『湖畔にて、名もなく』―静寂の中で、心がほどけていく―

しらかわからし

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第1話:雪の湖畔にて

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杉木立の間を縫うように続く山道を左に折れると、視界がふいに開け、静寂に包まれた中禅寺湖が青く凍てついていた。湖畔の町並みは、降り積もった雪に覆われて、鼠色の空の下、まるで墨絵のような静謐な世界を描いていた。

 麻衣子は、駐車場に近い神社の前の平坦な道をわざと避けて歩いた。
 春から夏にかけては、野草が好き放題に伸びる歩道だが、冬の静けさの中では、柔らかな雪が一面を覆い、白い絨毯を敷いたように穏やかな表情を見せる。

 底の厚い靴で踏みしめると、キュッキュッと鳴って、日常の裂け目から、何かが顔を覗かせる気配に、胸がざわついた。 
麻衣子は人通りのまばらな通りから路地に入って行った。
 なんの痕跡ものこっていない。人の気配もない。
 スパイクタイヤが雪道を叩く耳障りな音もここまでは届かない。
 若葉の頃を過ぎ、実りの季節を歩む麻衣子の背に、冬の陽がやさしく差していた。片時も離れぬ彼の記憶を、心の奥で静かに撫でていた。
   
◇◆◇

「おはようございます」
 雇ったばかりの真凛は頭も下げずに挨拶する。
 注意をしようと思ったが、麻衣子はお客様からもらったニットのマフラーをとると、
「表の看板がついてないわ」
 と言った。
「はーい」
 間延びした返事がかえってきた。近ごろの若い娘はこれだから、と麻衣子は溜息をついた。
「はーい、じゃなくて、はいでしょ」
 麻衣子が叱ると、真凛は、肩パッド入りのジャケットに身を包み、『ワンレン・ボディコン』の流行を完璧に体現していて、足首の折れそうな踵の高いパンプスをカツカツと鳴らしながら出ていった。
「静かに歩いてね」
 麻衣子は穏やかに言ったが、真凛はしかめっ面を隠さなかった。麻衣子はざわめく胸の内をなだめるように、ゆっくりとカウンター内を拭いた。
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