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本当の事2
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湯気がゆるやかに立ち上り、空気に混じって消えていく。
夜の風はひやりと頬を撫で、熱い湯と冷たい空気が交わるたび、肌の上でかすかな痛みに変わった。
露天風呂の湯面に、橙の灯が揺れている。
他に利用客は誰もいない。ただ川のせせらぎだけが夜を埋めていた。
蒼介は湯に肩まで沈み、静かに目を閉じた。
喉の奥で、つかえた何かを無理やり押し殺してきたこの数日間が、湯の熱に溶かされるようにほどけていく。
「……美奈子……」
声に出した途端、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
涙が、止めようもなく込み上げてくる。
顔を手で覆い、唇を噛んでも、嗚咽はどうにも抑えられなかった。
――喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。
思い返してみれば、いつも美奈子が折れて、
蒼介がその沈黙に甘える。
言葉にできなかった小さなすれ違いが、いつのまにか積み重なっていた。
それでも、蓋を開ければ楽しかった日々しか思い出せない。
なんでもない夕焼けに意味を持たせて、遠回りして帰った日もあった。
「きれいだね」と笑う彼女に、ただうなずくことしかできなかったけれど、あの光の中で2人並んで歩いた時間は、たしかに“夫婦”だった。
仕事で疲れて、何もしたくない休日。
「こんな日はパーティにしない?」
そう言って彼女はピザを頼み、安いワインを開けて、リビングで映画を観ながら笑った。
映画の内容なんて覚えていない。ただ、彼女の横顔と、ソファに並んだ二人の足のぬくもりだけが記憶に残っている。
どんなに嫌なことがあっても、玄関を開けた瞬間の笑顔がすべてを消してくれた。
あの笑顔があったから、どんな事でも乗り越えられる気がした。
なのに、いつの間にか――その笑顔の意味を見失った。
仕事を理由に、忙しさを言い訳に、ほんとうに見なければならなかった彼女の痛みに気づけなかったのかもしれない。
「……ごめんな」
その言葉は、夜気の中に紛れて消えた。
風が木立を抜け、湯面に波紋を描く。
それがまるで、美奈子の指先がそっと触れていくように見えて、蒼介はまた、嗚咽を漏らした。
泣くのは、いつぶりだろう。
誰の前でも泣かなかった。
泣いてしまえば、もう何も守れなくなる気がしたから。
けれど今はもう、守るべきものも、言い訳もない。
ただ、失ったものの重さだけが、静かに胸を沈めていく。
遠くの山の稜線がかすかに滲んで、白い湯気が空に溶けていく。
蒼介の泣き声が、秋の夜空に吸い込まれて消えた。
ただ、その余韻だけが、長く長く、風の音に溶けて残った。
そうして彼女との思い出に浸っているうちに思い出したのは、彼女を抱きしめた時に見せる女の顔。
あんな表情を、演技でできるだろうか。好きでもない……愛していない男に、罪悪感だけで抱かれて、子供まで産んで育てられるだろうか。
ふと、美奈子の……いや、千紘の手紙の文を思い出す。
「25年間、本当に幸せでした。」
千紘は幸せだったんだ……そう思ったと同時、蒼介は湯船から立ち上がり、適当に着替えを済ませて部屋に走った。
夜の風はひやりと頬を撫で、熱い湯と冷たい空気が交わるたび、肌の上でかすかな痛みに変わった。
露天風呂の湯面に、橙の灯が揺れている。
他に利用客は誰もいない。ただ川のせせらぎだけが夜を埋めていた。
蒼介は湯に肩まで沈み、静かに目を閉じた。
喉の奥で、つかえた何かを無理やり押し殺してきたこの数日間が、湯の熱に溶かされるようにほどけていく。
「……美奈子……」
声に出した途端、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
涙が、止めようもなく込み上げてくる。
顔を手で覆い、唇を噛んでも、嗚咽はどうにも抑えられなかった。
――喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。
思い返してみれば、いつも美奈子が折れて、
蒼介がその沈黙に甘える。
言葉にできなかった小さなすれ違いが、いつのまにか積み重なっていた。
それでも、蓋を開ければ楽しかった日々しか思い出せない。
なんでもない夕焼けに意味を持たせて、遠回りして帰った日もあった。
「きれいだね」と笑う彼女に、ただうなずくことしかできなかったけれど、あの光の中で2人並んで歩いた時間は、たしかに“夫婦”だった。
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そう言って彼女はピザを頼み、安いワインを開けて、リビングで映画を観ながら笑った。
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あの笑顔があったから、どんな事でも乗り越えられる気がした。
なのに、いつの間にか――その笑顔の意味を見失った。
仕事を理由に、忙しさを言い訳に、ほんとうに見なければならなかった彼女の痛みに気づけなかったのかもしれない。
「……ごめんな」
その言葉は、夜気の中に紛れて消えた。
風が木立を抜け、湯面に波紋を描く。
それがまるで、美奈子の指先がそっと触れていくように見えて、蒼介はまた、嗚咽を漏らした。
泣くのは、いつぶりだろう。
誰の前でも泣かなかった。
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けれど今はもう、守るべきものも、言い訳もない。
ただ、失ったものの重さだけが、静かに胸を沈めていく。
遠くの山の稜線がかすかに滲んで、白い湯気が空に溶けていく。
蒼介の泣き声が、秋の夜空に吸い込まれて消えた。
ただ、その余韻だけが、長く長く、風の音に溶けて残った。
そうして彼女との思い出に浸っているうちに思い出したのは、彼女を抱きしめた時に見せる女の顔。
あんな表情を、演技でできるだろうか。好きでもない……愛していない男に、罪悪感だけで抱かれて、子供まで産んで育てられるだろうか。
ふと、美奈子の……いや、千紘の手紙の文を思い出す。
「25年間、本当に幸せでした。」
千紘は幸せだったんだ……そう思ったと同時、蒼介は湯船から立ち上がり、適当に着替えを済ませて部屋に走った。
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