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25年目のプロポーズ
しおりを挟む静かに引き戸を開けると、古い木枠が擦れる音が、夜の静寂に小さく響いた。
促されるまま、蒼介は店へ足を踏み入れる。玄関の石畳を踏むと、ひんやりとした感触がスニーカー越しに伝わってくる気がした。
店内は暗く、奥のカウンターだけが暖色の照明で照らされている。
美奈子は奥へ回り込んで立ち止まり、カウンター越しに蒼介と向き合った。磨き込まれた檜のカウンターが、照明を受けて鈍く光っている。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
遠くで車の走る音……厨房の奥では冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸っていて、壁の時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいる音も2人の間の沈黙を強調するかのように響いている。
先に口を開いたのは美奈子だった。
「今日、ごめんなさい。」
俯いた拍子に、彼女の黒い髪が肩から滑り落ちた。
蒼介はそっと、ポケットから折りたたんだ離婚届を取り出した。
カウンターの上に置かれたそれを見て、千紘の顔色が変わる。唇が小さく震え、息を呑む音がした。
蒼介は黙って、その紙を両手で掴み、おもいきり破った。
「……え」
千紘の声が、か細く漏れた。
ビリビリビリ。
蒼介は何度も紙を引き裂いた。細かくなった紙片が、カウンターの上にはらはらと舞い落ちる。白い断片が照明を受けて、一瞬きらめいて見えた。破られた文字の断片が、無意味な記号となってカウンターに散らばっていく。
「蒼介、さん……」
両手で口元を覆い、信じられないという顔で蒼介を見つめていた。
「俺、馬鹿だから」
蒼介は破かれた紙片を見下ろしながら言った。
浴衣の袖から覗く腕に、まだ汗が滲んでいる。走ってきた時の熱が、体の芯に残っていた。
「美奈子が美奈子じゃ無いなんて……全然気づかなかった。」
顔を上げる。
美奈子の目が、涙で滲み、睫毛の先に、小さな雫が震えていた。
「でも……」
「でも、25年間隣にいた女性を愛した気持ちは本物だ。」
美奈子の頬を、一筋の涙が静かに伝い落ちた。
顎のラインに沿って流れた涙が、首元を伝って滲みを作った。
「でも、私は美奈子さんの代わりで……彼女の人生を私は」
彼女は震える声で続ける。言葉を絞り出すたびに、肩が小さく揺れた。
「代わりなんかじゃない。君が"美奈子"を通してしか俺を見ていなかったというなら、今からでも遅くはない。阿部千紘さん……俺の、妻になって下さい。」
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