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溺れるコウモリ
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沈んで行く……。
深く息も出来ない所へ。もがいてもがいても、ただ、沈んで行く……。
僕はこの教室の片隅で溺れていた。空気があるのに自分の居場所がないということは、それほどに苦しいことだった。足に鉛をつけられ、海に放り込まれたような、そんな感覚。誰かに何かされた訳ではない。ただ仲間に入れないだけ……。そう言い聞かせる事が、自分に残された酸素だった。こんなに息をするのが苦しくなったのは……。小学生の僕は、この深い深い底なしの海で泳ぐ術を持っていなかった。
授業が始まると、クラスメイトは席についた。僕の席は廊下寄りの一番後ろ。片方の隣と後ろは誰もいない。それによる寂しさはさほどではなかった。何故なら授業中は先生というインストラクターが監視してくれているのだから。だが、四十五分の授業が終わると、僕は海に投げ出された。皆が三々五々に遊びに散って行く。でも、僕はそれに付いていく事が出来なかった。正しくは許されなかった。
もともと、僕は誰とでも仲良くしたい方ではあった。だが、それが災いしたのだ。ある休み時間。いつも遊んでいた友達から意外な言葉を聞いた。
「お前、向こうと遊ぶんだろ? ならこっち来るなよ」
軽い衝撃だった。こちらから弾かれたなら別の友達と遊べばいい。そんな甘い考えをしていた。事が重大になったのに気づいたのは別のグループへ行った時だった。
「あっちで遊んでんだろ? こっち来んな」
足元が崩れていく感覚。崖っぷちに踏みとどまっていた足元が。
それからの休み時間。僕は席に座り、ひたすらに息をしようと必死だった。逃げ出したくなるような苦痛の中で、誰とも会わない場所を探し求めた。
そんなある日、僕は図書室へとやってきた。閑散と利用者のいない図書室。オブジェのような図書委員は座っているだけでなにもしない。僕は本棚から一冊手にとり、一番窓際の席の椅子を引いた。マットの床を木の椅子が擦る僅かな音だけが図書室に響く。本を読むことでその世界に浸り、その時間だけは息が出来た。そこだけ空気があるかのように。だが、チャイムが鳴ると、僕は自分の足で暗い海の底へと帰って行かなくてはならなかった。
インストラクター付の潜水と無言の図書室での休息。望んでこうなった訳ではないのに、これが一番心落ち着くようになっていた。教室で一人溺れる事を思えば、一人で本を読む方が何倍も気が楽だった。
ある時、本の中でコウモリの話が出てきた。動物でも鳥でもないコウモリは、ある時は動物の仲間だと言い、またある時は鳥の仲間だと言った。そのうちにコウモリはどちらからも仲間ではないと言われてしまう。それを読んだとき激しく胸が痛んだ。ああ、僕はコウモリなんだ。どっち付かずの半端な生き物なんだと。コウモリはコウモリらしく、誰もいないこの図書室にいるべきだ。
こうして、コウモリの図書室暮らしは続いていった。それは数年に及ぶ、孤独な孤独な休み時間だった。
人の心とは、さほど丈夫ではないらしい。高学年になったのある日、僕は朝起きて母に言った。
「学校に行きたくない……」
理由を聞かれたが、何故行きたくないのかは自分でも分からなかった。ただ漠然と、なんとなく行きたくない。数年間に及ぶ図書室生活は確実に僕の心を蝕んでいた。内面から奪うように、じわりじわりと残り酸素量は減っていたのだ。そしてついにその日にゼロになった。もう、あがく体力も残されてはいなかった。
中学生になり、他の学校から合流するように生徒が増えた。ただ、休み休み学校に行きながら僕は図書室通いを止めようとはしなかった。また溺れる。そんな恐怖が人と関わる事を躊躇わせた。
クラスの半数以上は知らない生徒。なので、僕が図書室に通う理由を知る者はほとんどいない。僕は本が好きな生徒、という風に見られていたのかもしれない。ある日、図書委員のクラスメイトに声をかけられた。
「なあ、優人。図書室で気に入ってる本でもあるのか? まぁ、アンケート的なやつだけど」
僕はたじろいだ。特に気に入ってる物もないし、実は逃げているとも言いにくかった。
「いや、特に……」
「ん? 無いのか? 来てる日は図書室に来てるからさ。ご贔屓さんにサービスしようかと思ったんだが」
ご贔屓さん? なんのことだろう?
「ほら、うちの学校の図書室って人がいないだろ? だから本好きのお前にサービスして宣伝してもらおうかと」
にしし、と笑う。こちらとしては、人が来ない方がありがたいのだが……。
「いや、僕は止めた方がいいよ。コウモリだし」
「コウモリ? なんだそれ?」
言ってからしまったと気づく。
「いや、友達少ないっていう……あれだよ」
「そか。まぁ、一言言わせてもらうとするなら、お前がコウモリならコウモリ仲間を探すってのも悪くないんじゃないか? 俺もコウモリになってやるからさ」
にっかりと笑う彼はそんな言葉をくれた。ああ、そうだ。目の前のこの人は、色眼鏡なしで仲間に、友達になってくれると言っているのだ。溺れていた海に手が差しのべられている。水面には、明るい光が見えていた。
「そう、だね。コウモリが一人でいないといけない理由は……ないよね」
「お、決まりだな」
ここで一番聞きにくいことを聞くことになる。
「えっと、君の名前って?」
さすがにショックだったようで、
「おいおい? 三ヶ月も同じクラスで名前も覚えてないのか? 御堂だよ。御堂翔。頼むぜ? 同じコウモリ仲間なんだから」
軽くこちらを小突く。だが、それこそが水底で伸ばし続けていた手を掴んでくれた瞬間だった。
「ごめん」
苦笑いして翔の後についていく。
それだけで十分だった。僕はもう一人じゃない。翔がようやく海の底から引き上げてくれた。うん、もう大丈夫。
深く息も出来ない所へ。もがいてもがいても、ただ、沈んで行く……。
僕はこの教室の片隅で溺れていた。空気があるのに自分の居場所がないということは、それほどに苦しいことだった。足に鉛をつけられ、海に放り込まれたような、そんな感覚。誰かに何かされた訳ではない。ただ仲間に入れないだけ……。そう言い聞かせる事が、自分に残された酸素だった。こんなに息をするのが苦しくなったのは……。小学生の僕は、この深い深い底なしの海で泳ぐ術を持っていなかった。
授業が始まると、クラスメイトは席についた。僕の席は廊下寄りの一番後ろ。片方の隣と後ろは誰もいない。それによる寂しさはさほどではなかった。何故なら授業中は先生というインストラクターが監視してくれているのだから。だが、四十五分の授業が終わると、僕は海に投げ出された。皆が三々五々に遊びに散って行く。でも、僕はそれに付いていく事が出来なかった。正しくは許されなかった。
もともと、僕は誰とでも仲良くしたい方ではあった。だが、それが災いしたのだ。ある休み時間。いつも遊んでいた友達から意外な言葉を聞いた。
「お前、向こうと遊ぶんだろ? ならこっち来るなよ」
軽い衝撃だった。こちらから弾かれたなら別の友達と遊べばいい。そんな甘い考えをしていた。事が重大になったのに気づいたのは別のグループへ行った時だった。
「あっちで遊んでんだろ? こっち来んな」
足元が崩れていく感覚。崖っぷちに踏みとどまっていた足元が。
それからの休み時間。僕は席に座り、ひたすらに息をしようと必死だった。逃げ出したくなるような苦痛の中で、誰とも会わない場所を探し求めた。
そんなある日、僕は図書室へとやってきた。閑散と利用者のいない図書室。オブジェのような図書委員は座っているだけでなにもしない。僕は本棚から一冊手にとり、一番窓際の席の椅子を引いた。マットの床を木の椅子が擦る僅かな音だけが図書室に響く。本を読むことでその世界に浸り、その時間だけは息が出来た。そこだけ空気があるかのように。だが、チャイムが鳴ると、僕は自分の足で暗い海の底へと帰って行かなくてはならなかった。
インストラクター付の潜水と無言の図書室での休息。望んでこうなった訳ではないのに、これが一番心落ち着くようになっていた。教室で一人溺れる事を思えば、一人で本を読む方が何倍も気が楽だった。
ある時、本の中でコウモリの話が出てきた。動物でも鳥でもないコウモリは、ある時は動物の仲間だと言い、またある時は鳥の仲間だと言った。そのうちにコウモリはどちらからも仲間ではないと言われてしまう。それを読んだとき激しく胸が痛んだ。ああ、僕はコウモリなんだ。どっち付かずの半端な生き物なんだと。コウモリはコウモリらしく、誰もいないこの図書室にいるべきだ。
こうして、コウモリの図書室暮らしは続いていった。それは数年に及ぶ、孤独な孤独な休み時間だった。
人の心とは、さほど丈夫ではないらしい。高学年になったのある日、僕は朝起きて母に言った。
「学校に行きたくない……」
理由を聞かれたが、何故行きたくないのかは自分でも分からなかった。ただ漠然と、なんとなく行きたくない。数年間に及ぶ図書室生活は確実に僕の心を蝕んでいた。内面から奪うように、じわりじわりと残り酸素量は減っていたのだ。そしてついにその日にゼロになった。もう、あがく体力も残されてはいなかった。
中学生になり、他の学校から合流するように生徒が増えた。ただ、休み休み学校に行きながら僕は図書室通いを止めようとはしなかった。また溺れる。そんな恐怖が人と関わる事を躊躇わせた。
クラスの半数以上は知らない生徒。なので、僕が図書室に通う理由を知る者はほとんどいない。僕は本が好きな生徒、という風に見られていたのかもしれない。ある日、図書委員のクラスメイトに声をかけられた。
「なあ、優人。図書室で気に入ってる本でもあるのか? まぁ、アンケート的なやつだけど」
僕はたじろいだ。特に気に入ってる物もないし、実は逃げているとも言いにくかった。
「いや、特に……」
「ん? 無いのか? 来てる日は図書室に来てるからさ。ご贔屓さんにサービスしようかと思ったんだが」
ご贔屓さん? なんのことだろう?
「ほら、うちの学校の図書室って人がいないだろ? だから本好きのお前にサービスして宣伝してもらおうかと」
にしし、と笑う。こちらとしては、人が来ない方がありがたいのだが……。
「いや、僕は止めた方がいいよ。コウモリだし」
「コウモリ? なんだそれ?」
言ってからしまったと気づく。
「いや、友達少ないっていう……あれだよ」
「そか。まぁ、一言言わせてもらうとするなら、お前がコウモリならコウモリ仲間を探すってのも悪くないんじゃないか? 俺もコウモリになってやるからさ」
にっかりと笑う彼はそんな言葉をくれた。ああ、そうだ。目の前のこの人は、色眼鏡なしで仲間に、友達になってくれると言っているのだ。溺れていた海に手が差しのべられている。水面には、明るい光が見えていた。
「そう、だね。コウモリが一人でいないといけない理由は……ないよね」
「お、決まりだな」
ここで一番聞きにくいことを聞くことになる。
「えっと、君の名前って?」
さすがにショックだったようで、
「おいおい? 三ヶ月も同じクラスで名前も覚えてないのか? 御堂だよ。御堂翔。頼むぜ? 同じコウモリ仲間なんだから」
軽くこちらを小突く。だが、それこそが水底で伸ばし続けていた手を掴んでくれた瞬間だった。
「ごめん」
苦笑いして翔の後についていく。
それだけで十分だった。僕はもう一人じゃない。翔がようやく海の底から引き上げてくれた。うん、もう大丈夫。
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