしょう?」
その質問に、令嬢たちは意味深に目を見交わした。
聞くともなく聞いていたシャレードは、わざわざそんな質問をするなんて、と眉根を寄せた。
彼女たちは口々に言う。
「そうですわね。マルネ男爵令嬢、シモーネ子爵令嬢……」
「リリス様もいるわよ?」
「あぁ、申し訳ない。男性ではどなたかなと思いまして。女性はよくお見かけするのですが」
ラルサスの言葉に、令嬢たちは少し困惑した表情で顔を見合わせた。
(どうしてそんなことを聞くのかしら?)
シャレードも不思議に思った。
「男性ですと、ダーレン侯爵子息、ディズモンド伯爵子息……」
「前に街でクライアス様とご一緒されているのを何度か見かけましたわ!」
「そのクライアス様というのは?」
「バーベル伯爵の三男じゃなかったかしら?」
それでも、さすが令嬢たちの情報力はすさまじく、次々とカルロの交友関係の情報が出てくる。
シャレードも馴染みがない名前があるほどだ。
「なるほど、参考になります。ところで、最近、社交界で変わったことなどありますか?」
「変わったこと?」
「私も話題に乗り遅れてはいけないと思いまして」
「あぁ、それなら……」
ラルサスの求めに、また令嬢たちが我先にと口を開く。
彼が世間話を装いながら情報収集しているように感じられて、シャレードは気になった。
そうした話題の中で驚くような話があった。
「最近、夜会で女性が媚薬を使われて部屋に連れ込まれるという被害があるらしいですわ」
「媚薬⁉」
「部屋にって……」
噂を聞いたことがなかった令嬢たちがどよめいた。
ラルサスも媚薬という言葉に反応し、注意深く話に耳を傾ける。
「未婚の女性はそんなこと、訴えられないでしょ? 泣き寝入りしている方が何人かいらっしゃると聞くわ」
「まさか、そんなこと!」
自分に置き換えて想像し、彼女たちは青ざめた。
「許せない話ですね。あなた方は魅力的なので、十分お気をつけください」
「はいっ! 気をつけますわ」
ラルサスが心配そうに言うと、令嬢たちはパッと顔を明るくして返事をした。
でも、シャレードは彼が優しいだけの人物ではないと感じ、その目的はなにかと警戒する気持ちが湧いた。
それでも、ラルサスは事あるごとにシャレードに声をかけてくるし、熱いまなざしで見つめてきた。
(これにも裏があるのかしら?)
そう思うのに、シャレードの心は喜ぶ気持ちを止められなかった。
ある日、教室移動の際、二人が並んで歩いていると、シャレードがふらついた。
ラルサスは彼女を抱きとめる。
「大丈夫ですか? 医務室で休まれますか?」
「そうします。ありがとうございます」
まだ足もとがおぼつかないシャレードをいたわりながら、ラルサスは医務室へと向かった。
しかし、医務室の前に近づいたところで、中から淫らに喘ぐ声が聞こえてきた。
「あっ、あん、イイッ、そこっ、カルロ様、ああッ、イクッ、イクゥーーーッ」
「まだだ! もっと俺を楽しませろ」
「アッ、そんな、やぁあ、今イッて……ああッ」
艶っぽい声だけでなく肉を打つ生々しい音まで聞こえてきて、二人は立ち止まった。
中でなにが行われているかは明らかだった。
シャレードが真っ赤になった。
「……中庭で休みましょうか」
ラルサスの言葉にシャレードは小さくうなずいた。
授業中なので、誰もいない中庭のベンチに二人は腰かけた。
先ほどの出来事にそれぞれショックを受けた二人は、しばらく無言でそこにいた。
「……婚約解消はできないのですか?」
沈黙から口を開いたラルサスは、怒りに打ち震えていた。
シャレードは感情を見せない瞳で彼を見返し、首を横に振った。
「あなたから言い出すことはできなくても、ファンダルシア王に訴えるとか、王太子に解消するよう仕向けるとかできるでしょう? 彼はあなたとの婚約を継続する意志がないように見えます」
なおも言うラルサスに、目を伏せたシャレードはまた静かに頭を振った。
すでに、カルロは何度も王にシャレードとの婚約の解消を訴えて、却下されているのだ。
「父上、もっとかわいげのある子を婚約者にしてください。シャレードなんておもしろみもないし、いつも私を見下してきて、ムカつくんです。マルネにしてくれたら、私はもっと公務に精を出します」
「なにを言っておるのだ。シャレードほど優秀で次期王妃にふさわしい娘はおらん。それにマルネは男爵令嬢ではないか。身分が釣り合わん。側室にでもすればいいだろう」
「じゃあ、他の子でもいいです。代えてください!」
「無理だ。代えられん!」
シャレード本人を目の前にして交わされた会話を思い出し、シャレードは暗い気持ちになった。
政治的バランスを取るために決められた婚約である上、王は優秀なシャレードにカルロの面倒を見させたいと思っているので、頑として取り合わなかった。
カルロの下には側室が産んだ歳の離れた王子と王女しかいないため、カルロが王太子になったのだが、王は彼の資質をいささか不安に思っているようだ。
婚約を解消して、フォルタス公爵ににらまれるのはごめんだとも思っているようだ。王権が弱くなった今、有力貴族のフォルタス公爵との結びつきが重要だった。
王妃もさすがにそれを理解していて、カルロが婚約の解消をねだっても、この件にはいっさい口を出さない。
シャレードは王の期待に応えるしかなかった。
(それでもこんな仕打ちはつらい……)
唇を噛んだ彼女の思考を、ラルサスの言葉が破った。
「もし婚約を解消できるのであれば……」
彼を見やると、翠の瞳がひたっとシャレードを見ている。
「私があなたを娶りたい」
あなたがよければですがと、照れくさそうに言葉を続けたラルサスに、シャレードは息を呑んだ。
(ラルサス様と……?)
一瞬、彼とともに生きる幸せな未来を思い描いてしまい、それを掻き消すように頭を振った。
そんな未来は存在しないのだから。
「お心づかいはうれしいのですが、陛下が婚約解消を許すはずがありません」
己の感情を必死で心の中に閉じ込め、シャレードは抑揚のない声で答えた。でも、動揺で手が震える。それを目ざとく見つけられて、ラルサスに手を取られる。
「どうか私がそう思っていると心の片隅にでも置いておいてください」
本当はその手を振り払わなければならなかった。
しかし、シャレードはそれができずに、ただラルサスの熱を帯びた翠の瞳を見つめた。
シャレードの水色の瞳にラルサスの熱が移っていく。
二人は見つめ合い、引き寄せられるかのように、ラルサスの顔が近づいた──
「すみません……」
急にラルサスが立ち上がった。
「シャレードはここでゆっくり休んでいてください」
そう言うと、彼は足早に立ち去った。
シャレードは茫然と彼を見送った。
ラルサスの唇が触れた頬を押さえながら。
──私があなたを娶りたい。
シャレードは夜になってもラルサスに言われた言葉を忘れられなかった。
照れくさそうな笑顔。そっと頬に触れた唇。
それらを何度も思い出してはドキドキしてしまう。
こんなことは初めてだった。
(ラルサス様はきっと私に同情してくれているだけ……)
そう自分をなだめるのに、気がつくと、彼とともにある未来を想像してしまう。
(きっとラルサス様とだったら、穏やかで心満たされる生活が送れるわ)
読書したり散歩したり、楽器を弾いたり……
なにもしなくても、ただともにいるだけで幸せを感じられる。そんな気がした。
そして、真逆の現実に慄く。
シャレードは自分を認めず疎んでいる婚約者から逃げられない。彼女には責務があって、こんな気持ちは許されないのだ。
彼女は慟哭するように手で顔を覆った。
でも、涙は流さない。
唇を噛んだシャレードは、自分の気持ちに蓋をした。
翌日シャレードはまた倒れた。
「シャレード!」
走り寄ってすんでのところで彼女を抱きとめたラルサスは焦燥にかられたような顔をした。シャレードよりよっぽど顔色が悪い。
そんなに心配させてしまったのかと、シャレードは申し訳なく思った。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
立ち上がろうとする彼女をラルサスが抱きしめた。
「大丈夫じゃない……!」
苦しげな声に彼の憂慮を感じて、シャレードはその背中をなだめるようになでた。
「本当に大丈夫ですから」
彼女の動作にラルサスはハッとして、身を離した。ここが学校の廊下だと思い出したようだ。
シャレードに手を貸し、立ち上がらせる。
「……馬車まで送りましょう。お大事にしてください」
硬い表情のままで、ラルサスは彼女をエスコートした。
『なに? あの子って、シャレードのことか?』
『そうだよ! 決まってるじゃん!』
フィルは苛立ったように頬を膨らませる。
『さっきラルサスが触ったとき、感じたんだ』
『じゃあ、隙を見てそれとなく触れるから、治してやってくれ』
フィルは癒しの精霊で、ラルサスが触れた者の傷や病を見通し、治すことができる力を持っていた。
国家機密なので、シャレードに説明することができないのが難点だが、さりげなく触れるくらいならなんとかなるかとラルサスが考えていると、フィルがポカポカと殴りかかってきた。
『治せるなら、さっき治してたよ! ラルサスのお気に入りの子を死なせたくないし』
『死なせたくないって……』
『あれは死病だよ。胸を中心に黒いものが身体のあちこちを覆ってた』
『しびょう……?』
聞こえた言葉を理解したくなくて、ラルサスは言われたままの音をつぶやいた。
『そう。このままだと半年持つかどうかじゃない?』
『半年だって⁉』
あまりに信じがたい情報ばかりで、ラルサスはただ言葉を繰り返すことしかできなかった。
『……治療法は?』
『僕でも治せないのに、人間が治せるとは思わないけど?』
『それじゃあ、シャレードがあと半年で死ぬと言っているみたいじゃないか!』
『そうだよ。そう言ってるの!』
かわいそうにとフィルがラルサスの頭をなでるが、それに気づかないほど、彼は茫然とした。
目の前が真っ暗になる。
「嘘だろ……?」
めまいがして、額に手を当て、ラルサスはつぶやいた。
運命の人だと認識したばかりの相手が、よりによって死病に侵されているとは、とても信じたくなかった。
『ウソだったら、よかったんだけど』
悲しげにフィルも目を伏せて、ラルサスの肩に乗った。なぐさめるように今度は頬をなでてくる。
間違いであってほしいとラルサスは顔を上げて、フィルを見た。
『でも、初めてシャレードとダンスをしたときはなにも感じなかったんだろ?』
『ん~、感じたかどうかも覚えてないよ。それほど彼女を気にかけてたわけじゃないし』
ラルサスが触った人の状態が視えてしまうフィルだが、特別なことがなければそれに言及することはない。それがその人間の定めだから、意識しない限りは気にも留まらない。
今回はラルサスがえらくシャレードを気に入っているのがわかったから、認識したのだ。
フィルの能力を信頼しているラルサスは絶望に陥った。
と、ふいに思い出す。
期待を込めて、ラルサスはフィルに尋ねた。
『フィル、秘儀を行えば治せるか?』
『あぁ、あれ? うん、たぶん治せるよ。でも、そんなことをしたら、ラルサスが……。それにどうやって、そんな状況に持ち込むんだよ! 相手はこの国の王太子の婚約者だろ?』
『そうなんだよな……』
シャレードを助ける一筋の光は見えたが、それは実現すること自体、困難な方法だった。
ラルサスは力なくうなだれた。
*――***――*
屋敷に戻ったシャレードは、ラルサスに言われた通り医者を呼んだ。
このところの体調不良は尋常ではなかったからだ。我慢強いシャレードは痛みには耐えられると思ったが、さきほどのように倒れて他人に迷惑をかけることはしたくなかった。
「いかがされましたか?」
主治医がやってきて、シャレードを問診する。
彼女が症状を話すと、医者は少し顔をしかめて、目の下、耳の後ろ、口の中を診た。
「失礼いたします」
特に痛む胸を触診すると、彼は首を振った。
「寝不足と栄養不足かもしれませんね」
確かに、このごろ、シャレードはなかなか寝つけないし、食欲がなかった。
なんでもなさそうで、ほっとしたシャレードに主治医は告げた。
「念のため、精密検査をしましょう。私の同期に検査を専門にしている医者がいるのです」
そう言われ、シャレードは不安になる。
「念のため、ですか? なにか気がかりなことが?」
「念のためです。とりあえず、睡眠導入薬と栄養剤を出しておきますね」
主治医は安心させるように微笑んだ。
翌日、めずらしくシャレードからラルサスに近づいた。
「昨日はありがとうございました。また、ご迷惑をおかけいたしました」
「いいえ、お身体は大丈夫ですか?」
心から気づかい、心配してくれている様子のラルサスに、シャレードの胸は熱くなる。
(人に気づかわれるなんて久しぶりだわ……)
深刻な顔をするラルサスに、シャレードは静かな笑みを浮かべた。
「お医者様に診ていただいたら、不摂生がたたっただけだと言われました。お恥ずかしいですわ」
処方薬を飲んでよく寝たら体調がよくなっていて、シャレードはほっとしていた。
ラルサスはまだ気づかうようなまなざしをしていたが、「それはよかったです」とうなずいた。
「それで、もしよろしければ、なのですが……」
ためらいがちにシャレードが言い出して、ラルサスは「なんでしょう?」とやわらかい表情で先を促す。
シャレードは、昨夜ふと思いついたことを提案してみようと思ったのだ。
「昨日のディルルバの演奏がとても素晴らしかったので、それを孤児院の子どもたちにも聴かせてあげたいと思いまして」
「孤児院ですか?」
「はい。月に一度、孤児院に慰問に行っているのですが、そこの子どもたちはなかなか音楽に触れる機会がないのです。ラルサス様さえよろしければ、ディルルバを披露していただけないでしょうか?」
普段、シャレードは誰かになにかを頼むことはない。でも、あの音楽を自分だけのものにしておくのはもったいないと思った。
それに、正直なところ、シャレード自身もう一度聴きたかったのだ。
慣れない行為にドキドキしながらシャレードがラルサスを見上げると、彼はにっこり笑った。
「私の演奏でよければ、ぜひ」
「ありがとうございます!」
シャレードはめずらしく弾んだ声をあげ、花が開くような美しい笑みを浮かべた。
その満面の笑みに見惚れたラルサスだったが、いたずらっぽい顔をして言った。
「ところで、あなたもフルートを披露してくれるんですよね?」
「えっ⁉」
「私だけ演奏するのは気恥ずかしいので、あなたにも演奏してもらいたいのです」
シャレードは戸惑った。
子どもたちにフルートを聴かせたことはあるが、ラルサスのあの美しい音色とはあまりにレベルが違いすぎると思ったのだ。それでも、人に頼んでおいて自分はできないとは言えなかった。
「承知いたしました。拙い演奏になりますが………」
「いいえ、楽しみです」
彼女の承諾に、ラルサスはうれしそうに顔をほころばせた。
*――***――*
「王子殿下、おもしろい情報を入手しました」
定期連絡に訪れた情報員が開口一番、そう言った。
シャレードのことが気がかりで、なにも手につかない状態だったラルサスは、気のない様子で彼を見やった。
「なんだ?」
「密輸の件とは関係ないのですが、お耳に入れておこうと思いまして。なんと、カルロ王太子が借金まみれらしいです」
「借金?」
ラルサスもそうだが、王族が自ら支払いをすることは、滅多にないはずだ。
それなのにどうして借金なんてものができるのか、意味がわからない。
「ありえないだろ」
ラルサスは一蹴した。
「それがあるのです。あの王太子は調べれば調べるほどクズですね。公務をサボるぐらいはかわいいもので、メイドに手を出して孕ませたり、それを無理やり堕胎させたり、あげくの果てに賭け事に手を出して、多大な借金を負わされているんです」
「しかし、貴族同士の賭け事なんて、たかが知れているだろ? 王太子が相手となれば、多少手心を加えるだろうし」
賭け事は、晩餐会でも行われる人気の催しだ。
あくまで遊びの範疇なので、そこで借金まみれになるとは考えにくい。
そもそも、そんなことになったら、王太子に恥をかかせたと晩餐会の主催者の面目が潰れてしまう。
「違うのです。王太子は街の賭場に出入りしているようです」
「街の賭場⁉」
王太子どころか、貴族がそんなところに出入りしているなんて聞いたことがないラルサスは声をあげた。これも文化の違いかと思い、情報員に問いかける。
「うちの国ではありえないが、この国では普通なのか?」
「いいえ、この国でも前代未聞です」
目を瞠ったラルサスは、信じられないと憤慨した。
(王族は模範となるべき存在だろう! 校内の態度だけでも目に余るのに、そこまでひどいとは思わなかった……)
「なんであんなのが王太子なんだ!」
口をついて出たラルサスの言葉に、情報員は律儀に答えた。
「王太子以外の子どもは亡くなった側室の子だからでしょうね。歳も十近く下ですし」
「それでも、廃太子にしてもいいぐらいだろ?」
「王妃が溺愛しているから、王は強く言えないようです。さすがにこの事実を知ったら考え直さざるを得ないでしょうが」
「腐ってるな!」
吐き捨てるようにラルサスは言った。
穏やかな彼にはめずらしい様子に、情報員は驚きつつも深くうなずいた。
さらに、ファンダルシア王はカルロのことを注意しないどころか、シャレードに丸投げしているという。その責任感のない怠惰な姿勢は、初めての舞踏会でラルサスが覚えた違和感そのままだった。
かつて強豪国として名を馳せたこの国が国力を落とし、凋落していっている現状が、このありさまからも理解できる。
勢いでいえば、今はヴァルデ王国のほうが上だった。
だから、第三王子といえども、ラルサスは丁重に扱われているのだ。
──廃太子にしてもおかしくないほどの情報……
情報員が帰ったあと、ラルサスは長いことなにか考え込んでいた。
手にはカルロの借金の証文がある。情報員がカルロの借金の一部を支払い、手に入れたものだった。
ラルサスは一つの解決策を思いついていた。
ただ、それはシャレードをひどく傷つけるものだ。
(本当にその手しかないのか……?)
肘をつき、頭を支えたラルサスの様子は、そうしなければ身を起こしていられないというように力なく、その顔は翳りを帯びていた。そして、どこも見ていない瞳は沼底のように暗かった。
*――***――*
シャレードはディルルバの音色にすっかり心を溶かされていた。
やわらかくなった心に、ラルサスの存在が染み入ってくる。
(ラルサス様は私を見てくれる。公爵令嬢でも王太子の婚約者でもなく、一人の人間として)
そんな人がいると思うだけで、シャレードはこれまでにない安らぎを感じていた。
少し垂れ目のラルサスの笑みを見ると、心が温かくなった。
(彼と話すのは楽しいわ……。お友達がいたら、こんな感じなのかしら?)
立場もなにもかも違うのに、ラルサスに親近感を覚えてしまった。
必要以上に彼と仲よくするのは余計な憶測を生んで、外聞が悪いというのはわかってはいたが、ラルサスに話しかけられるとうれしくて、距離を置くことはできなかった。
(クラスメイトですもの。交流があってもおかしくはないわ)
言い訳のように、シャレードは考えた。
そんなふうに精神は今までないほどに凪いでいたが、反対に身体は異変を訴えていた。
胸がズキズキと絶えず痛むようになり、それどころか、身体の節々にまで刺すような痛みを覚えるようになった。
もちろん、それを表に出すことはなかったが。
(早く精密検査を受けたほうがいいわね)
シャレードは、近いうちに主治医に検査をセッティングしてもらおうと思った。
ラルサスは休み時間になると、相変わらず令嬢たちに取り囲まれ、にぎやかな声に包まれている。
シャレードはぼんやりそれを見やりながら、心がざわめくのを感じていた。
「ラルサス様。今週末のイソール侯爵の夜会には出席なさいますか?」
「いいえ、残念ながら、まだお近づきになっていませんので」
「それは残念ですわ。それなら、今度うちの晩餐会にいらしてくださいな」
「あら、うちは舞踏会を企画してるんです。ラルサス様はダンスがお上手だと聞きましたわ。ぜひ披露していただけませんこと?」
「それなら……」
競ってラルサスを社交に招こうとする令嬢たちに、彼はおっとりと笑って、かぶりを振った。
「お誘いいただきありがたいのですが、まだ不慣れな身ですので、もう少しこの国のことを勉強してから参加させてください。それまでは、社交界のことを教えていただけますか?」
「まぁ、もちろんですわ!」
「なんでもお聞きになって!」
ラルサスを誘うのは失敗したが、情報を求められ、令嬢たちは喜んで次々と噂話を披露した。
それを彼は興味深そうに聞いている。
噂話が一段落したところで、ラルサスが尋ねた。
「そういえば、王太子殿下の仲がよろしい方はどなたなのでしょう?」
その質問に、令嬢たちは意味深に目を見交わした。
聞くともなく聞いていたシャレードは、わざわざそんな質問をするなんて、と眉根を寄せた。
彼女たちは口々に言う。
「そうですわね。マルネ男爵令嬢、シモーネ子爵令嬢……」
「リリス様もいるわよ?」
「あぁ、申し訳ない。男性ではどなたかなと思いまして。女性はよくお見かけするのですが」
ラルサスの言葉に、令嬢たちは少し困惑した表情で顔を見合わせた。
(どうしてそんなことを聞くのかしら?)
シャレードも不思議に思った。
「男性ですと、ダーレン侯爵子息、ディズモンド伯爵子息……」
「前に街でクライアス様とご一緒されているのを何度か見かけましたわ!」
「そのクライアス様というのは?」
「バーベル伯爵の三男じゃなかったかしら?」
それでも、さすが令嬢たちの情報力はすさまじく、次々とカルロの交友関係の情報が出てくる。
シャレードも馴染みがない名前があるほどだ。
「なるほど、参考になります。ところで、最近、社交界で変わったことなどありますか?」
「変わったこと?」
「私も話題に乗り遅れてはいけないと思いまして」
「あぁ、それなら……」
ラルサスの求めに、また令嬢たちが我先にと口を開く。
彼が世間話を装いながら情報収集しているように感じられて、シャレードは気になった。
そうした話題の中で驚くような話があった。
「最近、夜会で女性が媚薬を使われて部屋に連れ込まれるという被害があるらしいですわ」
「媚薬⁉」
「部屋にって……」
噂を聞いたことがなかった令嬢たちがどよめいた。
ラルサスも媚薬という言葉に反応し、注意深く話に耳を傾ける。
「未婚の女性はそんなこと、訴えられないでしょ? 泣き寝入りしている方が何人かいらっしゃると聞くわ」
「まさか、そんなこと!」
自分に置き換えて想像し、彼女たちは青ざめた。
「許せない話ですね。あなた方は魅力的なので、十分お気をつけください」
「はいっ! 気をつけますわ」
ラルサスが心配そうに言うと、令嬢たちはパッと顔を明るくして返事をした。
でも、シャレードは彼が優しいだけの人物ではないと感じ、その目的はなにかと警戒する気持ちが湧いた。
それでも、ラルサスは事あるごとにシャレードに声をかけてくるし、熱いまなざしで見つめてきた。
(これにも裏があるのかしら?)
そう思うのに、シャレードの心は喜ぶ気持ちを止められなかった。
ある日、教室移動の際、二人が並んで歩いていると、シャレードがふらついた。
ラルサスは彼女を抱きとめる。
「大丈夫ですか? 医務室で休まれますか?」
「そうします。ありがとうございます」
まだ足もとがおぼつかないシャレードをいたわりながら、ラルサスは医務室へと向かった。
しかし、医務室の前に近づいたところで、中から淫らに喘ぐ声が聞こえてきた。
「あっ、あん、イイッ、そこっ、カルロ様、ああッ、イクッ、イクゥーーーッ」
「まだだ! もっと俺を楽しませろ」
「アッ、そんな、やぁあ、今イッて……ああッ」
艶っぽい声だけでなく肉を打つ生々しい音まで聞こえてきて、二人は立ち止まった。
中でなにが行われているかは明らかだった。
シャレードが真っ赤になった。
「……中庭で休みましょうか」
ラルサスの言葉にシャレードは小さくうなずいた。
授業中なので、誰もいない中庭のベンチに二人は腰かけた。
先ほどの出来事にそれぞれショックを受けた二人は、しばらく無言でそこにいた。
「……婚約解消はできないのですか?」
沈黙から口を開いたラルサスは、怒りに打ち震えていた。
シャレードは感情を見せない瞳で彼を見返し、首を横に振った。
「あなたから言い出すことはできなくても、ファンダルシア王に訴えるとか、王太子に解消するよう仕向けるとかできるでしょう? 彼はあなたとの婚約を継続する意志がないように見えます」
なおも言うラルサスに、目を伏せたシャレードはまた静かに頭を振った。
すでに、カルロは何度も王にシャレードとの婚約の解消を訴えて、却下されているのだ。
「父上、もっとかわいげのある子を婚約者にしてください。シャレードなんておもしろみもないし、いつも私を見下してきて、ムカつくんです。マルネにしてくれたら、私はもっと公務に精を出します」
「なにを言っておるのだ。シャレードほど優秀で次期王妃にふさわしい娘はおらん。それにマルネは男爵令嬢ではないか。身分が釣り合わん。側室にでもすればいいだろう」
「じゃあ、他の子でもいいです。代えてください!」
「無理だ。代えられん!」
シャレード本人を目の前にして交わされた会話を思い出し、シャレードは暗い気持ちになった。
政治的バランスを取るために決められた婚約である上、王は優秀なシャレードにカルロの面倒を見させたいと思っているので、頑として取り合わなかった。
カルロの下には側室が産んだ歳の離れた王子と王女しかいないため、カルロが王太子になったのだが、王は彼の資質をいささか不安に思っているようだ。
婚約を解消して、フォルタス公爵ににらまれるのはごめんだとも思っているようだ。王権が弱くなった今、有力貴族のフォルタス公爵との結びつきが重要だった。
王妃もさすがにそれを理解していて、カルロが婚約の解消をねだっても、この件にはいっさい口を出さない。
シャレードは王の期待に応えるしかなかった。
(それでもこんな仕打ちはつらい……)
唇を噛んだ彼女の思考を、ラルサスの言葉が破った。
「もし婚約を解消できるのであれば……」
彼を見やると、翠の瞳がひたっとシャレードを見ている。
「私があなたを娶りたい」
あなたがよければですがと、照れくさそうに言葉を続けたラルサスに、シャレードは息を呑んだ。
(ラルサス様と……?)
一瞬、彼とともに生きる幸せな未来を思い描いてしまい、それを掻き消すように頭を振った。
そんな未来は存在しないのだから。
「お心づかいはうれしいのですが、陛下が婚約解消を許すはずがありません」
己の感情を必死で心の中に閉じ込め、シャレードは抑揚のない声で答えた。でも、動揺で手が震える。それを目ざとく見つけられて、ラルサスに手を取られる。
「どうか私がそう思っていると心の片隅にでも置いておいてください」
本当はその手を振り払わなければならなかった。
しかし、シャレードはそれができずに、ただラルサスの熱を帯びた翠の瞳を見つめた。
シャレードの水色の瞳にラルサスの熱が移っていく。
二人は見つめ合い、引き寄せられるかのように、ラルサスの顔が近づいた──
「すみません……」
急にラルサスが立ち上がった。
「シャレードはここでゆっくり休んでいてください」
そう言うと、彼は足早に立ち去った。
シャレードは茫然と彼を見送った。
ラルサスの唇が触れた頬を押さえながら。
──私があなたを娶りたい。
シャレードは夜になってもラルサスに言われた言葉を忘れられなかった。
照れくさそうな笑顔。そっと頬に触れた唇。
それらを何度も思い出してはドキドキしてしまう。
こんなことは初めてだった。
(ラルサス様はきっと私に同情してくれているだけ……)
そう自分をなだめるのに、気がつくと、彼とともにある未来を想像してしまう。
(きっとラルサス様とだったら、穏やかで心満たされる生活が送れるわ)
読書したり散歩したり、楽器を弾いたり……
なにもしなくても、ただともにいるだけで幸せを感じられる。そんな気がした。
そして、真逆の現実に慄く。
シャレードは自分を認めず疎んでいる婚約者から逃げられない。彼女には責務があって、こんな気持ちは許されないのだ。
彼女は慟哭するように手で顔を覆った。
でも、涙は流さない。
唇を噛んだシャレードは、自分の気持ちに蓋をした。
翌日シャレードはまた倒れた。
「シャレード!」
走り寄ってすんでのところで彼女を抱きとめたラルサスは焦燥にかられたような顔をした。シャレードよりよっぽど顔色が悪い。
そんなに心配させてしまったのかと、シャレードは申し訳なく思った。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
立ち上がろうとする彼女をラルサスが抱きしめた。
「大丈夫じゃない……!」
苦しげな声に彼の憂慮を感じて、シャレードはその背中をなだめるようになでた。
「本当に大丈夫ですから」
彼女の動作にラルサスはハッとして、身を離した。ここが学校の廊下だと思い出したようだ。
シャレードに手を貸し、立ち上がらせる。
「……馬車まで送りましょう。お大事にしてください」
硬い表情のままで、ラルサスは彼女をエスコートした。
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