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女神の手鏡
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青年が女神の肩を優しく抱きながら、神樹に向かってゆっくりと丘を登ってゆく。
神樹がそびえ立つ丘の一面には虹色の花々が咲き乱れている。エーテルに満ちた天界では、決して花が枯れることはない。ふたりが神樹の根元に腰を下ろすと、砂糖菓子のような白銀の小鳥たちが花畑に舞い降りて、美しい囀りのハーモニーを響かせる。
女神は神酒(ネクタル)がなみなみと注がれた聖杯を虚空から取り出すと、その美しい口にわずかばかりの神酒を含み、妖艶だが優雅な動作で青年に覆い被さる。青年は女神に口移しで与えられた神酒を舌で転がして愉しんだのち飲み下す。同じ要領で二口、三口と女神は神酒を青年に与えてゆく。この神酒のおかげで、人間である青年も神々と同じように永遠の若さと命を保ち続けることができるのだった。
聖杯の中身が空になると、今度は女神が手鏡を取り出した。妖精の涙がはめ込まれたその美しい手鏡には地上のあらゆる光景が映る。夜光草の群生地。農家の軒下に作られた燕の巣。雨を滴らせた羊飼いの老人。青年と女神は頭を密着させてそれらの光景を観賞しながら語り合う。
「あなたがここへ来て、もう何年になるかしら」
「百年を超えたあたりから数えるのをやめてしまったよ」
「まあ、幸せな人。――あれは何かしら」
手鏡が新たに映し出した光景を女神は指差す。
「ん? どれどれ」
鬱蒼と草木が生い茂る密林のようだった。しかし、よくよく目を凝らしてみると、鎧の上に迷彩代わりの枝葉を纏った男たちが、剣や槍、弓などの武器を構えながら前方の様子を窺っているようだった。
「あの人たち、一体何を狙っているのかしら」
「猟師にしては武器も服装も物騒だな。……ん、あれは」
手鏡が続いて映し出した光景は、森の中で閑かに暮らす種族の集落だった。
「あれは……エルフ族かしら?」
「そうみたいだね。あの長い耳は間違いない」
エルフ族は「森人族」とも呼ばれ、泉の湧き出る森に暮らす亜人種だ。背丈は人間と同じか、少し高いくらいで、輝くように美しく白い肌と、長く尖った耳が特徴的だ。人間よりも遙かに長命で賢く、魔力を操る才に長けているが、争いごとを厭い、森の奥深くで人間と関わらないようにひっそりと暮らす純朴な種族である。
「それじゃあさっきの男たちは――」
「エルフ狩り、だね」
女神は美しい眉を下げ、心配そうにエルフたちを見つめている。
エルフは狩猟の対象になりうる。エルフは長命であるだけでなく、いつまでも若く美しい姿を保つことでも知られる。愛玩生物として貴族たちの間では驚くほどの高値で取引されているのだ。
「ねえ、なんとかしてあげられないかしら。このままではエルフたちが奴隷にされてしまうわ」
「そうだね……」
天界の者が地上に干渉することは、天の理により原則として禁じられている。
しかし、青年は神酒で不老不死の体となっているだけで、本質は地上の人間だった。青年であれば地上に干渉してもぎりぎり許されるだろう。
青年は立ち上がると閑かに言い放った。
「……ちょっとエルフたちに会ってくるよ」
「いいの? 危険じゃない?」
「大丈夫。僕には天界一美しい女神様がついているんだから」
女神と青年は神樹の前で熱い抱擁を交わした。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。必ず無事で帰ってきてね」
「ああ」
青年は神樹の幹に両手を当てた。次第に神樹の鼓動と心臓の鼓動が同化してゆく。
神樹とは世界そのものである。神樹に念じれば、あらゆる場所へ瞬時に移動することができる。
「我、天と地に通ずる者なり。天理に従いて、我がゆくべき道を拓け……」
こうして青年は地上へと降り立った。
実に百年以上ぶりのことだった。
◇
エルフの暮らす森は昼間だというのに薄明かりが差し込む程度の明るさしかなかった。
集落の中央にある泉の前に突如として現われた人間の青年を見て、いつもと変わらない日常を送っていたエルフの面々は恐慌状態に陥りかけた。
「みなさん、落ち着いてください! 僕は天界の女神ダリアの使いで来た者です!」
青年の必死の訴えにより、なんとか理解してもらえたようだった。
エルフ族は人間よりも遙かに女神への信仰が厚い。エルフの命の源である泉から湧き出る神酒を太古に与えたのは天界の女神たちであった。
「あの、女神様がどのような理由をあなた様をお使いになったのでしょう……?」
次第に集まってきたエルフの群衆に向かって、僕は事態を説明し始めた。
「いいですか、落ち着いて聞いてください。今、ここへエルフ狩りが向かってきています」
「なんですって!?」
輝くような金色の髪と白い肌をもつエルフたちから、動揺と怒りのどよめきが上がった。青年は冷静に言葉を続けた。
「敵は奇襲をかける気でいます。女性と子どもは安全な場所へ。闘える者は僕と一緒に来てください」
「あなたも一緒に闘うのですか……?」
怪訝な表情を浮かべながら尋ねてきた美しい女性のエルフに、僕はにっこりと微笑んだ。
「――そのためにここへやってきたのです」
◇
武器を手にした男たちは森の様子を窺っていた。
「隊長、出撃はまだでしょうか?」
「……おい。森の様子、なんだかおかしくねえか?」
「は? そうでしょうか」
「ああ。あんまりにも閑かすぎるぜ……」
隊長と呼ばれた男は双眼鏡を手に取り、前方の様子を子細に観察し始めた。
エルフの家屋の多くは樹の上に設置されている。彼らは縄梯子を使って建物に出入りし、襲撃者に対しては頭上から容赦なく矢を飛ばしてくる。
しかし、観察した限り、彼らが樹の上で武器を構えている様子は見て取れなかった。まったく無防備の状態だ。
「……まあいい。火矢の用意ができ次第、狩りを始めるぞ」
「はっ」
エルフの男たちは日中森へ山菜や木の実を収穫しに出ているが、住居には子どもや母親がいるはずだ。まずは火事を起こして煙を上げ、地面へ降りてきた奴らから順に拘束する。これがエルフ狩りの常套手段だ。
今回の作戦はとある大貴族の命令によって決行されたものだった。条約によりエルフ狩りは大陸全土で禁止されているはずだが、需要に対して供給が圧倒的に少なく、こうして密かに乱獲が続けられていた。
「点火、用意」
「点火、用意!」
「着火」
「着火!」
隊長の指令が部下たちに伝播してゆく。
「――攻撃開始」
「攻撃開始!」
前方に向かって無数の火矢が放たれた。暗い森に赤い閃光の軌跡を残して。
隊長は慎重に双眼鏡を覗き込み、火事に気づいたエルフたちが慌てて飛び出してくるのを待った。
「……これはどういうことだ?」
火の手は次第に激しさを増してゆくが、エルフたちは一向に姿を見せない。
「仕方あるまい。こうなったら集落の中心に直接攻め込むぞ」
「し、しかし、危険では?」
「手ぶらで帰る勇気があるなら止めはしねえぞ」
「……」
男たちは隊長の前後を固めつつ、燃え盛る住居を尻目に集落の中へ踏み入れた。
すると、先行していた部下の首を矢が貫き、鎧を着た体が前のめりにドサリと倒れた。
「なにっ!?」
隊長が異常事態に気づいたときには矢の雨だった。
いつの間にか男たちを樹の上から取り囲んでいた無数のエルフたちが、矢を次々と弓につがえて狙い澄ました一撃を侵入者へと放っていた。
「隊長!?」
「撤退だ、撤退!」
そのとき、樹の陰からエルフの少女が根に躓いて転がり出てきた。森へ遊びに出かけて逃げそびれたらしい。
「おい! あいつだけでも捕らえておけ!」
「はっ!」
逃げだそうとしたエルフの少女に男たちが三人がかりで追いかけると、華奢な体をロープで縛り、担いで戻ってきた。
「よくやった! なかなか上玉じゃねえか、なあ?」
隊長はエルフの少女を受け取って肩に担ぐと、生き残った部下たちを従えて森を抜け出そうと疾走した。その背を怒り狂ったエルフたちの放つ矢が追撃した。
――すると、行く手にひとりの青年が佇んでいた。
何やら手鏡のようなものを覗き込んでいる。耳が普通の長さであるところを見ると人間らしい。
「な、なんでこんなところに人間が?」
「構わねえ! 殺しちまえ!」
部下たちが剣を抜いて先行し、青年に向かって突撃した。そんな男たちの姿を、青年は憂いを秘めた瞳で悲しそうに見つめた。
「死ねっ!」
次の瞬間、目を疑うようなことが起こった。
青年の体に男たちの刃が届いたと思った瞬間、剣が男たちの体ともども塵のように崩れてしまったのだ。後に残ったのは独り佇む青年と、男たちが着ていた葉を纏った鎧と衣服だけだった。
「な、なにが起きたんだ……」
隊長は立ち止まり、今起きたことを頭の中で咀嚼しようとしたが無理だった。
混乱状態に陥っている男たちに、青年が閑かに呼びかけた。
「あなた方に勝ち目はありません。僕には女神の加護がありますから。……さあ、その娘を返してください」
青年の言葉は半分以上理解できなかったが、せっかくの獲物を要求していることだけは隊長にも分かった。
「うるせえ! さてはお前もエルフが欲しくてやってきたくちなんだろ? こいつは絶対渡さねえぞ!」
隊長は剣を抜いて青年に斬りかかった。しかし、その後には少女を両手で抱えた青年が立っているだけだった。
「……言ったではないですか。僕には女神の加護があると」
「ば、ばけもの……」
「に、逃げろ! 俺たち皆殺しにされるぞ!」
逃げ去ってゆく男たちの背を見つめてから、青年はエルフの少女に巻き付いたロープを解いた。
「もう大丈夫だからね」
にこりと微笑むと、少女もようやく緊張が解けたようだった。
「うん……。ありがと、人間のお兄ちゃん」
少女はつま先立ちすると、青年の頬へ短くお礼の口づけをしたのだった――。
◇
少女をエルフの集落へ送り届けてほどなくして、エルフたちの喝采と祝福の渦の中心にいた青年に空から迎えの光が差し込むと、次の瞬間、青年は天界へと戻ってきていた。
「――ただいま。……あれ?」
戻った瞬間、女神の抱擁を受けるかと思いきや、彼女は花畑で膝を抱えて背を丸めていた。
「いったいどうしたんだ?」
「……どうしたもこうしたもありませんわ」
女神はこちらを振り返り、鋭い目つきでキッと睨みつけてきた。その目は泣き腫らしたように真っ赤だった。
「この浮気者っ! エルフの女の子にちやほやされて馬鹿みたいににやにやしちゃって!」
「……ま、まさか、ずっと見ていたのか?」
「ええ、手鏡はもうひとつありましてよ!」
「げっ……! ちょ、ちょっと待ってくれ! あれは誤解なんだ!」
「あら、どういう誤解でございまして? 説明してご覧なさいなっ!」
自分たちの遙か頭上で、信仰する神樹の女神と人間の青年が口喧嘩しているなど、エルフたちにとっては知る由もないことであった。
(了)
神樹がそびえ立つ丘の一面には虹色の花々が咲き乱れている。エーテルに満ちた天界では、決して花が枯れることはない。ふたりが神樹の根元に腰を下ろすと、砂糖菓子のような白銀の小鳥たちが花畑に舞い降りて、美しい囀りのハーモニーを響かせる。
女神は神酒(ネクタル)がなみなみと注がれた聖杯を虚空から取り出すと、その美しい口にわずかばかりの神酒を含み、妖艶だが優雅な動作で青年に覆い被さる。青年は女神に口移しで与えられた神酒を舌で転がして愉しんだのち飲み下す。同じ要領で二口、三口と女神は神酒を青年に与えてゆく。この神酒のおかげで、人間である青年も神々と同じように永遠の若さと命を保ち続けることができるのだった。
聖杯の中身が空になると、今度は女神が手鏡を取り出した。妖精の涙がはめ込まれたその美しい手鏡には地上のあらゆる光景が映る。夜光草の群生地。農家の軒下に作られた燕の巣。雨を滴らせた羊飼いの老人。青年と女神は頭を密着させてそれらの光景を観賞しながら語り合う。
「あなたがここへ来て、もう何年になるかしら」
「百年を超えたあたりから数えるのをやめてしまったよ」
「まあ、幸せな人。――あれは何かしら」
手鏡が新たに映し出した光景を女神は指差す。
「ん? どれどれ」
鬱蒼と草木が生い茂る密林のようだった。しかし、よくよく目を凝らしてみると、鎧の上に迷彩代わりの枝葉を纏った男たちが、剣や槍、弓などの武器を構えながら前方の様子を窺っているようだった。
「あの人たち、一体何を狙っているのかしら」
「猟師にしては武器も服装も物騒だな。……ん、あれは」
手鏡が続いて映し出した光景は、森の中で閑かに暮らす種族の集落だった。
「あれは……エルフ族かしら?」
「そうみたいだね。あの長い耳は間違いない」
エルフ族は「森人族」とも呼ばれ、泉の湧き出る森に暮らす亜人種だ。背丈は人間と同じか、少し高いくらいで、輝くように美しく白い肌と、長く尖った耳が特徴的だ。人間よりも遙かに長命で賢く、魔力を操る才に長けているが、争いごとを厭い、森の奥深くで人間と関わらないようにひっそりと暮らす純朴な種族である。
「それじゃあさっきの男たちは――」
「エルフ狩り、だね」
女神は美しい眉を下げ、心配そうにエルフたちを見つめている。
エルフは狩猟の対象になりうる。エルフは長命であるだけでなく、いつまでも若く美しい姿を保つことでも知られる。愛玩生物として貴族たちの間では驚くほどの高値で取引されているのだ。
「ねえ、なんとかしてあげられないかしら。このままではエルフたちが奴隷にされてしまうわ」
「そうだね……」
天界の者が地上に干渉することは、天の理により原則として禁じられている。
しかし、青年は神酒で不老不死の体となっているだけで、本質は地上の人間だった。青年であれば地上に干渉してもぎりぎり許されるだろう。
青年は立ち上がると閑かに言い放った。
「……ちょっとエルフたちに会ってくるよ」
「いいの? 危険じゃない?」
「大丈夫。僕には天界一美しい女神様がついているんだから」
女神と青年は神樹の前で熱い抱擁を交わした。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。必ず無事で帰ってきてね」
「ああ」
青年は神樹の幹に両手を当てた。次第に神樹の鼓動と心臓の鼓動が同化してゆく。
神樹とは世界そのものである。神樹に念じれば、あらゆる場所へ瞬時に移動することができる。
「我、天と地に通ずる者なり。天理に従いて、我がゆくべき道を拓け……」
こうして青年は地上へと降り立った。
実に百年以上ぶりのことだった。
◇
エルフの暮らす森は昼間だというのに薄明かりが差し込む程度の明るさしかなかった。
集落の中央にある泉の前に突如として現われた人間の青年を見て、いつもと変わらない日常を送っていたエルフの面々は恐慌状態に陥りかけた。
「みなさん、落ち着いてください! 僕は天界の女神ダリアの使いで来た者です!」
青年の必死の訴えにより、なんとか理解してもらえたようだった。
エルフ族は人間よりも遙かに女神への信仰が厚い。エルフの命の源である泉から湧き出る神酒を太古に与えたのは天界の女神たちであった。
「あの、女神様がどのような理由をあなた様をお使いになったのでしょう……?」
次第に集まってきたエルフの群衆に向かって、僕は事態を説明し始めた。
「いいですか、落ち着いて聞いてください。今、ここへエルフ狩りが向かってきています」
「なんですって!?」
輝くような金色の髪と白い肌をもつエルフたちから、動揺と怒りのどよめきが上がった。青年は冷静に言葉を続けた。
「敵は奇襲をかける気でいます。女性と子どもは安全な場所へ。闘える者は僕と一緒に来てください」
「あなたも一緒に闘うのですか……?」
怪訝な表情を浮かべながら尋ねてきた美しい女性のエルフに、僕はにっこりと微笑んだ。
「――そのためにここへやってきたのです」
◇
武器を手にした男たちは森の様子を窺っていた。
「隊長、出撃はまだでしょうか?」
「……おい。森の様子、なんだかおかしくねえか?」
「は? そうでしょうか」
「ああ。あんまりにも閑かすぎるぜ……」
隊長と呼ばれた男は双眼鏡を手に取り、前方の様子を子細に観察し始めた。
エルフの家屋の多くは樹の上に設置されている。彼らは縄梯子を使って建物に出入りし、襲撃者に対しては頭上から容赦なく矢を飛ばしてくる。
しかし、観察した限り、彼らが樹の上で武器を構えている様子は見て取れなかった。まったく無防備の状態だ。
「……まあいい。火矢の用意ができ次第、狩りを始めるぞ」
「はっ」
エルフの男たちは日中森へ山菜や木の実を収穫しに出ているが、住居には子どもや母親がいるはずだ。まずは火事を起こして煙を上げ、地面へ降りてきた奴らから順に拘束する。これがエルフ狩りの常套手段だ。
今回の作戦はとある大貴族の命令によって決行されたものだった。条約によりエルフ狩りは大陸全土で禁止されているはずだが、需要に対して供給が圧倒的に少なく、こうして密かに乱獲が続けられていた。
「点火、用意」
「点火、用意!」
「着火」
「着火!」
隊長の指令が部下たちに伝播してゆく。
「――攻撃開始」
「攻撃開始!」
前方に向かって無数の火矢が放たれた。暗い森に赤い閃光の軌跡を残して。
隊長は慎重に双眼鏡を覗き込み、火事に気づいたエルフたちが慌てて飛び出してくるのを待った。
「……これはどういうことだ?」
火の手は次第に激しさを増してゆくが、エルフたちは一向に姿を見せない。
「仕方あるまい。こうなったら集落の中心に直接攻め込むぞ」
「し、しかし、危険では?」
「手ぶらで帰る勇気があるなら止めはしねえぞ」
「……」
男たちは隊長の前後を固めつつ、燃え盛る住居を尻目に集落の中へ踏み入れた。
すると、先行していた部下の首を矢が貫き、鎧を着た体が前のめりにドサリと倒れた。
「なにっ!?」
隊長が異常事態に気づいたときには矢の雨だった。
いつの間にか男たちを樹の上から取り囲んでいた無数のエルフたちが、矢を次々と弓につがえて狙い澄ました一撃を侵入者へと放っていた。
「隊長!?」
「撤退だ、撤退!」
そのとき、樹の陰からエルフの少女が根に躓いて転がり出てきた。森へ遊びに出かけて逃げそびれたらしい。
「おい! あいつだけでも捕らえておけ!」
「はっ!」
逃げだそうとしたエルフの少女に男たちが三人がかりで追いかけると、華奢な体をロープで縛り、担いで戻ってきた。
「よくやった! なかなか上玉じゃねえか、なあ?」
隊長はエルフの少女を受け取って肩に担ぐと、生き残った部下たちを従えて森を抜け出そうと疾走した。その背を怒り狂ったエルフたちの放つ矢が追撃した。
――すると、行く手にひとりの青年が佇んでいた。
何やら手鏡のようなものを覗き込んでいる。耳が普通の長さであるところを見ると人間らしい。
「な、なんでこんなところに人間が?」
「構わねえ! 殺しちまえ!」
部下たちが剣を抜いて先行し、青年に向かって突撃した。そんな男たちの姿を、青年は憂いを秘めた瞳で悲しそうに見つめた。
「死ねっ!」
次の瞬間、目を疑うようなことが起こった。
青年の体に男たちの刃が届いたと思った瞬間、剣が男たちの体ともども塵のように崩れてしまったのだ。後に残ったのは独り佇む青年と、男たちが着ていた葉を纏った鎧と衣服だけだった。
「な、なにが起きたんだ……」
隊長は立ち止まり、今起きたことを頭の中で咀嚼しようとしたが無理だった。
混乱状態に陥っている男たちに、青年が閑かに呼びかけた。
「あなた方に勝ち目はありません。僕には女神の加護がありますから。……さあ、その娘を返してください」
青年の言葉は半分以上理解できなかったが、せっかくの獲物を要求していることだけは隊長にも分かった。
「うるせえ! さてはお前もエルフが欲しくてやってきたくちなんだろ? こいつは絶対渡さねえぞ!」
隊長は剣を抜いて青年に斬りかかった。しかし、その後には少女を両手で抱えた青年が立っているだけだった。
「……言ったではないですか。僕には女神の加護があると」
「ば、ばけもの……」
「に、逃げろ! 俺たち皆殺しにされるぞ!」
逃げ去ってゆく男たちの背を見つめてから、青年はエルフの少女に巻き付いたロープを解いた。
「もう大丈夫だからね」
にこりと微笑むと、少女もようやく緊張が解けたようだった。
「うん……。ありがと、人間のお兄ちゃん」
少女はつま先立ちすると、青年の頬へ短くお礼の口づけをしたのだった――。
◇
少女をエルフの集落へ送り届けてほどなくして、エルフたちの喝采と祝福の渦の中心にいた青年に空から迎えの光が差し込むと、次の瞬間、青年は天界へと戻ってきていた。
「――ただいま。……あれ?」
戻った瞬間、女神の抱擁を受けるかと思いきや、彼女は花畑で膝を抱えて背を丸めていた。
「いったいどうしたんだ?」
「……どうしたもこうしたもありませんわ」
女神はこちらを振り返り、鋭い目つきでキッと睨みつけてきた。その目は泣き腫らしたように真っ赤だった。
「この浮気者っ! エルフの女の子にちやほやされて馬鹿みたいににやにやしちゃって!」
「……ま、まさか、ずっと見ていたのか?」
「ええ、手鏡はもうひとつありましてよ!」
「げっ……! ちょ、ちょっと待ってくれ! あれは誤解なんだ!」
「あら、どういう誤解でございまして? 説明してご覧なさいなっ!」
自分たちの遙か頭上で、信仰する神樹の女神と人間の青年が口喧嘩しているなど、エルフたちにとっては知る由もないことであった。
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