爪を剥ぐ

みなみあまね

文字の大きさ
5 / 12

【十三歳現在・過去 土佐家】

しおりを挟む
 しばらくして、智広兄さんは退院した。
 傷はまだ痛むそうだが、入院しているほどでもないらしい。皮膚を剥がした部分に、自分の太ももの皮膚を移植させたから、治癒が早いのだろう。
 私は退院祝いのケーキを持って、地図を頼りに自転車で会いに行った。県境まではさほど遠くなかったが、藤沢町に入ってからは道程が長い気がした。太陽が私をジリジリと焼き、包帯に汗が滲む。
 土佐の家の前に来て自転車を降りると、近くの主婦らしき人達が集まって何やら話をしていた。そういえば、布津の家の前にもこんな人達がいた。すると、この人達も智広兄さんの怪我を訝しがっているのだろう。私達が怪我をするのは『呪い』だと知っているのだ。
 案の定、私が土佐の家に入っていくと、昼下がりの主婦達は気味悪そうに散り散りになっていった。

 母の目に似ていて、辛い。

 頭を振って、自分を強く持つと、自転車を置いた。
   視線を上げると、最初に『炯屋』が目に入った。布津の家とは違い、萱葺きの屋根は荒れ果てていて、寂しく感じた。回り込んで裏手を見てみると、水の流れのない溝があり、水車は時間を止めたように動いていない。所々、板が抜け落ちていた。

「『たたら』を使える人はもういなくなる」

 伝統というものはいつか廃れていくのだろう。よく、後継者不足ということを耳にする。大量消費、大量生産、飽食のこの現代に、誰も苦労をしてまで慎ましやかな生活を送りたいとは思わない。みんな、田舎から出ていく。私の父にしたってそうだ。何も若い人達だけが、古き良き時代をないがしろにしているわけではない。

 母屋のほうは、布津の家より大きい。広い土間の玄関に足を踏み入れて、声をかけた。
「こんにちは!布津百合奈です」
 しばらくして、智広兄さんの母親らしきおばさんが現れて、私を案内してくれた。
「あらあ、暑かったでしょう?わざわざどうもね。今、冷たい麦茶を入れてあげるから」
「ありがとうございます。あの、これ、祖母から」
 私はパウンドケーキの箱を渡した。おばさんは喜んで、後で麦茶と一緒に持っていくからと言った。
 階段を上がり、向かって右側の扉をノックする。返事はなく、おばさんが勝手に開けた。
 智広兄さんは、クーラーの良く効いた部屋で本を読んでいた。訪問者に気づく素振りはない。
「ほら、智広!布津さん所のお嬢ちゃんが、お見舞いに来てくれたわよ」
 おばさんが呆れたように大声を出すと、智広兄さんは驚いて顔を上げた。そして、照れたように笑った。
「ああ、ごめん、ごめん!やあ、よく来たね。けっこう遠かっただろう?今、麦茶でも用意するからさ」
「もう!用意するのは母さんでしょ?生意気に親を扱き使って。怪我が治ったら、働いてもらいますからね」
 おばさんは智広兄さんに、冗談めかして厳しく言うと、私にはにこやかに「待っててね」と言って、部屋を出ていった。
「ごめんな、うるさい親で」
「そんなことないよ。いいね、明るいお母さんで。それに・・・智広兄さんのこと、怖がってないね」
「そりゃあ、うちの母親も八つの家の中から嫁いで来たからね。自分も経験している事だし、怖がってもどうしようもない事だからじゃないかな?百合ちゃんのお母さんは、普通の家の人だろ?」
「うん、そうだけど・・・」
「心配しなくても、時間が経てば忘れちまうよ。爪が伸びちゃえばね。百合ちゃんだって、もう『爪を剥ぐ』なんてしたくないだろう?」
「うん」
 再びノックの音がして、おばさんが麦茶とパウンドケーキをお盆に乗せてやって来た。

 おばさんも、あの行為をしたのか。

 見た目には何の傷もない。私も、時が経てば何の痕も残らないだろう。そうして、記憶が風化していくのだろうか。
 智広兄さんは、おばさんの行動を覗いながら顎を擦った。
「そうだ、百合ちゃん。夏休み、もうすぐ終わるけど、宿題は終わった?」
「え?ううん、まだだけど・・・」
「僕の家に持っておいでよ。これでも、二年前は受験生だったからね、五教科なら教えてあげられるよ」
「ホント?良かった!まだ、全然手をつけてないの。ペンを持つと、指が痛かったし」
「そうか。明日からでも、来るといいよ」
 おばさんが楽しげに、「役に立つのかしらねえ」と笑いながら部屋を出ていった。智広兄さんが肩をすくめた。
「まあ、これで百合ちゃんがうちに来る理由は出来たわけだ」
「うん」
「知りたいだろう?自分に何が起こったのか?」
「うん」
「よし、まず八つの家のことを教えよう」
 智広兄さんは、机の引出しからノートを取り出して開いた。そこには綺麗な字で、細かく文字が敷き詰められていた。
「この地域で、その昔、製鉄の指導者となったのは八人の技術者だった。僕の家である土佐家、百合ちゃんの家である布津家、僕の母親の実家である藤蔓家、大柄家、大篭(おおかご)家、千松(ちまつ)家、右名沢(みなさわ)家、箕輪(みのわ)家。この家の先祖たちを『炯屋八人衆(どうやはちにんしゅう)』と呼んだそうだ」
 千松家と大柄家、大篭家は知っている。布津の『たたら』手伝いに来ている、祖父と同年齢ぐらいの人達がそうだ。
「その人達は鉄を作るのが上手かったの?」
「まあね。製鉄法『たたら式』を教え伝えられたのがその八人だったから、当然といえば当然なんだけど」
「『たたら式』って、おじいちゃんがやっている方法?」
「そう。川で採集した砂鉄を炭火で三日三晩溶かし続ける方法だ。これは、別名『南蛮流製鉄法(なんばんりゅうせいてつほう)』とも言う。出雲地方にも『たたら』があるけど、こっちはもっとダイナミックだ。『鉄完流し(かんなながし)』といってね、鉱山を切り崩して土砂を川に流すっていう・・・どうも話が逸れるなあ。まあ、鉄は戦争には欠かせない武器となる。だから、出雲の豪族は大和朝廷から恐れられた。そして、江戸幕府も伊達藩を恐れた。僕らの先祖が学んだ製鉄法は、西洋から教え伝えられたものらしい」
「だから、ここにはキリスト教にまつわる話が多いのね?」
 智広兄さんはパウンドケーキを一口食べると、「甘い」と顔をしかめた。そして、机の上から煙草を手に取って、「吸ってもいい?」と申し訳なさそうに言った。私は黙って頷いた。
 煙草に火をつけて息を吸うと、その先端が煌煌と赤くなった。
「うーん、そうだな。そう言ってもいいかな?当時、この地域に『千葉土佐(ちばとさ)』という人がいてね」

 『土佐』は智広兄さんの苗字だ。 

「まあ、うちの先祖らしいけど、その人が関西のほうで盛んに行われている『たたら式』の製鉄をこの地でやろうと、技術者を誘致したんだ。それで、一五五八年頃、今の岡山県から『たたら式』の技術者、『布留(ふる)大八郎(おおはちろう)・小八郎(しょうはちろう)兄弟』をこの地に住まわせた」
 『布留』、私の苗字に似ている。
「たぶん、君の家の先祖がその兄弟だ。元々この地に住んでいた家が製鉄を教わるうちに、兄弟の家と婚姻関係になったのだろうね。そうそう、ここでは別名『千松兄弟』とも呼ばれている。これはね、彼らの『炯屋』があった所が、千松沢という地名だからだ」
「じゃあ、千松の家の人も、元をただせば私の家と同じ先祖なの?」
「たぶんね。推測ばっかりで申し訳ないけど、そうはっきりとした記述が残っていないんだ。で、その兄弟から製鉄法を教わった八人が『炯屋八人衆』だ。ここまでは、いいかな?」
 私はパウンドケーキを食べながら頷いた。
   自分の分を食べ終わると、智広兄さんが食べ残しているものを見つめて、「食べてもいい?」と訊いた。智広兄さんは笑って、「いいよ」と言った。

 二本目の煙草が燈る。

「君の家は、キリスト教を信奉しているだろう?」
「うん。それがどうしたの?」
「この地にキリスト教を広めたのはその兄弟だからさ。君の所はその血を受け継いでいるからね。いまだに信仰が厚いのはその所為だ」
「ふうん、そういえば智広兄さんの家は?」
「曽祖父の頃から仏教徒だよ。僕は無宗教。君のお祖母さんは洗礼を受けたけどね。今でもキリスト教を信奉しているのは、八つの家の中では布津家と千松家だけだ」
「ふうん、その兄弟はキリスト信者だったのね?」
「そう。ここで質問です。キリスト教を日本に布教したのは誰?」
「フランシスコ=ザビエル!一五四九年に鹿児島にやってきて、教え伝えました」
「正解。彼は、岡山でも布教活動をしていた。『千松兄弟』は岡山出身だから、その影響を受けていたわけだ。そしてね、これが面白いのだけど、『千松兄弟』が製鉄をする時にあるお祈りをすると、よく砂鉄が溶けたのだそうだよ。だから、『たたら式』製鉄を教わった人々は喜んでその祈りを唱えた。たぶん、それはキリスト教の祈りだ。だからね、『たたら式』が広まっていくのと同時にキリスト教も広まっていったんだ」

 祖父も『主の祈り』を唱えている。時々、『聖母マリアの祈り』に変わったりもする。そんな歴史があったのか。

「だから、うちの『炯屋』の四つの柱には、イエス様とマリア様の像があるの?」
「え?ああ・・・それは、ちょっと違うんだ」
 智広兄さんは困ったように顔をしかめた。あの時の、祖父と同じ顔だった。煙草の先端を見つめて、考え込むような素振りをする。
「・・・とにかく、砂鉄を溶かすためは炭を大量に使う。その原料となる木材を求めて遠くのほうまで行くこともあるから、どんどんとキリスト教は広まっていった」
「弾圧は?禁教令ってあったよね?」
「さて、いつでしょう?」
「一六一二年」
「良く知ってるね?」
「ちょうど今、やってるもん」
「いい復習だね。しかし、伊達政宗(だてまさむね)はその翌年に幕府の許可をもらって、かの有名な『支倉常長(はせくらつねなが)』をスペインに派遣している。『後藤寿庵(ごとうじゅあん)』って知ってる?伊達藩の家臣なんだけど、その人も一緒に派遣された。これは、政宗が外国との貿易を目指していたからだ。政宗は貿易のためにキリスト教を容認する構えだった。それに、製鉄の保護も合間ってキリシタンを見て見ぬ振りしていたんだ」
「じゃあ、仙台のキリシタン達は生き延びたのね?」
「いや、やはり弾圧はすぐにやってきたよ。前にも言ったけど、鉄を生産できるということは軍事力を増幅できる事になる。もちろん、有能な農業道具を作ることが出来れば、生産力も高まる。それと同時に、国は大きくなっていく。それを恐れた幕府が厳しく取り締まるようになったんだ。政宗が死ぬまでは、その意向からこの地の人々は弾圧を逃れられた。しかし、政宗の死後はこの地方にも弾圧の手が延びた。ここだけでも、三百人以上の人達が処刑されたそうだよ」
 智広兄さんは、苦々しそうに煙草をもみ消した。
「・・・僕らの家が、最近までキリスト教を信奉できたのはなぜだと思う?」
「うーん、信仰が厚かったから?」
「違うよ、もっと現実的な側面を持っている」

 現実的な側面?キリシタン弾圧でも、逃れられる条件?
 ――――そうか、優秀な製鉄法を知っていたからだ。

   つまり反対に、製鉄法を知らないキリスタンたちは処刑されたということになる。
   同じキリシタンが殺されていく様子を、私達の先祖はどんな目で見ていたのだろうか。そして、殺されていく人達は、私たちの先祖をどんな目で見ていたのだろうか。
   
   私が顔を強張らせると、智広兄さんは哀しく微笑んだ。

「僕らの家は、この地域では結構嫌われている。改宗せずに生き残れた、特別待遇の一族だからね。妬み嫉みの対象なんだろう」

 三本目の煙草に火が燈る。

 私はここで暮らしているわけではない。智広兄さんは直に感じてきたのだ。奇異と嫌悪の視線を。

 まるで、私の母のような目を。

「今日はここまで。明日にでもまた、宿題を持って来るといい。暗くならないうちに帰ったほうがいいぞ」
「うん・・・」

 土佐の家を出ると、外はもう夕暮れで太陽が煌煌と赤い光を放ち、私は血に染まったようになった。


 今からでも遅くねえ!転べってばよ!

「切り捨てい!」

 一斉に振り下ろされる残虐な刀、一斉に飛び散る断末の血。
 中には一度に切り落とせなかったために、何度も何度も切られている首もあった。
 刑場の外には、殉教を哀しむ者たちが涙を押さえて無言で立ち尽くしていた。殉教したキリシタンの躯は埋葬すら許されない。明日は我が身だ。そう誰ともなく思う。

   おらたちを見る、その眼が・・・おっかねえ。

『あんたらさ、天に行くことねえ』
   んだとも、おらたちもイエス様を信じてんのっしゃ。んだとも、イエス様はおらたちを救ってくれんのっしゃ?
 おらたちだども、製鉄が上手くいかんかったら――――。製鉄がおらたちさ、救ってくれるっけよ。
 んだすけ、おらたちは鉄を造らなんねえ。
 んだすけ、おらたちさ、そんな眼で見んでけろ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

10秒で読めるちょっと怖い話。

絢郷水沙
ホラー
 ほんのりと不条理な『ギャグ』が香るホラーテイスト・ショートショートです。意味怖的要素も含んでおりますので、意味怖好きならぜひ読んでみてください。(毎日昼頃1話更新中!)

処理中です...