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   二月一日の朝早く、斎が急に京都の実家に帰ると言い出した。
   僕は、火をつけたばかりの煙草を慌てて灰皿に押し付けた。
   一緒に行こうかと僕が言うと、斎は不機嫌そうに短い言葉で断った。すぐに理由を尋ねる。
「どうして?別に、実家に押しかけたりしないぜ?」
「京都の冬は、東京よりも寒いから」
「そんなの理由になるかよ」
 僕は呆れて否定したが、斎は黙って再び支度を始めた。無視をするつもりだ。
「『京都に帰る』とか言って、本当は他の場所に行くつもりだろう?」
 一瞬だけ細い体の動きが止まった。どうも予想は当たったらしい。
 京都の実家には滅多なことでは寄り付かない斎が、今年の正月に帰ったばかりなのに再び帰るなんてことはありえない。一体、どこに行くつもりなんだろう。
 黙々と準備をしている斎を横目で追いながら、僕はあれこれと思案を巡らせた。しかし、斎が自主的に行きたいと思うような所なんて考えつかなかった。大学もこの三月で卒業だというのに、斎は就職もしていない。それなのに、ふらりと旅行に行くのはどうかと思う。
 僕はわざと聞こえるように深くため息をつくと、ソファから立ち上がって自室に向かった。クローゼットの中から旅行バックを取り出すと、適当に服を詰め込んだ。
   詰め終わったバックを担いでリビングに戻ると、斎が僕を不安そうに見つめた。
「どういうつもり?誰も一緒に行こうなんて言ってない」
「こういうつもりだ。俺は一緒に行こうと思っている」
 斎の横を擦りぬけて、下駄箱から靴を取り出して履く。それから、後ろを振り返った。
 斎は何か言おうと口を小さく開いたが、諦めたようにため息をつくと奥のほうに行ってしまった。戸締りをしに行ったようだ。リビングのカーテンが乱暴に閉まる音がする。

 東京都板橋区にあるマンションの五階の僕の家は、中学生の時に交通事故で逝ってしまった両親が保険金と共に残してくれた財産だ。四年前から同居した斎が、家賃代わりに家事全般を担当してくれているので、もう築十八年なのに室内はわりと小奇麗だ。
 戸締りを終えた斎は、リビングの戸口に細身の姿を立ち止まらせると、僕に向かって家の鍵を投げつけた。憤然とする家主を無視して、借主は靴を履き始める。僕は黙って玄関のドアノブに手をかけた。
 ドアを開けると冬の冷たい風が滑り込む。これさえなければ、この家は住みやすいのにと毎年思う。
 外に出た斎は、凍りつく風を睨みながら呟いた。
「奈良だと、雪になっているかもね」
 家の鍵をポケットにしまい損ねた。
   コンクリートの床に落ちた鍵が、冷たい金属音を立てて震える。素早く鍵を拾い上げて、斎を見つめた。
「…奈良に行くつもりなのか?」
「そう。母親の実家があるから」
「母親って…亡くなっているよな?確か」
「でも、墓もそこだから」
 そう言った斎の瞳には生気がなく、秀麗な顔は無表情だった。
「急ごう。夜になる前に」
 斎は背を向けて歩き出した。
 意図を探ろうにも、僕にはその術がなかった。斎は決して本心を明かさない。




 東海道新幹線に乗っても、斎は黙ったままだった。焦点を合わすことなく、走り去る風景を無機質に眺めている。
 その態度が気に食わなかったので、髪を触ったり耳を引っ張ったりと、何かと仕掛けてみたが、斎はそっぽを向いたままだった。  
   しばらくして、電車の揺れが心地よかったのか、寝息を立て始めた。僕も同じように眠りたかったが、二人一緒に眠るのは無用心だ。仕方なく、何かを睨みつけるように、必死で目を開けていた。

 僕は一体、何をしているのだろう。

   斎だって子供じゃあるまいし、一人で旅行ぐらいできる。自分が斎の何を心配しているのか、時々わからなくなる。たぶん、僕のほうが不安を感じているのだ。

 僕は何を、不安に思っているのか。

 数限りのない不安を、僕は持て余し、何ら解決する努力もせず目を背けていた。それはもう、不安という概念ですらない。冷蔵庫にいつまでも放って置かれた、腐って形を喪失した豆腐のようなものだ。匂わなければ、害さえなければ、構わない。

 不安なんて、そんなものだろう?

 意味のない一人問答を繰り返し、斎の寝顔を観察しているうちに京都に着いてしまった。二時間という区切られた無為について、僕の神経は何の関心も寄せない。しかし、心は列車の止まる金切り声に悲鳴を上げそうだった。

 不安なんだ、とても。

   僕は、気持ち良さそうに寝ている斎の鼻をつまんだ。斎は苦しそうに顔を歪めて起きると、小さな欠伸の息音ともに伸びをした。その仕草が猫のようで、僕は笑った。
「何?」
 刺々しい声が引っかく。僕はすぐに笑顔を隠して平常の仏頂面に戻した。斎は不満そうに席を立ち上がると、僕を通路のほうに押しやった。

 京都に着いた僕たちは、駅地下街にあるファーストフード店で昼食をとることにした。
 斎は京都に足を着けてから、少し落ち着きがない。フィッシュバーガーを食べながら、辺りを警戒している。父親との折り合いが悪くて、京都を嫌悪していることは知っていたが、ここまで極端になると僕まで京都を不快に感じてしまう。今にも周りの人が全員追いはぎに変わって、僕たちを襲うのではないかとさえ思えてくる。
 斎には姉が一人いるが、その人には気を許しているらしい。たぶん、母親のような感じなのだろう。もしその人がいなければ、とっくの昔に家を捨てていたに違いない。
 長い間、斎の視線は嫌悪と混乱で彷徨っていたが、不意に真正面にいる僕を捕らえた。
   斎の瞳はいつも恐ろしいほどの黒を湛えている。僕はその瞳に弱いのだが、僕を本当に見ようとはしない。互いに視線を合わせている時でさえ、僕は眼中にない。万物を通りぬけてしまうのだ。通りぬけて、遠い彼方を見ている。何もない彼方を。
   時々、不安になるのだ。斎の中では僕という人間は存在していないのではないかと。僕はここにいると、どんなに訴えかけても、斎は何の反応も示さない。出会ってから七年間、斎は僕の過去も現在も、そして未来のことを訊いたりはしない。斎にとって僕は、ただそこにあるオブジェに過ぎないのかもしれない。
「出よう」
 静かな、それも拒絶を許さない強い口調が出発を告げた。

   地下街を出て京都駅構内に再び入り、奈良線のホームに向う。時間に息詰まっているわけではなかったが、電車が着くと早々に乗り込んだ。
 斎は決して、後ろを振り返らなかった。
 僕はちらりと、プラットホームに視線を向けた。そこには、知らない顔が幾重にも重なり、乱れ、際限のない声が渦巻いていた。
   電車が緩やかに走り始めると、斎は安堵したように僕の腕をつかんで重い息を吐いた。深海の人魚姫が地上で初めて吐いた息のように、重い吐息だった。
 僕たちは空いている席を探して座ると、今度は二人で深海に沈んでいった。
   誰もこない深海。周りの音が消え、風景が消え、乗客が消え、僕と斎の息遣いだけが遠くの波音のように聞こえた。
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