イェルフと心臓

チゲン

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第二部 イェルフの子供たち

18頁

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 トリンは、眠れずに館を抜けだした。
 里のなかは、ひっそりと静まり返っている。深夜なのだから当然だが、トリンは物悲しさを覚えずにいられなかった。
 これが最後の夜なのだ。
 明日に備えて休まねばと頭では判っているのだが、昼間の出来事が気になって寝付けなかった。
 アコイとジイロの間に、喧嘩がなかった訳ではない。むしろ殴りあいになったことも再三ある。
 だが昼間のそれは異質だった。まるで、仇敵同士がいがみあうような……憎しみあうような。
 トリンは身震いした。兄弟同然に育ったあの二人に限って、そんなことある訳がない。
「……わたしのせい、なのかな」
 ジイロの放ったひと言が、彼女の胸のなかで、まだくすぶっていた。
 人影が見えた。トリンは思わず足を止めた。
 こんな時間に誰だろう。自分のことは棚に上げて不審がっていると、向こうも彼女の存在に気付いたらしい。
 月明かり。
 互いの姿が、闇のなかに浮かび上がる。
 影の主はアコイだった。
「トリン?」
「アコイ……?」
「何やってるんだ、こんな時間に」
「わ…わたしは、ちょっと散歩してるだけよ。アコイこそ」
「僕も眠れなくて」
 ばつが悪そうに、ちらりと視線を交わし、微笑みあう。
「川に下りてみないか」
「うん」
 アコイに誘われるまま、トリンは後ろをついていった。柵の裏手口で見張りをしていた若者に声を掛け、戸を開けてもらう。
 川原へ続くこの道も、今夜で歩き納めだ。
 子供の頃は、よく三人で川遊びをした。
 初めはカナヅチだったトリンも、アコイの熱心な指導で泳げるようになった。おぼれかけたとき、ジイロが真っ先に助けてくれた。
「懐かしいな」
 川原へ座り込むなり、アコイがぽつりと呟いた。
 同じことを考えていたのだろうか。
 せせらぎは、十三年前から、ちっとも変わっていない。
 虫の声も。
 草のそよめきも。
 何もかも昔のままだ。
「わたしたち、これからどうなるのかな」
「判らない」
「……そうよね」
 間抜けな質問だったかもしれない。里の誰もが思っていることだ。
「ジイロ、平気かな」
「平気だよ、きっと」
 そう言うアコイの口調からは、昼間のような憎意は感じられない。
 トリンは少し安堵した。
「ジイロも、みんなのことを考えて、あんなこと言ったんだろうけど……」
 里のなかで孤立した彼の姿を見るのは、トリンにはひどくつらいことだった。
「やっぱり無理よね。イェルフの国なんて」
 すがるように、アコイの顔をあおぎみる。
「ああ」
 所詮、理想に過ぎない。
 しかし、それだけで片付けてしまっていいのだろうか。
「みんながずっと幸せに暮らせたらな」
 あまりにも平凡だが、困難な願いを、トリンは口にした。
 ジイロもその思いは同じなのだ。
「新しい土地でも、きっと何とかなるさ」
 アコイは柔らかい笑みを浮かべる。
 優しい目をした青年。いつものアコイがここにいる。
「トリン……新しい土地に着いたら、僕と結婚してくれないか」
 唐突に、アコイが言った。
 トリンは一瞬、何を言われたか判らず、きょとんとしてしまった。
 その言葉の意味をようやく理解したとき、みるみる頬が紅潮こうちょうしていった。
「けっこ……え、ちょっと……なに言って……」
 心臓が早鐘はやがねを打ちだす。
 だがアコイは、真剣な眼差しで、トリンを見つめている。
「必ず僕が、君を守ってみせる。だから」
「きゅ…急にそんなこと言われても……」
 何と答えていいのか判らない。
 頭がこんがらがって、何も言葉が思い浮かばない。
「トリン」
 不意にアコイが、トリンの体を胸に抱き寄せた。
「……!」
 トリンはあらがえなかった。
 アコイの肌の温もり。
 鼓動こどう
 体の芯が熱くなってくる。
「わ…わたし……」
「僕じゃ駄目なのか」
「う…ううん、そんなことない」
 思わずそう答えてしまい、さらに赤面する。
「その……今は、そんなこと言ってるときじゃないわ」
「こんなときだからこそ、生きる意味が欲しいんだ」
「アコイ……」
「僕といっしょになってくれ」
 アコイの腕に力が込められた。
 答えられず、トリンは目を閉じた。目を閉じると、彼の鼓動がはっきりと感じられた。
「アコイ、わたし……」
「!」
 不意にアコイが、トリンの体を引き離した。
「えっ?」
 トリンは、不思議に思って彼の顔に目をやった。そして思わず息を呑んだ。
 厳しい眼光を放つ、戦士の顔があった。
「アコイ……?」
「声を出すな。誰かいる」
 トリンは慌てて口を押さえた。
「里の誰かなら、気配を殺す必要なんてないはずだ」
 まさか、二人に気を遣ってという訳でもあるまい。闇のなかの気配は、明らかにこちらの動向を窺っている。
 丸腰であることを、アコイは後悔した。
「僕が合図したら、里まで全力で走って、見張りにこのことを知らせてくれ」
「アコイは?」
「すぐに追いかける」
「でも……」
「やるんだ」
 アコイが、力強くトリンの肩を掴む。
「……判ったわ」
 トリンは腹を決めた。曲がりなりにも、自分は最長老の娘なのだ。
「行くぞ……走れ!」
 アコイが立ち上がって身構えると同時に、トリンが里に向かって駆けだした。
 刺客しかくが草むらから跳びだし、アコイに襲いかかった。
 白刃が月光を浴びて、目を射る。
 アコイは咄嗟とっさに身をひねり、斬撃をかわしつつ、刺客の足を払った。刺客は軽い悲鳴をあげ、その場に突っ伏した。
 さらに足音。もう一人の刺客が、トリンを追っている。
「トリン!」
 アコイは駆けだした。
 駆けながら、手頃な大きさの石を拾い上げ、思いきり投げつける。石は見事に、刺客の後頭部へ命中した。
 刺客がつんのめったところに、背後から体当たりを食らわせる。もみくちゃになりながら、草むらのなかを転がった。
 やはり野伏だ。
「人間が!」
 アコイは野伏の額を掴むと、後頭部を石の上へ叩きつけた。
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