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16.春風再び 4

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「ふぇ~ん、清水君……ひ、人が見てるよぅ」
 風花は頬をジャケットに押しつけられたまま、弱々しく抗議した。
「橋の陰になってるから誰にも見えない、風花を見せたりしない。第一もうほとんど人はいないから」
「ほんとう……?」
 おそるおそる風花は目線を上げる。しかし、樹の腕越しに深くなりはじめた宵闇の空が見えるばかりだ。
「だけど……あまり安心できないんだけど……」
「俺も安心できない」
 ため息とともに樹が漏らした。
「え? 私といても不安だってこと?」
 風花が顔を上げかけたが再びぎゅっと押さえ込まれる。
「ちがう。そうじゃなくて、あなた、ぼんやりしてるから」
「ううう……しどい」
「だから……なんていうか、目を離せないくらい危ういというか、ひっさらわれそうと言うか……無自覚なだけに安心できない」
「はぁ? 私が誰にさらわれんの? 誘拐したってウチお金ないし」
「そういうとこが不安だって言ってんの!」
 樹は声をあげた。この少年にはめずらしく強い語気である。
「とにかく連中に気を許すなよ」
「連中? 連中って誰?」
「いわゆるアーティストって奴らです。気に入らない、なんだか軽そうで」
 樹は合格発表の日に見た、風変わりな一群を思い出して顔をしかめた。
「確かにねぇ、ハデだし、変人多そうだし……」
「絶対近づけるな。口もきくな!」
「え~、それは無理なんじゃない? 一緒に実習するんだし、口ぐらいき……む」
 押し付けられる熱い唇。
 息も出来ない。

 小さなからだを抱きしめながら、樹の脳裏に先ほど見たあるイメージが鮮やかに浮かび上がった。
 モウセンゴケ。
 捉えた獲物をゆっくり時間をかけて押し包み、自分の中に溶解させてゆく食虫植物。
 ——あんなふうにすっぽり包み込んで、この人を俺の一部に出来たらいいのに。あなた、何も気がついてない、俺のこんな馬鹿みたいな気持ちに。
 秀麗な眉に苦悩が浮かぶ。
 ——確かに危険人物だな、俺。
「ふ……ぁ」
「つまり、こういうこと」
 やっと体を離して樹が言った。
「ううう……」
「わかりました?」
 わからないと言ったら今度はなにをされるか知れないので、とりあえず風花はこくこくと頷いた。
 そんな風花を、樹はいかにも信用ならなさそうに見やり、それでも最後にあるかなしかの微苦笑を浮かべると、もう一度軽く唇を落とした。
「待っていて。俺すぐに追いつくから」
 ゆっくりと樹は踵を返し、歩き始める。その様子は危険人物には程遠い、自信なさげな少年の姿だった。夕日を前に細長いシルエットが浮かび上がる。
 風花は先を歩く背中を珍しいものを見るような気持ちで眺めた。
 ——なっ、なんか急にかわいいかも?
 先ほどの衝撃からすっかり立ち直っている。風花はやにわに駆け出すと、後ろからタックルまがいに樹に飛びついた。
「お?」
 樹はビクともしなかったが、びっくりしたように後ろからしがみついた風花を振り返った。
「なに? 俺を抱いてくれるんですか?」
「ちがーう! あのっ……あのね! 大丈夫!」
「なにが?」
「大丈夫だってこと。私こう見えて見かけ以上にしっかりしているよ。大学でもフラフラしない。そっ、それに……」
「それに?」
「清水君のこと好きだし!」
 ゆっくり言うと恥ずかしいので風花は一気に言った。
「……」
「ほんとだしっ!」
 樹はしばらく風花を見つめていたが、やがて目尻にしわを寄せた。
 笑ったのだ。自分の不安を速やかに封印して。
「そうだね。ま、何かあったら顔に出るタイプだし……ここは信用しとくかな?」
「信用するでしょ、普通!」
「携帯も買ったことだし。風花も新しい機種に買い替える?」
「一人じゃ買えないもん」
「俺が買って……、あ、でもご両親が変に思うか」
「そうだよ。私この古いので十分だよ。どうせ使いこなせないし」
「だね。風花はそれでいいよ。うん。電話とメールができればいい」
 樹は満足そうに一人うなづいた。
 ——その内、贈ればいいし。
「なぁに? 一人でニヤニヤして。さっきからなんかはーらーたーつー」
「いや別に。ところでお腹空きませんか?」
「え?」
 風花が驚いたようにぽかんと立ち止まった。もうすっかり日が落ちて、植物園で軽いランチを取ってからかなりの時間が経っている。
「そういえば空いてるかも……」
「でしょ? お詫びのしるしにおごりますから。駅の裏側にいい店あるんです。メニューが多くてね」
「メニューが!」
 さっきのやり取りをすっかり忘れたように、風花は自分のお腹に手を当てた。自覚した途端猛烈にお腹がすいてきたのだ。
「それに九時までには家に送り届けたいから、早く行こう。遅くなると店が混むし、風花の機嫌がさらに悪くなると困るし」
 ——誰が悪くさせたのよぅ。
 といいたい気持ちは山々だったが、そのときお腹の虫がく~っと鳴る。立腹より空腹が重大事態な風花だった。
「くやしいけど、お腹すいた。もう言い返せない~」
「なら、解決。ほら、急ぐよ」
 小さな手をぐいと手をひっぱり、自分のジャケットに突っ込むと、樹は早足で歩き出す。
「えい!」
 風花はなんとなくまだ悔しいので、ポケットの中で樹の手を力いっぱい握りかえした。
「なんの」
 樹も負けずに握り返してくる。そこから伝えあう熱がある。
 この温もりが全て。ここから始まる道がある。
 お互いきっとそう感じている。
 すっかり日が落ちた川原を二人してどんどん歩いてゆくのだった。



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