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八百屋の女性と小説と
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桜の花びらが舞う春の日。
広人は、とある八百屋の前を通りかかった。
見た目は普通の八百屋で、奥の日陰のレジ近くで読書をしている若い女性がいる。
客はおらず、エプロンをしてお下げ髪で円眼鏡をかけた店番の女性は小さな本を読んでいる。小説なのだろうか、文庫本サイズでブックカバーがかけられタイトルは見えないが、たまに表情を変えながら熱心に読み込んでいた。
何となく気になり、しばらく遠目に見ているとこちらに気づき、
「あら、いらっしゃい」
本をゆっくり閉じてそっとレジ横に置き、こちらに笑顔で挨拶をした。僕はあわてて、
「あ、いえ、買い物に来たわけでは」
しどろもどろに返事をする。女性はおっとりとした口調で、
「あら、そうなの? 最近お客さんが減っちゃってちょっと期待しちゃった」
と、苦笑い。僕は当初から気になっていた本について、たどたどしくたずねる。
「あの、さっき読まれてた本ってなんですか? あ、いえ、ふと気になってしまったもので。すいません」
すると女性はクスクスと笑いながら、
「ふふ、そんなにかしこまらなくてもいいわよ。ただの恋愛小説よ。この作家さんの作品が好きなの。結構長編で読みごたえあるし、私の好きなシチュエーションがよく出てくるから毎作欠かさず買っているのよ」
「そうなんですね。ちなみにどんなシチュエーションが好きなんですか?」
「あら?お姉さんの好みに興味があるの?」
ここにきて初めて、自分がかなり踏み込んだ質問をしていることに気づく。
「あ、いえ、その、なんと言うか今まで人が熱心に本を読んでる姿ってあまり見たことなくて。僕は飽きっぽいので長編とか、恋愛小説とかぜんぜん読んだことなくて。えと、その」
必死になんとかしようとするが、どうもうまい言い訳が出てこない。女性はゆっくりと椅子に腰を下ろし、本をやさしく手に取る。その所作から本を大切にしているという印象が伝わってくる。
「ふふ、あなたって面白いのね。こんな小さな八百屋の店番が読んでる本に興味を持つなんて。好きなシチュエーションはいろいろあるけど少し教えてあげる。それはね、今日みたいに桜の花びらが舞う通学路で、幼なじみの高校生の男女が自転車を押して歩いてるシーンよ。女の子がもう桜の花もおしまいか~って残念そうにため息つくところってなんだかありそうじゃない? ほらここから恋ばなに発展するとか。それとね他には……」
女性はキラキラと目を輝かせながらいくつもシチュエーションの話している。僕もこの手のベタな展開の話は好きなのでうなずきながら聞いていると女性は、はっ、として、
「ごめんなさい。私、本のことになるとつい夢中で語っちゃうの。悪い癖ね」
苦笑いする。僕は両手と首を横に振りつつ、
「いえ、そんなに夢中になれることがあるのが羨ましいです。僕は何もかも中途半端で。なにかをやりとげたことがなくて…」
「あら、じゃあ一度この本読んでみる?」
「え? あ、はい」
戸惑いながらも返事をしてしまう。女性は嬉しそうに、
「じゃあ、貸し出し料は、一冊、お野菜一つね」
「えっ?」
続けた言葉にさらに戸惑う。女性はちょっと意地悪そうな笑顔をしながら、
「商売人を甘く見ちゃダメよ?」
クスクスと笑う。その笑顔がなんとも可愛らしく、僕は引き込まれてしまうのだった。
「じゃあ、じゃがいもひとつください」
並べられたところから選ぼうとしていると、
「はい、どうぞ」
形の一番良いじゃがいもの入った袋を渡してくれた。
「あの、お代は……」
「それは返してくれる時でいいわ。無理矢理買わせるのもなんだし、初回はサービスよ。でも、ちゃんと本は返してね? お気に入りなんだから」
「わかりました、かならず返しに来ます」
なんだか知らない間に本を読むことと読み終わったら野菜を買うことが決まっていた。まぁいいか、と思いつつ自宅に帰る。
家に帰ると母が、
「あら、いつもより遅かったのね」
意外そうに尋ねてくる。
「うん、ちょっとね。あ、じゃがいも買ってきたけど夕食に使う?」
「なんでまた、じゃがいもひとつだけ? まぁ、そのうち使うから置いといて」
適当にごまかしつつ袋のじゃがいもを置く。本を抱えて自分の部屋にこもると読み始めた。
物語の冒頭は幼なじみの幼少期から始まっていた。
男の子とふたつ年上の女の子と公園で遊んだり、そういうありふれた日常か描かれている。恋愛小説など読んだこともないので、とにかく場面を持てる限りの想像力で頭に浮かべる。
すると、なぜか不思議とすんなりイメージでき、まるで目の前にその光景が広がっているかのようだ。本の未知の魅力を感じつつ読んでいるとキッチンの方から、
「ご飯よ~、早くいらっしゃい」
母の呼ぶ声がした。なんだか浸っている世界から現実に引き戻された気がしたが、夕食を食べに食卓へ向かう。早々に食べ終えてまた部屋に向おうとすると、
「宿題とかはやったの?」
また、いつもの母からの世話焼きが始まる。
「ごめん。いまちょっとやりたいことがあって、終わったらやるから」
と、高校の宿題を後回しにしつつ、本の世界に戻る。
気がつくと二十三時をまわっていて、しまったと思いつつ、あわてて借りた本をそっと置くと、宿題に取りかかるのだった。
翌朝、いつもの時間にアラームが鳴り机の上に置いた眼鏡をかけ、学校に向かう。
鞄に借りた本を休み時間に読もうと大切にしまい満員電車に揺られていく。
昼放課--
弁当を食べ終えると鞄から本を取りだし校舎の屋上で読み始める。日射しがぽかぽかと気持ちよく読書をするには最高の天気だ。
僕はいつの間にか、この本の中の世界に引き込まれている。
幼なじみ二人の物語は日常の描写がほとんどだが、時折でてくる淡い恋心の表現が、なんとも良いアクセントになっていた。想像の中の世界に感情を重ねていく楽しさを、昼放課の間たんのうして、午後の授業にむかう。ただそれだけなのに、退屈な授業が楽しく思えてくる。
夢中になれるってこんなにも素晴らしいことなのかと実感して、帰りに昨日の八百屋に行ってみる。
相変わらす客はおらず、お下げのみつあみの女性が穏やかな表情で本を読んでいる。今度は僕の方から小声で、
「あの、ニンジンと玉ねぎください」
と声をかけた。女性はなにか聞こえたことに、はっとしつつ、僕の方を見て、
「あら、あなた昨日の。ごめんなさい、また本に夢中になってしまってたわ」
「ニンジンと玉ねぎを一つずつください。できたら本もお借りしたいです」
「え、もう一冊読んじゃったの⁉」
「さすがにそこまでは、でも三分のニは読みましたよ」
「はやいわね~。それじゃあニンジンと玉ねぎを、はい。そこまで読んだら続き気になるよね。わかったわ、二巻目も入れておくね」
大切そうに野菜と本を入れようとする。僕はあわてて
「あ、大切な本が傷むといけないので本は別にしてください。ちゃんとしたブックカバーも買いましたので」
帰りに仕入れたブックカバーを取り出すと、女性はなんだか申し訳なさそうに、
「そうなんだ。わざわざありがとう」
「いえ、大事な本をお借りしてるんですから、これくらいは」
「じゃあ、ニンジンと玉ねぎそれぞれ百円ね。あ、もし一巻読み終わったら、感想聞かせてほしいな」
女性は笑顔でウインクして、袋と本を手渡す。
この笑顔を見るたびに僕は今まで抱いたことのない幸福な気持ちになるのだった。
これは恋なのか? いやいや相手の名前すら知らないんだぞ、などと自問自答していると女性は顔を覗きこんで
「どうしたの? ぼーっとしちゃって。大丈夫? 休んでいく?」
と、聞いてくれる。顔が真っ赤になり、くらくらして、そうしたいのはやまやまなのだが、これが全て勘違いだとすれば、ものすごく恥ずかしい。ぐるぐると考えていると、本当に視界が回ってきて、次の瞬間、僕は漫画のようにその場に倒れた。
端からみれば八百屋の前て店番と話している男子高校生がいきなり倒れたのだ。
「ちょっと!ねぇ、大丈夫……」
遠退く意識の中で、女性の声が響く。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
おでこにひんやりとした物が乗っている感覚で、目が覚めた。和室の天井に電気がついている。起き上がろうとすると、
「ちょっと、まだ寝てないと。あなたいきなり倒れたのよ? 大事だといけないから、悪いとは思ったけど学生手帳見せてもらって連絡しておいたわ」
女性の優しさに感謝しつつも、この言葉で僕の頭にふたつのパターンが浮かぶ。
学校に連絡が行き、明日先生に心配される。
こちらはまだましだ。
自分の家に連絡が行き、さんざん親に冷やかされる、もしくは、あれやこれやと病院のはしごに行かされる。
これはもう地獄でしかない。
はぁ、とため息をつきつつ一応確認する。
「えと、ここは……」
「うちのリビングよ。顔が真っ赤になって倒れたから、こんな時期に熱中症なのかな、とも思ったけど。頭に氷枕敷いて、濡れタオル乗せて、二時間くらい休ませていたのよ」
「でも、どうやって僕を運んだんですか? 結構体重ありますけど」
「それは、ちょっと申し訳なかったけど、引きずってなんとか。大変だったんだから、もう」
女性はぷうっとふくれて口を尖らせた。
「すいません」
謝ると、女性はぷっと吹き出して、
「冗談よ。からかってみただけ。あなた、素直でちょっとかわいいわね。本当は御近所さんに頼んで運ぶの手伝ってもらったの」
「そうだったんですね」
安堵と少しの残念な気持ちが入り交じりつつ、返事をする。
「もう少しゆっくりしていきなさいね。私はお店の片づけしてくるから」
「あ、はい」
そう言うと女性は店の方へと降りて行った。
まだぼーっとしているが、横になったまま周りを見渡す。大きな和箪笥が置かれ、その上には日本人形が乗っている。反対側には障子があり、店の裏の中庭に続いている。ここでふと気づくが、夜になっているが女性の家族が帰っていない。共働きなのだろうか。いや、ここは八百屋だが。そうこうしているうちに店の片づけを終えた女性が戻ってくる。
「あなた、お腹減ってない?」
唐突に聞かれて、
「あ、はいちょっと空いてます」
「よかったらうちで食べてく?あんまりたいそうなものはないけど」
面食らうが、なんとも願ったり叶ったりの状況だ。この場の勢いで聞いてみる。
「あの、お名前教えていただいてもいいですか?」
「ああ、そっか教えてなかったね。私は沙苗。時田沙苗よ」
「僕は吉田広人です」
「へぇ、広人君ね。いい名前だと思うよ。広人君は苦手な野菜とかある?」
「いえ、好き嫌いは無いので大丈夫です」
「じゃあちょっと待っててね」
沙苗さんは、今度は店と違う入り口から奥のキッチンへ入って行く。
家族以外の料理など今まで食べたことがあっただろうか。
ドキドキしながら料理の完成を待つ。包丁を使うトントンとリズムのよい音が聞こえ、鍋を取り出しているのだろうか金属が軽くぶつかる音がする。そのうちに醤油のいい香りがしてきて、しばらくすると、キッチンから沙苗さんが顔を出しにっこりと笑い、
「はい、お待たせ~」
と、料理を運んでくる。季節の野菜をふんだんに使った煮物とサラダ、肉野菜炒めが食卓を彩る。僕の方にはちょっと大きめの茶碗にご飯が大盛りにつけてあり、かなり豪華な手料理が目の前に広がる。
「うわぁ、美味しそう。いただきます!」
「ふふ、あわてなくてもちゃんと二人分あるから。いただきます」
僕と沙苗さんは手を合わせて食べ始める。
「うん、美味しいです! こんな美味しい野菜料理初めて食べました!」
「もう、大げさね。どこにでもある煮物よ?」
ちょっと照れたように沙苗さんは謙遜する。
「本当です! なんていうかすごく家庭的で温かみのあるご飯です。うちは最近スーパーのお総菜ばっかで」
「きっとお母さんも忙しいのよ。でも、喜んでもらえてよかったわ」
沙苗さんは嬉しそうに微笑むが、少し寂しそうな表情をして箸を止めた。
「こうやって誰かと食卓を囲むのいつぶりかしら……」
「え、普段お父さんやお母さんは居ないんですか?」
と、尋ねると、
「父も母もかなり前に亡くなってね。今は形見のこのお店に一人なの」
「そうだったんですか……。すいません、無神経なこと聞いて」
すると、首を横に振って、
「ううん、いいのよ。もう慣れたわ。それに常連さんになってくれそうな人も見つかったし、ふふっ」
その言葉にドキッとして、それは僕のことで合っているのかと戸惑いながら、
「なら、よかったです」
と、また箸を進める。それから他愛もない日常の会話をしながら食べ終えて、
「ご馳走様でした」
手を合わせて箸を置く。
「はい、お粗末さまでした」
と、沙苗さん。ここでちょっといぶかしげな表情をして、
「一応聞くけど、わざとじゃないのよね?」
僕は何を聞かれているかさっぱりわからず、きょとんとして尋ねる。
「なんのことですか?」
「ううん、思い過ごしみたい」
よくわからないが、沙苗さんは納得したみたいなので、
「じゃあ、遅くなってますのでそろそろ帰ります。いろいろありがとうございました。またお店にうかがいますね」
「気をつけて帰ってね。もう真っ暗だから」
店の勝手口から見送ってもらい、家に帰る。
駅から乗ってきた自転車のかごに、野菜の袋と本が大切にしまわれた鞄をのせて暗い夜道を走る。夜風が心地よく、通いなれた道なのに新鮮な風景に見えて楽しい。
家に着くまで幸せな気持ちでいたが、玄関に立った時に思い出す。
もしかしたら沙苗さんから連絡が来ているかもしれないということを。
恐る恐る玄関を開けて、
「ただいま~」
細りそうな声で入る。リビングから母が出てきて、
「遅かったじゃない。心配したのよ? どこ行っての?」
よかった、家には連絡来ていない。ほっとしつつも、それを表情に出さないように、
「あー、うん、ちょっと今日は部活の居残りがあって。これかはちょくちょくあるかも」
「あらら、レギュラー争いね。県大会もうすぐだったわね」
嘘に多少の罪悪感を感じながら、部屋に戻り本の一巻の残りを読み始める。
しばらく読み進めると、男の子が小学校五年生になって幼馴染みの家に遊びに行くシーンが出てきた。
女の子の方の家は農家で、農場で遊んでいると、そのうちに男の子が遊び疲れて寝てしまう。目が覚めると夜になっていて、女の子の家族と食事をすることになる。食卓には新鮮な野菜料理が並べられ、男の子はそれを食べてベタ褒めするのだった。一緒にいただきますをして互いの家族の話をして一緒ご馳走さまをする。
ここにきてようやく、あれ? と気づく。さっきまでの僕と沙苗さんの状況とほぼ同じではないか。なるほど、道理でわざとじゃないかを聞くはずだ。僕が本の流れになぞらえて芝居をしている可能性は考えて当然だろう。しかし、あれは僕の素直な感想で偽りないものだった。それに僕はこの小説を読んだことがない。知らないことは芝居はできないな、などと自分を納得させながら、夜更けまで小説を読むのだった。
翌朝、僕が目覚ましのアラームに気がつくとすでに五、六回スヌーズがかかった後だった。まずい遅刻だ。
慌てて階段を駆け降り自転車にまたがって、
「行ってきまーす」
と、家を飛び出す。
ひたすら自転車をこいで駅にたどり着くと、また間の悪いことに、ちょうど電車がホームを出て行く。
はぁ、とため息をついては改札をくぐり、ホームでかばんの奥の、少し使いなれてきたブックカバーにてを伸ばす。本はきれいにしまわれていて、折り目ひとつ付いていない。
電車を待つ間だけと読み始める。
物語は二巻目に入っており、二人は高校一年生と三年生になっていた。春の終わりの桜が舞い散る時期、ちょうど今頃の描写だ。桜並木の下を自転車を押しながら二人は歩き
「あーあ、今年の桜も、もうおしまいか~」
三年生になったばかりの女の子が、ため息をつく。
あ、ここ沙苗さんの好きなシチュエーションだ。いつも以上に想像力を働かせてイメージする。女の子は男の子をチラッと見ながら、
「今年の夏は海に行きたいな~」
独り言を言う。男の子は鈍感に、
「行けばいいじゃん。誘ってくれる友達いるでしょ?」
と言う。女の子はむくれて、
「違うの。彼氏と行きたいの~」
ごねてみせるが男の子は、
「紗菜は可愛いから夏までには彼氏出来るって」
と知らぬ顔。あれ? 今まで読んできて、女の子の名前って、ここで初めて出てきた? それともずっと意識していなかったのか? とりあえず、会話の続きを読む。紗菜は、
「そういう博こそ彼女いないの? せっかく高校入ったのに」
ちょっと探るように聞く。紗菜と博、何となく引っ掛かりつつも読む。
「いないよ。まだ入学したばっかだよ? これからかな。でも、クラスには僕の好きなタイプの子はいないかな」
紗菜は興味深そうに食いつく。
「え、博ってどんなタイプの子が好きなの?」
「うーん、言葉で説明するの難しいな。紗菜みたいな元気な子がいいかな。おおざっぱだし」
「えー、なにそれ。私が雑だって言いたいの~?」
紗菜は口ではとがってみせたが、顔をちょっと赤らめて嬉しそうだ。そして、
「私も、博みたいにきちっとした人がいいな。あーあ、どこかにフリーでいないかな~」
さりげなく言う。博はとことん鈍感なようで、
「学年中探したら、まだいるんじゃない?」
と淡々としている。博そうじゃない。紗菜は博が好きなのだ。早く気づけ。とやきもきしながら読んでいる。しばらくすると、ホームのアナウンスが聞こえ、
「九時三十八分発、急行電車がまいります」
と伝える。うん、八時三十八分の、うん? 九時? はっ、として時計を見ると九時三十七分だ。かれこれ、一時間も空想の世界に浸ってしまっていた。
完全に遅刻が確定したら逆に落ち着いて、ゆっくり急行電車に揺られて行く。学校に着くと、表門は閉められていたので教員通用口から入る。すると、一限目の授業を終えた担任と出くわす。気まずい感じで会釈すると、
「吉田、おはよう。もう大丈夫なのか? 遅れるなら連絡は入れろよ?」
挨拶と心配の言葉をかけてくれた。沙苗さんは学校に連絡してくれたんだな、と感謝しつつ、
「おはようございます。もう大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
一礼して教室へ向かう。
昼放課には、ぽかぽかした屋上で、また本の世界に入ってゆく。朝に読みかけた二人のやり取りが授業中も気になって仕方なかったのだ。
栞の挟んであるページを開き、またイメージを膨らませる。あの後、紗菜と博は帰り道のカフェでお茶をしている。紗菜はチョコパフェをつつきながら博の方を不満げに見ていた。その視線を感じたのか、
「ん? 紗菜どうしたの?」
「なんでもない」
パフェを一口食べながら、ぷいっと横を向いてしまう。博は首をかしげながら、
「なんか気にさわること言った?」
と聞く。紗菜は、
「なにか心当たりがあるなら、海にでもつれていきなさいよね」
ぼやかしながら博を海に誘う。博は困惑しながらも、
「うん、いいけど。それで機嫌直るなら」
成り行きで承諾する。紗菜の表情がパッと明るくなり、
「本当? やった。約束だからね」
と、大喜び。スマホのスケジュール帳を開いて、
「ねね、いつにしようか? やっぱり前半は混むよね。あ、でも、後半は宿題とかあるし」
はしゃぎながら予定を考えている。
「じゃあ、えっと……」
ここで、現実世界に引き戻す、昼放課終わりのチャイムが鳴る。
僕はそっと本閉じて教室への階段を降りて行く。あーあこれからがいいところなのに、とやや不満げに教室のドアを開け、かばんに本をしまって席につく。午後の授業があまり身に入らないまま部室に向かい、ロッカーを開けると、部員の噂話が聞こえてくる。
「なあ、おまえあの店みたか?」
「ああ、見た見た。八百屋なのに昼間も夕方も客全然いないのな。そのうちつぶれんじゃないか?」
今までなら、さらりとやり過ごしたはずの会話だがとても腹が立った。恐らく沙苗さんの八百屋だろう。この二人も帰りに自分と同じ駅で降りるのを見たことがあるからだ。しかし、ここで僕が食ってかかるわけにもいかないのでぐっとこらえて、聞こえないふりをする。イライラしながら部活を終えて電車に揺られ、帰りにまた沙苗さんの八百屋に向かう。
心のなかではお客がいてほしい気持ちと今日もゆっくり話したい気持ちが混ざりつつ、店に着く。お客は……、やはりいない。店の奥のレジ近くのいつもの場所で沙苗さんは本を読んでいる。店の入り口で、
「こんにちは。沙苗さん」
挨拶すると沙苗さんは本を閉じて、
「あら、いらっしゃい。ふふ、毎日ご贔屓にしてくれてありがとう」
にっこり微笑む。僕はかばんから本を取りだし、
「あの、一巻読み終えたので、お返ししに来ました」
「あら、そうなのね。どうだった?」
と、聞いてくる。昨日のこともあり、
「はい、とても面白いです。あ、でも昨日のはわざとじゃなくて、まだそこまで読んでなかったので、本当に偶然です」
釈明する。沙苗さんはくすくすと笑いながら、
「そんなに必死にならなくても大丈夫よ。私が勘違いしたんだから。でも、本の中の世界をちょっと体験できたのは嬉しかったわ」
と、喜んでくれた。それが僕はたまらなく嬉しかった。なんだか二人だけの秘密を共有できたみたいな気がしたのだ。沙苗さんに、
「今まで恋愛小説を読んだことなかったんですけど、この作品、なんだか簡単にイメージできてて読みやすいです。感情移入もしやすくて。実は今日も二巻目読んでたら電車逃しちゃいました。あはは…」
「あらあら、大変だったわね。でもこの作品気に入ってくれてよかったわ。二巻目に入ったってことはあのシーンまで読んだ?」
沙苗さんは、わくわくしながら聞いてくる。
「桜並木のシーンですよね。紗菜の気持ちに早く気づけ~って、もどかしいですね、本当に。僕が博なら絶対わかりますよ」
「でしょ? 紗菜から告白してもいいんだけど、やっぱり博に気づいてほしいよね。この後の海でまた新しい展開になるんだけど」
「あ、すいません。まだその先は読んでなくて」
沙苗さんは慌てて、
「あら、ごめんなさい。ついつい好きなこと話しすぎてしまうわ」
「いえいえ、早く読んで沙苗さんと一緒に話せるようにしますね」
僕は満面の笑顔で返す。沙苗さんは嬉しそうに、
「うん、楽しみにしてるわね」
微笑む。僕は思い出したように、
「あ、今日はピーマンと玉ねぎください」
「あら? 今日は本は貸してないから無理に買わなくてもいいのよ?」
不思議そうに聞いてくる。
「いえ、今日の夕食で使うので必要なんです」
「そうだったの。じゃあ一番良いの選ぶわね」
沙苗さんは嬉しそうに野菜を袋に詰める。そして、
「毎日お買い上げありがとう」
と笑顔で渡してくれた。その笑顔が、商売用の笑顔ではない気がするのは気のせいだろうか。心の中でそんなことを考えながら、店を後にして帰り道の自転車を飛ばして行く。
家に着くと、
「あら、今日は早かったのね。部活は居残りなかった?」
「うん、今日は早めに終わったから。じゃあ、ちょっと部屋にいるよ」
階段を登ろうとしているところへ、
「広人、あなた最近ずっと部屋にいるわね。なにか悩み事でもあるの?」
「ううん、なにもないよ?」
質問に答えてふと、なにもないのか? 恋の悩みがあるのでは? いや、しかし親にこんな話をするのはいかがなものか。
思案しながら部屋のドアを開ける。ベッドに転がりぼすっと枕に顔を埋めて、はぁとため息。頭の中には沙苗さんのあの笑顔が浮かぶ。そうしているだけで幸せを抱きしめている感覚に満たされるのだった。そんな幸福感の中起き上がり本の続きを読み始める。確か紗菜がスケジュールを決めようとしていた辺りからだ。
「じゃあ、えっと八月九日にしない?」
「いいよ。お盆前だから混まなそうだし」
博は、笑顔で予定をスマホに入れる。紗菜は嬉しそうに顔を赤らめながら、
「よかった。この日に決まって」
同じようにスマホに予定を書き足して行く。博がふと、
「この日ってなんかあったような……。なんかの記念日だったっけ?」
紗菜は一瞬驚いてから、嬉しさと意地悪さが混じった顔で、
「その日まで内緒っ」
と、残ったパフェをたいらげ、
「予定も決まったし帰ろっか」
博の腕を引っ張り、店を出る。
桜並木の時とは大違いの、ルンルンで鼻歌を歌いながら紗菜は博と帰り道を自転車を押して帰るのだった。
ここで場面が一区切り付くので時計に目をやると、夕食直前の時間になっていた。ベッドの上に置いてある野菜の袋を思い出し、慌てて階段を駆け降りて母に尋ねる。
「母さん、夕食の準備終わった?」
「今、仕上げにかかっているからもう少し待ってなさいね」
「そうじゃなくて、ピーマンと玉ねぎって今から使う?」
母はちょっと不機嫌な顔をしながら、
「ここから間に合うわけないじゃない。とりあえず明日使うから、テーブルの上においといて」
沙苗さんに申し訳ない気持ちになりながら、買い物袋をテーブルに置く。リビングでは、仕事から帰った父が夜のニュースを見ていて僕は夕食までの間、父の横でテレビを見て過ごした。食卓の準備が整い三人で食事を始める。母が、
「最近、広人部活を頑張ってるみたいよ。あとお料理に興味出てきたのか野菜を買ってくるの」
と、父に話す。普段無口な父だが感心して、
「ほお、いいことじゃないか。大学は一人暮しを考えているのか?」
この話に題乗り気だ。
「うん、まぁ。まだどこ、って決めてはないんだけどね」
一応、話を合わせておく。父は頷きながら
「何事も経験だからな。今のうちに、母さんに料理を習っておくんだぞ」
「わかった。母さん、今日買ってきた食材で、なにが作れるかな?」
母に聞くと、
「そうね。昨日のはほとんど使っちゃったから、ニンジン少しとピーマンと玉ねぎね。まずは野菜炒めから作ってみましょうか」
「うん、じゃあ明日帰ってきたら教えて」
母は腕捲りして、
「任せて。母さんの味をちゃんと教えてあげるわね」
と、意気揚々としている。いずれ料理はしたかったのでちょうどよく、母と約束をしたのだった。
母と料理を作る約束をして、僕はまた二階の自室にこもるのだった。
本の場面は夏休みになっていて、博は計画的に宿題を、紗菜はのんびりと友達と遊ぶ日々が書かれている。
そして八月九日。
約束通り、駅前の待ち合わせ場所で合流した二人は電車で二時間ほどの道のりを行く。しばらくたってから車内で博が、
「結局、今日ってなんの日だっけ?」
気になっていたことを尋ねる。紗菜はちょっと照れながら、
「今日、一日海で遊んでから教えてあげる」
まだ秘密にしている。景色を眺めながら何をしようかなど話していると電車は目的地に着き、紗菜は張り切って、
「さあ、遊ぶわよ~」
気合いを入れると、
「お~!」
博も乗り気だ。
持ってきたビーチボールなどで、海で二人ではしゃぎながら遊ぶ。端からみたらどこにでもいそうなカップルだが、互いにそこは意識せずに海を満喫している。
夕方になり、人影もまばらになった砂浜に二人で座っていると、紗菜が、
「えっとね。博がまだ小学生の頃、一度うちで夕食を食べたことがあったじゃない? ちょうど五年前の今日」
と、切り出す。
「確か、紗菜の家の農園で遊んだ時だよね」
「あのとき博、疲れて寝ちゃったけど、寝言で私のこと大好きって言ってくれてたの。私それがとても嬉しくて。私も博が大好きだったから。だから、その、今日は私の特別な日だったのよ」
「え、僕そんなこと言ってたの? うわ~内緒にしてるつもりだったのにな~」
博はおでこに手を当ててかぶりを振ってから、
「そうだよ。僕はあの頃から紗菜が好きだった。でも二つ年上だし、友達としか見てないと思って。だから、あえてそっけない態度とって秘密にしてたんだ」
夕日の見える海岸で二人は互いの気持ちを打ち明ける。
「それで、いつ博が告白してくれるのかな、って待ってたんだけど、その気配もないまま三年生の夏。さすがにこちらからアクション起こさないと、高校生活終わっちゃうから誘ったの!」
ご立腹の紗菜。博は申し訳なそうに、
「ごめん、もう少し気持ちに素直になればよかったね」
「ほんとよ、もう。でも博と一緒に海に来れてよかったわ。あーあ、こんなことなら私から告白したほうが早かったわね」
謝ると、クスクスと紗菜は笑う。博も、
「僕も、もっと早く紗菜の気持ちに気づいたらよかったのに」
と、肩をすくめて苦笑い。
「そうよ。もっと早く気づきなさいよね。受験もあえて博の受かりそうな高校にしたんだから」
紗菜は博の頬をつつくが、
「あれ? このままだとここしか受からないから、って言ってたのは気のせいかな?」
博は冷静に突っ込みを入れる。紗菜は、頭を人差し指でかきながら、
「あら、そんなこともあったかしら?」
空を見上げてとぼけている。
「まぁ、どちらにせよ一緒の高校に進学できてよかったよ」
「そうね。博と違う高校にならないか二年間不安だったのよ?」
紗菜は困り笑いをしながら首を傾ける。
浜辺で二人は肩を寄せあいながらずっと話す。そして、日が沈むと同時にキスをするのだった。
ここで、今日は本を閉じて現実世界の問題と向き合おう。
実は午後の授業が全く身に入らなかったので、今日の宿題が何を出されたのか思い出せないのだ。
僕にはそういうことを聞ける友達がおらず、授業やホームルームで聞き逃すと非常に困ったことになる。
明日先生に叱られることを覚悟するか、はたまた昨日の所からできる範囲の問題をやり尽くすか。しばらく考えた結果、腹を括って寝ることにした。本をしまって明日も沙苗さんに会えるかな、と思いながら眠りにつく。
翌朝、目が覚めるといつもと部屋が違う。
なぜだろう、僕のイメージした博の部屋にそっくりだ。置いてある本やゲームなどの配置まで。とにかく、朝食を食べるためにリビングに降りて行く。ここはいつもの家で、父と母も普段通りに接してくれて、おかしなところはない。
食後、歯を磨きに行って歯ブラシを手に取り、歯磨き粉に手を伸ばした時に一番の異変に気づく。顔が、顔が違うのだ。僕の顔が博になっている。頬を触ってみるが違和感がない。頭の中が混乱していると母が、
「広人、そろそろ学校行く準備できたの?」
と、聞いてくる。顔は博だが名前は広人のままなのか? とりあえず家を出て自転車に乗り、やたらと暑いいつもの通学路をこいで行く。途中で、
「おーい、広人~」
自転車で追いかけてくる女の子が見える。同じ高校の制服だが夏服だし、僕には女友達はいないはずだ。だが間違いなくこちらに向かって、
「広人、ちょっと待ってってば!」
追い付いてきた女の子が言う。僕は困りながら、
「えっと…」
「えっと、って。あなた私の顔を忘れたの? 昨日の今日でしょ。頭でも打った? なんでか知らないけど冬服の制服着てるし」
その子の顔をよく見ると紗菜だ。とにかく本の通りに、
「おはよう紗菜。今日も元気だね」
と返す。すると、
「紗菜? 誰それ? 私は沙苗でしょ? まさか、もう浮気してるの?」
まずい、紗菜が沙苗さんで中身は紗菜で? もう全く訳がわからないが。
「浮気なんてめっそうもない、あはは……。ちょっと寝ぼけてるかも。だって、沙苗の名前忘れるわけないからさ」
勢いで呼び捨てにしてしまったが、沙苗さんは気にすることなく、
「だよね。昨日海に行って二人の気持ち確認したもんね」
と笑顔。昨日? 海? まさか、今は夏で、本の中と同じ状況なのか? それならこの暑さにも納得が行く。沙苗さんは、はっとして、
「いけない! 電車の時間もうすぐだよ。ほら、広人のんびりしてないの」
「あ、うん。急ごう」
二人で慌てて電車に駆け込み、ふぅ、と一息つくと、ちょうどドアが閉まる。沙苗さんは僕の顔を覗き込んで
「あぶなかったね。広人がぼんやりしてるからこういうことになるのよ? しっかりしてよね」
「ごめん、なんだか暑さでやられちゃってるみたい」
現状の把握ができるまではそういうことにしておこう。一応スマホのカレンダーを確認すると、今日は八月十日で、昨日の所には沙苗さんとの約束が入っていた。
「ところで広人、夏休みの宿題どれくらい終わった?」
「えっと、まだぜんぜん進んでないよ」
すると沙苗さんは驚いて、
「うそ? 広人が宿題進んでないのって本当におかしいよ? 大丈夫? まさか、ずっと寝込んでるとか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、高校の宿題って難しくて」
そういうと、沙苗さんは胸をなでおろして、
「なんだ、よかった。じゃあ明日家においでよ。勉強教えてあげる」
「え、でも家にはさすがに、ね? ほら女の子の部屋だし」
沙苗さんはにやりとして、
「あー、広人、今なんかやらしいこと考えたでしょ?」
顔を覗き込んでくる。僕は慌てて、
「そんなんじゃなくて! ほらお父さんとお母さんが彼氏にうるさい、ってよく聞くし」
すると沙苗さんは表情を曇らせて、
「お父さんもお母さんもいないんだ……。高校入ってすぐに事故で死んじゃったの。今はおばあちゃんのお店手伝って暮らしてるんだ」
「ごめん沙苗、いつも明るかったから、僕気づかなくて」
謝りつつここは現実の世界と同じなのかと思いながら知っていたことを隠す。
「ううん、いいの。くよくよしても二人は帰ってこないし。それより、広人の勉強の方が大事。これから三年間の基礎になるんだから。とりあえず明日、家に来て」
「うん、わかった。明日行くよ。あ、もうすぐ学校前の駅に着く。また帰りに会えたら一緒に帰ろ」
そう告げて、自分のクラスに向かっていく。
学校内の内装は広人と同じなのだが、クラス表記が数字ではなくアルファベットだ。自分のクラスか博のクラスか、どちらだ? 顔が博以外はほぼ広人の世界なので、広人のクラスに行くと、全員知らない顔で、
「あなた、このクラスじゃないでしょ? 誰かに用事? て言うか、なんで冬服着てるの?」
と、聞かれてしまった。こっちじゃないか、と思いつつ博のクラスに向かう。
全く知らない友達と、なんとかのらりくらりと会話を受け流しつつ、やり取りする。友達たちは様子がおかしいことには気づくがさすがに中身が別人とは思っていないようだ。ほとんどのことを暑さにやられたことにしていると、友人たちは保健室で休んでこいという意見で一致した。何かと好都合なので、言われた通りに保健室に向かう。
二限目まで休んで治らないようなら帰りなさい、と保健の先生に言われベッドで横になる。
することがないので現状の整理をしよう。
僕については名前は広人、顔が博だが家族は広人の家族、通っている学校は広人の学校で、クラスは博のクラス。博の友達たちは僕の異変に気づいてはいるが、詳細は把握していない。
よくもまあ、見事に混ざったものだ。
沙苗さんについても整理しよう。顔は紗菜だが中身は沙苗さん。年はふたつ上の三年生。状況は現状の沙苗さんの家族が亡くなったことが、紗菜の所に当てはめてある。おばあさんの店は恐らく八百屋だろう。僕とは昨日海に行って、告白しあって付き合っている。明日、沙苗さんは僕の勉強をみてくれるために家においで、と言ってくれている。
こちらもかなりごちゃ混ぜだ。
いろいろと本の内容を知っていれば対処できそうだが、鞄のなかにあるだろうか。
そうこうしているうちに二限の終わりのチャイムが鳴る。保健の先生が、
「どう? すこしは良くなった?」
と、聞く。現状の把握が十分でないので、
「すいません、まだぼーっとしてます」
嘘をつく。先生は心配そうに、
「じゃあ、今日は気をつけて帰りなさい。くれぐれも寄り道しないように」
と、言ってくれた。クラスに鞄を取りに行き、友達にも帰ることになったと伝えて学校をあとにする。朝、沙苗さんと一緒帰ろうと言ってしまったが、ここはいたしかたがない。家に着くと母が心配そうに、
「どうしたの。まだ学校の時間でしょ。具合悪いの?」
「うん、暑さで体調優れなくて。部屋で休んでるよ」
母には申し訳ないが、本を読み込む時間の確保のためにまた嘘をつく。
部屋で鞄を開けると僕の使っていたブックカバーが見えた。本の中身も確認して、この世界の先を読んでいく。
僕はこのあとどうなるのだろう、と読んでいるとまた大変そうなことが書いてある。博を心配した紗菜が家に訪ねて来るのだ。本では博は心配してくれる紗菜にすまなそうに応対して、明日の予定については保留している。
保留、か……。
どちらに向かうかはっきりしていれば、断ったりできるのだが。やみくもに本の世界から外れるのも、危ない気がする。
先をちょっと読み飛ばし、ページをまとめてめくると何も書いていない。驚いて、もとのページに戻るとちゃんとそこは文字がある。順を追って読まなければならない、ということなのだろうか。戻ったページから読んで行くが、明日のところから途切れている。その日の事までしか、書いてないようだ。
とりあえず沙苗さんが来るということがわかったので、心の準備をしておこう。体調が悪いということにしてあるので、ベッドで横になっておいたほうがいい。
するとだんだん眠気がきて、僕は眠りに落ちるのだった。
目を覚ますと、そこはいつもの僕の部屋で、物の配置も元に戻っている。さっきまでのが全て夢だったのだろうか? 念のため鏡で顔を確認するが、広人の顔だ。ただの夢なら問題ないかと僕はリビングに降りて行く。すると母が、
「あら、広人。今日は早いのね。まだ五時よ?」
「え、そうなんだ? なんだか、すごく長い間眠ってたみたいな感じがしたから起きてきちゃった」
母はいつもの調子で、
「そんなんで一日大丈夫なの? 今日も部活なんでしょ?」
と、世話を焼いてくれる。僕はあくびをしながら、
「ふぁ~。まぁ、起きちゃったしご飯までゆっくりしてるよ」
リビングのソファに腰掛ける。母は洗濯物を抱えながら、
「じゃあ、朝ご飯早めに作るわね。六時になったらお父さん起こしてきて」
洗面所の方に歩いて行く。僕が何気なくテレビのローカルニュースをつけると、十五年前の交通事故の話をしていた。親子三人のところに車が突っ込み、ご両親が亡くなり女の子も足にひどい怪我をしたそうだ。こういうことを聞くたびに、何事もない日常のありがたみを痛感する。そうこうしているうちに、母は洗濯を終えて、
「今からご飯作るから、広人は洗濯物干しとお父さん起こすのお願いね」
「うん、わかった。父さん普通に起こして起きる?」
ちょっとひねくれた聞き方をすると、
「声かけて起きなかったら、鼻をつまんであげて。一発で起きるから」
「わかった。じゃあ起こしてくる」
トントンと駆け足で階段を登ると父の部屋の前で、
「父さん朝だよ、起きて」
「ううん、まだ六時前だろ、もう少し寝る……」
声をかけたが、案の定すっとは起きない。
「父さん入るよ。ほら、ご飯だってば」
部屋に入り寝ている父の鼻をつまむと、
「ふがっ」
なんとも言えない音を出して跳ね起きた。
「なにをする……、あ。広人か、今日は早いんだな。起こしてくれたのか」
「うん、母さんがごはんの支度してくれてるよ」
父は眠そうな顔をしながらも、
「ありがとうな、すぐ降りていくから先に行っててくれ」
と、着替えを始める。僕がリビングに戻ると、ちょうど母が朝食の準備を終えていて
「起こしてきてくれたのね、ありがとう。ごはん出来てるから、お父さん降りてきたら食べましょう」
「じゃあ、並べるの手伝うよ」
出来上がった料理を食卓に運ぶ。並べ終えると同時にスーツ姿の父がリビングに降りてきて、
「久々に三人揃っての朝食だな。今日はいいことあるぞ」
「父さん、ちょっと大袈裟だよ。僕がたまたま早起きしたくらいで」
僕が苦笑いすると父は、
「いやいや、日常の何気ないことが大事なんだ」
感慨にふけっている。母が、
「あら、お父さんもたまにはいいこと言うのね」
ちゃかしながら食べる。
僕はふと、そういえば家族三人の朝食はいつぶりかを考えた。高校に入ってからは朝はバタバタしてゆっくり食べていない。中学校時代以来だろうか。そう考えるとなんだか貴重なことなんだと思えてくる。いつも食べている母の手料理もちゃんと味わって食べることがほとんどなかったが、手間のかかる料理が何品も並んでいた。母が、
「今日の豚汁に使ってあるにんじんとじゃがいもは、広人が買ってきてくれたものなのよ。昨日のお肉の残りを使って作ったの」
「そうなんだ。朝から作るの大変じゃない?」
僕が聞くと、母は嬉しそうに首を横に振って、
「家族が食べてくれることが嬉しいから、そんなこと気にならないわ。広人も料理に興味持ってくれたみたいだし」
「そうなんだね。僕も、そのうち誰かのために料理作る喜び感じられるかな?」
頭のなかで沙苗さんに料理を作ってみたい、と思いつつ、そんなことを言うと、
「広人も、いつかそんな人ができるといいわね」
母は優しく笑っている。
支度も整えたが、まだ学校に行くには少し早いので、沙苗さんの八百屋の前を通ってみよう、と家を出る。
自転車で通りかかると、沙苗さんは朝に仕入れた野菜の陳列を終えたところだった。こちらに気がつき、
「あら、広人君おはよう。こんな早くからどうしたの?」
「おはようございます。今日はたまたまこっちの道を通ってみようと思いまして」
沙苗さんはにっこり微笑んで、
「もしかして会いに来てくれたとかかな? ふふっ」
野菜の入っていた箱を奥へ片付ける。何となく右足を引きずるように歩くのが気になって、
「沙苗さん、足どうかされたのですか?」
と、聞く。
「ああ、これ? 昔に事故で傷めちゃってね。今は生活には問題ないから大丈夫よ。普段は椅子に座ってることが多いし」
ふと、今朝に見たニュースを思い出す。
あの被害者が沙苗さんなのだろうか。こんな理不尽な家族との別れなど酷すぎる。だが、そうだと決まっていないのに、なぜ勝手に被害者だと思うのだろう。心のどこかでそうあってほしいのか?
また答えの出ないぐるぐるを廻らせながら沙苗さんを見ると、箱の片付けを終えてレジ横のいつもの椅子に座るところだった。沙苗さんは申し訳なさそうに、
「ごめんね。生活に支障はなくても長い時間立っていられなくて。本当は本の中の紗菜みたいに、元気よく呼び込みとかしたいんだけどね」
と、肩をすくめて謝る。僕は慌てて、
「そんな、沙苗さんが謝ることじゃないですよ。なんなら明日から店を手伝いに来ます!」
言葉を発してから、
「すいません、僕なんか来てもお役にたてないですよね……」
「そんなことないわ。大歓迎よ! 重たい荷物とか結構届くし、私一人だと大変だから。広人君なら、空き時間に本の話とかできるしね。あ、でも全部やってしまわないでね。私のリハビリかねて多少は動かさないといけないから」
僕は暗かった表情をぱっと明るくして、
「はい! じゃあ明日の朝、また来ますね」
自転車にまたがりながら告げると、紗苗さんは手を振って、
「ありがとう。気をつけて行ってらっしゃい」
と、見送ってくれた。
父が言っていた通り、朝から良いことがあってご機嫌で電車に揺られて行く。そしてお待ちかねの昼放課。
僕の読書専用の場所となっている屋上に寝転がり、本を開く。今朝の夢の中でも読んだが、一応違いはないか、と少し前から読み直していると、紗菜と博が朝、出会う場面まできた。博が自転車をこいでいると後ろから紗菜が追いついてきて、
「おーい、博~」
「あ、紗菜おはよう」
と、普通に挨拶している。
「おはよう、博。っとと、急がないと電車の時間もうすぐよ」
「そうだった、ごめん。ぼーっとしてた」
二人は大急ぎでいつもの駅へ向かう。なんとか電車に間に合い、
「あぶなかったね。博がうっかりしてるからこうことになるのよ? しっかりしてよね」
「ごめん、なんだか暑さでやられちゃってるみたい」
と、博は苦笑いして肩をすくめる。紗菜は心配しながらも
「大丈夫なの? 宿題とかちゃんと進んでる?」
「うん、なんとかね。とりあえず困ってはいないかな」
すると、紗菜はやや不満げに、
「ふーん、そうなんだ。でもちょっと不安だな、とかはあるでしょ?」
「まぁ、確かに。この前の数学とかは難しかったなあ」
すると、しめたとばかりに紗菜が、
「じゃあ明日、家においでよ。分からないとこ教えてあげる」
この誘いに博は、
「え、紗菜が?」
「なに? 私じゃ不満なの? これでも学年では優秀なほうなのよ!」
迂闊な発言をしてしまう。すぐに手を合わせて、
「ごめん、受験生の時のイメージがまだ残ってて。でも紗菜の家って、リビングで勉強会して大丈夫?」
「そんなの、私の部屋に決まってるじゃない」
それを聞いて、博は気まずそうに、
「でも、ほら。女の子の部屋にはちょっと、ね?」
「あー。博、今やらしいこと考えたでしょ?」
「いやいや、そんなことは! ご両親とか彼氏にうるさいとかあるじゃん?」
若干図星で声が上ずってしまいながらも、なんとか紗菜の部屋への招待を回避しようとするが、
「大丈夫、夜まで帰ってこないから。さすがに博も遅くまではやらないでしょ?」
「うん、まぁそうだね。じゃあ、おじゃましようかな」
押し負けて紗菜の家に行くことを決意する。
ここまで読んで、会話のところが多少違うが、流れは夢と変わらない。何となく安堵しながら、続きを読む。
翌日、博は紗菜の家リビングで異様な光景のなかにいた。出迎えてくれた紗菜と、何故か仕事に行っているはずの紗菜の両親に囲まれて、お茶を飲んでいるのだ。博は一応、
「紗菜、なんでお父さんもお母さんもいるの?」
と、聞いてみる。紗菜はげんなりしながら、
「昨日、明日家で勉強会することにしたから、ってお母さんに言ったら『男の子? 女の子?』ってしつこく聞かれて、仕方なく話したらこの結果よ、はぁ」
ため息をつく。紗菜の両親は、
「いやー、紗菜が男の子家に連れて来るって聞いて不安だったんだけど、博君なら安心だよ」
「そうね。博君はしっかりしてるから、将来紗菜をまかせられるわ」
と、なんだか話がかなり先まで行っている気がする。
博は慌てて、
「いえ、まだ付き合いだしたばかりですし、その後のことは……」
「バカッ! 博! 今のはそれを誘導する『振り』でしょ!」
紗菜の言葉にはっ、とすると紗菜の両親はにんまりとして、
「あら、やっぱり付き合ってるのね~」
「うんうん、そういう年頃だからな」
と、うなずいている。紗菜はため息をつきながら、
「博、私の部屋に行くわよ。ここにいたら何を聞かれるかわからないわ」
「あ、うん。紗菜ごめん」
「言っちゃった事は仕方ないわ、気にしないで」
博を部屋に案内する。
紗菜の部屋はきれいに整頓されていて、かわいらしい小物が並べてある。壁紙の色合いも落ち着いた色で、紗菜の性格とは、なんだか真逆なイメージを受けてしまった博は思わず、
「へぇー、綺麗な部屋だね」
と、口をついて出てしまう。紗菜は自慢げに、
「ふっふーん。博、絶対に私の部屋散らかってるって思ってたでしょ? ちゃんと片付けるように心がけてるんだから。ほら、勉強道具持ってきたよね? そこに広げて。わからないとこ教えるから」
「ありがとう。えと、数学のこことここ、あとこの公式がいまいちよくわからなくて」
博は教科書をめくりながら指をさしていく。
「あー、確かに一年の数学でよくつまづくところね。じゃあ、最初のところからやっていこうか」
紗菜は、博のわからないところに的確なアドバイスをしていく。博はひらめいたかのように、
「そうか、じゃあここはこちらの式からこうして……」
わからないと言っていたのが嘘のように、すらすらと解いていく。紗菜は感心して、
「さすが博、理解が早いわね~」
「紗菜の教え方が上手いんだよ。自分で考えてもさっぱりだったんだから」
紗菜はしめたとばかりに、
「じゃあ、このお礼は週末デートで返してもらおうかな? 丁度新しい服を見に行きたかったのよね。駅前のショッピングモールがいいなあ」
「わかったよ……。でも、あんまり高いの買えないよ?」
「そこら辺は、高校生のおサイフ事情は考えるわよ。私も鬼じゃないんだから。休憩のカフェの奢りくらいで勘弁してあげる」
と、意地悪そうに笑う。
「じゃあ、週末にデートの予定入れとくね。待ち合わせは駅前でいい?」
「うん、私もメイクとか時間かかるから、十時くらいが助かるかも」
「わかった。今週末、いつもの駅前で十時ね」
二人はスマホにスケジュールを入れて約束をする。
ここでふと、気になることがあった。夢では僕は体調を崩して家に帰り、沙苗さんが心配して来てくれることになっていた。しかし本の内容は違っている。
まぁ夢なので本の通りに進んでいるのも不思議なのだが、と思ったところで昼放課の終わりのチャイムが鳴る。
僕は本に折れ目が着かないように丁寧にかばんにしまい午後の授業を受ける。
帰り道に沙苗さんの八百屋に寄ろうかとも考えたが、今朝行ったばかりなのでやめておこう。それより今日は宿題を早く終わらせて早めに寝ることにしよう。明日は手伝いに行く約束をしているのだから。
家に帰ると、夕食までに宿題を片付けて母に、
「母さん、今日はちょっと早めにお風呂入るから」
と、伝える。すると母は意外そうに、
「あら、そうなの? 明日は朝練?」
「まぁ、そんなようなものだよ。朝ごはんもちょっと早くにお願いできる?」
若干、嘘に後ろめたさを感じながらも答えると、
「わかったわ。朝は起こした方がいいの?」
母は心配してくれる。しかし、自分のことなので、
「ううん。自分で起きるよ。ありがと」
母に礼を言って、最近ご無沙汰だったゲームを始める。しかし、以前は夢中になれたはずなのに身が入らない。まるでデート前日のそわそわした感じみたいだ。いや、デートなどしたことないのでこんな感じなのだろうと勝手に思っているのだが。
そういえば今日は母と料理を作る約束をしていた。
夕食前にキッチンで野菜炒めを手ほどきを受けながら作るが簡単なようで難しい。なんとか完成させたが、要練習だ。
寝る前に目覚ましのアラームを朝の五時にかけて早々に眠りにつこう。沙苗さん喜んでくれるかな? と、わくわくしながら眠りに落ちる。
翌朝、いつもより二時間も早くアラームが鳴ったが、僕は一発で目を覚ましリビングに降りていく。母も起きたばかりで、あくびをしながら、
「広人おはよう~。朝ごはんおにぎりと簡単な一品しかないけどいい?」
「うん、大丈夫。早くからありがとう」
挨拶をする。
作ってもらった朝食を食べると、
「それじゃ行ってきます」
と、家を出発する。
沙苗さんの八百屋に着くと、今、まさに配送車から荷おろしを始めようとしているところだった。僕は慌てて駆け寄る。
「沙苗さん、手伝います!」
沙苗さんは嬉しそうに微笑みながら、
「あ、おはよう広人君。来てくれたのね。じゃあ、キャベツと大根の箱からお願いしてもいい? レジ裏辺りに置いてくれると助かるわ」
「はい! レジ裏ですね?」
一応、運動部に所属しているので力は多少自信があったが、一箱キャベツとなるとかなりの重量だ。毎日沢山では無いにしろ、沙苗さん一人では大変だっただろう。
僕が重い物を運んでいる間に、沙苗さんは葉物野菜を荷おろししていた。そういえば、今日は火曜日で、ここの八百屋の特売日だ。新鮮な野菜を食べてほしいという沙苗さんの気持ちが伝わってくる。
ひととおり荷おろしを終えると、沙苗さんが、
「広人君、朝ごはんはもう食べた? 簡単なものでよければうちで食べてく?」
と、誘ってくれた。実は軽く食べてあるのだが、こんなチャンスを逃す訳にはいかない。
「いいんですか? そしたらご馳走になります」
「じゃあ、仕度すぐにするからリビングでちょっと待ってて。煮物とかは昨日の残りになっちゃうけど、ごめんね」
「いえ、沙苗さんの美味しいご飯をいただけるなんて。なんか手伝いに来たのか食べに来たのかわからないですね」
沙苗さんは照れながら、
「もう。お世辞を言ってもなにもでないわよ?それとも私が気になりだしちゃったとか?」
ちょっと意地悪な質問をしてくる。僕はしどろもどろに、
「あ、えーと、その、それはですね」
返答に困っていると、
「ふふっ。広人君はわかりやすいわね。はい、どうぞ。召し上がれ」
と、朝食を並べてくれた。
二人分の朝食を並べながら、
「気になりだしたのはむしろ……」
早苗さんがぽつりと言う。食卓には味噌汁に野菜の煮物、鮭の塩焼きと素敵な朝定食が並ぶ。こんな幸せな朝食を二人で食べていると沙苗さんに、
「広人君、悪いけどあの大きな箪笥の上の箱を取ってもらっていい?」
と、ちょっと申し訳なさそうにお願いされたので、
「いいですよ。お安いご用です」
と、快諾して立ち上がる。
箪笥の上に置かれた小さな箱は僕でも背伸びをしないと取れなかった。沙苗さんは足を痛めているから尚更取るのが困難なのだろう。落とさないように気をつけながら、少し埃のかぶった、赤い小箱を沙苗さんに渡すと、寂しそうな表情をしながら、
「この箱はね、おばあちゃんが私の小さい時にくれたものなの。大切な人が出来たら渡すのよ、って。大切な箱だけど、お父さんとお母さん亡くしてからは、幸せだった日常を思い出すから、あまり目につかない届かない場所に置いていたの。でも広人君と朝ごはん食べてたら、なんだか懐かしくなっちゃって」
涙を拭いながら少し笑って、
「もし、広人君さえよければ、たまにこうやって、朝ごはん一緒に食べてくれるかな?」
「もちろんですよ。お店の手伝いにも来ますね」
「ありがとう。なんだか広人君が家族みたい」
沙苗さんはにっこり微笑んでくれた。家族みたい、か。本当の家族以外にそんなことを言ってくれる人がいるって嬉しいな。そう思っていると沙苗さんは小箱を見つめて話始める。
「私ね、おばあちゃんに言われたの。幸せは種をまかないと芽は出さないのよ? ちゃんとあなたの幸せの種をまきなさいって。でも事故にあってからはもう私には幸せは来ない。それならせめて、この八百屋を続よう。誰かが幸せな食卓を囲めるようにしよう。そう言い聞かせてきたの」
「早苗さん……」
「でもね。私、幸せの種をまきたくなっちゃった。今までどこにまいたらいいかわからなかったけど、今ならはっきりとわかる」
早苗さんは瞳を潤ませながら、小箱からネクタイピンを取り出して、
「広人君、よかったらこれもらってくれないかな?」
突然の申し出に、僕は驚きを隠せない。
「えっ!? 僕なんかがもらっていいんですか? 僕より早苗さんにふさわしい人が……」
沙苗さんは首を横に振ってから、僕の目を真っ直ぐ見て、
「今まで八百屋の店先に居たけど、買い物をする以外に私に声をかけてくれる人なんていなかったわ。潰れかけの八百屋押し付けられて可哀想、とか言ってくる人はたまにいるけれど。私はやりたくてこの八百屋やっているのにね。それに、広人君は八百屋の私じゃなく小説を読んでる私に声をかけてくれたわ。本当の姿の私に。広人君、今すぐじゃなくてもいい。私の家族になってほしいの……」
僕は早苗さんの瞳をしっかりと見つめ、
「わかりました。ちゃんと働けるようになったら必ず迎えに来ます。僕も博みたいにしっかりした男になりますから」
「うん。待ってる。この八百屋のいつものレジ横で」
そう言った沙苗さんの目には大粒の涙か浮かんでいた。でもそれは悲しい涙ではなく、心から嬉しいと思えたときにあふれる涙だった。
それから、僕は沙苗さんの八百屋に朝から頻繁に通うようになった。事情は両親にもきちんと話し高校を卒業したら働くことや、沙苗さんとのことも承諾してもらった。快く、という訳にはやはりいかなかったが、必死に説得した。
春が過ぎ夏になり秋が通り過ぎ冬がくる。季節の流れとともに、僕と沙苗さんの絆は深まっていった。
そして月日が流れ、僕は高校を卒業した。仕事に就いて、もう三年が経つ。
面接の時に早苗さんからもらったネクタイピンをしていたおかげか、野菜の卸業社に入社することができた。最近では運転免許を取り、八百屋への配送もしている。
夏のある日、配送先のある八百屋の前で車を停めると、
「おはようございます。一番のお野菜をお届けに来ましたよ」
と、レジ横の女性に声をかける。
「あら、広人君。いつもありがとう」
あの一番大好きな、明るい返事が返ってきた。僕は早苗さんに、
「今日は特別に仕入れた物も持ってきましたよ」
「えっと、なにか頼んでいたかしら?」
ちょっと不思議そうにしているので、
「ふふっ、今日が何月何日か分かれば、たぶん早苗さんなら届け物がわかりますよ」
一瞬考えて、はっとした表情から嬉し涙をこらえつつ、
「八月九日ね……。私この日をずっと待ってた…」
「はい、お待たせしてしまいました」
僕はポケットから小さな小箱を取り出して、
「早苗さん、あなたを迎えに来ました。僕と結婚してください!」
と、箱を開いて沙苗さんの薬指に通す。早苗さんは大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、
「はい! よろしくお願いします」
と、微笑んで受け取ってくれた。
僕と沙苗さんの小説のようなこの物語はこれからも続いて行くのだろう。幸せを実らせ続けるそんな未来に向かって……。
広人は、とある八百屋の前を通りかかった。
見た目は普通の八百屋で、奥の日陰のレジ近くで読書をしている若い女性がいる。
客はおらず、エプロンをしてお下げ髪で円眼鏡をかけた店番の女性は小さな本を読んでいる。小説なのだろうか、文庫本サイズでブックカバーがかけられタイトルは見えないが、たまに表情を変えながら熱心に読み込んでいた。
何となく気になり、しばらく遠目に見ているとこちらに気づき、
「あら、いらっしゃい」
本をゆっくり閉じてそっとレジ横に置き、こちらに笑顔で挨拶をした。僕はあわてて、
「あ、いえ、買い物に来たわけでは」
しどろもどろに返事をする。女性はおっとりとした口調で、
「あら、そうなの? 最近お客さんが減っちゃってちょっと期待しちゃった」
と、苦笑い。僕は当初から気になっていた本について、たどたどしくたずねる。
「あの、さっき読まれてた本ってなんですか? あ、いえ、ふと気になってしまったもので。すいません」
すると女性はクスクスと笑いながら、
「ふふ、そんなにかしこまらなくてもいいわよ。ただの恋愛小説よ。この作家さんの作品が好きなの。結構長編で読みごたえあるし、私の好きなシチュエーションがよく出てくるから毎作欠かさず買っているのよ」
「そうなんですね。ちなみにどんなシチュエーションが好きなんですか?」
「あら?お姉さんの好みに興味があるの?」
ここにきて初めて、自分がかなり踏み込んだ質問をしていることに気づく。
「あ、いえ、その、なんと言うか今まで人が熱心に本を読んでる姿ってあまり見たことなくて。僕は飽きっぽいので長編とか、恋愛小説とかぜんぜん読んだことなくて。えと、その」
必死になんとかしようとするが、どうもうまい言い訳が出てこない。女性はゆっくりと椅子に腰を下ろし、本をやさしく手に取る。その所作から本を大切にしているという印象が伝わってくる。
「ふふ、あなたって面白いのね。こんな小さな八百屋の店番が読んでる本に興味を持つなんて。好きなシチュエーションはいろいろあるけど少し教えてあげる。それはね、今日みたいに桜の花びらが舞う通学路で、幼なじみの高校生の男女が自転車を押して歩いてるシーンよ。女の子がもう桜の花もおしまいか~って残念そうにため息つくところってなんだかありそうじゃない? ほらここから恋ばなに発展するとか。それとね他には……」
女性はキラキラと目を輝かせながらいくつもシチュエーションの話している。僕もこの手のベタな展開の話は好きなのでうなずきながら聞いていると女性は、はっ、として、
「ごめんなさい。私、本のことになるとつい夢中で語っちゃうの。悪い癖ね」
苦笑いする。僕は両手と首を横に振りつつ、
「いえ、そんなに夢中になれることがあるのが羨ましいです。僕は何もかも中途半端で。なにかをやりとげたことがなくて…」
「あら、じゃあ一度この本読んでみる?」
「え? あ、はい」
戸惑いながらも返事をしてしまう。女性は嬉しそうに、
「じゃあ、貸し出し料は、一冊、お野菜一つね」
「えっ?」
続けた言葉にさらに戸惑う。女性はちょっと意地悪そうな笑顔をしながら、
「商売人を甘く見ちゃダメよ?」
クスクスと笑う。その笑顔がなんとも可愛らしく、僕は引き込まれてしまうのだった。
「じゃあ、じゃがいもひとつください」
並べられたところから選ぼうとしていると、
「はい、どうぞ」
形の一番良いじゃがいもの入った袋を渡してくれた。
「あの、お代は……」
「それは返してくれる時でいいわ。無理矢理買わせるのもなんだし、初回はサービスよ。でも、ちゃんと本は返してね? お気に入りなんだから」
「わかりました、かならず返しに来ます」
なんだか知らない間に本を読むことと読み終わったら野菜を買うことが決まっていた。まぁいいか、と思いつつ自宅に帰る。
家に帰ると母が、
「あら、いつもより遅かったのね」
意外そうに尋ねてくる。
「うん、ちょっとね。あ、じゃがいも買ってきたけど夕食に使う?」
「なんでまた、じゃがいもひとつだけ? まぁ、そのうち使うから置いといて」
適当にごまかしつつ袋のじゃがいもを置く。本を抱えて自分の部屋にこもると読み始めた。
物語の冒頭は幼なじみの幼少期から始まっていた。
男の子とふたつ年上の女の子と公園で遊んだり、そういうありふれた日常か描かれている。恋愛小説など読んだこともないので、とにかく場面を持てる限りの想像力で頭に浮かべる。
すると、なぜか不思議とすんなりイメージでき、まるで目の前にその光景が広がっているかのようだ。本の未知の魅力を感じつつ読んでいるとキッチンの方から、
「ご飯よ~、早くいらっしゃい」
母の呼ぶ声がした。なんだか浸っている世界から現実に引き戻された気がしたが、夕食を食べに食卓へ向かう。早々に食べ終えてまた部屋に向おうとすると、
「宿題とかはやったの?」
また、いつもの母からの世話焼きが始まる。
「ごめん。いまちょっとやりたいことがあって、終わったらやるから」
と、高校の宿題を後回しにしつつ、本の世界に戻る。
気がつくと二十三時をまわっていて、しまったと思いつつ、あわてて借りた本をそっと置くと、宿題に取りかかるのだった。
翌朝、いつもの時間にアラームが鳴り机の上に置いた眼鏡をかけ、学校に向かう。
鞄に借りた本を休み時間に読もうと大切にしまい満員電車に揺られていく。
昼放課--
弁当を食べ終えると鞄から本を取りだし校舎の屋上で読み始める。日射しがぽかぽかと気持ちよく読書をするには最高の天気だ。
僕はいつの間にか、この本の中の世界に引き込まれている。
幼なじみ二人の物語は日常の描写がほとんどだが、時折でてくる淡い恋心の表現が、なんとも良いアクセントになっていた。想像の中の世界に感情を重ねていく楽しさを、昼放課の間たんのうして、午後の授業にむかう。ただそれだけなのに、退屈な授業が楽しく思えてくる。
夢中になれるってこんなにも素晴らしいことなのかと実感して、帰りに昨日の八百屋に行ってみる。
相変わらす客はおらず、お下げのみつあみの女性が穏やかな表情で本を読んでいる。今度は僕の方から小声で、
「あの、ニンジンと玉ねぎください」
と声をかけた。女性はなにか聞こえたことに、はっとしつつ、僕の方を見て、
「あら、あなた昨日の。ごめんなさい、また本に夢中になってしまってたわ」
「ニンジンと玉ねぎを一つずつください。できたら本もお借りしたいです」
「え、もう一冊読んじゃったの⁉」
「さすがにそこまでは、でも三分のニは読みましたよ」
「はやいわね~。それじゃあニンジンと玉ねぎを、はい。そこまで読んだら続き気になるよね。わかったわ、二巻目も入れておくね」
大切そうに野菜と本を入れようとする。僕はあわてて
「あ、大切な本が傷むといけないので本は別にしてください。ちゃんとしたブックカバーも買いましたので」
帰りに仕入れたブックカバーを取り出すと、女性はなんだか申し訳なさそうに、
「そうなんだ。わざわざありがとう」
「いえ、大事な本をお借りしてるんですから、これくらいは」
「じゃあ、ニンジンと玉ねぎそれぞれ百円ね。あ、もし一巻読み終わったら、感想聞かせてほしいな」
女性は笑顔でウインクして、袋と本を手渡す。
この笑顔を見るたびに僕は今まで抱いたことのない幸福な気持ちになるのだった。
これは恋なのか? いやいや相手の名前すら知らないんだぞ、などと自問自答していると女性は顔を覗きこんで
「どうしたの? ぼーっとしちゃって。大丈夫? 休んでいく?」
と、聞いてくれる。顔が真っ赤になり、くらくらして、そうしたいのはやまやまなのだが、これが全て勘違いだとすれば、ものすごく恥ずかしい。ぐるぐると考えていると、本当に視界が回ってきて、次の瞬間、僕は漫画のようにその場に倒れた。
端からみれば八百屋の前て店番と話している男子高校生がいきなり倒れたのだ。
「ちょっと!ねぇ、大丈夫……」
遠退く意識の中で、女性の声が響く。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
おでこにひんやりとした物が乗っている感覚で、目が覚めた。和室の天井に電気がついている。起き上がろうとすると、
「ちょっと、まだ寝てないと。あなたいきなり倒れたのよ? 大事だといけないから、悪いとは思ったけど学生手帳見せてもらって連絡しておいたわ」
女性の優しさに感謝しつつも、この言葉で僕の頭にふたつのパターンが浮かぶ。
学校に連絡が行き、明日先生に心配される。
こちらはまだましだ。
自分の家に連絡が行き、さんざん親に冷やかされる、もしくは、あれやこれやと病院のはしごに行かされる。
これはもう地獄でしかない。
はぁ、とため息をつきつつ一応確認する。
「えと、ここは……」
「うちのリビングよ。顔が真っ赤になって倒れたから、こんな時期に熱中症なのかな、とも思ったけど。頭に氷枕敷いて、濡れタオル乗せて、二時間くらい休ませていたのよ」
「でも、どうやって僕を運んだんですか? 結構体重ありますけど」
「それは、ちょっと申し訳なかったけど、引きずってなんとか。大変だったんだから、もう」
女性はぷうっとふくれて口を尖らせた。
「すいません」
謝ると、女性はぷっと吹き出して、
「冗談よ。からかってみただけ。あなた、素直でちょっとかわいいわね。本当は御近所さんに頼んで運ぶの手伝ってもらったの」
「そうだったんですね」
安堵と少しの残念な気持ちが入り交じりつつ、返事をする。
「もう少しゆっくりしていきなさいね。私はお店の片づけしてくるから」
「あ、はい」
そう言うと女性は店の方へと降りて行った。
まだぼーっとしているが、横になったまま周りを見渡す。大きな和箪笥が置かれ、その上には日本人形が乗っている。反対側には障子があり、店の裏の中庭に続いている。ここでふと気づくが、夜になっているが女性の家族が帰っていない。共働きなのだろうか。いや、ここは八百屋だが。そうこうしているうちに店の片づけを終えた女性が戻ってくる。
「あなた、お腹減ってない?」
唐突に聞かれて、
「あ、はいちょっと空いてます」
「よかったらうちで食べてく?あんまりたいそうなものはないけど」
面食らうが、なんとも願ったり叶ったりの状況だ。この場の勢いで聞いてみる。
「あの、お名前教えていただいてもいいですか?」
「ああ、そっか教えてなかったね。私は沙苗。時田沙苗よ」
「僕は吉田広人です」
「へぇ、広人君ね。いい名前だと思うよ。広人君は苦手な野菜とかある?」
「いえ、好き嫌いは無いので大丈夫です」
「じゃあちょっと待っててね」
沙苗さんは、今度は店と違う入り口から奥のキッチンへ入って行く。
家族以外の料理など今まで食べたことがあっただろうか。
ドキドキしながら料理の完成を待つ。包丁を使うトントンとリズムのよい音が聞こえ、鍋を取り出しているのだろうか金属が軽くぶつかる音がする。そのうちに醤油のいい香りがしてきて、しばらくすると、キッチンから沙苗さんが顔を出しにっこりと笑い、
「はい、お待たせ~」
と、料理を運んでくる。季節の野菜をふんだんに使った煮物とサラダ、肉野菜炒めが食卓を彩る。僕の方にはちょっと大きめの茶碗にご飯が大盛りにつけてあり、かなり豪華な手料理が目の前に広がる。
「うわぁ、美味しそう。いただきます!」
「ふふ、あわてなくてもちゃんと二人分あるから。いただきます」
僕と沙苗さんは手を合わせて食べ始める。
「うん、美味しいです! こんな美味しい野菜料理初めて食べました!」
「もう、大げさね。どこにでもある煮物よ?」
ちょっと照れたように沙苗さんは謙遜する。
「本当です! なんていうかすごく家庭的で温かみのあるご飯です。うちは最近スーパーのお総菜ばっかで」
「きっとお母さんも忙しいのよ。でも、喜んでもらえてよかったわ」
沙苗さんは嬉しそうに微笑むが、少し寂しそうな表情をして箸を止めた。
「こうやって誰かと食卓を囲むのいつぶりかしら……」
「え、普段お父さんやお母さんは居ないんですか?」
と、尋ねると、
「父も母もかなり前に亡くなってね。今は形見のこのお店に一人なの」
「そうだったんですか……。すいません、無神経なこと聞いて」
すると、首を横に振って、
「ううん、いいのよ。もう慣れたわ。それに常連さんになってくれそうな人も見つかったし、ふふっ」
その言葉にドキッとして、それは僕のことで合っているのかと戸惑いながら、
「なら、よかったです」
と、また箸を進める。それから他愛もない日常の会話をしながら食べ終えて、
「ご馳走様でした」
手を合わせて箸を置く。
「はい、お粗末さまでした」
と、沙苗さん。ここでちょっといぶかしげな表情をして、
「一応聞くけど、わざとじゃないのよね?」
僕は何を聞かれているかさっぱりわからず、きょとんとして尋ねる。
「なんのことですか?」
「ううん、思い過ごしみたい」
よくわからないが、沙苗さんは納得したみたいなので、
「じゃあ、遅くなってますのでそろそろ帰ります。いろいろありがとうございました。またお店にうかがいますね」
「気をつけて帰ってね。もう真っ暗だから」
店の勝手口から見送ってもらい、家に帰る。
駅から乗ってきた自転車のかごに、野菜の袋と本が大切にしまわれた鞄をのせて暗い夜道を走る。夜風が心地よく、通いなれた道なのに新鮮な風景に見えて楽しい。
家に着くまで幸せな気持ちでいたが、玄関に立った時に思い出す。
もしかしたら沙苗さんから連絡が来ているかもしれないということを。
恐る恐る玄関を開けて、
「ただいま~」
細りそうな声で入る。リビングから母が出てきて、
「遅かったじゃない。心配したのよ? どこ行っての?」
よかった、家には連絡来ていない。ほっとしつつも、それを表情に出さないように、
「あー、うん、ちょっと今日は部活の居残りがあって。これかはちょくちょくあるかも」
「あらら、レギュラー争いね。県大会もうすぐだったわね」
嘘に多少の罪悪感を感じながら、部屋に戻り本の一巻の残りを読み始める。
しばらく読み進めると、男の子が小学校五年生になって幼馴染みの家に遊びに行くシーンが出てきた。
女の子の方の家は農家で、農場で遊んでいると、そのうちに男の子が遊び疲れて寝てしまう。目が覚めると夜になっていて、女の子の家族と食事をすることになる。食卓には新鮮な野菜料理が並べられ、男の子はそれを食べてベタ褒めするのだった。一緒にいただきますをして互いの家族の話をして一緒ご馳走さまをする。
ここにきてようやく、あれ? と気づく。さっきまでの僕と沙苗さんの状況とほぼ同じではないか。なるほど、道理でわざとじゃないかを聞くはずだ。僕が本の流れになぞらえて芝居をしている可能性は考えて当然だろう。しかし、あれは僕の素直な感想で偽りないものだった。それに僕はこの小説を読んだことがない。知らないことは芝居はできないな、などと自分を納得させながら、夜更けまで小説を読むのだった。
翌朝、僕が目覚ましのアラームに気がつくとすでに五、六回スヌーズがかかった後だった。まずい遅刻だ。
慌てて階段を駆け降り自転車にまたがって、
「行ってきまーす」
と、家を飛び出す。
ひたすら自転車をこいで駅にたどり着くと、また間の悪いことに、ちょうど電車がホームを出て行く。
はぁ、とため息をついては改札をくぐり、ホームでかばんの奥の、少し使いなれてきたブックカバーにてを伸ばす。本はきれいにしまわれていて、折り目ひとつ付いていない。
電車を待つ間だけと読み始める。
物語は二巻目に入っており、二人は高校一年生と三年生になっていた。春の終わりの桜が舞い散る時期、ちょうど今頃の描写だ。桜並木の下を自転車を押しながら二人は歩き
「あーあ、今年の桜も、もうおしまいか~」
三年生になったばかりの女の子が、ため息をつく。
あ、ここ沙苗さんの好きなシチュエーションだ。いつも以上に想像力を働かせてイメージする。女の子は男の子をチラッと見ながら、
「今年の夏は海に行きたいな~」
独り言を言う。男の子は鈍感に、
「行けばいいじゃん。誘ってくれる友達いるでしょ?」
と言う。女の子はむくれて、
「違うの。彼氏と行きたいの~」
ごねてみせるが男の子は、
「紗菜は可愛いから夏までには彼氏出来るって」
と知らぬ顔。あれ? 今まで読んできて、女の子の名前って、ここで初めて出てきた? それともずっと意識していなかったのか? とりあえず、会話の続きを読む。紗菜は、
「そういう博こそ彼女いないの? せっかく高校入ったのに」
ちょっと探るように聞く。紗菜と博、何となく引っ掛かりつつも読む。
「いないよ。まだ入学したばっかだよ? これからかな。でも、クラスには僕の好きなタイプの子はいないかな」
紗菜は興味深そうに食いつく。
「え、博ってどんなタイプの子が好きなの?」
「うーん、言葉で説明するの難しいな。紗菜みたいな元気な子がいいかな。おおざっぱだし」
「えー、なにそれ。私が雑だって言いたいの~?」
紗菜は口ではとがってみせたが、顔をちょっと赤らめて嬉しそうだ。そして、
「私も、博みたいにきちっとした人がいいな。あーあ、どこかにフリーでいないかな~」
さりげなく言う。博はとことん鈍感なようで、
「学年中探したら、まだいるんじゃない?」
と淡々としている。博そうじゃない。紗菜は博が好きなのだ。早く気づけ。とやきもきしながら読んでいる。しばらくすると、ホームのアナウンスが聞こえ、
「九時三十八分発、急行電車がまいります」
と伝える。うん、八時三十八分の、うん? 九時? はっ、として時計を見ると九時三十七分だ。かれこれ、一時間も空想の世界に浸ってしまっていた。
完全に遅刻が確定したら逆に落ち着いて、ゆっくり急行電車に揺られて行く。学校に着くと、表門は閉められていたので教員通用口から入る。すると、一限目の授業を終えた担任と出くわす。気まずい感じで会釈すると、
「吉田、おはよう。もう大丈夫なのか? 遅れるなら連絡は入れろよ?」
挨拶と心配の言葉をかけてくれた。沙苗さんは学校に連絡してくれたんだな、と感謝しつつ、
「おはようございます。もう大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
一礼して教室へ向かう。
昼放課には、ぽかぽかした屋上で、また本の世界に入ってゆく。朝に読みかけた二人のやり取りが授業中も気になって仕方なかったのだ。
栞の挟んであるページを開き、またイメージを膨らませる。あの後、紗菜と博は帰り道のカフェでお茶をしている。紗菜はチョコパフェをつつきながら博の方を不満げに見ていた。その視線を感じたのか、
「ん? 紗菜どうしたの?」
「なんでもない」
パフェを一口食べながら、ぷいっと横を向いてしまう。博は首をかしげながら、
「なんか気にさわること言った?」
と聞く。紗菜は、
「なにか心当たりがあるなら、海にでもつれていきなさいよね」
ぼやかしながら博を海に誘う。博は困惑しながらも、
「うん、いいけど。それで機嫌直るなら」
成り行きで承諾する。紗菜の表情がパッと明るくなり、
「本当? やった。約束だからね」
と、大喜び。スマホのスケジュール帳を開いて、
「ねね、いつにしようか? やっぱり前半は混むよね。あ、でも、後半は宿題とかあるし」
はしゃぎながら予定を考えている。
「じゃあ、えっと……」
ここで、現実世界に引き戻す、昼放課終わりのチャイムが鳴る。
僕はそっと本閉じて教室への階段を降りて行く。あーあこれからがいいところなのに、とやや不満げに教室のドアを開け、かばんに本をしまって席につく。午後の授業があまり身に入らないまま部室に向かい、ロッカーを開けると、部員の噂話が聞こえてくる。
「なあ、おまえあの店みたか?」
「ああ、見た見た。八百屋なのに昼間も夕方も客全然いないのな。そのうちつぶれんじゃないか?」
今までなら、さらりとやり過ごしたはずの会話だがとても腹が立った。恐らく沙苗さんの八百屋だろう。この二人も帰りに自分と同じ駅で降りるのを見たことがあるからだ。しかし、ここで僕が食ってかかるわけにもいかないのでぐっとこらえて、聞こえないふりをする。イライラしながら部活を終えて電車に揺られ、帰りにまた沙苗さんの八百屋に向かう。
心のなかではお客がいてほしい気持ちと今日もゆっくり話したい気持ちが混ざりつつ、店に着く。お客は……、やはりいない。店の奥のレジ近くのいつもの場所で沙苗さんは本を読んでいる。店の入り口で、
「こんにちは。沙苗さん」
挨拶すると沙苗さんは本を閉じて、
「あら、いらっしゃい。ふふ、毎日ご贔屓にしてくれてありがとう」
にっこり微笑む。僕はかばんから本を取りだし、
「あの、一巻読み終えたので、お返ししに来ました」
「あら、そうなのね。どうだった?」
と、聞いてくる。昨日のこともあり、
「はい、とても面白いです。あ、でも昨日のはわざとじゃなくて、まだそこまで読んでなかったので、本当に偶然です」
釈明する。沙苗さんはくすくすと笑いながら、
「そんなに必死にならなくても大丈夫よ。私が勘違いしたんだから。でも、本の中の世界をちょっと体験できたのは嬉しかったわ」
と、喜んでくれた。それが僕はたまらなく嬉しかった。なんだか二人だけの秘密を共有できたみたいな気がしたのだ。沙苗さんに、
「今まで恋愛小説を読んだことなかったんですけど、この作品、なんだか簡単にイメージできてて読みやすいです。感情移入もしやすくて。実は今日も二巻目読んでたら電車逃しちゃいました。あはは…」
「あらあら、大変だったわね。でもこの作品気に入ってくれてよかったわ。二巻目に入ったってことはあのシーンまで読んだ?」
沙苗さんは、わくわくしながら聞いてくる。
「桜並木のシーンですよね。紗菜の気持ちに早く気づけ~って、もどかしいですね、本当に。僕が博なら絶対わかりますよ」
「でしょ? 紗菜から告白してもいいんだけど、やっぱり博に気づいてほしいよね。この後の海でまた新しい展開になるんだけど」
「あ、すいません。まだその先は読んでなくて」
沙苗さんは慌てて、
「あら、ごめんなさい。ついつい好きなこと話しすぎてしまうわ」
「いえいえ、早く読んで沙苗さんと一緒に話せるようにしますね」
僕は満面の笑顔で返す。沙苗さんは嬉しそうに、
「うん、楽しみにしてるわね」
微笑む。僕は思い出したように、
「あ、今日はピーマンと玉ねぎください」
「あら? 今日は本は貸してないから無理に買わなくてもいいのよ?」
不思議そうに聞いてくる。
「いえ、今日の夕食で使うので必要なんです」
「そうだったの。じゃあ一番良いの選ぶわね」
沙苗さんは嬉しそうに野菜を袋に詰める。そして、
「毎日お買い上げありがとう」
と笑顔で渡してくれた。その笑顔が、商売用の笑顔ではない気がするのは気のせいだろうか。心の中でそんなことを考えながら、店を後にして帰り道の自転車を飛ばして行く。
家に着くと、
「あら、今日は早かったのね。部活は居残りなかった?」
「うん、今日は早めに終わったから。じゃあ、ちょっと部屋にいるよ」
階段を登ろうとしているところへ、
「広人、あなた最近ずっと部屋にいるわね。なにか悩み事でもあるの?」
「ううん、なにもないよ?」
質問に答えてふと、なにもないのか? 恋の悩みがあるのでは? いや、しかし親にこんな話をするのはいかがなものか。
思案しながら部屋のドアを開ける。ベッドに転がりぼすっと枕に顔を埋めて、はぁとため息。頭の中には沙苗さんのあの笑顔が浮かぶ。そうしているだけで幸せを抱きしめている感覚に満たされるのだった。そんな幸福感の中起き上がり本の続きを読み始める。確か紗菜がスケジュールを決めようとしていた辺りからだ。
「じゃあ、えっと八月九日にしない?」
「いいよ。お盆前だから混まなそうだし」
博は、笑顔で予定をスマホに入れる。紗菜は嬉しそうに顔を赤らめながら、
「よかった。この日に決まって」
同じようにスマホに予定を書き足して行く。博がふと、
「この日ってなんかあったような……。なんかの記念日だったっけ?」
紗菜は一瞬驚いてから、嬉しさと意地悪さが混じった顔で、
「その日まで内緒っ」
と、残ったパフェをたいらげ、
「予定も決まったし帰ろっか」
博の腕を引っ張り、店を出る。
桜並木の時とは大違いの、ルンルンで鼻歌を歌いながら紗菜は博と帰り道を自転車を押して帰るのだった。
ここで場面が一区切り付くので時計に目をやると、夕食直前の時間になっていた。ベッドの上に置いてある野菜の袋を思い出し、慌てて階段を駆け降りて母に尋ねる。
「母さん、夕食の準備終わった?」
「今、仕上げにかかっているからもう少し待ってなさいね」
「そうじゃなくて、ピーマンと玉ねぎって今から使う?」
母はちょっと不機嫌な顔をしながら、
「ここから間に合うわけないじゃない。とりあえず明日使うから、テーブルの上においといて」
沙苗さんに申し訳ない気持ちになりながら、買い物袋をテーブルに置く。リビングでは、仕事から帰った父が夜のニュースを見ていて僕は夕食までの間、父の横でテレビを見て過ごした。食卓の準備が整い三人で食事を始める。母が、
「最近、広人部活を頑張ってるみたいよ。あとお料理に興味出てきたのか野菜を買ってくるの」
と、父に話す。普段無口な父だが感心して、
「ほお、いいことじゃないか。大学は一人暮しを考えているのか?」
この話に題乗り気だ。
「うん、まぁ。まだどこ、って決めてはないんだけどね」
一応、話を合わせておく。父は頷きながら
「何事も経験だからな。今のうちに、母さんに料理を習っておくんだぞ」
「わかった。母さん、今日買ってきた食材で、なにが作れるかな?」
母に聞くと、
「そうね。昨日のはほとんど使っちゃったから、ニンジン少しとピーマンと玉ねぎね。まずは野菜炒めから作ってみましょうか」
「うん、じゃあ明日帰ってきたら教えて」
母は腕捲りして、
「任せて。母さんの味をちゃんと教えてあげるわね」
と、意気揚々としている。いずれ料理はしたかったのでちょうどよく、母と約束をしたのだった。
母と料理を作る約束をして、僕はまた二階の自室にこもるのだった。
本の場面は夏休みになっていて、博は計画的に宿題を、紗菜はのんびりと友達と遊ぶ日々が書かれている。
そして八月九日。
約束通り、駅前の待ち合わせ場所で合流した二人は電車で二時間ほどの道のりを行く。しばらくたってから車内で博が、
「結局、今日ってなんの日だっけ?」
気になっていたことを尋ねる。紗菜はちょっと照れながら、
「今日、一日海で遊んでから教えてあげる」
まだ秘密にしている。景色を眺めながら何をしようかなど話していると電車は目的地に着き、紗菜は張り切って、
「さあ、遊ぶわよ~」
気合いを入れると、
「お~!」
博も乗り気だ。
持ってきたビーチボールなどで、海で二人ではしゃぎながら遊ぶ。端からみたらどこにでもいそうなカップルだが、互いにそこは意識せずに海を満喫している。
夕方になり、人影もまばらになった砂浜に二人で座っていると、紗菜が、
「えっとね。博がまだ小学生の頃、一度うちで夕食を食べたことがあったじゃない? ちょうど五年前の今日」
と、切り出す。
「確か、紗菜の家の農園で遊んだ時だよね」
「あのとき博、疲れて寝ちゃったけど、寝言で私のこと大好きって言ってくれてたの。私それがとても嬉しくて。私も博が大好きだったから。だから、その、今日は私の特別な日だったのよ」
「え、僕そんなこと言ってたの? うわ~内緒にしてるつもりだったのにな~」
博はおでこに手を当ててかぶりを振ってから、
「そうだよ。僕はあの頃から紗菜が好きだった。でも二つ年上だし、友達としか見てないと思って。だから、あえてそっけない態度とって秘密にしてたんだ」
夕日の見える海岸で二人は互いの気持ちを打ち明ける。
「それで、いつ博が告白してくれるのかな、って待ってたんだけど、その気配もないまま三年生の夏。さすがにこちらからアクション起こさないと、高校生活終わっちゃうから誘ったの!」
ご立腹の紗菜。博は申し訳なそうに、
「ごめん、もう少し気持ちに素直になればよかったね」
「ほんとよ、もう。でも博と一緒に海に来れてよかったわ。あーあ、こんなことなら私から告白したほうが早かったわね」
謝ると、クスクスと紗菜は笑う。博も、
「僕も、もっと早く紗菜の気持ちに気づいたらよかったのに」
と、肩をすくめて苦笑い。
「そうよ。もっと早く気づきなさいよね。受験もあえて博の受かりそうな高校にしたんだから」
紗菜は博の頬をつつくが、
「あれ? このままだとここしか受からないから、って言ってたのは気のせいかな?」
博は冷静に突っ込みを入れる。紗菜は、頭を人差し指でかきながら、
「あら、そんなこともあったかしら?」
空を見上げてとぼけている。
「まぁ、どちらにせよ一緒の高校に進学できてよかったよ」
「そうね。博と違う高校にならないか二年間不安だったのよ?」
紗菜は困り笑いをしながら首を傾ける。
浜辺で二人は肩を寄せあいながらずっと話す。そして、日が沈むと同時にキスをするのだった。
ここで、今日は本を閉じて現実世界の問題と向き合おう。
実は午後の授業が全く身に入らなかったので、今日の宿題が何を出されたのか思い出せないのだ。
僕にはそういうことを聞ける友達がおらず、授業やホームルームで聞き逃すと非常に困ったことになる。
明日先生に叱られることを覚悟するか、はたまた昨日の所からできる範囲の問題をやり尽くすか。しばらく考えた結果、腹を括って寝ることにした。本をしまって明日も沙苗さんに会えるかな、と思いながら眠りにつく。
翌朝、目が覚めるといつもと部屋が違う。
なぜだろう、僕のイメージした博の部屋にそっくりだ。置いてある本やゲームなどの配置まで。とにかく、朝食を食べるためにリビングに降りて行く。ここはいつもの家で、父と母も普段通りに接してくれて、おかしなところはない。
食後、歯を磨きに行って歯ブラシを手に取り、歯磨き粉に手を伸ばした時に一番の異変に気づく。顔が、顔が違うのだ。僕の顔が博になっている。頬を触ってみるが違和感がない。頭の中が混乱していると母が、
「広人、そろそろ学校行く準備できたの?」
と、聞いてくる。顔は博だが名前は広人のままなのか? とりあえず家を出て自転車に乗り、やたらと暑いいつもの通学路をこいで行く。途中で、
「おーい、広人~」
自転車で追いかけてくる女の子が見える。同じ高校の制服だが夏服だし、僕には女友達はいないはずだ。だが間違いなくこちらに向かって、
「広人、ちょっと待ってってば!」
追い付いてきた女の子が言う。僕は困りながら、
「えっと…」
「えっと、って。あなた私の顔を忘れたの? 昨日の今日でしょ。頭でも打った? なんでか知らないけど冬服の制服着てるし」
その子の顔をよく見ると紗菜だ。とにかく本の通りに、
「おはよう紗菜。今日も元気だね」
と返す。すると、
「紗菜? 誰それ? 私は沙苗でしょ? まさか、もう浮気してるの?」
まずい、紗菜が沙苗さんで中身は紗菜で? もう全く訳がわからないが。
「浮気なんてめっそうもない、あはは……。ちょっと寝ぼけてるかも。だって、沙苗の名前忘れるわけないからさ」
勢いで呼び捨てにしてしまったが、沙苗さんは気にすることなく、
「だよね。昨日海に行って二人の気持ち確認したもんね」
と笑顔。昨日? 海? まさか、今は夏で、本の中と同じ状況なのか? それならこの暑さにも納得が行く。沙苗さんは、はっとして、
「いけない! 電車の時間もうすぐだよ。ほら、広人のんびりしてないの」
「あ、うん。急ごう」
二人で慌てて電車に駆け込み、ふぅ、と一息つくと、ちょうどドアが閉まる。沙苗さんは僕の顔を覗き込んで
「あぶなかったね。広人がぼんやりしてるからこういうことになるのよ? しっかりしてよね」
「ごめん、なんだか暑さでやられちゃってるみたい」
現状の把握ができるまではそういうことにしておこう。一応スマホのカレンダーを確認すると、今日は八月十日で、昨日の所には沙苗さんとの約束が入っていた。
「ところで広人、夏休みの宿題どれくらい終わった?」
「えっと、まだぜんぜん進んでないよ」
すると沙苗さんは驚いて、
「うそ? 広人が宿題進んでないのって本当におかしいよ? 大丈夫? まさか、ずっと寝込んでるとか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、高校の宿題って難しくて」
そういうと、沙苗さんは胸をなでおろして、
「なんだ、よかった。じゃあ明日家においでよ。勉強教えてあげる」
「え、でも家にはさすがに、ね? ほら女の子の部屋だし」
沙苗さんはにやりとして、
「あー、広人、今なんかやらしいこと考えたでしょ?」
顔を覗き込んでくる。僕は慌てて、
「そんなんじゃなくて! ほらお父さんとお母さんが彼氏にうるさい、ってよく聞くし」
すると沙苗さんは表情を曇らせて、
「お父さんもお母さんもいないんだ……。高校入ってすぐに事故で死んじゃったの。今はおばあちゃんのお店手伝って暮らしてるんだ」
「ごめん沙苗、いつも明るかったから、僕気づかなくて」
謝りつつここは現実の世界と同じなのかと思いながら知っていたことを隠す。
「ううん、いいの。くよくよしても二人は帰ってこないし。それより、広人の勉強の方が大事。これから三年間の基礎になるんだから。とりあえず明日、家に来て」
「うん、わかった。明日行くよ。あ、もうすぐ学校前の駅に着く。また帰りに会えたら一緒に帰ろ」
そう告げて、自分のクラスに向かっていく。
学校内の内装は広人と同じなのだが、クラス表記が数字ではなくアルファベットだ。自分のクラスか博のクラスか、どちらだ? 顔が博以外はほぼ広人の世界なので、広人のクラスに行くと、全員知らない顔で、
「あなた、このクラスじゃないでしょ? 誰かに用事? て言うか、なんで冬服着てるの?」
と、聞かれてしまった。こっちじゃないか、と思いつつ博のクラスに向かう。
全く知らない友達と、なんとかのらりくらりと会話を受け流しつつ、やり取りする。友達たちは様子がおかしいことには気づくがさすがに中身が別人とは思っていないようだ。ほとんどのことを暑さにやられたことにしていると、友人たちは保健室で休んでこいという意見で一致した。何かと好都合なので、言われた通りに保健室に向かう。
二限目まで休んで治らないようなら帰りなさい、と保健の先生に言われベッドで横になる。
することがないので現状の整理をしよう。
僕については名前は広人、顔が博だが家族は広人の家族、通っている学校は広人の学校で、クラスは博のクラス。博の友達たちは僕の異変に気づいてはいるが、詳細は把握していない。
よくもまあ、見事に混ざったものだ。
沙苗さんについても整理しよう。顔は紗菜だが中身は沙苗さん。年はふたつ上の三年生。状況は現状の沙苗さんの家族が亡くなったことが、紗菜の所に当てはめてある。おばあさんの店は恐らく八百屋だろう。僕とは昨日海に行って、告白しあって付き合っている。明日、沙苗さんは僕の勉強をみてくれるために家においで、と言ってくれている。
こちらもかなりごちゃ混ぜだ。
いろいろと本の内容を知っていれば対処できそうだが、鞄のなかにあるだろうか。
そうこうしているうちに二限の終わりのチャイムが鳴る。保健の先生が、
「どう? すこしは良くなった?」
と、聞く。現状の把握が十分でないので、
「すいません、まだぼーっとしてます」
嘘をつく。先生は心配そうに、
「じゃあ、今日は気をつけて帰りなさい。くれぐれも寄り道しないように」
と、言ってくれた。クラスに鞄を取りに行き、友達にも帰ることになったと伝えて学校をあとにする。朝、沙苗さんと一緒帰ろうと言ってしまったが、ここはいたしかたがない。家に着くと母が心配そうに、
「どうしたの。まだ学校の時間でしょ。具合悪いの?」
「うん、暑さで体調優れなくて。部屋で休んでるよ」
母には申し訳ないが、本を読み込む時間の確保のためにまた嘘をつく。
部屋で鞄を開けると僕の使っていたブックカバーが見えた。本の中身も確認して、この世界の先を読んでいく。
僕はこのあとどうなるのだろう、と読んでいるとまた大変そうなことが書いてある。博を心配した紗菜が家に訪ねて来るのだ。本では博は心配してくれる紗菜にすまなそうに応対して、明日の予定については保留している。
保留、か……。
どちらに向かうかはっきりしていれば、断ったりできるのだが。やみくもに本の世界から外れるのも、危ない気がする。
先をちょっと読み飛ばし、ページをまとめてめくると何も書いていない。驚いて、もとのページに戻るとちゃんとそこは文字がある。順を追って読まなければならない、ということなのだろうか。戻ったページから読んで行くが、明日のところから途切れている。その日の事までしか、書いてないようだ。
とりあえず沙苗さんが来るということがわかったので、心の準備をしておこう。体調が悪いということにしてあるので、ベッドで横になっておいたほうがいい。
するとだんだん眠気がきて、僕は眠りに落ちるのだった。
目を覚ますと、そこはいつもの僕の部屋で、物の配置も元に戻っている。さっきまでのが全て夢だったのだろうか? 念のため鏡で顔を確認するが、広人の顔だ。ただの夢なら問題ないかと僕はリビングに降りて行く。すると母が、
「あら、広人。今日は早いのね。まだ五時よ?」
「え、そうなんだ? なんだか、すごく長い間眠ってたみたいな感じがしたから起きてきちゃった」
母はいつもの調子で、
「そんなんで一日大丈夫なの? 今日も部活なんでしょ?」
と、世話を焼いてくれる。僕はあくびをしながら、
「ふぁ~。まぁ、起きちゃったしご飯までゆっくりしてるよ」
リビングのソファに腰掛ける。母は洗濯物を抱えながら、
「じゃあ、朝ご飯早めに作るわね。六時になったらお父さん起こしてきて」
洗面所の方に歩いて行く。僕が何気なくテレビのローカルニュースをつけると、十五年前の交通事故の話をしていた。親子三人のところに車が突っ込み、ご両親が亡くなり女の子も足にひどい怪我をしたそうだ。こういうことを聞くたびに、何事もない日常のありがたみを痛感する。そうこうしているうちに、母は洗濯を終えて、
「今からご飯作るから、広人は洗濯物干しとお父さん起こすのお願いね」
「うん、わかった。父さん普通に起こして起きる?」
ちょっとひねくれた聞き方をすると、
「声かけて起きなかったら、鼻をつまんであげて。一発で起きるから」
「わかった。じゃあ起こしてくる」
トントンと駆け足で階段を登ると父の部屋の前で、
「父さん朝だよ、起きて」
「ううん、まだ六時前だろ、もう少し寝る……」
声をかけたが、案の定すっとは起きない。
「父さん入るよ。ほら、ご飯だってば」
部屋に入り寝ている父の鼻をつまむと、
「ふがっ」
なんとも言えない音を出して跳ね起きた。
「なにをする……、あ。広人か、今日は早いんだな。起こしてくれたのか」
「うん、母さんがごはんの支度してくれてるよ」
父は眠そうな顔をしながらも、
「ありがとうな、すぐ降りていくから先に行っててくれ」
と、着替えを始める。僕がリビングに戻ると、ちょうど母が朝食の準備を終えていて
「起こしてきてくれたのね、ありがとう。ごはん出来てるから、お父さん降りてきたら食べましょう」
「じゃあ、並べるの手伝うよ」
出来上がった料理を食卓に運ぶ。並べ終えると同時にスーツ姿の父がリビングに降りてきて、
「久々に三人揃っての朝食だな。今日はいいことあるぞ」
「父さん、ちょっと大袈裟だよ。僕がたまたま早起きしたくらいで」
僕が苦笑いすると父は、
「いやいや、日常の何気ないことが大事なんだ」
感慨にふけっている。母が、
「あら、お父さんもたまにはいいこと言うのね」
ちゃかしながら食べる。
僕はふと、そういえば家族三人の朝食はいつぶりかを考えた。高校に入ってからは朝はバタバタしてゆっくり食べていない。中学校時代以来だろうか。そう考えるとなんだか貴重なことなんだと思えてくる。いつも食べている母の手料理もちゃんと味わって食べることがほとんどなかったが、手間のかかる料理が何品も並んでいた。母が、
「今日の豚汁に使ってあるにんじんとじゃがいもは、広人が買ってきてくれたものなのよ。昨日のお肉の残りを使って作ったの」
「そうなんだ。朝から作るの大変じゃない?」
僕が聞くと、母は嬉しそうに首を横に振って、
「家族が食べてくれることが嬉しいから、そんなこと気にならないわ。広人も料理に興味持ってくれたみたいだし」
「そうなんだね。僕も、そのうち誰かのために料理作る喜び感じられるかな?」
頭のなかで沙苗さんに料理を作ってみたい、と思いつつ、そんなことを言うと、
「広人も、いつかそんな人ができるといいわね」
母は優しく笑っている。
支度も整えたが、まだ学校に行くには少し早いので、沙苗さんの八百屋の前を通ってみよう、と家を出る。
自転車で通りかかると、沙苗さんは朝に仕入れた野菜の陳列を終えたところだった。こちらに気がつき、
「あら、広人君おはよう。こんな早くからどうしたの?」
「おはようございます。今日はたまたまこっちの道を通ってみようと思いまして」
沙苗さんはにっこり微笑んで、
「もしかして会いに来てくれたとかかな? ふふっ」
野菜の入っていた箱を奥へ片付ける。何となく右足を引きずるように歩くのが気になって、
「沙苗さん、足どうかされたのですか?」
と、聞く。
「ああ、これ? 昔に事故で傷めちゃってね。今は生活には問題ないから大丈夫よ。普段は椅子に座ってることが多いし」
ふと、今朝に見たニュースを思い出す。
あの被害者が沙苗さんなのだろうか。こんな理不尽な家族との別れなど酷すぎる。だが、そうだと決まっていないのに、なぜ勝手に被害者だと思うのだろう。心のどこかでそうあってほしいのか?
また答えの出ないぐるぐるを廻らせながら沙苗さんを見ると、箱の片付けを終えてレジ横のいつもの椅子に座るところだった。沙苗さんは申し訳なさそうに、
「ごめんね。生活に支障はなくても長い時間立っていられなくて。本当は本の中の紗菜みたいに、元気よく呼び込みとかしたいんだけどね」
と、肩をすくめて謝る。僕は慌てて、
「そんな、沙苗さんが謝ることじゃないですよ。なんなら明日から店を手伝いに来ます!」
言葉を発してから、
「すいません、僕なんか来てもお役にたてないですよね……」
「そんなことないわ。大歓迎よ! 重たい荷物とか結構届くし、私一人だと大変だから。広人君なら、空き時間に本の話とかできるしね。あ、でも全部やってしまわないでね。私のリハビリかねて多少は動かさないといけないから」
僕は暗かった表情をぱっと明るくして、
「はい! じゃあ明日の朝、また来ますね」
自転車にまたがりながら告げると、紗苗さんは手を振って、
「ありがとう。気をつけて行ってらっしゃい」
と、見送ってくれた。
父が言っていた通り、朝から良いことがあってご機嫌で電車に揺られて行く。そしてお待ちかねの昼放課。
僕の読書専用の場所となっている屋上に寝転がり、本を開く。今朝の夢の中でも読んだが、一応違いはないか、と少し前から読み直していると、紗菜と博が朝、出会う場面まできた。博が自転車をこいでいると後ろから紗菜が追いついてきて、
「おーい、博~」
「あ、紗菜おはよう」
と、普通に挨拶している。
「おはよう、博。っとと、急がないと電車の時間もうすぐよ」
「そうだった、ごめん。ぼーっとしてた」
二人は大急ぎでいつもの駅へ向かう。なんとか電車に間に合い、
「あぶなかったね。博がうっかりしてるからこうことになるのよ? しっかりしてよね」
「ごめん、なんだか暑さでやられちゃってるみたい」
と、博は苦笑いして肩をすくめる。紗菜は心配しながらも
「大丈夫なの? 宿題とかちゃんと進んでる?」
「うん、なんとかね。とりあえず困ってはいないかな」
すると、紗菜はやや不満げに、
「ふーん、そうなんだ。でもちょっと不安だな、とかはあるでしょ?」
「まぁ、確かに。この前の数学とかは難しかったなあ」
すると、しめたとばかりに紗菜が、
「じゃあ明日、家においでよ。分からないとこ教えてあげる」
この誘いに博は、
「え、紗菜が?」
「なに? 私じゃ不満なの? これでも学年では優秀なほうなのよ!」
迂闊な発言をしてしまう。すぐに手を合わせて、
「ごめん、受験生の時のイメージがまだ残ってて。でも紗菜の家って、リビングで勉強会して大丈夫?」
「そんなの、私の部屋に決まってるじゃない」
それを聞いて、博は気まずそうに、
「でも、ほら。女の子の部屋にはちょっと、ね?」
「あー。博、今やらしいこと考えたでしょ?」
「いやいや、そんなことは! ご両親とか彼氏にうるさいとかあるじゃん?」
若干図星で声が上ずってしまいながらも、なんとか紗菜の部屋への招待を回避しようとするが、
「大丈夫、夜まで帰ってこないから。さすがに博も遅くまではやらないでしょ?」
「うん、まぁそうだね。じゃあ、おじゃましようかな」
押し負けて紗菜の家に行くことを決意する。
ここまで読んで、会話のところが多少違うが、流れは夢と変わらない。何となく安堵しながら、続きを読む。
翌日、博は紗菜の家リビングで異様な光景のなかにいた。出迎えてくれた紗菜と、何故か仕事に行っているはずの紗菜の両親に囲まれて、お茶を飲んでいるのだ。博は一応、
「紗菜、なんでお父さんもお母さんもいるの?」
と、聞いてみる。紗菜はげんなりしながら、
「昨日、明日家で勉強会することにしたから、ってお母さんに言ったら『男の子? 女の子?』ってしつこく聞かれて、仕方なく話したらこの結果よ、はぁ」
ため息をつく。紗菜の両親は、
「いやー、紗菜が男の子家に連れて来るって聞いて不安だったんだけど、博君なら安心だよ」
「そうね。博君はしっかりしてるから、将来紗菜をまかせられるわ」
と、なんだか話がかなり先まで行っている気がする。
博は慌てて、
「いえ、まだ付き合いだしたばかりですし、その後のことは……」
「バカッ! 博! 今のはそれを誘導する『振り』でしょ!」
紗菜の言葉にはっ、とすると紗菜の両親はにんまりとして、
「あら、やっぱり付き合ってるのね~」
「うんうん、そういう年頃だからな」
と、うなずいている。紗菜はため息をつきながら、
「博、私の部屋に行くわよ。ここにいたら何を聞かれるかわからないわ」
「あ、うん。紗菜ごめん」
「言っちゃった事は仕方ないわ、気にしないで」
博を部屋に案内する。
紗菜の部屋はきれいに整頓されていて、かわいらしい小物が並べてある。壁紙の色合いも落ち着いた色で、紗菜の性格とは、なんだか真逆なイメージを受けてしまった博は思わず、
「へぇー、綺麗な部屋だね」
と、口をついて出てしまう。紗菜は自慢げに、
「ふっふーん。博、絶対に私の部屋散らかってるって思ってたでしょ? ちゃんと片付けるように心がけてるんだから。ほら、勉強道具持ってきたよね? そこに広げて。わからないとこ教えるから」
「ありがとう。えと、数学のこことここ、あとこの公式がいまいちよくわからなくて」
博は教科書をめくりながら指をさしていく。
「あー、確かに一年の数学でよくつまづくところね。じゃあ、最初のところからやっていこうか」
紗菜は、博のわからないところに的確なアドバイスをしていく。博はひらめいたかのように、
「そうか、じゃあここはこちらの式からこうして……」
わからないと言っていたのが嘘のように、すらすらと解いていく。紗菜は感心して、
「さすが博、理解が早いわね~」
「紗菜の教え方が上手いんだよ。自分で考えてもさっぱりだったんだから」
紗菜はしめたとばかりに、
「じゃあ、このお礼は週末デートで返してもらおうかな? 丁度新しい服を見に行きたかったのよね。駅前のショッピングモールがいいなあ」
「わかったよ……。でも、あんまり高いの買えないよ?」
「そこら辺は、高校生のおサイフ事情は考えるわよ。私も鬼じゃないんだから。休憩のカフェの奢りくらいで勘弁してあげる」
と、意地悪そうに笑う。
「じゃあ、週末にデートの予定入れとくね。待ち合わせは駅前でいい?」
「うん、私もメイクとか時間かかるから、十時くらいが助かるかも」
「わかった。今週末、いつもの駅前で十時ね」
二人はスマホにスケジュールを入れて約束をする。
ここでふと、気になることがあった。夢では僕は体調を崩して家に帰り、沙苗さんが心配して来てくれることになっていた。しかし本の内容は違っている。
まぁ夢なので本の通りに進んでいるのも不思議なのだが、と思ったところで昼放課の終わりのチャイムが鳴る。
僕は本に折れ目が着かないように丁寧にかばんにしまい午後の授業を受ける。
帰り道に沙苗さんの八百屋に寄ろうかとも考えたが、今朝行ったばかりなのでやめておこう。それより今日は宿題を早く終わらせて早めに寝ることにしよう。明日は手伝いに行く約束をしているのだから。
家に帰ると、夕食までに宿題を片付けて母に、
「母さん、今日はちょっと早めにお風呂入るから」
と、伝える。すると母は意外そうに、
「あら、そうなの? 明日は朝練?」
「まぁ、そんなようなものだよ。朝ごはんもちょっと早くにお願いできる?」
若干、嘘に後ろめたさを感じながらも答えると、
「わかったわ。朝は起こした方がいいの?」
母は心配してくれる。しかし、自分のことなので、
「ううん。自分で起きるよ。ありがと」
母に礼を言って、最近ご無沙汰だったゲームを始める。しかし、以前は夢中になれたはずなのに身が入らない。まるでデート前日のそわそわした感じみたいだ。いや、デートなどしたことないのでこんな感じなのだろうと勝手に思っているのだが。
そういえば今日は母と料理を作る約束をしていた。
夕食前にキッチンで野菜炒めを手ほどきを受けながら作るが簡単なようで難しい。なんとか完成させたが、要練習だ。
寝る前に目覚ましのアラームを朝の五時にかけて早々に眠りにつこう。沙苗さん喜んでくれるかな? と、わくわくしながら眠りに落ちる。
翌朝、いつもより二時間も早くアラームが鳴ったが、僕は一発で目を覚ましリビングに降りていく。母も起きたばかりで、あくびをしながら、
「広人おはよう~。朝ごはんおにぎりと簡単な一品しかないけどいい?」
「うん、大丈夫。早くからありがとう」
挨拶をする。
作ってもらった朝食を食べると、
「それじゃ行ってきます」
と、家を出発する。
沙苗さんの八百屋に着くと、今、まさに配送車から荷おろしを始めようとしているところだった。僕は慌てて駆け寄る。
「沙苗さん、手伝います!」
沙苗さんは嬉しそうに微笑みながら、
「あ、おはよう広人君。来てくれたのね。じゃあ、キャベツと大根の箱からお願いしてもいい? レジ裏辺りに置いてくれると助かるわ」
「はい! レジ裏ですね?」
一応、運動部に所属しているので力は多少自信があったが、一箱キャベツとなるとかなりの重量だ。毎日沢山では無いにしろ、沙苗さん一人では大変だっただろう。
僕が重い物を運んでいる間に、沙苗さんは葉物野菜を荷おろししていた。そういえば、今日は火曜日で、ここの八百屋の特売日だ。新鮮な野菜を食べてほしいという沙苗さんの気持ちが伝わってくる。
ひととおり荷おろしを終えると、沙苗さんが、
「広人君、朝ごはんはもう食べた? 簡単なものでよければうちで食べてく?」
と、誘ってくれた。実は軽く食べてあるのだが、こんなチャンスを逃す訳にはいかない。
「いいんですか? そしたらご馳走になります」
「じゃあ、仕度すぐにするからリビングでちょっと待ってて。煮物とかは昨日の残りになっちゃうけど、ごめんね」
「いえ、沙苗さんの美味しいご飯をいただけるなんて。なんか手伝いに来たのか食べに来たのかわからないですね」
沙苗さんは照れながら、
「もう。お世辞を言ってもなにもでないわよ?それとも私が気になりだしちゃったとか?」
ちょっと意地悪な質問をしてくる。僕はしどろもどろに、
「あ、えーと、その、それはですね」
返答に困っていると、
「ふふっ。広人君はわかりやすいわね。はい、どうぞ。召し上がれ」
と、朝食を並べてくれた。
二人分の朝食を並べながら、
「気になりだしたのはむしろ……」
早苗さんがぽつりと言う。食卓には味噌汁に野菜の煮物、鮭の塩焼きと素敵な朝定食が並ぶ。こんな幸せな朝食を二人で食べていると沙苗さんに、
「広人君、悪いけどあの大きな箪笥の上の箱を取ってもらっていい?」
と、ちょっと申し訳なさそうにお願いされたので、
「いいですよ。お安いご用です」
と、快諾して立ち上がる。
箪笥の上に置かれた小さな箱は僕でも背伸びをしないと取れなかった。沙苗さんは足を痛めているから尚更取るのが困難なのだろう。落とさないように気をつけながら、少し埃のかぶった、赤い小箱を沙苗さんに渡すと、寂しそうな表情をしながら、
「この箱はね、おばあちゃんが私の小さい時にくれたものなの。大切な人が出来たら渡すのよ、って。大切な箱だけど、お父さんとお母さん亡くしてからは、幸せだった日常を思い出すから、あまり目につかない届かない場所に置いていたの。でも広人君と朝ごはん食べてたら、なんだか懐かしくなっちゃって」
涙を拭いながら少し笑って、
「もし、広人君さえよければ、たまにこうやって、朝ごはん一緒に食べてくれるかな?」
「もちろんですよ。お店の手伝いにも来ますね」
「ありがとう。なんだか広人君が家族みたい」
沙苗さんはにっこり微笑んでくれた。家族みたい、か。本当の家族以外にそんなことを言ってくれる人がいるって嬉しいな。そう思っていると沙苗さんは小箱を見つめて話始める。
「私ね、おばあちゃんに言われたの。幸せは種をまかないと芽は出さないのよ? ちゃんとあなたの幸せの種をまきなさいって。でも事故にあってからはもう私には幸せは来ない。それならせめて、この八百屋を続よう。誰かが幸せな食卓を囲めるようにしよう。そう言い聞かせてきたの」
「早苗さん……」
「でもね。私、幸せの種をまきたくなっちゃった。今までどこにまいたらいいかわからなかったけど、今ならはっきりとわかる」
早苗さんは瞳を潤ませながら、小箱からネクタイピンを取り出して、
「広人君、よかったらこれもらってくれないかな?」
突然の申し出に、僕は驚きを隠せない。
「えっ!? 僕なんかがもらっていいんですか? 僕より早苗さんにふさわしい人が……」
沙苗さんは首を横に振ってから、僕の目を真っ直ぐ見て、
「今まで八百屋の店先に居たけど、買い物をする以外に私に声をかけてくれる人なんていなかったわ。潰れかけの八百屋押し付けられて可哀想、とか言ってくる人はたまにいるけれど。私はやりたくてこの八百屋やっているのにね。それに、広人君は八百屋の私じゃなく小説を読んでる私に声をかけてくれたわ。本当の姿の私に。広人君、今すぐじゃなくてもいい。私の家族になってほしいの……」
僕は早苗さんの瞳をしっかりと見つめ、
「わかりました。ちゃんと働けるようになったら必ず迎えに来ます。僕も博みたいにしっかりした男になりますから」
「うん。待ってる。この八百屋のいつものレジ横で」
そう言った沙苗さんの目には大粒の涙か浮かんでいた。でもそれは悲しい涙ではなく、心から嬉しいと思えたときにあふれる涙だった。
それから、僕は沙苗さんの八百屋に朝から頻繁に通うようになった。事情は両親にもきちんと話し高校を卒業したら働くことや、沙苗さんとのことも承諾してもらった。快く、という訳にはやはりいかなかったが、必死に説得した。
春が過ぎ夏になり秋が通り過ぎ冬がくる。季節の流れとともに、僕と沙苗さんの絆は深まっていった。
そして月日が流れ、僕は高校を卒業した。仕事に就いて、もう三年が経つ。
面接の時に早苗さんからもらったネクタイピンをしていたおかげか、野菜の卸業社に入社することができた。最近では運転免許を取り、八百屋への配送もしている。
夏のある日、配送先のある八百屋の前で車を停めると、
「おはようございます。一番のお野菜をお届けに来ましたよ」
と、レジ横の女性に声をかける。
「あら、広人君。いつもありがとう」
あの一番大好きな、明るい返事が返ってきた。僕は早苗さんに、
「今日は特別に仕入れた物も持ってきましたよ」
「えっと、なにか頼んでいたかしら?」
ちょっと不思議そうにしているので、
「ふふっ、今日が何月何日か分かれば、たぶん早苗さんなら届け物がわかりますよ」
一瞬考えて、はっとした表情から嬉し涙をこらえつつ、
「八月九日ね……。私この日をずっと待ってた…」
「はい、お待たせしてしまいました」
僕はポケットから小さな小箱を取り出して、
「早苗さん、あなたを迎えに来ました。僕と結婚してください!」
と、箱を開いて沙苗さんの薬指に通す。早苗さんは大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、
「はい! よろしくお願いします」
と、微笑んで受け取ってくれた。
僕と沙苗さんの小説のようなこの物語はこれからも続いて行くのだろう。幸せを実らせ続けるそんな未来に向かって……。
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