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〇2章【波乱と温泉】
5節~閑話~ 3
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休憩時間も残り少なくなってきたころ。
バーベキュー会場の中庭には、徐々に人の姿が戻り始めていた。
機材の搬入やテーブルのセッティングを進めるスタッフたちの姿が、ゆるやかな午後の陽射しに照らされている。
その光景を眺めながら、ヒロトは建物の縁側にもたれ、ぼんやりと息をついた。
「随分お疲れみたいね、中町くん」
声の方を振り向くと、麻衣が紙コップを両手に持って近づいてきた。
一つをヒロトに手渡し、何の遠慮もなく隣に腰を下ろす。
髪を後ろでざっくりまとめ、首筋に落ちる数本の髪が風に触れて揺れた。
仕事中よりも柔らかく、少しだけ年下に見える横顔だった。
「仕事以外で体を動かすと、こんなに疲れるんだな」
「なにそれ。オジサンみたいなこと言わないの」
呆れたように笑う麻衣。
その笑い声と一緒に、微かな柑橘の香りが風に乗って流れる。
「そっちこそ、休みの日にまで裏方仕事なんて大変だろ」
「まぁね。でも、私たちの仕事はここまで。これからは参加者側に回れるんだから」
そう言って、麻衣は両腕をぐっと上へ伸ばした。
その伸びやかな仕草に釣られるように、ヒロトも息を吐く。
「そりゃいい。なら、俺のこともただの肉焼き係にしてくれ」
「残念、まだ余興があるみたいよ」
「……準備してる側のほうがノリノリって、どういう会社だよ」
ヒロトが肩を落とすと、麻衣は笑いながら彼の横顔をちらりと覗き込む。
その視線に、どこか責めるような色が混じっていた。
「あ、そうだ。見たわよ、中町くんの楽しそうな写真の数々」
ヒロトの眉間にしわが寄る。
「自撮りに、質問ゲームに、おんぶ……あーあ、ヒカリさんには内緒にしないとねぇ」
「……全部お前らが用意したイベントだろ」
「でも、実行したのはあなた自身でしょ?」
麻衣の勝ち誇ったような笑みが、ほんの少し刺さる。
ヒロトは返す言葉を失い、大げさにため息をついた。
「まぁ、いいんじゃない? 最近の中町くん、仕事しかしてない感じだったし。たまには何も考えず振り回されるのも悪くないでしょ」
「ヒカリさんには黙っておいてあげる」。貸しを作ったかのように、彼女は指を一本立てる。
その仕草にヒロトは肩をすくめて笑ったが、胸の奥にかすかな波紋が広がるのを感じた。
麻衣が自分とヒカリのことを知ったら、どんな反応をするのだろう――
そんな想像をしかけて、すぐに打ち消した。
「でも、よかったと思うよ」
唐突に落ち着いた声で、麻衣が言った。
その視線は遠くを見つめていて、どこか感慨のようなものを含んでいた。
ヒロトが首を傾げると、麻衣は視線の先で微笑んだ。
「だいぶ馴染んでるじゃない、あの子」
名前を出されずとも、それが誰のことを指しているのかはすぐに理解できた。
頷きながら、ぽつりと呟く。
「明坂は、周りから見ても楽しそうにしてるみたいだしな。ほんと、安心したよ」
言葉を口にしながら、ヒロトの声はどこか柔らかかった。
その変化を感じ取ったのか、麻衣はほんの一瞬だけ微笑んだ。
「修羅場をくぐり抜けた先輩としては、ちょっと寂しかったり?」
「……ねぇよ」
否定の言葉に、麻衣は何も返さず、ただ穏やかに目を細めた。
その沈黙が、彼の心の柔らかな部分を静かに照らす。
――と、そのとき。
ヒロトの視線の先、芝生の中央にももの姿が見えた。
数人の男性社員に囲まれ、明るく笑っている。
その笑顔は、太陽の光の中でまるで一枚の絵のように鮮やかだった。
だが、ヒロトはなぜか目を逸らせなかった。
輪の中心にいる彼女と周囲との距離が、少し近すぎるように見えて。
胸の奥に、針の先で触れられたような違和感が灯る。
「……」
何に反応しているのか、自分でも分からない。
ただ、穏やかなはずの空気に、ひと筋のざらつきが混じった。
「ちょっと似てる、って思った?」
「……は?」
探るような声が耳元に落ちる。
気づけば麻衣が前のめりになり、いたずらっぽくこちらを覗き込んでいた。
「天内ちゃん。タイプは違うけど、惹き寄せる雰囲気があるでしょ。無意識なのか、狙ってるのか」
顔を向けると、彼女は顎に指を添えて言う。
「ああいう態度を取られると、相手も勘違いしやすいよね」
ヒロトは否定も肯定もせず、静かに視線を戻す。
笑っているももの姿は、まるで手のひらからするりと逃げる蝶のようだった。
一歩寄れば一歩離れる、計算されたような自然さ。
その自由さが、どこか危うくも見えた。
「ま、明坂ちゃんより、ずっと器用ね」
麻衣が静かに言う。
手元のバインダーを閉じる音が、軽く響いた。
「だからって、放っておいていいわけでもないけど……その前にお肉タイムだ」
そう言って、彼女は勢いをつけて立ち上がる。
ヒロトもそれに続いて、ゆっくりと腰を持ち上げた。
「あれだけ可愛くて、無防備に見えれば、男は寄ってくるよねぇ」
麻衣が呟くように言い、バシンとヒロトの背を叩く。
「危ないと思ったら、ちゃんと助けてあげてね。先輩?」
「……はいはい」
麻衣が離れていく。
残されたヒロトは、もう一度ももの姿を見やった。
輪の中心で笑うその横顔に、言葉にならない違和感が滲む。
胸の奥に残るその小さなざらつきだけを抱えながら、彼は、賑やかさの中へと歩を進めた。
――焼ける匂いと、笑い声と。
どこか現実よりも遠い午後の熱が、ゆるやかに広がっていった。
バーベキュー会場の中庭には、徐々に人の姿が戻り始めていた。
機材の搬入やテーブルのセッティングを進めるスタッフたちの姿が、ゆるやかな午後の陽射しに照らされている。
その光景を眺めながら、ヒロトは建物の縁側にもたれ、ぼんやりと息をついた。
「随分お疲れみたいね、中町くん」
声の方を振り向くと、麻衣が紙コップを両手に持って近づいてきた。
一つをヒロトに手渡し、何の遠慮もなく隣に腰を下ろす。
髪を後ろでざっくりまとめ、首筋に落ちる数本の髪が風に触れて揺れた。
仕事中よりも柔らかく、少しだけ年下に見える横顔だった。
「仕事以外で体を動かすと、こんなに疲れるんだな」
「なにそれ。オジサンみたいなこと言わないの」
呆れたように笑う麻衣。
その笑い声と一緒に、微かな柑橘の香りが風に乗って流れる。
「そっちこそ、休みの日にまで裏方仕事なんて大変だろ」
「まぁね。でも、私たちの仕事はここまで。これからは参加者側に回れるんだから」
そう言って、麻衣は両腕をぐっと上へ伸ばした。
その伸びやかな仕草に釣られるように、ヒロトも息を吐く。
「そりゃいい。なら、俺のこともただの肉焼き係にしてくれ」
「残念、まだ余興があるみたいよ」
「……準備してる側のほうがノリノリって、どういう会社だよ」
ヒロトが肩を落とすと、麻衣は笑いながら彼の横顔をちらりと覗き込む。
その視線に、どこか責めるような色が混じっていた。
「あ、そうだ。見たわよ、中町くんの楽しそうな写真の数々」
ヒロトの眉間にしわが寄る。
「自撮りに、質問ゲームに、おんぶ……あーあ、ヒカリさんには内緒にしないとねぇ」
「……全部お前らが用意したイベントだろ」
「でも、実行したのはあなた自身でしょ?」
麻衣の勝ち誇ったような笑みが、ほんの少し刺さる。
ヒロトは返す言葉を失い、大げさにため息をついた。
「まぁ、いいんじゃない? 最近の中町くん、仕事しかしてない感じだったし。たまには何も考えず振り回されるのも悪くないでしょ」
「ヒカリさんには黙っておいてあげる」。貸しを作ったかのように、彼女は指を一本立てる。
その仕草にヒロトは肩をすくめて笑ったが、胸の奥にかすかな波紋が広がるのを感じた。
麻衣が自分とヒカリのことを知ったら、どんな反応をするのだろう――
そんな想像をしかけて、すぐに打ち消した。
「でも、よかったと思うよ」
唐突に落ち着いた声で、麻衣が言った。
その視線は遠くを見つめていて、どこか感慨のようなものを含んでいた。
ヒロトが首を傾げると、麻衣は視線の先で微笑んだ。
「だいぶ馴染んでるじゃない、あの子」
名前を出されずとも、それが誰のことを指しているのかはすぐに理解できた。
頷きながら、ぽつりと呟く。
「明坂は、周りから見ても楽しそうにしてるみたいだしな。ほんと、安心したよ」
言葉を口にしながら、ヒロトの声はどこか柔らかかった。
その変化を感じ取ったのか、麻衣はほんの一瞬だけ微笑んだ。
「修羅場をくぐり抜けた先輩としては、ちょっと寂しかったり?」
「……ねぇよ」
否定の言葉に、麻衣は何も返さず、ただ穏やかに目を細めた。
その沈黙が、彼の心の柔らかな部分を静かに照らす。
――と、そのとき。
ヒロトの視線の先、芝生の中央にももの姿が見えた。
数人の男性社員に囲まれ、明るく笑っている。
その笑顔は、太陽の光の中でまるで一枚の絵のように鮮やかだった。
だが、ヒロトはなぜか目を逸らせなかった。
輪の中心にいる彼女と周囲との距離が、少し近すぎるように見えて。
胸の奥に、針の先で触れられたような違和感が灯る。
「……」
何に反応しているのか、自分でも分からない。
ただ、穏やかなはずの空気に、ひと筋のざらつきが混じった。
「ちょっと似てる、って思った?」
「……は?」
探るような声が耳元に落ちる。
気づけば麻衣が前のめりになり、いたずらっぽくこちらを覗き込んでいた。
「天内ちゃん。タイプは違うけど、惹き寄せる雰囲気があるでしょ。無意識なのか、狙ってるのか」
顔を向けると、彼女は顎に指を添えて言う。
「ああいう態度を取られると、相手も勘違いしやすいよね」
ヒロトは否定も肯定もせず、静かに視線を戻す。
笑っているももの姿は、まるで手のひらからするりと逃げる蝶のようだった。
一歩寄れば一歩離れる、計算されたような自然さ。
その自由さが、どこか危うくも見えた。
「ま、明坂ちゃんより、ずっと器用ね」
麻衣が静かに言う。
手元のバインダーを閉じる音が、軽く響いた。
「だからって、放っておいていいわけでもないけど……その前にお肉タイムだ」
そう言って、彼女は勢いをつけて立ち上がる。
ヒロトもそれに続いて、ゆっくりと腰を持ち上げた。
「あれだけ可愛くて、無防備に見えれば、男は寄ってくるよねぇ」
麻衣が呟くように言い、バシンとヒロトの背を叩く。
「危ないと思ったら、ちゃんと助けてあげてね。先輩?」
「……はいはい」
麻衣が離れていく。
残されたヒロトは、もう一度ももの姿を見やった。
輪の中心で笑うその横顔に、言葉にならない違和感が滲む。
胸の奥に残るその小さなざらつきだけを抱えながら、彼は、賑やかさの中へと歩を進めた。
――焼ける匂いと、笑い声と。
どこか現実よりも遠い午後の熱が、ゆるやかに広がっていった。
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