恋が下手な私が新社長に恋をした

yuzu

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事故

春馬side

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 視界の隅で閃いた銀光が、脳裏に焼き付いたまま離れない。
 爆音。悲鳴。衝撃音——何かが壊れる音が連続して響いた。

 「……っ」

 動けなかった。息を吸ったはずなのに、肺が凍りついたように動かない。
 目の前には、無数のガラス片が散らばり、粉々になったタイルが鋭く割れている。
 倒れた観葉植物。破壊された受付のパーティション。
 ——そして、ロビーの中心に横転した灰色の車。

 フロントガラスは完全に砕けていた。煙があがり、焦げたような匂いが鼻を突く。

 横転した車の運転席の中で、一人の老人がシートにもたれかかっていた。
 額から血を流してはいたが、奇跡的に大きな外傷はなさそうだった。
 割れたガラスの破片に囲まれながら、彼は呆然と目を見開いて震えていた。

 「……う、うそだ……俺は……ブレーキを……ブレーキを踏んだ……」

 かすれた声が車内から漏れ聞こえる。
 その震える手は、まだ運転席の前方をまさぐるように伸びていた。

 「……勝手に……勝手に、動いた……誤作動……そうだ、誤作動だ」

 誰にも届かない、か細い声だった。

 呆然と立ち尽くす俺のすぐ近くで、誰かが叫んだ。

 「八坂さん!!真那!!」

 内木美和だ。
 涙と嗚咽に濡れた叫び声を上げ、割れた破片の中を必死に駆け抜ける。
 視界の先、崩れ落ちた人影だけを見つめていた。

 倒れていたのは、グローブリンクの八坂英介。

 真那をかばうようにして、ガラス片の上に横たわっている。

 「八坂さん!! 血が……! 誰か、救急車を!!」

 内木は彼の身体を抱き上げ、震える声で叫ぶ。
 その腕を、八坂がゆっくりと掴んだ。

 「……一之瀬さん……」

 内木の腕に支えられたまま、八坂は、後方にいる俺に顔を向けた。

 「……あんたに……言いたいことがあって来たんやけど……」

 血に濡れた唇がわずかに動き、最後の力を振り絞るように言葉を紡ぐ。

 「……ちょうど良かったわ。真那を……頼みます……」

 「嫌……嫌っ!! 八坂さん!! 八坂さん!!」

 内木が必死に呼びかける。
 泣き声が震え、涙が頬を濡らす。

 「誰か! AED! AED持ってきて!! 早く!!」

 絶叫がロビーに響く。
 だが、その傍らで——さらに別の声が上がった。

 「ちがうの……ちがうのよ直哉……っ!!」

 優香だった。
 両手で頭を抱え、崩れ落ちたまま錯乱していた。
 目は見開かれ、どこか遠くを見つめている。

 「ごめんなさい……試したの……試しただけだったのに!!本当に好きなのは……直哉なの……!」

 「わたしが悪いの……私が……全部……!」

 その声は誰にも届かず、ただ壊れた空間に残響するだけだった。

 一瞬、言葉を失いながらもスマホを手に取り、震える指で119を押す。

 救急車を要請し、状況を必死に伝える。

 「事故です……ビルのロビーに車が……負傷者数名……意識不明が1名……!」

 通報を終えると、すぐに駆け出す。
 向かった先は、倒れたまま動かない真那のもとだった。

 ガラスの破片に囲まれ、彼女を抱えた。

 「おい……真那……真那!返事をしてくれ……!」

 その場に膝をつき、彼女の名を呼ぶ。
 だけど真那は……目を閉じたまま、何の反応も見せなかった。



 救急車が病院に到着してすぐ、担架が音を立てて運ばれていく。

 「患者二名、頭部外傷および胸部裂傷! 意識レベルGCS3! 集中治療室、すぐに!」

 医師たちの怒号が飛び交う。俺は追いすがった。
 看護師に制止されるまで、真那の手をずっと握っていた。

 「すみません、ここからはご家族以外立ち入りできません!」

 集中治療室のドアが閉じる音が、どこまでも重く、残酷に響いた。

 俺はただ、立ち尽くしていた。
 何もできなかった。

 あの瞬間、八坂英介がいなければ今頃真那は……

 目の前の景色が、急に歪み始める。
 白い廊下が揺れ、血の匂いと焦げたような金属臭……直哉がバイクに轢かれた日の記憶と重なる。

あの日も、俺は何もできずに後悔したのに……また同じ事を……?

 「一之瀬社長。」

 その声に顔を上げると、内木がこちらを見ていた。
 疲労の色を浮かべながらも、彼女の瞳は澄んでいた。

 「……社長は、どうか優香さんに付き添ってあげてください」

 「優香?」

 内木はうなずいた。声は静かだったが、迷いはなかった。

 「さきほど、搬送されて病室に入りました。」

 「でも俺は……八坂さんと真那が……!」

 「大丈夫です。八坂さんと真那の容態は、私が確認します。行ってください。」

 内木は一歩近づき、少しだけ目を細めて言った。

 「詳しい事情は知りません。でも、優香さんは待ってると思いますから。」

 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。

 あの時、優香が泣き崩れていた顔が、頭に浮かんだ。

「優香……」
 病室の前まで来ると、扉を開けようとする手が僅かに躊躇した。

それでも、ノックをして病院に入る。

 カーテンの奥にいる優香からは返事がない。

 静けさの中、俺は声を抑えて呼んだ。

 「……優香」

 カーテンの向こうで微かに気配が動く。

 「……入るよ」

 そう言って手を伸ばしかけた瞬間、鋭く、張り詰めた声が響いた。

 「開けないで!」

 動きかけた指が、ぴたりと止まる。

 「お願い……そこにいて。」

 その声は震えていた。
 俺は、カーテンの手前で黙って立ち止まる。何も言えない。いや、言うべき言葉が見つからなかった。

 優香は、ぽつりと話し始めた。

 「……あの日。直哉が事故にあった日、私……彼に別れようって言ったの」

 ひと呼吸の沈黙が挟まる。重い、胸を打つ沈黙だった。

 「本気じゃなかった。ただ……気持ちが知りたくて。……彼が私のこと、どれくらい大事に思ってるのか、知りたくて」

 「“もし私と別れたら、彼はどうするかな?”って……愛されてる自信が無かったの……」

沈黙の中、優香が肺の底から吐き出した息の音が響く。

 「そしたら、彼、少し黙ってから“しってた”って……"好きなのは春馬だろ"って。そんなふうに言ったの……」

 俺は何も言わなかった。ただ、じっと耳を澄ませて立っていた。

「私、否定できなかった。嘘ついて、軽蔑されるのが怖かったの。でも、本当は"別れたいなんて嘘"って後から言うつもりだった。——そのあと事故が起きた。……私が、引き金を引いたって、思ってる」

 小さく鼻をすする音が聞こえた。

 「事故のあと、メールが来てることに気がついた。」

 「“優香には、春馬と幸せになってほしい”って書かれてた」

 言葉が鋭くなった。

 「それを見て、私、もう引き返せないと思った。……直哉がそう言ったんだから、私はあなたと一緒にいなきゃいけないって」

 「そうでしょ? 春馬だって、思ってたんじゃないの? 私と一緒にいることで、何か……あの夜に対して、責任が取れるんじゃないかって」

 彼女の声が熱を帯びていく。焦りとも、怒りともつかない激情がにじんでいた。

 「だって、じゃなきゃ直哉……私を許してくれない。」

 「ねぇ春馬……違うの? 違うって言えるの?」

 「私たちは……もう離れられない。そうでしょ? 直哉に誓ったじゃない。」

 俺は、返事をしなかった。

 できなかった。

 言葉が、なかった。

 ただ、心の奥にあるのは——
 閉ざされた手術室の扉。あの向こうで闘っている、ひとりの女性のことだった。

 もう、これ以上自分の気持ちに嘘はつきたく無かった。

 俺は、そっと息を吸い込んだ。

 目の前のカーテン一枚。たったそれだけの隔たりが、遠く感じる。

 「優香……」

 自分の声が、ひどく静かに響いた。

 カーテンの向こうにいる彼女の気配が、ぴたりと止まる。

 「……ごめん。俺、ずっと自分の気持ちから逃げてた」

 言葉を探しながら、ゆっくりと吐き出す。

 「直哉がいなくなった夜……俺も壊れかけてた。いや……壊れた事に、気付かないふりをしていたのかもな。優香を支えなきゃって^_^。でも今になって思う。——支えてるふりをしてたんだって。優香のためじゃなく、自分の存在を肯定するために」

 沈黙が落ちる。冷たい空気が、張り詰めたまま揺れる。

 「優香が泣いてる時、俺はそこに“必要とされてる理由”を見つけようとしてた。……それって、本当に優香のためだったのかなって、自分でもわからなくなった」

 伸ばしかけた手を、そっと下ろす。

 「直哉は……あいつは、俺達を責めたりするような奴じゃ無い。」

 微かに息を呑む気配がした。

 「だから……あんな言葉を残した。“優香には、春馬と幸せになってほしい”って……」

 「——あの一文に、意味を与えたのは俺だ。あの夜の出来事に、何かの“答え”を見出したかった。……全部、自分を納得させるためだったんだと思う」

 カーテンの向こうは、ずっと静かだった。ただその沈黙が、彼女の感情の重さを物語っていた。

 「……だから、もう嘘はやめるよ」

 言い終えてから、自分でも驚くくらい、胸の奥にあるものが少しだけほどけた気がした。

 「俺は……俺達は、前に進んでいいんだ。」

 静かに、一歩だけ下がる。

 「だから、優香を俺から解放するよ」

 それがどれほど自分勝手な言い分だとしても、今の俺には、正直な気持ちしか残っていなかった。

 

 優香の絞るような声が弱々しく響く。

 「……それって、私を置いていくってこと?」

 涙のにじむ声だった。責めるようで、縋るようで。

 俺は静かに、首を横に振った。

 「俺たちはずっと、お互いを抱きしめるふりをして、心の中では直哉の影ばかり見てた。そんな関係じゃ、前に進めないだろ。」

 言い終えたあと、再び沈黙が落ちた。

 その沈黙のなかで、かすかな嗚咽が漏れた。

 「じゃあ、行くよ。」
 薬指の指輪を外してポケットに入れると、優香の病室を後にした。
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