フレデリカ嬢は、ド田舎で忠犬と暮らしたい

小田マキ

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 半ば拘束に近いお姫様抱っこで宮殿広間から連れ出されたフレデリカは、そのままウェイドの馬車に押し込まれた。
 馬車内は狭いが、その内装は実に高級そうだ。細かなレリーフの美しい窓枠に付けられた天鵞絨のカーテンには宝石らしき輝石が縫い留められていたし、やたらスプリングのきいた座席も汚れたドレスで座るのを躊躇する。たとえ馬車の持ち主の不手際で台無しにされたのだとしても、質素堅実と言えば聞こえがいいが、単なる貧乏育ちのフレデリカには居た堪れなかった。
 さらに、闇夜を疾走する二人きりの密室の中、ウェイドとは互いの膝がぶつかりそうな距離にある。緊張するなという方が無理だった。フカフカした背もたれにもたれることも出来ず、極力縮こまっていた彼女に向かって、ウェイドがおもむろにその口を開く。
「フレデリカ、君は本当に男を見る目がない」
「はっ……?」
 呆れ果てたようなその声音に、フレデリカはつい声を上げてしまう。咄嗟のそれは剣呑な響きを纏っていた。
「知らなかったのかもしれないが、ラウール・カリバーンには別居中の妻がいる……あのまま奴の誘いに乗っていたら、君には取り返しのつかない傷が付いただろう。今宵に限ったことではない。今まで君が接触を計ろうとしていた男達は、確かに皆裕福だったが、揃いも揃って年配の妻帯者だ」
 なおも続けられたウェイドの台詞に、フレデリカは形の良い眉を跳ね上げた。
「もしや殿下は、ずっと見守ってくださっていたのですか? そして、今宵はわたくしを醜聞から守るために、あのような大胆不敵な行為に及ばれたと?」
 怒りを押し隠し、最大限好意的な言葉を選んで尋ねた彼女に、ウェイドはようやく理解したかと言わんばかりに口角を引き上げる。その尊大な仕草は、ここ一ヶ月の間ずっと強度を試されてきた堪忍袋の緒を断ち切るに十分だった。
「一介の貧乏男爵令嬢に対して、何てご親切なのでしょう……けれど、残念ながら有難迷惑ですわ」
 苦虫を噛み潰したような口調を、フレデリカはもう隠さなかった。
「カリバーン子爵が既婚者であることは、社交界に疎い田舎娘のわたくしでも存じ上げております。何人もの愛人を抱えてらっしゃるというご噂も……その他の殿方についても、全て承知の上でしたわ」
「では、一体何故奴らに色目を使った? まさか、彼らの奥方を追い落とそうと思っているのか? ……このようなことを口にするのは甚だ心苦しいが、君に男を手玉に取るほどの手練手管はない。結婚相手には、もっと身の丈に合った相手を選ぶべきだ」
 それまで余裕綽々だったウェイドが、彼女の言葉に表情を厳めしく歪め、非難の台詞を重ねる。己の魅力不足を言及する彼に、フレデリカの怒りはさらに募った。
 ウェイドは自らの正当性を疑いもしない様子だが、彼は何も分かっていない。
「わたくしはどなたの妻の座も望んでいませんわ。わたくしが望んでいるのは、裕福な既婚紳士との愛人契約です」
「なっ……!」
 彼女のあけすけな物言いを耳にして、小馬鹿にするように眇められていたウェイドの右目の瞼がピクリと痙攣する。心なしか青が濃くなった瞳に走った驚愕の色は、ほんの少しだけフレデリカの溜飲を下げてくれた。
「毎日、好きでもない殿方の顔色を伺って生きるなんてご免ですわ。片田舎で田畑を耕し、愛犬とともに暮らすのが、わたくしのたった一つの夢なのです。殿下はこのドレスとともに、そんなささやかな夢を踏み躙った。我が家にとって王都の仕立屋でドレスを誂えることが、どれほど思い切った投資だったかっ……!」
「いっ……いやいやっ、待て待て待て!」
 そして、堰を切ったように恨み辛みを吐き出すフレデリカに、ウェイドは若干面食らったように制止の声を上げた。
「ドレスの件は、本当に心から謝罪する。もちろん弁済するし、好きなだけ新しいドレスも誂えよう。しかし、愛人になることがどうして君の夢に繋がると言うんだっ?」
「両親は裕福な殿方とわたくしを結婚させ、実家に仕送りをさせたいのです。物心ついた頃から玉の輿玉の輿と喧しい二親ですが、産み育まれた恩がございますし、愛情も持ち合わせております……それゆえの譲歩ですわ。融資目的なら、愛人で十分事足りますでしょう?」
 貴族社会の常識では、愛人宅は王都から遠く離れた郊外に用意されるのが一般的である。王都にある本邸に住まう奥方に対する、夫としての最低限の配慮であり、嗜みだ。片田舎で愛犬と戯れ、畑作して暮らしたいフレデリカにとって、実に都合の良い話でもある。
「殿下はわたくしに殿方を見る目がないとおっしゃいましたが、そんなことはございません。今まで妨害されたカリバーン子爵を始めとする殿方は、きちんと見定めた上の方々です。年若い娘を連れ歩きたい自己顕示欲があり、なおかつ色恋自体はあまり積極的でない一回り以上年上の殿方……アラーナ、幼馴染のお父上であるチルトン伯爵がその通りの人物でした。愛人を囲っても、対外的なパーティーに連れ歩くだけで、別宅へは必要以上入り浸らないのです。アラーナからはずっと父親の愚痴を聞いておりましたので、見分けるコツは存じてますわ」
 怒りに駆られたフレデリカは偽りない本心を力説するが、その語り口に熱が篭るに比例して、ウェイドの面差しは険しくなる。感情が昂るにつれて青味が増すらしい右の瞳は、今や紫に程近い藍色になっていた。
「それに、毎日顔を合わさない分、おとない時には誠心誠意尽せるでしょうから、双方にとって願ったり叶ったりでは……」
「そんな馬鹿な話があるか!」
 最後には、獣の唸り声のような怒声に遮られてしまった。
「フレデリカ……本当に君は、どうしようもなく無知だな。そんな浅はかな考えでは、愛人など到底務まらない」
 しかし、頭ごなしに否定されたフレデリカの胸に湧き上ってきたのは、彼への恐怖ではなく怒りだった。
「……そんなものっ、殿下に関係ないじゃありませんの! 貴族とは名ばかりの支度金も頭も足りない貧しい娘が、精いっぱい考えた結論なのです。王族の方だろうと、わたくしの幸せを邪魔する筋合いはありませんわ!」
 眉間に鋭く皺を刻んだ形相も、低く押し殺した重低音も、冷静な時に見れば泣きたくなるような空恐ろしいものだったが、感情が昂っていたフレデリカは怖じずに噛みつく。
 うら若き乙女が愛人志願なぞ、公言するのは憚られる話ではあったが、実際問題ウェイドには何の関係もない。彼が王の弟だとしても、留め立てする権利はないのだ。度重なる侮辱に、フレデリカの理性の箍は完全に外れていた。
「それとも子爵の代わりに、殿下がわたくしを愛人にしてくださるとおっ……?」
 売り言葉に買い言葉のように、そんな挑発的な投げ掛けを紡ぎ出した彼女の唇は、最後まで音を告げる前に塞がれていた。
 一体全体、我が身の上に何が起こったのか……フレデリカには全く分からなかった。突然座席の上に押さえつけられて、ただただその弾力を思う様味わっていた。薄く開いていた唇を割り、自分のものではない舌が口腔に侵入してきて、ようやく彼女は我に返る。
 いまだ頭は混乱したままだが、このままでは乱暴されてしまうことだけは分かる。人が羨む身分もあり、逞しいウェイドが相手であれば、世間一般の貴族令嬢達は諦めて受け入れるか、喜んで身を任せるかの二択だろう。つまりは、抵抗などしない。
 だがしかし、生憎なことにフレデリカは違う。
「……んんんぅーーやーーーーーっ!」
 渾身の力で首を捩じって口付けを解くと、絹を切り裂く悲鳴……ではなくて、力強い雄叫びを上げ、翻るペティコートをものともせずに足を蹴り出す。尖ったヒールの先は、目測を誤らずにウェイドの向こう脛を捉えた。
 ゴスッと重い音を立てて、肉に爪先がめり込む固い衝撃が走る。同時に身体に掛かった圧迫感が消え、フレデリカは狭い馬車の中でウェイドから精一杯距離をとった。
「ぐっ……なんて馬鹿力なんだ!」
 ウェイドは両手で蹴られた脛を押さえながら、呻くように悪態を吐く。フレデリカにしてみれば正当防衛なのに、彼はまるで自らが被害者だと言わんばかりだ。
 何て傲慢な男だろう、その舌を噛み切ってやればよかった……咎めるような強い視線を投げてくるウェイドの姿は、彼女の怒りにさらに油を注いだ。
「殿下の取り巻きのご令嬢方と一緒になさらないで! こっちは畑仕事で鍛えてますの……って、そんなことはどうでもよろしいわ! このケダモノっ!」
 怒り心頭なフレデリカは、淑女にあるまじき罵声を浴びせる。初めての接吻がこんな一方的に奪われたことに、我慢ならなかったのだ。
「……なっ、君はっ……そんな反応でよくも愛人志望なんて言えたな!」
「まあっ……誰彼構わず唇を与えるようなご婦人を愛人になさってるなんて、殿下は随分と趣味がよろしいこと!」
 なおも見当違いなことを言ってくるウェイドに、フレデリカは鼻の頭に皺を寄せて吐き捨てる。
 本当に愛人がいるかどうかは知らないが、彼の愛人に対する偏見は酷過ぎる。愛人にだって、心の準備もムードも必要に決まっている。既に出来上がっている間柄ならまだしも、突然親しくもない男に襲い掛かられて、抵抗しない女なぞ余程の好き者か頭が緩いかのどちらかだ。
 さすがに返す言葉もなかったのか、蹴飛ばした膝が酷く痛むのか、目元を僅かに赤く染めてウェイドは黙り込んだ。ほんの少しだが、胸がスッとする。
「王弟殿下といえども、やり逃げなんてっ……心底軽蔑致しますわ」
 ここぞとばかりに追撃の台詞を舌に乗せたフレデリカに、彼は何故だか微かに瞠目した後、何度か右の目を瞬かせた。
「ああ、……なるほど。君は確約が欲しかったのか」
 そして、独り言のように呟くと、いびつな形に口角を上げる。フレデリカの動物的勘が不穏な空気を嗅ぎ付けたが、最早口から飛び出した台詞は取り返しがつかない。後の祭りだ。
「おめでとう、フレデリカ……君は今日から僕の愛人だ。下品な言い方は好まないが、カリバーンより僕の方が地位も金もあるし、お望みの片田舎に領地も持っている。実家に仕送りでも何でも、好きなだけするといい」
 思ってもみない台詞を突き付けられて、フレデリカは絶句する。
 提示された条件は貧乏男爵令嬢にはこれ以上望めないものだったが、獲物を狙う鷹のように鋭い目の前の紫紺の瞳は、甚だ不穏な光を湛えていた。
 売り言葉に買い言葉ではあったが、彼女は不用意にも社交界でもとびきり上等かつ厄介な相手……チェザービクの銀狼の闘争心に火を付けてしまったようだ。
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