25年目の真実

yuzu

文字の大きさ
25 / 61

本当の事2

しおりを挟む
 湯気がゆるやかに立ち上り、空気に混じって消えていく。

 夜の風はひやりと頬を撫で、熱い湯と冷たい空気が交わるたび、肌の上でかすかな痛みに変わった。
 
 露天風呂の湯面に、橙の灯が揺れている。
 他に利用客は誰もいない。ただ川のせせらぎだけが夜を埋めていた。

 蒼介は湯に肩まで沈み、静かに目を閉じた。
 喉の奥で、つかえた何かを無理やり押し殺してきたこの数日間が、湯の熱に溶かされるようにほどけていく。

 「……美奈子……」

 声に出した途端、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
 涙が、止めようもなく込み上げてくる。
 顔を手で覆い、唇を噛んでも、嗚咽はどうにも抑えられなかった。
 
 ――喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。

 思い返してみれば、いつも美奈子が折れて、
 蒼介がその沈黙に甘える。

 言葉にできなかった小さなすれ違いが、いつのまにか積み重なっていた。

 それでも、蓋を開ければ楽しかった日々しか思い出せない。

 なんでもない夕焼けに意味を持たせて、遠回りして帰った日もあった。

 「きれいだね」と笑う彼女に、ただうなずくことしかできなかったけれど、あの光の中で2人並んで歩いた時間は、たしかに“夫婦”だった。

 仕事で疲れて、何もしたくない休日。

 「こんな日はパーティにしない?」

 そう言って彼女はピザを頼み、安いワインを開けて、リビングで映画を観ながら笑った。

 映画の内容なんて覚えていない。ただ、彼女の横顔と、ソファに並んだ二人の足のぬくもりだけが記憶に残っている。

 どんなに嫌なことがあっても、玄関を開けた瞬間の笑顔がすべてを消してくれた。

 あの笑顔があったから、どんな事でも乗り越えられる気がした。
 
 なのに、いつの間にか――その笑顔の意味を見失った。

 仕事を理由に、忙しさを言い訳に、ほんとうに見なければならなかった彼女の痛みに気づけなかったのかもしれない。

 「……ごめんな」

 その言葉は、夜気の中に紛れて消えた。
 風が木立を抜け、湯面に波紋を描く。
 それがまるで、美奈子の指先がそっと触れていくように見えて、蒼介はまた、嗚咽を漏らした。
 
 泣くのは、いつぶりだろう。

 誰の前でも泣かなかった。
 泣いてしまえば、もう何も守れなくなる気がしたから。
 けれど今はもう、守るべきものも、言い訳もない。
 ただ、失ったものの重さだけが、静かに胸を沈めていく。

 遠くの山の稜線がかすかに滲んで、白い湯気が空に溶けていく。
 蒼介の泣き声が、秋の夜空に吸い込まれて消えた。
 ただ、その余韻だけが、長く長く、風の音に溶けて残った。

 そうして彼女との思い出に浸っているうちに思い出したのは、彼女を抱きしめた時に見せる女の顔。

 あんな表情を、演技でできるだろうか。好きでもない……愛していない男に、罪悪感だけで抱かれて、子供まで産んで育てられるだろうか。

 ふと、美奈子の……いや、千紘の手紙の文を思い出す。

「25年間、本当に幸せでした。」

 千紘は幸せだったんだ……そう思ったと同時、蒼介は湯船から立ち上がり、適当に着替えを済ませて部屋に走った。

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

愛を騙るな

篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」 「………」 「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」 王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。 「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」 「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」 「い、いや、それはできぬ」 「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」 「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」 途端、王妃の嘲る笑い声が響く。 「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」

【短編】ちゃんと好きになる前に、終わっただけ

月下花音
恋愛
曖昧な関係を続けていたユウトとの恋は、彼のインスタ投稿によって一方的に終わりを告げた。 泣くのも違う。怒るのも違う。 ただ静かに消えよう。 そう決意してトーク履歴を消そうとした瞬間、指が滑った。 画面に表示されたのは、間の抜けたクマのスタンプ。 相手に気付かれた? 見られた? 「未練ある」って思われる!? 恐怖でブロックボタンを連打した夜。 カモメのフンより、失恋より、最後の誤爆が一番のトラウマになった女子大生の叫び。

あなたの言うことが、すべて正しかったです

Mag_Mel
恋愛
「私に愛されるなどと勘違いしないでもらいたい。なにせ君は……そうだな。在庫処分間近の見切り品、というやつなのだから」  名ばかりの政略結婚の初夜、リディアは夫ナーシェン・トラヴィスにそう言い放たれた。しかも彼が愛しているのは、まだ十一歳の少女。彼女が成人する五年後には離縁するつもりだと、当然のように言い放たれる。  絶望と屈辱の中、病に倒れたことをきっかけにリディアは目を覚ます。放漫経営で傾いたトラヴィス商会の惨状を知り、持ち前の商才で立て直しに挑んだのだ。執事長ベネディクトの力を借りた彼女はやがて商会を支える柱となる。  そして、運命の五年後。  リディアに離縁を突きつけられたナーシェンは――かつて自らが吐いた「見切り品」という言葉に相応しい、哀れな姿となっていた。 *小説家になろうでも投稿中です

愛する夫にもう一つの家庭があったことを知ったのは、結婚して10年目のことでした

ましゅぺちーの
恋愛
王国の伯爵令嬢だったエミリアは長年の想い人である公爵令息オリバーと結婚した。 しかし、夫となったオリバーとの仲は冷え切っていた。 オリバーはエミリアを愛していない。 それでもエミリアは一途に夫を想い続けた。 子供も出来ないまま十年の年月が過ぎ、エミリアはオリバーにもう一つの家庭が存在していることを知ってしまう。 それをきっかけとして、エミリアはついにオリバーとの離婚を決意する。 オリバーと離婚したエミリアは第二の人生を歩み始める。 一方、最愛の愛人とその子供を公爵家に迎え入れたオリバーは後悔に苛まれていた……。

わたしのことがお嫌いなら、離縁してください~冷遇された妻は、過小評価されている~

絹乃
恋愛
伯爵夫人のフロレンシアは、夫からもメイドからも使用人以下の扱いを受けていた。どんなに離婚してほしいと夫に訴えても、認めてもらえない。夫は自分の愛人を屋敷に迎え、生まれてくる子供の世話すらもフロレンシアに押しつけようと画策する。地味で目立たないフロレンシアに、どんな価値があるか夫もメイドも知らずに。彼女を正しく理解しているのは騎士団の副団長エミリオと、王女のモニカだけだった。※番外編が別にあります。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

処理中です...