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第二部 イェルフの子供たち
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トリンは、眠れずに館を抜けだした。
里のなかは、ひっそりと静まり返っている。深夜なのだから当然だが、トリンは物悲しさを覚えずにいられなかった。
これが最後の夜なのだ。
明日に備えて休まねばと頭では判っているのだが、昼間の出来事が気になって寝付けなかった。
アコイとジイロの間に、喧嘩がなかった訳ではない。むしろ殴りあいになったことも再三ある。
だが昼間のそれは異質だった。まるで、仇敵同士がいがみあうような……憎しみあうような。
トリンは身震いした。兄弟同然に育ったあの二人に限って、そんなことある訳がない。
「……わたしのせい、なのかな」
ジイロの放ったひと言が、彼女の胸のなかで、まだ燻っていた。
人影が見えた。トリンは思わず足を止めた。
こんな時間に誰だろう。自分のことは棚に上げて不審がっていると、向こうも彼女の存在に気付いたらしい。
月明かり。
互いの姿が、闇のなかに浮かび上がる。
影の主はアコイだった。
「トリン?」
「アコイ……?」
「何やってるんだ、こんな時間に」
「わ…わたしは、ちょっと散歩してるだけよ。アコイこそ」
「僕も眠れなくて」
ばつが悪そうに、ちらりと視線を交わし、微笑みあう。
「川に下りてみないか」
「うん」
アコイに誘われるまま、トリンは後ろをついていった。柵の裏手口で見張りをしていた若者に声を掛け、戸を開けてもらう。
川原へ続くこの道も、今夜で歩き納めだ。
子供の頃は、よく三人で川遊びをした。
初めはカナヅチだったトリンも、アコイの熱心な指導で泳げるようになった。溺れかけたとき、ジイロが真っ先に助けてくれた。
「懐かしいな」
川原へ座り込むなり、アコイがぽつりと呟いた。
同じことを考えていたのだろうか。
せせらぎは、十三年前から、ちっとも変わっていない。
虫の声も。
草のそよめきも。
何もかも昔のままだ。
「わたしたち、これからどうなるのかな」
「判らない」
「……そうよね」
間抜けな質問だったかもしれない。里の誰もが思っていることだ。
「ジイロ、平気かな」
「平気だよ、きっと」
そう言うアコイの口調からは、昼間のような憎意は感じられない。
トリンは少し安堵した。
「ジイロも、みんなのことを考えて、あんなこと言ったんだろうけど……」
里のなかで孤立した彼の姿を見るのは、トリンにはひどくつらいことだった。
「やっぱり無理よね。イェルフの国なんて」
すがるように、アコイの顔を仰ぎみる。
「ああ」
所詮、理想に過ぎない。
しかし、それだけで片付けてしまっていいのだろうか。
「みんながずっと幸せに暮らせたらな」
あまりにも平凡だが、困難な願いを、トリンは口にした。
ジイロもその思いは同じなのだ。
「新しい土地でも、きっと何とかなるさ」
アコイは柔らかい笑みを浮かべる。
優しい目をした青年。いつものアコイがここにいる。
「トリン……新しい土地に着いたら、僕と結婚してくれないか」
唐突に、アコイが言った。
トリンは一瞬、何を言われたか判らず、きょとんとしてしまった。
その言葉の意味をようやく理解したとき、みるみる頬が紅潮していった。
「けっこ……え、ちょっと……なに言って……」
心臓が早鐘を打ちだす。
だがアコイは、真剣な眼差しで、トリンを見つめている。
「必ず僕が、君を守ってみせる。だから」
「きゅ…急にそんなこと言われても……」
何と答えていいのか判らない。
頭がこんがらがって、何も言葉が思い浮かばない。
「トリン」
不意にアコイが、トリンの体を胸に抱き寄せた。
「……!」
トリンは抗えなかった。
アコイの肌の温もり。
鼓動。
体の芯が熱くなってくる。
「わ…わたし……」
「僕じゃ駄目なのか」
「う…ううん、そんなことない」
思わずそう答えてしまい、さらに赤面する。
「その……今は、そんなこと言ってるときじゃないわ」
「こんなときだからこそ、生きる意味が欲しいんだ」
「アコイ……」
「僕といっしょになってくれ」
アコイの腕に力が込められた。
答えられず、トリンは目を閉じた。目を閉じると、彼の鼓動がはっきりと感じられた。
「アコイ、わたし……」
「!」
不意にアコイが、トリンの体を引き離した。
「えっ?」
トリンは、不思議に思って彼の顔に目をやった。そして思わず息を呑んだ。
厳しい眼光を放つ、戦士の顔があった。
「アコイ……?」
「声を出すな。誰かいる」
トリンは慌てて口を押さえた。
「里の誰かなら、気配を殺す必要なんてないはずだ」
まさか、二人に気を遣ってという訳でもあるまい。闇のなかの気配は、明らかにこちらの動向を窺っている。
丸腰であることを、アコイは後悔した。
「僕が合図したら、里まで全力で走って、見張りにこのことを知らせてくれ」
「アコイは?」
「すぐに追いかける」
「でも……」
「やるんだ」
アコイが、力強くトリンの肩を掴む。
「……判ったわ」
トリンは腹を決めた。曲がりなりにも、自分は最長老の娘なのだ。
「行くぞ……走れ!」
アコイが立ち上がって身構えると同時に、トリンが里に向かって駆けだした。
刺客が草むらから跳びだし、アコイに襲いかかった。
白刃が月光を浴びて、目を射る。
アコイは咄嗟に身をひねり、斬撃をかわしつつ、刺客の足を払った。刺客は軽い悲鳴をあげ、その場に突っ伏した。
さらに足音。もう一人の刺客が、トリンを追っている。
「トリン!」
アコイは駆けだした。
駆けながら、手頃な大きさの石を拾い上げ、思いきり投げつける。石は見事に、刺客の後頭部へ命中した。
刺客がつんのめったところに、背後から体当たりを食らわせる。もみくちゃになりながら、草むらのなかを転がった。
やはり野伏だ。
「人間が!」
アコイは野伏の額を掴むと、後頭部を石の上へ叩きつけた。
里のなかは、ひっそりと静まり返っている。深夜なのだから当然だが、トリンは物悲しさを覚えずにいられなかった。
これが最後の夜なのだ。
明日に備えて休まねばと頭では判っているのだが、昼間の出来事が気になって寝付けなかった。
アコイとジイロの間に、喧嘩がなかった訳ではない。むしろ殴りあいになったことも再三ある。
だが昼間のそれは異質だった。まるで、仇敵同士がいがみあうような……憎しみあうような。
トリンは身震いした。兄弟同然に育ったあの二人に限って、そんなことある訳がない。
「……わたしのせい、なのかな」
ジイロの放ったひと言が、彼女の胸のなかで、まだ燻っていた。
人影が見えた。トリンは思わず足を止めた。
こんな時間に誰だろう。自分のことは棚に上げて不審がっていると、向こうも彼女の存在に気付いたらしい。
月明かり。
互いの姿が、闇のなかに浮かび上がる。
影の主はアコイだった。
「トリン?」
「アコイ……?」
「何やってるんだ、こんな時間に」
「わ…わたしは、ちょっと散歩してるだけよ。アコイこそ」
「僕も眠れなくて」
ばつが悪そうに、ちらりと視線を交わし、微笑みあう。
「川に下りてみないか」
「うん」
アコイに誘われるまま、トリンは後ろをついていった。柵の裏手口で見張りをしていた若者に声を掛け、戸を開けてもらう。
川原へ続くこの道も、今夜で歩き納めだ。
子供の頃は、よく三人で川遊びをした。
初めはカナヅチだったトリンも、アコイの熱心な指導で泳げるようになった。溺れかけたとき、ジイロが真っ先に助けてくれた。
「懐かしいな」
川原へ座り込むなり、アコイがぽつりと呟いた。
同じことを考えていたのだろうか。
せせらぎは、十三年前から、ちっとも変わっていない。
虫の声も。
草のそよめきも。
何もかも昔のままだ。
「わたしたち、これからどうなるのかな」
「判らない」
「……そうよね」
間抜けな質問だったかもしれない。里の誰もが思っていることだ。
「ジイロ、平気かな」
「平気だよ、きっと」
そう言うアコイの口調からは、昼間のような憎意は感じられない。
トリンは少し安堵した。
「ジイロも、みんなのことを考えて、あんなこと言ったんだろうけど……」
里のなかで孤立した彼の姿を見るのは、トリンにはひどくつらいことだった。
「やっぱり無理よね。イェルフの国なんて」
すがるように、アコイの顔を仰ぎみる。
「ああ」
所詮、理想に過ぎない。
しかし、それだけで片付けてしまっていいのだろうか。
「みんながずっと幸せに暮らせたらな」
あまりにも平凡だが、困難な願いを、トリンは口にした。
ジイロもその思いは同じなのだ。
「新しい土地でも、きっと何とかなるさ」
アコイは柔らかい笑みを浮かべる。
優しい目をした青年。いつものアコイがここにいる。
「トリン……新しい土地に着いたら、僕と結婚してくれないか」
唐突に、アコイが言った。
トリンは一瞬、何を言われたか判らず、きょとんとしてしまった。
その言葉の意味をようやく理解したとき、みるみる頬が紅潮していった。
「けっこ……え、ちょっと……なに言って……」
心臓が早鐘を打ちだす。
だがアコイは、真剣な眼差しで、トリンを見つめている。
「必ず僕が、君を守ってみせる。だから」
「きゅ…急にそんなこと言われても……」
何と答えていいのか判らない。
頭がこんがらがって、何も言葉が思い浮かばない。
「トリン」
不意にアコイが、トリンの体を胸に抱き寄せた。
「……!」
トリンは抗えなかった。
アコイの肌の温もり。
鼓動。
体の芯が熱くなってくる。
「わ…わたし……」
「僕じゃ駄目なのか」
「う…ううん、そんなことない」
思わずそう答えてしまい、さらに赤面する。
「その……今は、そんなこと言ってるときじゃないわ」
「こんなときだからこそ、生きる意味が欲しいんだ」
「アコイ……」
「僕といっしょになってくれ」
アコイの腕に力が込められた。
答えられず、トリンは目を閉じた。目を閉じると、彼の鼓動がはっきりと感じられた。
「アコイ、わたし……」
「!」
不意にアコイが、トリンの体を引き離した。
「えっ?」
トリンは、不思議に思って彼の顔に目をやった。そして思わず息を呑んだ。
厳しい眼光を放つ、戦士の顔があった。
「アコイ……?」
「声を出すな。誰かいる」
トリンは慌てて口を押さえた。
「里の誰かなら、気配を殺す必要なんてないはずだ」
まさか、二人に気を遣ってという訳でもあるまい。闇のなかの気配は、明らかにこちらの動向を窺っている。
丸腰であることを、アコイは後悔した。
「僕が合図したら、里まで全力で走って、見張りにこのことを知らせてくれ」
「アコイは?」
「すぐに追いかける」
「でも……」
「やるんだ」
アコイが、力強くトリンの肩を掴む。
「……判ったわ」
トリンは腹を決めた。曲がりなりにも、自分は最長老の娘なのだ。
「行くぞ……走れ!」
アコイが立ち上がって身構えると同時に、トリンが里に向かって駆けだした。
刺客が草むらから跳びだし、アコイに襲いかかった。
白刃が月光を浴びて、目を射る。
アコイは咄嗟に身をひねり、斬撃をかわしつつ、刺客の足を払った。刺客は軽い悲鳴をあげ、その場に突っ伏した。
さらに足音。もう一人の刺客が、トリンを追っている。
「トリン!」
アコイは駆けだした。
駆けながら、手頃な大きさの石を拾い上げ、思いきり投げつける。石は見事に、刺客の後頭部へ命中した。
刺客がつんのめったところに、背後から体当たりを食らわせる。もみくちゃになりながら、草むらのなかを転がった。
やはり野伏だ。
「人間が!」
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