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〇2章【波乱と温泉】
5節~閑話~ 1
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次のアクティビティまでの休息時間。
中庭の裏に面したベンチに腰を下ろし、ヒロトはひとり、薄く霞んだ空を仰いでいた。
日差しはまだ高い。
けれど、どこか遠くに風の音が混じり始め、季節がほんの少しだけ傾き始めているのを感じる。
休日にこうして一日中、誰かと同じ空の下にいるのは久しぶりだった。
ヒカリと別れ、恋愛という行事から距離を置くようになって二年。
仕事や飲み会では騒ぐこともあったが、こんなふうに大勢とはしゃぎ、日差しを受けながら時間を共有する感覚は、ずいぶんと遠い記憶のように思えた。
芝生の向こうでは、レクリエーションを終えた社員たちが、木陰でドリンクを手に語らっている。
笑い声が風に流れ、ヒロトのもとまで届くたび、心のどこかが少しだけ温かくなった。
「先輩」
不意にかけられた声に、ヒロトは顔を上げる。
そこには、腰に手を当て、少し拗ねたような表情を浮かべるキリカが立っていた。
「……よう」
「なに黄昏れてるんですか」
呆れたように言いながら、キリカは控えめな動作で隣に腰を下ろす。
わずかに距離を空けながらも、ベンチがわずかに沈むほどの重みが加わった。
「いやー、疲れたなぁって」
「可愛い女の子にベタベタされてるからって、はしゃぎすぎなんですよ」
「なに怒ってるんだよ?」
「怒ってませんけど」
顔を背けた横顔が、うっすらと赤い。
陽のせいか、照れのせいか。ヒロトには、どちらとも取れなかった。
「そういう明坂だって、大はしゃぎしてたって聞いたぞ」
「大はしゃぎ……! まではしてません!」
語気を強めたものの、完全には否定できないらしいその反応に、ヒロトは思わず吹き出す。
「写真撮ったんだろ? 見せてくれよ」
「……いいですけど」
キリカがスマホを取り出し、画面をこちらへ向けた。
そこには、仕事中には見せない明るい顔のチームメンバーたち。
ピースをする佐原、ポーズを取る山崎、そしておまけのように映り込んだ倉本の顔。
「これは、二問目の質問のときに佐原先輩が……」
「こっちは、ラストの謎解きで山崎先輩が詰まって……」
「藤田先輩は、やる気がなかったです」
一枚一枚を指差しながら話すキリカの声が、思いのほか楽しそうで。
ヒロトは相槌を打ちながら、その横顔をじっと見ていた。
つい一カ月前まで、そんなふうに笑う彼女を想像することすらできなかった。
頑なで、気を張って、周りとの距離を測りながら仕事をしていた彼女が――今はこうして笑っている。
「……なんですか」
「なにが?」
「なんか、バカにされてる気がしました」
「バカになんてしてねぇよ」
ヒロトは微笑む。
その表情には、ほんの少しだけ優しさが滲んでいた。
「成長したなーって思ってただけ」
口をついて出たその言葉に、キリカの目が丸くなる。
「……えっ?」
驚きと照れが同時に浮かんだ表情に、ヒロトは苦笑しながら続けた。
「ちょっと前までだったら、会社の連中とこんなふうに笑ってレクなんて想像もしてなかっただろ? 泊まりのイベントも、聞くまでもなく欠席だっただろうし」
「う……」
否定しようとして、言葉が詰まる。
図星だった。
「それに……こうやって俺の隣に座って話すなんてのも、きっとなかったよな」
「……うるさいです」
顔を真っ赤にして、拳を膝の上で握るキリカ。
その横で風がふわりと吹き抜け、ポニーテールをさらう。
「……あぁ、それと。天内とも仲良くやれよ?」
悪意なく放たれたヒロトの一言に、キリカはピタリと顔を上げる。
瞳の奥に、一瞬だけ影が落ちた。
「……それは、先輩次第ですけど?」
「なんだそれ」
ヒロトが笑う。
キリカは「むぅ」と唇を尖らせ、視線を逸らした。
「さて、次はバーベキューだろ? やっと飯だ……」
「バーベキューの前にも、ゲームがあるって言ってましたけど」
「げ、マジか。腹減ってるんだからとっとと食わせてくれよ……」
がっくりと肩を落とすヒロトを見て、キリカは小さく笑った。
その表情を見られたくなくて、すぐに俯く。
もし、次の行事も二人組だったら――。
胸の奥に芽生えたそんな願いが、感情を携えるよりも早く。
「じゃあ、次は一緒のチームになれるといいな」
「……えっ」
まるで心の中を読まれたようなタイミングで、ヒロトが言った。
反射的に顔を上げると、頬杖をついてこちらを見る彼と視線がぶつかった。
「き、きっと足手まといですよ、私じゃ」
「いいだろ、別に。勝ち負けより、楽しさ重視で」
そう言ってヒロトは立ち上がり、伸びをする。
陽の光がシャツ越しに透け、背中の影が芝に落ちた。
『自分と一緒なら楽しい』――その言葉の意味を理解するまでに、キリカの胸は何度も跳ねた。
「さっきの謎解きも……明坂とペアになる気がしてたんだけどなぁ」
独り言のようにこぼされた声。
キリカは顔を上げることができず、息を呑んだ。
「……な、なんでですか……?」
「理由はないけど……まぁ、そうなるんじゃないかなーって思っただけだよ」
「ま、ただの予感で終わったけどな」と苦笑が続く。
何気ない言葉。けれど、胸の奥でじんと響いた。
「は、はぁ? 意味わかんないです……」
言葉とは裏腹に、顔が熱を帯びていく。
両手で頬を押さえながら、熱を逃がそうとする。
顔を上げられず、ただ心臓の音だけが耳にうるさかった。
「そろそろ戻っておこうか」
いつもより少しだけ柔らかく響く声。
キリカはその響きを確かめるように立ち上がると、言葉を投げた。
「――ていうか、足手まといのほうを否定してください。もうっ」
強がるように言って、彼の隣に並んだ。
ヒロトが笑い、ふたりの影がゆっくりと寄り添う。
そのまま、しばらく言葉もなく並んでいた。
遠くで誰かの笑い声が上がり、鳥の鳴き声が重なる。
沈黙は気まずさではなく、やわらかく響く余韻のようだった。
その小さな静寂の中で、熱を帯びたキリカの胸の鼓動だけが、まだ確かに時を刻んでいた。
中庭の裏に面したベンチに腰を下ろし、ヒロトはひとり、薄く霞んだ空を仰いでいた。
日差しはまだ高い。
けれど、どこか遠くに風の音が混じり始め、季節がほんの少しだけ傾き始めているのを感じる。
休日にこうして一日中、誰かと同じ空の下にいるのは久しぶりだった。
ヒカリと別れ、恋愛という行事から距離を置くようになって二年。
仕事や飲み会では騒ぐこともあったが、こんなふうに大勢とはしゃぎ、日差しを受けながら時間を共有する感覚は、ずいぶんと遠い記憶のように思えた。
芝生の向こうでは、レクリエーションを終えた社員たちが、木陰でドリンクを手に語らっている。
笑い声が風に流れ、ヒロトのもとまで届くたび、心のどこかが少しだけ温かくなった。
「先輩」
不意にかけられた声に、ヒロトは顔を上げる。
そこには、腰に手を当て、少し拗ねたような表情を浮かべるキリカが立っていた。
「……よう」
「なに黄昏れてるんですか」
呆れたように言いながら、キリカは控えめな動作で隣に腰を下ろす。
わずかに距離を空けながらも、ベンチがわずかに沈むほどの重みが加わった。
「いやー、疲れたなぁって」
「可愛い女の子にベタベタされてるからって、はしゃぎすぎなんですよ」
「なに怒ってるんだよ?」
「怒ってませんけど」
顔を背けた横顔が、うっすらと赤い。
陽のせいか、照れのせいか。ヒロトには、どちらとも取れなかった。
「そういう明坂だって、大はしゃぎしてたって聞いたぞ」
「大はしゃぎ……! まではしてません!」
語気を強めたものの、完全には否定できないらしいその反応に、ヒロトは思わず吹き出す。
「写真撮ったんだろ? 見せてくれよ」
「……いいですけど」
キリカがスマホを取り出し、画面をこちらへ向けた。
そこには、仕事中には見せない明るい顔のチームメンバーたち。
ピースをする佐原、ポーズを取る山崎、そしておまけのように映り込んだ倉本の顔。
「これは、二問目の質問のときに佐原先輩が……」
「こっちは、ラストの謎解きで山崎先輩が詰まって……」
「藤田先輩は、やる気がなかったです」
一枚一枚を指差しながら話すキリカの声が、思いのほか楽しそうで。
ヒロトは相槌を打ちながら、その横顔をじっと見ていた。
つい一カ月前まで、そんなふうに笑う彼女を想像することすらできなかった。
頑なで、気を張って、周りとの距離を測りながら仕事をしていた彼女が――今はこうして笑っている。
「……なんですか」
「なにが?」
「なんか、バカにされてる気がしました」
「バカになんてしてねぇよ」
ヒロトは微笑む。
その表情には、ほんの少しだけ優しさが滲んでいた。
「成長したなーって思ってただけ」
口をついて出たその言葉に、キリカの目が丸くなる。
「……えっ?」
驚きと照れが同時に浮かんだ表情に、ヒロトは苦笑しながら続けた。
「ちょっと前までだったら、会社の連中とこんなふうに笑ってレクなんて想像もしてなかっただろ? 泊まりのイベントも、聞くまでもなく欠席だっただろうし」
「う……」
否定しようとして、言葉が詰まる。
図星だった。
「それに……こうやって俺の隣に座って話すなんてのも、きっとなかったよな」
「……うるさいです」
顔を真っ赤にして、拳を膝の上で握るキリカ。
その横で風がふわりと吹き抜け、ポニーテールをさらう。
「……あぁ、それと。天内とも仲良くやれよ?」
悪意なく放たれたヒロトの一言に、キリカはピタリと顔を上げる。
瞳の奥に、一瞬だけ影が落ちた。
「……それは、先輩次第ですけど?」
「なんだそれ」
ヒロトが笑う。
キリカは「むぅ」と唇を尖らせ、視線を逸らした。
「さて、次はバーベキューだろ? やっと飯だ……」
「バーベキューの前にも、ゲームがあるって言ってましたけど」
「げ、マジか。腹減ってるんだからとっとと食わせてくれよ……」
がっくりと肩を落とすヒロトを見て、キリカは小さく笑った。
その表情を見られたくなくて、すぐに俯く。
もし、次の行事も二人組だったら――。
胸の奥に芽生えたそんな願いが、感情を携えるよりも早く。
「じゃあ、次は一緒のチームになれるといいな」
「……えっ」
まるで心の中を読まれたようなタイミングで、ヒロトが言った。
反射的に顔を上げると、頬杖をついてこちらを見る彼と視線がぶつかった。
「き、きっと足手まといですよ、私じゃ」
「いいだろ、別に。勝ち負けより、楽しさ重視で」
そう言ってヒロトは立ち上がり、伸びをする。
陽の光がシャツ越しに透け、背中の影が芝に落ちた。
『自分と一緒なら楽しい』――その言葉の意味を理解するまでに、キリカの胸は何度も跳ねた。
「さっきの謎解きも……明坂とペアになる気がしてたんだけどなぁ」
独り言のようにこぼされた声。
キリカは顔を上げることができず、息を呑んだ。
「……な、なんでですか……?」
「理由はないけど……まぁ、そうなるんじゃないかなーって思っただけだよ」
「ま、ただの予感で終わったけどな」と苦笑が続く。
何気ない言葉。けれど、胸の奥でじんと響いた。
「は、はぁ? 意味わかんないです……」
言葉とは裏腹に、顔が熱を帯びていく。
両手で頬を押さえながら、熱を逃がそうとする。
顔を上げられず、ただ心臓の音だけが耳にうるさかった。
「そろそろ戻っておこうか」
いつもより少しだけ柔らかく響く声。
キリカはその響きを確かめるように立ち上がると、言葉を投げた。
「――ていうか、足手まといのほうを否定してください。もうっ」
強がるように言って、彼の隣に並んだ。
ヒロトが笑い、ふたりの影がゆっくりと寄り添う。
そのまま、しばらく言葉もなく並んでいた。
遠くで誰かの笑い声が上がり、鳥の鳴き声が重なる。
沈黙は気まずさではなく、やわらかく響く余韻のようだった。
その小さな静寂の中で、熱を帯びたキリカの胸の鼓動だけが、まだ確かに時を刻んでいた。
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