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〇1章【すれちがいと夜】
3節~灯る想い~ 15
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「…………」
「…………」
オフィスの窓際から、青白い朝日がじわりと差し込み始めていた。
時刻は午前六時半。
夜通し照らし続けていた蛍光灯の冷たい光に、自然光が静かに重なると――まるで二つの世界が重なったように、現実が急に輪郭を持ちはじめる。
新しい一日が、もう始まっている。その事実が、瞼の裏に重たく響いてきた。
けれどヒロトもキリカも、それに目を向けようとはしなかった。
無言のまま、ただ淡々とキーボードを叩き続ける。
画面の中でカーソルが揺れ、指先がマウスを滑らせ、資料が少しずつ整っていく。
それが今の二人のすべてだった。
喧嘩をしたわけではない。空気が悪いわけでもない。
ただ、夜を越えた疲労と眠気が、言葉を紡ぐ余力を奪っていた。
キリカの髪は少し乱れ、何度も手ぐしで押さえた跡が残っている。
アイラインもすっかり薄れ、モニターの光に照らされる横顔は、少し影を落としていた。
その影が、徹夜の代償のように疲労感を際立たせる。
「……先輩、きつくないんですか」
やっと声を発したのはキリカだった。
かすれた声は小さく、絞り出すようで、眠気の深さを物語っていた。
ヒロトはモニターから視線を外し、隣の彼女を横目に見る。
「……きつい」
「……」
「二十五超えてからの徹夜は、マジできつい……」
低い声でつぶやくその言葉に、キリカが眉をひくりと動かし、手を止める。
少しだけ笑いがこぼれた。
「……勉強になります」
言いながら、カーソルを「結論」の下に合わせ――
思いついたように、キーボードを叩く。
『二十五からの徹夜はきつい』
「……おい、何入れてんだよ」
「っ……!」
慌ててデリートキーを連打するキリカ。
「ち、違います! 仮です、仮入力です! 今のは見なかったことにしてください!」
ヒロトは肩をすくめ、再び画面に視線を戻す。
その横顔には、堪えきれない笑いがうっすら滲んでいた。
静寂のなかで、カタカタと規則正しい打鍵の音が響く。
不思議なことに、その音は心地よく耳に残った。
やがて。
「……なんだか、終わりそうな予感がしてきました」
ぽつりとキリカが言う。
「ああ」
「…………」
「…………」
また、言葉は消えた。
だが、それが気まずいわけではない。
隣にいる存在が、沈黙のすべてを温かく埋めてくれている。
言葉がなくても、安心があった。
朝の光が少しずつ強くなり、夜が完全に終わる。
企画書も、二人の間の距離も、静かに完成へ近づいていった。
◆
「……先輩」
キリカの声が小さく響く。
気を紛らわせたい――その意図が透けて見えるほど弱々しい声だった。
顔色は悪く、瞼は赤くにじんでいる。座っているのが精一杯に見えた。
「……なんだよ」
「あの……眠気を、まぎらわせるために、ちょっとだけ……なんか話してください」
「……話って、何を」
「えーと……じゃあ、塚原先輩との大学時代の話とか」
ヒロトは瞬きをして、口の端をわずかに上げた。
「なんでまた、そんなもんを」
「……別に、気になっただけですっ。仲良さそうだし、変な意味じゃなくて!」
その強い語尾がかえって不自然で、ヒロトは小さく笑った。
頬を赤らめているのは眠気のせいか、それとも――。
「変な意味には取ってないよ」
「……ならいいです」
「まあ、聞きたいなら、話すけど」
椅子の背に体を預け、ヒロトは少し記憶をたどる。
出会いは大学一年の春。
同じ学科から始まり、同じ講義、同じゼミ。
初対面の麻衣は、どこかきっちりしすぎていて近寄りがたく、怖そうに見えた。
「麻衣とはな、ほんっとーに縁だけで繋がってた感じだったな。気づけばいつも課題を一緒にやってて、教授に怒られるときもだいたいセットだった」
「……怒られてたんですか?」
「意外だろ。でもまあ、麻衣は厳しいからな。正論で詰めてくるから、言い返すのがめんどくさくて、俺が折れるってパターンばっか」
「……それ、今と変わらないじゃないですか」
「変わらないな。全然」
懐かしそうに笑うヒロトにつられて、キリカも小さく笑った。
「周りには付き合ってるってよく誤解されてたな。否定するのも面倒で黙ってたら、麻衣はめちゃくちゃ怒ってた」
「……塚原先輩らしい」
「でもまあ、仲は良かったんだよ。お互い面倒くさい性格だったから、衝突も多かったけど。それでも続いたのは、似たような不器用さを持ってたからかもしれないな」
「腐れ縁ってやつですね」
「そうそう、まさにそれ」
ヒロトの声には淡々とした響きがあった。
それでも、キリカの目元はいつの間にか少し緩んでいた。
眠気を紛らわせるには、十分だったのかもしれない。
「……そういう関係って、ちょっといいですね」
ぽそりと漏れたキリカの声は、春の朝の空気に溶けるように消えていった。
窓の外では、淡い光がゆっくりと街を満たしていく。
夜の冷たさを少しだけ残した風が、芽吹き始めた季節の匂いを運んでいた。
ヒロトはあえて何も返さず、ただ隣の気配を感じた。
彼女の呼吸と、自分の心拍が、同じリズムを刻む。
言葉はいらなかった。
この朝の静けさと温もりが、二人の距離を確かに結んでいた。
「…………」
オフィスの窓際から、青白い朝日がじわりと差し込み始めていた。
時刻は午前六時半。
夜通し照らし続けていた蛍光灯の冷たい光に、自然光が静かに重なると――まるで二つの世界が重なったように、現実が急に輪郭を持ちはじめる。
新しい一日が、もう始まっている。その事実が、瞼の裏に重たく響いてきた。
けれどヒロトもキリカも、それに目を向けようとはしなかった。
無言のまま、ただ淡々とキーボードを叩き続ける。
画面の中でカーソルが揺れ、指先がマウスを滑らせ、資料が少しずつ整っていく。
それが今の二人のすべてだった。
喧嘩をしたわけではない。空気が悪いわけでもない。
ただ、夜を越えた疲労と眠気が、言葉を紡ぐ余力を奪っていた。
キリカの髪は少し乱れ、何度も手ぐしで押さえた跡が残っている。
アイラインもすっかり薄れ、モニターの光に照らされる横顔は、少し影を落としていた。
その影が、徹夜の代償のように疲労感を際立たせる。
「……先輩、きつくないんですか」
やっと声を発したのはキリカだった。
かすれた声は小さく、絞り出すようで、眠気の深さを物語っていた。
ヒロトはモニターから視線を外し、隣の彼女を横目に見る。
「……きつい」
「……」
「二十五超えてからの徹夜は、マジできつい……」
低い声でつぶやくその言葉に、キリカが眉をひくりと動かし、手を止める。
少しだけ笑いがこぼれた。
「……勉強になります」
言いながら、カーソルを「結論」の下に合わせ――
思いついたように、キーボードを叩く。
『二十五からの徹夜はきつい』
「……おい、何入れてんだよ」
「っ……!」
慌ててデリートキーを連打するキリカ。
「ち、違います! 仮です、仮入力です! 今のは見なかったことにしてください!」
ヒロトは肩をすくめ、再び画面に視線を戻す。
その横顔には、堪えきれない笑いがうっすら滲んでいた。
静寂のなかで、カタカタと規則正しい打鍵の音が響く。
不思議なことに、その音は心地よく耳に残った。
やがて。
「……なんだか、終わりそうな予感がしてきました」
ぽつりとキリカが言う。
「ああ」
「…………」
「…………」
また、言葉は消えた。
だが、それが気まずいわけではない。
隣にいる存在が、沈黙のすべてを温かく埋めてくれている。
言葉がなくても、安心があった。
朝の光が少しずつ強くなり、夜が完全に終わる。
企画書も、二人の間の距離も、静かに完成へ近づいていった。
◆
「……先輩」
キリカの声が小さく響く。
気を紛らわせたい――その意図が透けて見えるほど弱々しい声だった。
顔色は悪く、瞼は赤くにじんでいる。座っているのが精一杯に見えた。
「……なんだよ」
「あの……眠気を、まぎらわせるために、ちょっとだけ……なんか話してください」
「……話って、何を」
「えーと……じゃあ、塚原先輩との大学時代の話とか」
ヒロトは瞬きをして、口の端をわずかに上げた。
「なんでまた、そんなもんを」
「……別に、気になっただけですっ。仲良さそうだし、変な意味じゃなくて!」
その強い語尾がかえって不自然で、ヒロトは小さく笑った。
頬を赤らめているのは眠気のせいか、それとも――。
「変な意味には取ってないよ」
「……ならいいです」
「まあ、聞きたいなら、話すけど」
椅子の背に体を預け、ヒロトは少し記憶をたどる。
出会いは大学一年の春。
同じ学科から始まり、同じ講義、同じゼミ。
初対面の麻衣は、どこかきっちりしすぎていて近寄りがたく、怖そうに見えた。
「麻衣とはな、ほんっとーに縁だけで繋がってた感じだったな。気づけばいつも課題を一緒にやってて、教授に怒られるときもだいたいセットだった」
「……怒られてたんですか?」
「意外だろ。でもまあ、麻衣は厳しいからな。正論で詰めてくるから、言い返すのがめんどくさくて、俺が折れるってパターンばっか」
「……それ、今と変わらないじゃないですか」
「変わらないな。全然」
懐かしそうに笑うヒロトにつられて、キリカも小さく笑った。
「周りには付き合ってるってよく誤解されてたな。否定するのも面倒で黙ってたら、麻衣はめちゃくちゃ怒ってた」
「……塚原先輩らしい」
「でもまあ、仲は良かったんだよ。お互い面倒くさい性格だったから、衝突も多かったけど。それでも続いたのは、似たような不器用さを持ってたからかもしれないな」
「腐れ縁ってやつですね」
「そうそう、まさにそれ」
ヒロトの声には淡々とした響きがあった。
それでも、キリカの目元はいつの間にか少し緩んでいた。
眠気を紛らわせるには、十分だったのかもしれない。
「……そういう関係って、ちょっといいですね」
ぽそりと漏れたキリカの声は、春の朝の空気に溶けるように消えていった。
窓の外では、淡い光がゆっくりと街を満たしていく。
夜の冷たさを少しだけ残した風が、芽吹き始めた季節の匂いを運んでいた。
ヒロトはあえて何も返さず、ただ隣の気配を感じた。
彼女の呼吸と、自分の心拍が、同じリズムを刻む。
言葉はいらなかった。
この朝の静けさと温もりが、二人の距離を確かに結んでいた。
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