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君の袖
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「ちーまーきー食べ食べー兄さんがー」
高見がのん気に『背くらべ』を歌いながら、ヨモギを摘んでザルに入れている。その隣で、眠そうな石塚が同じくヨモギを摘んでいる。
本日は晴天なり。太陽はまだ東側を上っている。春だ春だとついさっきまで騒いでいたのに、暦の上ではもう立夏だ。額に汗がにじむ。
ゴールデンウィークの真っただ中、何が悲しくて大学生3人が河川敷でヨモギ摘みをしているのかと言えば、学生寮の門限破りの罰として、管理人に命じられたのだ。管理人はイベント好きで、何かの日は何かを寮生のために用意している。本日は端午の節句なので、こいのぼりと菖蒲湯、ヨモギ入り柏餅を企画したいとのこと。ゆえに、ヨモギと菖蒲を摘み、こいのぼりを立てる、それが僕らの量刑だった。まさか、大学生になって罰当番をやらされるとは。
「ちまきには悲しい物語が隠されているのに、君はのん気に背くらべかい?」
高見の歌に、石塚はあくびをしながら突っ込んだ。高見がつまらなさそうにその辺にあった石を掴むと、川に向かって放り投げた。じゃぽんと、春の終わりの音がした。
「お前な、この麗らかな日に屈原(くつげん)の話なんか持ち出すなよ」
石塚はちらりと高見を見て、そして空を見た。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る。これなら端午の節句らしいだろう?」
「ああ?何それ?」
「端午の節句に、額田王(ぬかたのおおきみ)が薬草摘みに行った時に詠んだとされる句だ。この時期は、季節の変わり目で体調を崩す人が多くなるから忌み月とされていたんだ。だから、昔から端午の節句には邪気を払うとされるヨモギや菖蒲などの薬草を摘んで、飾ったりする習慣があったんだよ」
「へえ。で、どういう意味の歌なわけ?」
「朝日が差す春の御料地で、薬草摘みをしている自分に向かって前夫の大海人皇子が袖を振るのを、守衛ひいては今の夫である天智天皇に見つかるのではないかとはらはらする気持ちを詠んだものだよ。『袖を振る』という行為は魂を呼び寄せる呪術的な意味合いがあって、それが転じて愛情表現の1つになったらしい。未婚女性が振袖、既婚女性が留袖を着るのはそのためだよ」
「何だ、不倫の歌か」
「何だよ、不倫は文化だろ?」
石塚はそう言って立ち上がると、軽く背伸びをした。僕もつられて立ち上がる。むずがゆい鼻を手でこすると、ヨモギの青い匂いがした。思わず顔をしかめる。川岸では菖蒲の尖った葉が時折きらきらとひるがえる。川も春の光を運びながらきらきらと流れている。全てが眩しくても顔をしかめるものだ。そのままぼうっと立ち尽くしていると、ぐっと袖を引っ張られた。振り向くと、石塚が無表情で僕の袖を掴んでいた。
「君ね、彼女には袖がないよ」
石塚はそう言うと、しゃがみ込み、再びヨモギを探し始めた。高見も再び『背くらべ』を歌い始める。僕も2人に倣い、再び地面に手を伸ばした。しばらくは3人で黙々とヨモギを摘んだ。
額田王は誰を思いながらヨモギを摘んでいたのだろうか。
さっきの句は、普通に考えると大海人皇子を想ってのように聞こえるけれど、袖を振る行為を迷惑がっているようにも考えられるし、大海人皇子と天智天皇の2人を手玉に取って余裕しゃくしゃくといった感じもする。真剣なのは男達だけなのかもしれない。
石塚が言いたいことはわかる。それでも、僕は袖を振る大海人皇子を否定はできない。
『背くらべ』の歌が2順した頃、石塚は立ち上がり、今度は大きく背伸びをした。
「ヨモギはそれぐらいでいいだろ?次は菖蒲を刈ろう!急がないと、こいのぼりを立てる前に日が暮れるよ」
高見が「お前、意外と楽しんでるだろ?」と言うと、「そりゃそうさ、今日は人生最後の『こどもの日』だからね」と、まだ未成年の石塚は笑った。
※屈原(くつげん)・・・中国・春秋戦国時代の楚国の政治家。国民の信望は厚かったが、陰謀によって失脚。故国の行く末に失望し、汨羅(べきら)川で投身自殺。その際、人々が川に竹筒に米を入れたものを投げて屈原の死体を魚が食べないようにした。これが『ちまき』の起源とされる。
※大海人皇子(おおあまとのみこ)・・・後の天武天皇
※天智天皇・・・大海人皇子の兄
※額田王(ぬかたのおおきみ)・・・万葉歌人。最初、大海人皇子の妻となり、後に天智天皇の妻となる。
高見がのん気に『背くらべ』を歌いながら、ヨモギを摘んでザルに入れている。その隣で、眠そうな石塚が同じくヨモギを摘んでいる。
本日は晴天なり。太陽はまだ東側を上っている。春だ春だとついさっきまで騒いでいたのに、暦の上ではもう立夏だ。額に汗がにじむ。
ゴールデンウィークの真っただ中、何が悲しくて大学生3人が河川敷でヨモギ摘みをしているのかと言えば、学生寮の門限破りの罰として、管理人に命じられたのだ。管理人はイベント好きで、何かの日は何かを寮生のために用意している。本日は端午の節句なので、こいのぼりと菖蒲湯、ヨモギ入り柏餅を企画したいとのこと。ゆえに、ヨモギと菖蒲を摘み、こいのぼりを立てる、それが僕らの量刑だった。まさか、大学生になって罰当番をやらされるとは。
「ちまきには悲しい物語が隠されているのに、君はのん気に背くらべかい?」
高見の歌に、石塚はあくびをしながら突っ込んだ。高見がつまらなさそうにその辺にあった石を掴むと、川に向かって放り投げた。じゃぽんと、春の終わりの音がした。
「お前な、この麗らかな日に屈原(くつげん)の話なんか持ち出すなよ」
石塚はちらりと高見を見て、そして空を見た。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る。これなら端午の節句らしいだろう?」
「ああ?何それ?」
「端午の節句に、額田王(ぬかたのおおきみ)が薬草摘みに行った時に詠んだとされる句だ。この時期は、季節の変わり目で体調を崩す人が多くなるから忌み月とされていたんだ。だから、昔から端午の節句には邪気を払うとされるヨモギや菖蒲などの薬草を摘んで、飾ったりする習慣があったんだよ」
「へえ。で、どういう意味の歌なわけ?」
「朝日が差す春の御料地で、薬草摘みをしている自分に向かって前夫の大海人皇子が袖を振るのを、守衛ひいては今の夫である天智天皇に見つかるのではないかとはらはらする気持ちを詠んだものだよ。『袖を振る』という行為は魂を呼び寄せる呪術的な意味合いがあって、それが転じて愛情表現の1つになったらしい。未婚女性が振袖、既婚女性が留袖を着るのはそのためだよ」
「何だ、不倫の歌か」
「何だよ、不倫は文化だろ?」
石塚はそう言って立ち上がると、軽く背伸びをした。僕もつられて立ち上がる。むずがゆい鼻を手でこすると、ヨモギの青い匂いがした。思わず顔をしかめる。川岸では菖蒲の尖った葉が時折きらきらとひるがえる。川も春の光を運びながらきらきらと流れている。全てが眩しくても顔をしかめるものだ。そのままぼうっと立ち尽くしていると、ぐっと袖を引っ張られた。振り向くと、石塚が無表情で僕の袖を掴んでいた。
「君ね、彼女には袖がないよ」
石塚はそう言うと、しゃがみ込み、再びヨモギを探し始めた。高見も再び『背くらべ』を歌い始める。僕も2人に倣い、再び地面に手を伸ばした。しばらくは3人で黙々とヨモギを摘んだ。
額田王は誰を思いながらヨモギを摘んでいたのだろうか。
さっきの句は、普通に考えると大海人皇子を想ってのように聞こえるけれど、袖を振る行為を迷惑がっているようにも考えられるし、大海人皇子と天智天皇の2人を手玉に取って余裕しゃくしゃくといった感じもする。真剣なのは男達だけなのかもしれない。
石塚が言いたいことはわかる。それでも、僕は袖を振る大海人皇子を否定はできない。
『背くらべ』の歌が2順した頃、石塚は立ち上がり、今度は大きく背伸びをした。
「ヨモギはそれぐらいでいいだろ?次は菖蒲を刈ろう!急がないと、こいのぼりを立てる前に日が暮れるよ」
高見が「お前、意外と楽しんでるだろ?」と言うと、「そりゃそうさ、今日は人生最後の『こどもの日』だからね」と、まだ未成年の石塚は笑った。
※屈原(くつげん)・・・中国・春秋戦国時代の楚国の政治家。国民の信望は厚かったが、陰謀によって失脚。故国の行く末に失望し、汨羅(べきら)川で投身自殺。その際、人々が川に竹筒に米を入れたものを投げて屈原の死体を魚が食べないようにした。これが『ちまき』の起源とされる。
※大海人皇子(おおあまとのみこ)・・・後の天武天皇
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※額田王(ぬかたのおおきみ)・・・万葉歌人。最初、大海人皇子の妻となり、後に天智天皇の妻となる。
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