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第『6』話

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「…………」

 目覚めは最悪だった。
訳もわからず胸を締め付ける様な焦りと動揺が心の中を支配していた。
何か夢を見ていた様な……
その複雑な感情を胸に仕舞い込み今日も仕事に向かうためにベットから起き上がった。



 相変わらず兼光は仕事をしようとしなかった。 
俺が仕事を与えようとしてもセバスがやってしまうのだ。
それはそれで俺は助かるのだが何か違うような気がする…

「だからそれはお前がやると意味ないんだよこいつにやらせないと」
「いえ、坊ちゃまを働かせるなど…私がついていながらそんな事はさせません!」
「ていうか仕事なんだからお前ついてくるなよ!」
「ご冗談を…私と坊ちゃまは一心同体!命ある限り私は離れませんぞ!はははは」
「もういいから早く帰ってくれ!」

 こんな感じでどうもこいつの周りの人間は坊っちゃま愛が強すぎてちょっとドン引きなんですけど。
その中でも兼光本人にもわずかながらの変化を見られた。

「それは何をやっているんだ」
「課長に承認をもらったからな…担当印をついて各部署に配布するんだ…やってみるか?」
「俺がやってもいいのか?仕方がない…ではやってやろう!」

 ただひたすらにハンコをついていくのだけの作業だが、彼は初めておもちゃを与えられた子供のように目を輝かせながらハンコをついていた。

「どうだセバス!このハンコの付き具合は良いのではないか?」
「おお!流石はおぼっちゃま!一見普通のハンコに見えますが類まれない気品と王者の風格を感じますぞ!」
「そんなわけねーだろ!どっから見ても普通のハンコだよ!ついでにこれも頼むな」
「全く我孫子様は物の価値を見分ける眼力が皆無ですな…」

 以前に比べて作業の中に興味の引くものに関しては結構口を挟んでくるようになったし実際作業をする事もあった。以前は俺に対しても下等生物の様な扱いだったが最近では仕事の同僚ぐらいの感覚で接する様になった……確かに仕事に来てお茶してるだけではつまらないだろうし……このままやる気に目覚めてくれねーかな。


そんなある日に課長からの呼び出しがあった。

「課長なんすか」
「お前そんなに軽い…… まぁいい。兼光を連れて取引先に行ってもらいたいのだが」
「無理ですよ僕を殺す気ですか?行くならあいつ置いて行きます…僕一人でいいです」
「それが…先方からぜひ彼を連れてとの要望なのだ」
「それ絶対パイプ狙いでしょ?」
「まぁな…しかし今まで散々断ってきた分今回は少し断りにくいのだ…来月に向けて今の契約の継続の申し込みもあるし…できれば好感触を掴んでおきたい所なのだ…」
「そうすか仕方がないすね、ちなみに日程は?」
「明日にでも問題なければこちらでアポを取っておく」

 不安の残るパーティでの冒険が確定した!




「はぁ…ただいま」

 慶次は重い足取りで玄関のドアを開いた。
奥からパタパタとスリッパの音が聞こえて……

「おかえりー」

 一人の女性が駆けてきた…長い髪を後ろで一つに結び走る度にそれが左右にも揺れる……もちろんその胸も大きく揺れていた…そして慶次に抱きついた。

「慶次くんおかえり!今日もお仕事お疲れ様!ご飯にする?お風呂にする?それともわ・た・し?」

そんな感じでこれでもかと言わんばかりに慶次の顔に胸を押し付けるのだ。
慶次としては嬉しいやら喜ばしいやら……ご褒美でしかなかった。

「ぷは…雪姉!苦しいよ」
「んんっ とかなんとか言って嬉しいくせに」

 はい 嬉しいです。
 彼女はこの家で家政婦として家事全般を行ってくれている『笹川 雪江ささがわ ゆきえ』だ。
 近所に住む慶次の一つ上のお姉さんである。慶次の家族とは昔から交流があり、両親の事故以降も大学を卒業後に家政婦として妹の面倒を見てくれていた。
 もちろん彼女を雇う資産や甲斐性など持ち合わせていない慶次は丁重にお断りしたのだがいつの間にか雪江は驚異的な行動力で慶次達兄妹の境遇を支援対象に認定し家政婦を派遣する事となり何故かそのポストに雪江自身が収まっていた。
思った以上の報酬も国から出ており彼女の両親も反対どころか寧ろ喜んで送り出していた。
 彼女自身も慶次が幼い頃からの付き合いでむしろ姉と言っても過言では無い存在であった。その勢いに任せて住み込みで働くとか言い出したのだが家も近い事もあり平日のみ家の事と栞の事を見て貰う様に契約をしていた。

「今朝はごめんね…大した用事では無かったのだけどお休み貰っちゃって…それでこの後は?私?それとも…もしかして私?」
「…今日はやけにグイグイ来ますね……それよりもこんな所を栞に見られたら…」
「……おかえり……」

 玄関でイチャつく2人を妹であるしおりが感情のない目で見つめていた。

「雪姉いつまでもそんなのからかってないでご飯にしようよ」

 栞は長く伸びた黒髪を掻き上げながら呟いた。
彼女は母親によく似ており将来はきっと美人に成長するだろうと慶次は思っている。

「まあ母親に似てなくても美人には違いない」
「相変わらずシスコンだね…駄々漏れだよ」

 見れば雪姉は呆れた顔をしており、栞は真っ赤な顔をして俯いている。
あれ?もしかして心の声が漏れてた?


「ゆ、雪姉…そ、そんなのほっといて御飯…」
「しーちゃんお兄さんに向かってそんなのって酷いよ!」
「そうだぞ栞…頑張ったお兄ちゃんを労うために雪姉が癒してくれただけじゃないか」
「…きも」

 今日も俺のスイートエンジェルは可愛らしいな…そのゴミを見るような視線と心をえぐるような冷たい言葉が1日の疲れを癒してくれるぜ……

「慶次君…それ違うと思うな…」

 雪江が少し哀れみを浮かべた目で見てきた……そんな目で見ないでよ

「違うよ…栞は照れているだけだよ…将来はお兄ちゃんと結婚するって言ってくれてたんだからね」
「それ凄い小さいときの話だよね…知ってると言うか私もその場にいたもん……ごめんね慶次君栞ちゃんはもう年頃だからやっぱりこういうの私も軽率だったね…ごめんね…」

 なんだかとてもいたたまれない空気に包まれた。
栞もなんとも言えない顔でこちらを見ている。

「違う違う…雪姉は悪くないよ…栞はあれだよ!この年頃の娘が父親を嫌がるような感覚なんだよ!という事はやはり僕を父親の様に慕ってくれてるって事だから大丈夫だよ!」
「うん?それも何か違う様な気がするけど……まぁいいか…ご飯にしようね!」



 食事中、常に楽しい会話を心掛け栞に一生懸命に話しかけるがとても興味を押し殺した様な気のない返事で返してくるだけだった…目も会わせてくれないなんて……全くここには家族しかいないんだからそんなに照れなくてもいいのに
……

「そういえば2人にプレゼントがあるんだ」

 食後に寛いでいると、雪江がそんなことを言うと僕に包みを渡してきた…中を見てみるとネクタイが1本、紺色に白のワンポイントあしらったシンプルなデザインだ。

「ゆ…雪姉!これ『SNOW』のハンカチじゃん!」
 
 栞がとても驚いた声出している……すのー?
しおりの手には淡い水色のハンカチが握られている…やはり白糸で雪の結晶をあしらったワンポイントが刺繍されている。

「お兄ちゃん知らないの?今すごい話題のブランドなんだよ!買いたくても買えないの!お店とかでも取り扱ってなくてネットの販売サイトでしか売り出されてなくて…しかもハンドメイド品らしくて本当に運がいい人じゃないと買えないんだよ!出品者がね『SNOW』って言う名前なのだからいつの間にか『スノーブランド』って呼ばれるようになって…都市伝説ものだよ!初めて見た!!」

 栞がここ最近で1番の長い文章で僕に話しかけてきてくれた……しかもお兄ちゃん呼びで!今日は記念日として休日にしよう!もう死んでもいい

「雪姉…どうしたのこれ?」
「…ちょっとねタイミングよく手に入ったから…2人に似合うかなぁと思って」
「もしかして今朝の休みって…雪姉大好き!ありがとう」

 栞が雪江に飛びついて大喜びしている…
俺も同じ様に飛びつこうかと思ったが栞の視線の温度が急下降したので我慢した。

「そんな…に凄い物なんかね?」
「あのね…これはね持ってるだけで幸せになるって噂があるの…買ったりプレゼントされた人が幸せになる魔法がかけられてるって言われてるんだよ!だから転売とかしちゃうと効果がないから転売サイトでは全然売れないの!値段は凄いんだけどね…」

 本日2度目の妹からの長文の会話にもう心が幸せで一杯だよ!今回の話はここで終わりにしてもっとこの余韻に浸っていたい……しかし物語は続いていった。
 栞から見せられた転売サイトの商品はどれも恐ろしいほどの価格が表示されていた。ネクタイはどうかな…

「「慶次君(お兄ちゃん)転売したら駄目だからね!」」

 2人の目がマジだったので……転売はやめておこう。


 まじまじとネクタイを見てみると確かにこうなんか気持ちがふわっとして落ち着くような懐かしい様な気がする……それにこの刺繍のエンブレムどっかで見たことある様な気もする…

「まぁ…雪姉ありがと…気に入ったよ!大事に使わせてもらうね」

 慶次の言葉に雪江は一番の笑顔を見せるのだった。



 明日に備えて寝ようかと思っていたらラプラスがひょっこりと現れた……今夜はそんな気分じゃないんだが

「は?ご主人様バカにゃの?」

 こいつ…最近僕に対する態度が雑だな…

「それはそうとどうした…その姿で現れるのは珍しいな」

 今夜のラプラスはいつものドットではなく義体で現れた…本人も活動に適していないから好きでは無いと聞いていたのだが…そんな際どい恰好で来たらそう思っても不思議じゃないだろうが……

「…お願いがあってきたのにゃ…」
「…ほう…エロゲはダメだぞ」
「違うのにゃ エロゲはもう卒業したのにゃ…お小遣いの前借りをお願いしたいのにゃ!」

 何でも株での投資先に有望なものが有るらしく安価なうちに押さえておきたいらしい…
俺は株なんてようわからんが…ここ最近のラプラスは順調に利益を出しており今では毎月の食費を入れてくれる程度には稼いでいると聞いていた……まあ大した額ではないから良いか……

「しかし問題がある…今月はまだ始まったばかりで給料日はまだ先だ」
「…無理は承知の上なのにゃ!…その為なら…この体を差し出す覚悟なのにゃ!!」
「……お前さっき僕の事馬鹿とか言ってなかったか?」

 引いた目で蔑んでやるとニャーニャーと泣きつかれた……仕方がない

「魔力消費も兼ねて…「金品創造ゴールドラッシュ」の魔法を試してみよう」
「おお!流石はご主人様なのにゃ!」

 目を閉じて意識を集中する……ところでどのくらいの金額が必要なのだろうか?夜だから手数料とか必要なのだろうか?昔コンビニの雑誌コーナーにあった広告に男が札束のお風呂に入っている場面を思い浮かべた…
体内からかなりの量の魔力が抜き取られた……やばい…数億円ぐらい出てくるかもしれん!!
 室内に閃光が溢れた………



 ラプラスは目を開けた…光が収まると目の前にはピンクの豚の置物があった……貯金箱だ。

「…………」

 ご主人は何とも言えない様な顔つきでそれを眺めている…
ラプラス貯金箱を持ち上げた……意外に重い…札束がぎっしり詰まっているのかもしれない
そう思い振ってみるとチャリンチャリンと小銭が数枚音を立てた……

「………」
「……あ…ありがとにゃん…ご主人様…これで欲しい株が購入できる…にゃん」

 ご主人様は片手をあげてそのまま布団に潜り込んだ……
居た堪れなくなったラプラスは電気を消しておやすみなさいと部屋を後にするのだった。




 だから中身を見ていない慶次は知らなかったのだ
この中にある硬貨が国内外のプレミア物ばかりである事を。


 
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