おじいちゃんの遺影

チゲン

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 新たな客は、かおる兄ちゃんだった。
 薫兄ちゃんは、小さい頃によく遊んでもらった近所の幼なじみだ。我が家とは、何かと縁がある。
 今は仕事の関係で引っ越してしまったけど、時々こうして(アポなしで)顔を見せにくる。私にとっては頼りになる兄のような存在だ。
「よっ、久しぶり、香奈……って、来客中だったか。これは失礼しました」
「いえいえ、こちらこそ」
 急な展開にも動じることなく、長峰さんが丁寧に薫兄ちゃんと挨拶あいさつを交わす。年齢は長峰さんの方がだいぶ上なのに……さすがだなあ。
 昼食は済ませてきたらしいので、全員分のお茶とお菓子を用意すべく、母が台所に立つ。
 その間に、長峰さんが薫兄ちゃんに名刺を渡していた。できる男は休みの日でも名刺を欠かさないのだ。
「主に美術品関係の貿易をしております」
「それはそれは。俺なんて、しがない公務員ですよ。すいません、名刺の持ち合わせが無くて……」
 薫兄ちゃんがたくましい体を折りたたんで、申し訳なさそうに頭を下げている。うーむ、薫兄ちゃんもできる男のはずなんだけど……。
「あっ、いけない。私、用事があったんだ。香奈、ちょっと後のこと頼んでいい?」
 母が慌てて出掛けてしまった。町内会か何かの会合らしいが、相変わらずそそっかしいなあ。
 仕方がないので、私がお茶とお菓子を用意して和室まで運んだ。
 薫兄ちゃんは、長峰さんと向かいあったまま、美術品関係の仕事についてあれこれ尋ねている。
 ちょっと問い詰める感じになっていたので、私はあきれて二人の間に割って入った。
「薫兄ちゃん。いつもの悪いくせが出てるよ」
「おっと、これは失礼しました」
「いえいえ、気になさらずに」
 長峰さんが笑顔で流す。紳士。大人。
 でも薫兄ちゃんは、お茶を飲む長峰さんをじっと見つめている。
 何だろう……変な感じ。
「香奈、ちょっとトイレ借りるね」
「う、うん」
 薫兄ちゃんが席を立つと、場の空気が少し和らいだ。私の気のせいかもしれないけど。
「ところで、こちらはおじい様ですか?」
 長峰さんが、仏壇を見ながらいてきた。
「う……そうです」
 思わず、嫌な汗をきそうになる。
「おじいちゃん、余計なことしないでよ」
「えっ?」
「あ、何でもありませんです」
「良ければ、ご挨拶させて頂いてもかまいませんか?」
「どうぞどうぞ。しがない祖父ですが」
 一瞬、耳元で何か抗議の声が聞こえた気がするが……知ーらない。
 長峰さんが仏壇に手を合わせている間に、薫兄ちゃんがトイレから戻ってきた。
「ああ、いけない。俺も挨拶しとかないと」
 薫兄ちゃんも、祖父の仏壇に手を合わせる。
「命日に来れなかったからね。これでお盆にも来なかったってなったら、師匠にドヤされるよ」
「はは……」
 祖父ならやり兼ねない。
「師匠ということは……香奈さんのおじい様は、何かの先生だったんですか?」
「あっ、違います違います」
 私が説明しようとすると、薫兄ちゃんが割って入ってきた。
「俺の警察官としての師匠なんですよ」
「えっ、警察……?」
 場の空気が、再びピリッとした。
「交番勤務ひと筋の、立派な警察官でした」
 妙に固い口調で、薫兄ちゃんが告げる。
「じゃあ、あなたも……?」
「はい。俺も警察官です」
「な、なんだ、公務員っていうからてっきり……ははは」
 乾いた笑み。
 そりゃそうだよね。確かに間違ってはいないけど、公務員って言われたら、普通は役所の職員とか想像するよね。
 何となく薫兄ちゃんの言動に作為さくい的なものを感じて、私は殊更ことさら明るく話題を変えた。
「あ、ところで長峰さん、ウチまで迷わずに来れました? この辺りは初めてだって言ってましたよね。この辺けっこう判りづらいみたいで、迷っちゃう人も多いんですよ」
「え、ええ。香奈さんの道案内のおかげで、すんなり来れましたよ」
 私の意図を察してかどうか、長峰さんも明るい調子で答えてくれた。
「香奈の道案内? 地図アプリとか使ったんじゃないんですか?」
 薫兄ちゃんが会話に入ってきた。
「もちろん迷ったら使うつもりでしたけど、使うまでもありませんでしたね」
 できる男は、方向感覚も優れているのだ。
「本当ですか? 香奈の方向音痴っぷりは筋金入りですよ。こいつの道案内なんて聞いてたら、隣町まで行っちゃいますよ」
「ちょっと薫兄ちゃん、どういう意味?」
 思わず私は声を荒げてしまった。長峰さんの前で……お恥ずかしい。
「もし良ければ、その道案内とやらを見せてもらえませんか?」
 立腹している私を無視して、薫兄ちゃんは長峰さんに嫌味な要求をする。
「ええ、どうぞ」
 長峰さんは困ったような笑みを浮かべて、自分のスマホを薫兄ちゃんに見せた。
 私が送ったメールだ。最寄り駅からウチまでの道程を箇条かじょう書きにしたものである。
 それを一読した薫兄ちゃんは、苦笑いを浮かべやがった。
「やっぱり……香奈、これ全然道案内になってないぞ。よくこんなので、ここまで辿り着けましたね」
「う、うるさいなあ、もう。無事に着いたんだから、いいでしょ」
「でもこれ、道を知ってる俺でも判らないぞ」
「長峰さんと薫お兄ちゃんとは、頭の出来が違うんですう」
「頭の出来……確かにそうだな」
 あれ?
 てっきり、いつものような軽口の応酬おうしゅうになるかと思ったのに。
 急に深刻な顔になっちゃって。どうしたのよ、薫兄ちゃん。
「長峰さん。もう一度聞きますが、本当にこの道案内だけで、ここまで辿り着いたんですか?」
「え、ええ」
 長峰さんも、どこか怪訝けげんな顔をしている。
「そこまで判りづらくもなかったですよ。駅前の商店街を抜けて、駄菓子屋の所を右に曲がって……ですよね」
 そう確認してきた長峰さんに、私はうんうんとうなずき返す。
「駄菓子屋ですか」
「はい、そうです。とても判りやすい目印だったので、迷わず来れました」
「判りやすかったですか」
 何か含むような言い方の薫兄ちゃん。
「今日、休みでしたよ」
「えっ?」
「駄菓子屋ですよ。あの店、日曜日は休みなんです」
「そう、でしたっけ……」
 長峰さんが言葉に詰まる。
 そういえば、そうだった。うっかりしていた。
「店が閉まってるのに、よく駄菓子屋だって判りましたね」
「それは……店構えが駄菓子屋っぽかったから、かな」
 同意を求めるように再び私の顔を見てきたので、またうんうんと頷き返す。
「でもあの店って、自宅の車庫を改装して、そのまま店舗にしてるんですよ。だからシャッターを下ろしてたら、傍目はためには普通の民家にしか見えないんです。そこが駄菓子屋だって、元から知らない限り」
「それは……」
 うーん、言われてみればそうだったっけ?
 ……あれ、なに、この不穏な流れ。
「おっと、失礼」
 メールが入ったらしく、自分のスマホを取りだして確認する薫兄ちゃん。
 スマホをポケットに仕舞って、再び長峰さんをにらみつけた。
 そう、睨みつけたのだ。
「話は替わりますが、実は二十年ほど前、この辺りで空き巣が多発してましてね」
「え……」
 私は息をんだ。
 なぜ今その話を?
「しかも最後の一件は、犯人が住人を殴って逃走しやがったんですよ」
「そ、それはまた、物騒な話ですね。それで、犯人は捕まったんですか?」
「残念ながら、まだ」
「そうですか」
「強盗罪の時効は十年ですから、もうどうしようもないんですけどね」
「……ああ、それは何とも、やるせない話ですね」
「でも、最後の一件は違ったんです」
「さっきおっしゃってた、住人が殴られたって一件ですか?」
「そうです。殴られた住人は、その後亡くなったんですよ」
「えっ!?」
 長峰さんが驚く。
「死んだ……あっ、いや、亡くなってたんですか」
 長峰さんの語尾が、わずかに震えている。
「つまり強盗殺人もしくは強盗致死という訳です。だから、時効は成立しない」
「そう、なんですか……」
「で、その続きなんですが。犯人が逃げようとして表に出たとき、たまたま外にいた子供と鉢合わせしちゃいましてね。そしたらそいつ、その子供にまで殴りかかったんですよ」
「ひどい男ですね」
「そのときの子供が、俺なんです」
「ええっ!?」
 長峰さんは驚きを通り越して、呆気あっけに取られている。初対面の相手に話すには、なかなかヘビーな内容だ。
「偶然、師匠……香奈のおじいさんが通りかかったおかげで助かったんですが。俺も頭に一発食らいましてね。一時、生死の境を彷徨さまよったんです」
「た、大変だったんですね……」
「薫兄ちゃん……」
 当時のことを、小さかった私はもちろん覚えていない。
 大きくなってから聞いた話だが、非番だった祖父が偶然通りかかって、事件に遭遇したらしい。祖父が薫兄ちゃんを保護している隙に、強盗には逃げられてしまったが。
 その後から、祖父は薫兄ちゃんをよくウチに呼ぶようになった。事件のまわしい記憶を忘れることができるならと、祖父なりに気を遣ったんだと思う。
 成長した薫兄ちゃんが、祖父を師匠と呼んで警察官を志したのも、自然な流れと言えるだろう。
「当時の俺は幼かったし……頭を殴られたショックで、事件のことをほとんど覚えてなかったんですが」
「それは、お気の毒に」
「でも不思議なものでね。犯人のぼやっとした輪郭りんかくとか、声とかは何となく思いだしてきてるんですよ。それに、ひとつだけ鮮明に覚えてることがありまして」
「な、何をですか?」
「ホクロです。あのとき、犯人の右腕にホクロが並んでたんです。それだけは、はっきりと覚えてるんです」
「ホクロ、ですか」
「ところで、さっきお茶を飲んでるときにちらっと見えたんですが、長峰さんの右腕にもホクロが並んでますよね」
「え……」
 長峰さんの表情が固まる。
 私は、思わず唾を飲み込む。
「差しさわりなければ、ちょっと見せていただけませんか」
「ちょ、ちょっと待って下さい。まさか、私が犯人だとでも言うんですか?」
「参考までに、ですよ。それとも見られたら都合の悪いことでも?」
 薫兄ちゃんが挑戦的な笑みを浮かべる。
 長峰さんが、激昂げっこうして勢いよく立ち上がった。
「きょ、今日はこれで失礼します。香奈さん、また連絡差し上げますので」
「え、あ、はい……」
 引き止めるべきか悩んでいるうちに、長峰さんは帰り支度を整えて和室を出ていこうとしていた。
「ホクロを見せるくらい、いいじゃないですか」
「お断りします。不愉快です。そりゃあ確かに珍しいかもしれませんが……ホクロが三つ並んでいるくらいで犯人扱いされちゃ、たまったものじゃないですよ!」
「えっ!?」
 さすがの私も、つい大きな声をあげてしまった。
「え……?」
 長峰さんが不思議そうな顔で、私を見つめる。
 自分が何を言ったのか……言ってしまったのか気付いていない。
「長峰さん。どうして、ホクロが三つだと思ったんですか? 私は並んでた数までは言ってないですよ」
 薫兄ちゃんが、長峰さんに詰め寄った。
「それは……」
「普通、並んでるって言われたら二つだと思いませんか? それにこの情報、子供の曖昧あいまいな記憶だからって、当時の警察は師匠以外誰も相手にしてくれなかったんです。当然、公表もされてません」
「そ、それはほら、私が三つ並んでいる訳ですから……てっきり犯人もそうなんだ、と思い込んでしまっただけですよ」
「確かにあなたが言ったように、ホクロが三つ並んでるなんて珍しい。だったらまず最初に、こう聞くんじゃないんですか? 『私はホクロが三つ並んでるんですが、犯人もそうなんですか』と」
「う……」
「でもあなたは、まるで初めから犯人の腕にホクロが三つ並んでることを知ってるような口振りだった」
「それは……」
「あと、あなたの会社を同僚に調べてもらいましたが、業務実績がないですね。ダミー会社の疑いがあります」
 そうか、トイレに行ったときに。そしてさっきのメールが、その返事だったのか。
「あなたは、香奈本人あるいは香奈が務める会社相手に、詐欺さぎでも働くつもりで近付いたんじゃありませんか?」
「うぐ……」
「そして香奈に誘われ、信用を得るために今日の招待を受けた。それがたまたま、かつて何度も空き巣を働いたこの町だった。皮肉にもね。つまり土地勘とちかんがあったから、あそこが駄菓子屋なのも知ってたし、この家まで迷わずに来れたんです」
 長峰さんの顔が、赤から青に、そして蒼白そうはくに変わる。
「ちょっと、場所を変えてじっくり話をしようじゃありませんか」
 薫兄ちゃんが、刃物のように鋭い目で長峰さん……いや長峰容疑者を睨みつけた。
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