読書家でも愛書家でもない男

B.Luis

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読書家でも愛書家でもない男

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 シェイクスピアの『マクベス』を読み終えたのは、日を跨いで一刻ほど経った夜更けのことだった。
 集中力が持続しないのは年齢のせいか寒さのせいか、何度も途中で飽きては栞を挟んで投げ出してを繰り返していたため、さほど長くもない作品なのに半月も読破に要してしまった。ここしばらく『マクベス』を食卓やベッドの枕元や鞄の中など自分の近くに置いていたが、そんな生活もこれで終わる。ささやかな達成感とともに本棚へと仕舞い込めば、当分はもう手に取ることはないだろう。
 大して読みたくもない本をなぜ読むのかというと、月並みな答えで申し訳ないが、そこに本があるからというほかない。山と見れば登らずにはいられない登山家のように、本と見るや読み切らずにはいられない性分に、いつからか私はなってしまったのだ。
 だから、退屈な本に出会ってしまうとしばらく憂鬱になる。つまらない、時間の無駄だと分かっていても本を開かずにはいられない悲しい性分がしばしば人生を浪費しているという自覚もある。
 それでも本を読まずにはいられない自分のことを読書家だとか愛書家だとかいうつもりはない。本物の読書家たちに比べれば大した作品数も読んでいないし、愛書家だと胸を張れるほど本を愛しているわけでもない。大抵の場合、読み終えて一晩経てば内容なんてすっかり忘れてしまう。あとには微かな疲労感と、その本は読み終えたのだという事実が残るだけだ。

 さて、そんな読書家でも愛書家でもない私が、どういう運命の巡り合わせか、出版社に勤める友人からの誘いで某文芸雑誌に短編小説を起稿することとなった。編集者である友人からの注文は「とにかく小説と呼べるものであること」と「ほんの数ページで収まること」の二点だけだった。
 自分で小説を書こうだなんて考えたこともなかった私だが、どんな駄作でもいいから自分の内から生まれる作品がどんなふうか見てみたくなった。
 そうはいってもどこから手をつけていいのか分からなかったため、友人に短編小説のアイデアの出し方を尋ねてみると「自分のことを書けばいいんだよ」と言われた。そこにほんの少しの嘘を混ぜればなお良いと。

 ――そんなわけで自分のことをこうして書いてみたのだが、いかがだっただろうか?
 ちなみに私はまだ『マクベス』を読み終えてはいない。



(了)
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