月が昇る

赤林憩

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月が昇る

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ここら辺りなら家より綺麗に見えるだろう。

普段の倍ほどのスピードで自転車を飛ばしながら、私はそう思った。
明かりの少ない道だ。道横の原っぱから聞こえてくる虫たちの声は、いつもなら古い自転車が立てるうるさい音にも負けないくらいだが、今日は急いでいるせいで風の音しかしない。袖口から入ってくる空気はもう随分と冷たくなってきた。この間まで夏だったのになぁと思う。季節は思っているよりも随分はやく過ぎていくものらしい。

目の前の空には満月が浮かぶ。いつもより大きくて、ほんのりと橙色をしている。中秋の名月。今日はお月見の日。
すれ違う人は皆上を見上げている。
「はやくはやく!お月様小さくなっちゃうよ。」と幼い男の子が後ろをのんびりと歩く父親をせかした。

誰かに教えてもらったのだろうか。賢い子供だと微笑ましく思う。しかしそれと同時に、その言葉は私をひどく苛立たせた。というのも、私が急いでいるのも同じ理由であったからだ。

綺麗だねぇ、と声が聞こえる。
これは記憶の中の母の声。昔から、綺麗なものを見ると母はとても嬉しそうに笑うのだ。
だからそういったものを見つけると、私はその度に母に教えた。母はそれを「素敵なお裾分け」と呼んで喜んだ。もう習慣のようなもので、「素敵なお裾分け」は大人になってからも続いていた。

でも。

私は、家で待っている母を思い浮かべる。朝も、昼も、夜もぼーっとテレビを眺めているお母さん。その顔に表情というものは存在しない。笑わなくなってしまった。脳の病気だと医者からは聞いている。治す術は無い、とも。

私は上がってきた息を整えようと、大きく空気を吸い込んだ。何かを燻しているような匂いの中に、蚊取り線香のほのかな香りも混じっている、そんな秋独特の懐かしい匂いがする。それはなんだか、泣きたくなるような匂いだった。

息が切れる。胸が苦しい。

「ねぇ、はやく!お月様が小さくなっちゃう前に。」

また幼い子が急かしている。
月はじわりじわりと小さくなって、いつもの大きさに近付いている。
駄目だよ、大きいままでいてくれなくちゃ、と私は理不尽に月を睨んだ。
普通の月じゃ、もうお母さん笑ってくれないんだ。お願い、止まって。

ペダルを踏みしめる。古い自転車はギコギコと間抜けな音を立てているばかりで、ちっとも速く進んでいる気がしない。

はやく、はやく、はやく。
お月様が小さくなる前に。
もっと、もっと、はやく。

家までの道のりは、随分と長い。
月は静かに昇っていく。
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