矢栗 龍

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プロローグ
    私は余り夢を見ない。夢と言っても将来何になりたいといった類いの夢ではなく、眠りについてから見る純粋な意味での夢の事である。
    幼い頃から現在にいたるまでのそんな少ない夢の記憶の中で、大半を占めるのは怖い夢である。 その端緒は決まって地下への階段を下りる事から始まるのだ。これは小学生時代の恐ろしい記憶がトラウマになっているからであった。
    私が通っていた小学校は以前、商業高校であった。その歴史は古く戦前に建築された建造物で、地下には防空壕が作られていた。勿論戦後は無用の長物となり、地下は使われず立ち入り禁止となっていたし、教師からも危険だから近付かないように厳命されていた。
 しかし好奇心の強いヤンチャな年頃の私は、お昼休みや放課後に悪友と示し合わせて、屋上や普段は使用しない構堂などに探検の旅に出掛けた。
 屋上への出入り口の屋根に登り、そこから街並みを見下ろしたり(まるで街並みがパノラマの様に一望出来る)、構堂に忍びこみ、ステージに備え付けてある緞帳や幕に身体を巻き付けて、反動でグルグルと回転したり、或いはターザンの様に飛び移って振り子の様に空中を舞ったりして遊んだ。分厚いビロードの緞帳は、小学生の体重程度ではびくともせず、しっかりと支えてくれた。但し凄い埃が舞い、クシャミが止まらなかった記憶がある。
 その日もいつものように、悪友と放課後に地下探検に繰り出した。 
 周りに誰もいないのを確かめ、入り口前に張り巡らせてあるロープを潜り抜け、一気に階段を四、五段音を立てずに駆け降りた。これで一階からは気付かれることはない。
その辺りまでは地上の光が届き、埃も積っていなかった。だが、そこから一段一段と降りるに従って辺りの闇が広がり埃が堆く積もっている様子が感じられた。我々が踏みしめた段には二人の靴跡が残り、足を上げるたびに埃が舞い上がった。 
 途中の踊場で一息入れ、上を見上げると光の中にまるで竜巻のように埃の集団が舞い踊っていた。振り返って、見下ろすとこの先は完全に漆黒の闇であった。
我々は用意したペンライトを取り出し、足元を照らしながら用心深く進んだ。降りたところの突き当たりと右側にドアが有った。 右側のドアは錆びついているのかノブを掴んで引いてみてもビクともしない。友人と二人で全体重をかけて引くと、嫌な擦れた音を立てながら少し開いた。周りに音が聞こえるかと、慌てて手を止め様子を窺ったが、階上では何の変化も無いようだった。
 ドアの隙間からライトを差し込んで中の様子を伺う。結構広い室内のようで隅の壁まで光が届かない。位置的に一階の体育館の下になるようだ。恐らくこれが防空壕なのだろう。
そこには入らず正面のドアを開ける。音を立てないように、用心してゆっくりとドアノブを引く。こちらは簡単に開いた。
 驚くべきことに薄明かりが差している。よく見ると少し奥まった場所に明かり取りの窓が設えてあった。地下だから窓などないと思っていたのだが、地上から深さ一メートル半程窓のあたりまで建物の周囲が掘られていて、そこから日差しが降り注いでいるのであった。
その部屋は荒れ放題で壊れた机や椅子が散乱しており、他にも雑多なものが山のように積み上げられていた。全てが埃だらけで、びっしりと張り巡らされた蜘蛛の巣が、光に反射しているのがみて取れた。壁に設てある棚には、ビーカーやフラスコ、アルコールランプなどが埃を被ったまま放置されていた。その様子からこの部屋は、理科室として使用されていた様だ。その先へライトを向けると、血みどろの人間が立っていた。
 思わず、ヒッと声を上げた。よく見ると血管や体内の臓器を表現した人体模型であった。その横にある物については予測がついたのでもう驚かなかった。果たして、思った通り、隣にあったのは人骨模型、所謂骸骨で髑髏のぽっかり開いた眼と鼻の穴が、ユーモラスで、恐怖心が少しばかりおさまった。
  その時、物陰から音がした。無音の世界に突然起きた物音は、恐らく実際の数十倍大きく聞こえた。びっくりして心臓が喉からせり上がらんばかりになり、友人と顔を見合わせる。そして何か人影の様なものが立ち上がる様子を目撃するに至っては、再び恐怖心が迫り上がってくる。
 窓の光は逆光でシルエットしか見えない。慌ててペンライトを向ける。
髪を振り乱しボロボロの服を身に纏った男性が、よろよろと立ち上がってこちらに向かってくる。戦時中爆撃を受けた被災者の幽霊だ。
「うわー」ライトを放り出し、友人と先を争う様にして階段を駆け上がった。
一階まで一気に駆け上がったところで人にぶつかった。
「こんなところで何をしてる」
声の主は担任教師だった。安堵した途端ヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
 後で聞いた話では、塀を乗り越えた浮浪者がそこをねぐらにしていたらしい。幽霊ではなくホッと安堵したが、我々は担任の教師からきつくお灸を据えられた。
それともう一つ、幼少期の体験でトラウマになっている事がある。 
私の父親は、非常に躾けに厳しい人物であった。礼儀、言葉遣い、行儀作法等、それこそ「箸の上げ下ろし」さえも徹底的に教え込まれた。
 気を許して手を抜いたり、いい加減な対応をしようものなら、厳しい折檻やビンタが待ち受けていた。父親の幼少時代は今ほど体罰にうるさくなく、平気で親や教師から鉄拳制裁を受けて育った時代である。そのため、自分の子に対してもそういった態度で接したのであろう。決して虐待ではなく躾の一環である事は幼いながら私も理解していた。
 それでも、私が一番嫌だったのは体罰ではなくて、納戸に閉じ込められる罰であった。
古い家なので、納戸として使われていたのは蔵である。海鼠壁に覆われた外見は、見るからに堅牢で、窓といえば屋根に近い部分に小さな灯り取りが有るだけで、それも固く閉ざされていた。従って扉を閉められると真っ暗闇となる。母家で火事が起きても、大事なものを守るため類焼しないよう、防火性にも配慮していたためで有る。
蔵の中には大きな金庫や桐の箪笥、使われなくなった家財道具や、書類などが収められた行李などが所狭しと置かれていた。普段、外気に触れる事がないためか、一種独特の湿り気を帯びた黴臭い匂いがする。
 幼い頃はその納戸に閉じ込められる事が、相当な恐怖であった。重厚な扉を閉じると、一条の光もない完全な暗闇となる、まるで視力が奪われた様な一寸先も見えない状態は、恐怖以外の何者でも無かった。泣き叫びながら許しを乞い、やっと許されて扉が開かれ、外光が差し込むと大きく安堵したものだった。
 だが、その罰も幾度か繰り返される内に、暗闇の中でも気を紛らせる方法を思い付いた。それは一人遊びと自分で名付けた方法で、自分の中で一人二役を演じる遊びであった。自分ともう一人、他人を演じ二人で遊ぶのだ。
相手はある時は母親であり、ある時は友達でもあったりした。兎に角その時々で相手役は変わる。自分の気分次第で相手役を決め、その相手になりきって自分と対峙し、会話をする。仲良く話していることもあれば、意見が対立し仲違いしそうな時もあった。
 そんな遊びをしていると、時間を忘れ、あっという間に納戸の扉が開かれるのだ。
 兄弟がいないこともあって、自分でもこの遊びはお気に入りとなり、次第に罰で納屋に閉じ込められなくとも、この遊びをする様になった。
 場所や時間を問わず、何時でも何処ででも出来る事が気に入っていた。それも当然である、お金も掛からなければ道具も使わない、自分の頭の中だけで想像する遊びなのだから。
ただ、あんなに厳しかった父も、私が成長するにつれ、余り口うるさく言わなくなった。だから体罰は、幼少期のほんの短い期間であったので、父はそんな時期があった事自体すっかり忘れているらしかったが、当の本人である私の脳裏には強烈な記憶として残っている。
学校の地下室、家の納戸、それらの暗闇での恐ろしい恐怖の記憶がトラウマになっているのか、成長してからも怖い夢を見る様になったのだ。
 それは決まって真っ暗な地下への階段を降りることから始まる。不思議なことに階段を下りながら、これは怖い夢を見る始まりだと自分で判るのだがどうすることも出来ない。レム睡眠で眠りの浅い時に夢を見ると聞いた事があるが、恐らく眠りが浅いゆえにこれは怖い夢を見る前兆だと自身で認知できるのであろうと思う。
 何故冒頭から夢の話をするのかと言うと、近頃その様な怖い夢を見る頻度が増えて来たのだ。原因は分かっている。私は或る女性と運命的な出会いをし、その女性と恋に落ちた。それがすべての始まりであった。

一、 出会い
 もう片方の夢、つまり将来に向けての目標と言った意味では、私は順調に人生を歩んでいる。
「夢は必ず叶う、そのためにはなりたいと強く念じ、絶対なれると信じる事が大切だ」そんな言葉を成功者から聞いたことはないだろうか。
 私、村山明夫もささやかながらそのように念じて今の地位を得た。勿論、そのためには人一倍の努力と、諦めずに向かって行く強い意志が有ったからだ。
それともう一つ、幼い頃からの一人遊びを実践した事も、役に立った。頭の中でなりたい自分を描き、それが実現する様に強く念じ、想像上の話し相手と相談しながら具体策を考えた。話し相手と相談すると言っても、結局は自分の頭で考えるだけなのだが、それでも自分の考えやアイデアを客観視出来る事が、良かったのだと思う。そういう具合に実践し、着実に自身もビジネスも成長してきたのであった。
   とはいえ、私が掴んだ夢は大それたものではない。受験で志望校に入学出来たり、いつかは雇われる身から経営者になりたいとの思いが実現し、小さいながらもデザイン事務所を立ち上げた程度である。
 それでも経営は順調で、独立前に勤務していた大手広告会社で付き合いの有った、大手のクライアントを得意先に持つ事が出来、デザイナーも七人、社員総勢三十名を抱える身となった。中小企業ではあるものの、充実した生活に満足している。
資産形成でも確定拠出年金やニーサ、更に株式や債券投資もポートフォリオを考慮してバランス良く投資している。そういった資産の蓄えも出来て、この調子で推移すれば所謂「ファイア」と呼ばれる(経済的自立と早期リタイアを組み合わせた造語)定年前に悠々自適生活を送るエリートの仲間入りも現実味を帯びて来た。一応人生の勝ち組の範疇に入ると思えるようになったのである。
 勿論そうなるためには大手企業のコンペで、競合他社を蹴落とし、勝ち残れるよう汚い手段も講じたし、他人の足を引っ張ったり、逆に利用したりもした。兎に角会社を成長させるためにクライアント獲得に必死であった。
 そして今後の夢は良き伴侶を得ることである。勿論私も健康な男子であるので、これまで異性との交際が無いわけでは無い。これまで数人の女性と交際したが、結婚を意識するまでには至っていなかった。恋愛自体は仕事にも良い影響が有り生活にも張りが出るのだが、仕事が面白くて未だ身を固める考えには至らなかったのだ。
建前はそうだが、正直に言うと単に性欲の吐け口を求めて不純異性交遊、つまり女性との火遊びをしていたという一面も有った。街でのナンパや旅行先でのアバンチュール、つまり一夜限りの恋愛も幾度か体験した。又、仕事関係で知り合った女性達と恋愛に発展した事も一度や二度では無い。半同棲状態にまで進展した女性もいた。それでも結局それ以上の関係になる事なく破局を迎えた。
 女性達も全員では無いにしろ、単純に恋愛ゲームを楽しんだり、或いは、金銭目的で近付いてきた輩もいたので、お互い様である。そして、だらだらと肉体関係を続けるうちに、関係に飽きた私が女性を棄てるか、或いは私にその気が無いと判ると、女性の方から去っていったのだ。
 そんな私を心配してか、既に結婚している杉本健二という悪友が、合コンをセッティングしてくれた。メンバーは私たち二人の他にもう一名、早くして結婚したが妻に先立たれた近藤という友達も杉本に強引に誘われて渋々参加した。
もともと杉本とは高校の同級生だった。共に学校は異なるが東京の大学に進学、杉本はゼミで仲良くなった近藤を私に紹介したのである。お調子者の杉本と違い落ち着きのある近藤は、私の波長にあった。相手もそう感じたらしい、杉本を介して知り合ったのに、今では彼抜きで二人だけで会う事の方が多くなっている。
 近藤は新宿警察署の捜査一課の刑事で、検察庁の知り合いの検事正の妻が彼を大層気に入り、自分の姪と引き合わせ、程なく両者は結婚した。
しかし幸せな新婚生活を送る暇もなく近藤は捜査に明け暮れ、新妻はいつも彼の遅い帰りを待ちわびる、そんな状態であった。それでも彼女は愚痴一つこぼさず、疲れて帰宅する近藤を温かく迎え入れるのであった。
 やがて待望の子供を身籠り、二人で喜こんだのもつかのま、数ヶ月後妻は身体に異変を感じたが、心配させないよう近藤には知らせず病院で検査を受けた。
結果は妊娠高血圧症候群、一昔前には妊娠中毒症と呼ばれていた病気に罹っている事が判明した。即入院となり、治療を受けたのだが、その甲斐もなく胎児を切迫流産、母体も危険な状態に陥った。
 待望の我が子を抱くことも出来ないばかりか、その小さな命自体を失った近藤の喪失感は大層大きなものであっただろう。しかも母体の危篤状態は尚も続いていた。彼は妻だけでも助けてくださいと神に祈った。だがその甲斐なく彼女も天に召されてしまった。
若くして妻とまだ見ぬ我が子を失うこととなった近藤の心の傷は深かった。そこから立ち直り、仕事に復帰するのにも長い休職期間が必要であった。
妻を亡くして初めて彼は、その存在の重要性を感じた。ポッカリと大きく空いた心の空洞を埋める事ができずにいた。
 何故もっと二人の生活を大事にしなかったのか、仕事に割いた時間のほんの数分の一でも家庭に振り向けていれば……そう考えたが既に手遅れだった。それでも彼の心の中では妻は生きていた。
 そんな心境である近藤が、合コンに喜んで参加するわけがない。それを分かっていながら杉本のやつ……私はそう思った。
合コンの会場は洋風居酒屋で行われた。居酒屋といっても隣の席の会話が筒抜けになるような猥雑な大衆酒場ではなく、イタリア料理をメインとしたリストランテ・バルであった。
合コンだからと特にお洒落をして行こうと思ったわけでは無いが、堅苦しいビジネススーツではなく、バレンシアガのジャケットとパンツ、足元はグッチのモカシンを履くというカジュアルなスタイルで出掛けた。
 少し遅れて店に着いた私は、席に案内されながら周囲を見渡す。
落ち着いた店内の雰囲気に洒落たインテリア、会話の邪魔にならないように音量を絞って流されているエリック・サティ。少しジャズ風にアレンジされているようだ。
杉本の奴、チャラ男を自認しているだけあって、女性が好みそうなお洒落な店に詳しいなと感心する。個室には既に私を除く全員が揃っていた。
男性側は杉本と近藤、にこやかに女性を紹介する杉本の隣で、少し緊張気味の近藤が座っている。
「おい顔が怖いぞ、土方」 杉本が近藤の名前を土方と呼んだ。
これには理由があって、渋々合コンに参加する条件として、本名を伏せる事と職業も単に公務員とするよう近藤が杉本に頼んでいたと後で知った。
杉本はこの合コンに相当力が入っているようで、海外の有名ブランドのスーツを着て、シャツやネクタイのみならず、チーフ、ソックス、靴に至るまで全身コーディネートで、目一杯めかしこんでいるのが、可笑しかった。
  私は改めて女性陣三名を観察する。
 事前に杉本から大手製薬会社勤務と聞いていた私は勝手にお堅い理系女子といったイメージを描いていたが、目の前の女性陣はそんなイメージを払拭するに充分な、洗練された都会的美女達であった。
   女性陣の代表は安達美希、受付嬢をしているとの事で、流石に人のあしらい方や身の処し方、服装のセンスを見れば、企業の顔となる受付を任されるだけの事はあると思えた。 人懐っこさ溢れる満面の笑みが可愛いく、如何にも男性受けしそうだ。
 その隣に座るのは、柳橋裕子。美希のような派手さはないが、こちらも人当たりの良さそうな笑顔の美しい女性である。役員秘書をしているとの事で知的な美人でモード系のスーツを肌の一部のように着こなしている。
 そして最後が畠中佐知江。 前述の柳橋裕子ほど飛び抜けた美人ではないが、背が高くスタイルも良い。しっとりとした落ち着きの或る女性であった。ただ、美人には違いないのだが、その憂いを帯びた表情が、どこか暗い影を思わせるミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
広報担当で毎日のようにマスコミなどの取材陣相手のためか、服装はシンプルなデザインのミナペルホネンの単品コーディネートだが、それでいてセンスがキラリと光る着こなしをしている。
 私は一目見るなりこの女性に惹かれていく自分を感じた。
そんな事を考える私の耳に安達美希の華やいだ声が聞こえて来た。
「だって佐知江ったら広報一の美形なのに裏方専門で、表舞台に立つのを嫌がるのよ。雑誌のインタビューでも撮影お断り。だからいつも違う娘が雑誌に掲載されるの。先日も弊社が開発した睡眠学習用薬剤の取材を受けたのだけど、業界でも注目の商品だけに上司は更なる宣伝効果を狙うべく折角彼女を抜擢したのに、とんだ計算違いって困惑している」
  どうやら畠中佐知江について話しているらしい。思わず耳を傾ける。
「だって自信ないし多くの人に見られるなんて恥ずかしいわ」
「何を言ってるのよ。今まで睡眠学習関連の薬は競合他社からも一杯発売されたけど、どれも眉唾物で失敗しているのよ。従来の薬品はレム睡眠時に記憶を刷り込む方式だった。でも本当に効果が有るのはノンレム睡眠時で、脳がその日の出来事を睡眠時に整理し必要な事項をしっかりとノンレム睡眠時に記憶に留める事が分かったの。それだけに今回弊社が開発に成功した事は業界内でも凄く話題になっているし、だから株価も上昇しているの。そんな注目の商品の紹介を出来るのよ。役員の中にはコマーシャルもタレントでは無く彼女を起用しようとの声も上がっている程よ」
 役員秘書だけにお偉方の事情に詳しい柳橋裕子が内幕を暴露する。
「そうですよ。畠中さんが自信無いなら誰が自信あるって言うの? 多分カメラマンも貴女を撮りたいって思っている筈だよ」調子の良い杉本が話に乗っかる。
「本当は私、広報には向かないって再三お願いしたんです」戸惑い気味に佐知江が言う。
「じゃ、畠中さんはどんな部署が希望なんですか?」私は思わず尋ねていた。
「おっ、村チャン乗ってきたね」
  杉本の突っ込みに苦笑する私を見つめながら、畠中佐知江は誠実に答える。
「私は総務とか経理のような内勤が性に合っていると思います」
「でも、取材の意図に応じた対応は見事よ。提灯記事ばかりじゃなくて、結構意地の悪い取材もあるけど彼女に任せておけば大丈夫だって役員の中でも評判よ。それに薬剤師の資格も――」
 柳橋裕子が話し続けるのを畠中佐知江が慌てて遮る。
「そう言う裕子こそ……チョット美希、私の話はお仕舞い。今度は裕子の優秀さを披露してよ」
「そうね、今度は裕子の番。まあ役員秘書が務まる時点で彼女の優秀さは誰もが認めているのだけど、兎に角気配りが凄いの。役員が今何を考えているのか、何を望んでいるのかをいち早く察知して対処するので、役員のウケも良いの。オジ様キラーって呼ばれているのよ。そうそう、先日もこんな事が有って――」
 身内の褒め合いの様相を呈してきたので私は黙って話を聞く。 盛んに杉本が感心したり合いの手を入れて周りを盛り上げる。
   だが彼と美希のお陰で女性たちのプロフィールが随分と分かった。二人は相当場慣れしているようだ。
 その時杉本がやおら立ち上がるとこう言った。
「本日はわたくし杉本が、知り合いの中でも独身にしておくのは勿体ない一押しの両名に参加してもらいました。女性陣も美希チャンの同僚の中でも屈指の美女お二方の参加です。はい、拍手。えー、てな訳で本日は何を隠そう、我々二人が互いにオススメの二名を参加させて、合コンよりももっと踏み込んだ合同お見合いを決行したいと思いまーす」 
    突然のことに唖然とする。女性二人も顔を見合わせて驚いている。
 近藤が何かを言おうと口を開けた瞬間、すかさず杉本の後を引き継ぎ安達美希が口を開く。
「そんな事聞いてないよとお怒りになられるのもご尤も、でも貴女達は本当に素敵な女性だし、健二が連れてきた殿方もイケメンでステキ。その上社会的地位も確立されていらっしゃるとの事。土方さんは公務員で安定感抜群、村山さんは、若くして社長様なんでしょ、若き実業家だなんて裕子も佐知江も大好物でしょ。あ、でも堅苦しいのはゴメンだから、気楽にやりましょ」
    と、まあこんな形で始まった飲み会であったが、最初はぎこちなさがあったものの、杉本と美希の軽妙で屈託のない進行ぶりに、我々四人も徐々に打ち解け宴席は盛り上がって行った。      その雰囲気にもう大丈夫と判断したのか、杉本が美希に目配せする。
「皆さん漸く打ち解けて盛り上がってきましたね、我々二人はお邪魔なようなので、これで消えるとします。後はこのまま続けるか、カップルで別行動するかはお任せします。それじゃグッドラック」
    呆気にとられる四人を残し二人はいそいそと席を立った。 杉本の奴、俺たちをダシに、ハナからそのつもりだったに違いない。
    結局、それから二時間ばかりして、カップルにもならずにその場で解散することになった。真っ直ぐ帰ると言う女性陣と別れて、近藤と近場で飲み直す。
  杉本に嵌められたと近藤が愚痴る。
「しかし、あいつ既婚者なのに安達美希嬢と何処かへ行っちまったが、大丈夫か?」
「結局俺たちは奴にダシに使われたんだろう。前々から彼女に目を付けていたようだ。彼女の方も満更でもない様子だったからな。健二、ミキなんて呼び合っていたろ」
私が応じた。
「あの美希って娘、顔は可愛らしくて男好きしそうなタイプだけど、杉本の奴はああいった底抜けに明るくって軽い、所謂ギャルタイプの女性が好みなのかな」
「そりゃ、遊びのつもりだろうから、丁度都合のいい女性だと思って口説いたのだろう。相手もそのつもりだろうから互いに割り切っているんじゃないのか」
「ふーん、そんなもんかねえ」
「そう言うお前だって偽名を使ったじゃないか。それでも俺も杉本も上手く話を合わせてやっただろ?」
「勘違いするなよ、刑事っていう職業柄、本名を名乗るのは差し障りがあるかなと思っての事だ。しかし杉本に相談したら新撰組繋がりで、土方が良いって適当な事を言いやがったのさ」
「成る程ね、だから職業も公務員って漠然とした言い方をしたんだな。まあ、俺たちは堅すぎるのさ、合コンなど出来るタイプじゃないし、場の盛り上げ方も知らない。女性たちもつまらないだろう。杉本のような男性がモテるって事だよ」
「だから俺は参加したくなかったのに、奴が強引に誘うもんだから……だが、お前は気に入った女性を見つけたんじゃないか、ズバリ畠中佐知江、違うか?」
近藤がそう言ってニヤリとする。ズバリ指摘されて私は狼狽えた。
「どうしてわかった?」
「おいおい、俺は刑事だぜ。お前の挙動でそれくらいのことは見抜けるさ。確かに三人とも美貌では人並み以上だ。それに美希以外の二人は落ち着きがあって、会話の端々に知性も感じられた。ただ畠中嬢は時折表情に暗い翳りが差すのが気になるが」
「それは感じた。でも俺にとっては、そこがミステリアスで魅力的なのさ。昔からちょっとクールな雰囲気やアンニュイなムードを醸し出すなどちょっと癖の有る女性に惹かれるんだ」
「モデル並みの秘書さんはどうよ?」
「いや、彼女は畏れ多くて気軽にお近付きになれそうも無い」
「そうだな、余程自分に自信が無けりゃ無理だな。こちらが引け目を感じてしまう。でもお前は女性陣の大好物の若き実業家だから大丈夫さ」近藤が美希を真似て言う。
「それにひきかえ俺は公務員といったって上級のエリートじゃないからな。漸く警部補にはなったが同期のキャリアは既に署長や管理官になっている。俺なんか一生掛けて精々小さな市町村の署長になるのが関の山だ。何れにせよ俺は再婚する気など更々ないが。ま、それにしても秘書さんがモテないのは男の方が遠慮するんだろうな。ああいうタイプの女性が結構つまらない男に騙されたりするんだ。俺はそんな事件を嫌という程見ている」
「おいおい」
「あ、いや彼女もそうだとは思わないさ。一般論だ。俺は三人の中ではあの娘が一番だと思う。まあ、彼女なら焦らなくてもきっと良い伴侶を見つけるさ。それよりお前、佐知江嬢とはどうすんだよ?」
「一応連絡先の交換はしたけど、どうしたものかなあ」
「何を言ってるんだ。直ぐに、今夜は楽しかったです、又お会いしたいですくらいのメールを送れよ」
「そうだな、お礼のメールだけはしておくよ。さて、そろそろ帰るか」
 勘定を済ませ店を出る。
「それじゃ、又。彼女からの良い返事が来るよう祈っていてやるぜ。今度会う時にその後の進展を聞かせてくれ。期待してるぞ」
近藤がそう言って駅の改札へと向かっていった。
   私は直ぐに近藤のアドバイス通り、佐知江にメールを打った。
<今夜は有り難うございました。お陰で楽しい時間が過ごせました >
たったそれだけの短いメールであったが、しばらくして彼女からのレスが来た。
<こちらこそ、今夜は楽しかったです。でも合コンとかは余り得意じゃないので、今度は落ち着いた場所でゆっくりお話ししたいです>
    メールに目を通し私は小躍りしたくなった。まさかこんな返事が来るとは思わなかったのだ。結構脈ありじゃないか、私は自然と頬が緩むのを感じた。
 本当は直ぐにでも次の約束を取り付けたかったが、性急過ぎてガツガツしていると思われたくなくて、その夜は<お休みなさい>とだけレスをした。
   そんな形でスタートした私と佐知江の交際であったが、順調に親密度が増している。
 知り合ったのが十二月だった事も有り、その後待ち受けているイベントが、目白押しだった事も幸いした。先ずクリスマスイブを二人きりで過ごし、大晦日は一緒に年越しを経て初詣に出掛けた。そしてバレンタインデーで初めて二人は結ばれた。これまでの経験から言えば、肉体関係に発展する迄の時間は掛かったが、それでも急速に二人の中は進展したと思えた。
正直言うと私は合コンの席で一目見た時から彼女に一目惚れしていた。
逢えない日は、せめて彼女の顔を思い出そうと努める。だが、逢えば必ずジッと見つめていたはずなのに、その顔かたちがまるで思い出せない。明日にでももう一度会って顔が見たい、そんな思いにかられる。ガキじゃあるまいし久々に心を弾ませながら思いに耽る。そして、今度こそ二人の仲が進展しますようにと心の中で強く念じた。今までの経験から強く、強く念じた。
 そして会えない時には得意の一人遊びを行なった。勿論相手役は佐知江である。私は心の中で、或いは頭の中であろうか、私自身と相手役としての佐知江の一人二役を演じ、妄想に耽るのが、常となった。佐知江なら、こんな時どうするだろうか? どう考え、どう行動するだろうか? 或いはどんな反応を示し、何と発言するだろうか。そんな事を想像している時間が楽しかった。
 特に彼女が一瞬ではあるが、時折浮かべる翳について、あれこれと考える事が多かった。一体彼女に何があったのだろうか? 不幸な事が有ったのだろうか? 相当辛い体験をしたのだろうか? 奇妙に思えるだろうが、佐知江の過去は不幸だと決め付け、悪いことばかり想像していた。そして、過去に何が有ったとしても、これからは自分が彼女を守ってあげる、幸せにしてあげるのだ、そう考えるのであった。
そんなある日、杉本、近藤と男同士だけの飲み会を行なった。十二月の合コン以来久々であった。今夜会う事になった本当の目的は、あれ以来女性陣と交際を始めているのかを杉本が知りたかったというのが本音であろう。
 私があれ以降佐知江と交際を始めた事を報告すると、杉本が食いついてきた。二人の仲の進展具合や本気度など、微に入り細に入り聞きたがった。私も悪い気はしなかったので素直に問われるまま、正直に二人の今の関係について話した。だが、彼女の出身地や家族のことを杉本に問われて困惑してしまった。
 彼女の事を常に考え、想っているのであるが、それは一人遊びの妄想であって、実際の彼女のプライベートな事は何一つ知らないのだ。
「何だよ、お前彼女と付き合っているのに、そんな基本的な事も知らないのか? 何時もどんな話をしているんだよ」そう杉本に指摘され尤もだと恥じ入ったものだ。
 そんなこんなで場が盛り上がっていた時に杉本に電話が入り、彼が十分ほど席を外した事が有ったが、それ以外はずっと私と佐知江の事を聞きたがった。
「おい、杉本いい加減に勘弁してやれよ。それより、お前はどうなんだ? あの日、美希チャンと先に出て行ったじゃ無いか。あの後どうしたんだ?」
「ああ、美希チャンか。あの娘は良い娘だった。逃がした魚は大きいぜ」
「え、フラれたのか」
「そりゃそうだろ。妻子持ちって事は、はなから承知で付き合っていたんだから。飽きたらポイよ」
「よく言うよ、遊びと割り切って、お前がポイしたんだろ」
「まあ、お互い様って事にしておいてくれよ。ちょっと俺、野暮用が出来ちまったんでお先に失礼するよ」
 そう言ってそそくさと席を立つ。それを潮に私と近藤も席を立ち勘定を済ませた。
「何だよ、杉本の奴。自分が誘っておいて、長電話はするし、自分の興味ある話だけ聞くだけ聴いたらサッサと帰ってしまいやがって」そう私が毒づくと近藤が苦笑混じりに答えた。
「あいつはいつもマイペースだからな。こんな事は慣れっこになって腹も立たない」
 そんなやりとりを交わしながら、二人で駅まで歩く百メートル程先を杉本が誰かと連れ立って歩いていた。杉本が連れの男に頭を下げて謝っている様に見える。そしてそのまま脇道に姿を消してしまった。私はこの日のことが強く記憶に残った。一体杉本の野暮用って何なのだろう。今の男に呼び出された様だ。俺たちとの宴席を中座してまで重大な事なのか? そんな事を漠然と考えていた。
 翌日、 春が日一日と近づくその日も、退社後は佐知江と二人で夜の街をぶらついていた。
佐知江は背が高い上にヒールの高いパンプスを履いているため、百七十センチあるかないかの私と並んで歩くと背丈がそう変わらない。だが傍目にはどう映るのだろうか、お似合いのカップルに見えるだろうか。
いや、そんなことより今日は金曜日、少しばかり遅くなっても大丈夫だろう。
 不思議なことに、ステディな関係になっても彼女は私に対して未だ気を許していないと感じられるのだ。だから私は彼女のプライベートな一面、例えば何処に住んでいるのか? 普段はどんな生活をしているのか? 郷里は何処なのか? そういった類のことを何も知らない。
それでも無理に知りたいとも思わなかったのは、彼女について知らない事を妄想する方が楽しかったからであろう。
 だから昨夜も、杉本から問われて、改めて自分は彼女のことについて、何も知らないのだと痛感したのだ。
 何故なのか、交際が深まるにつれて益々彼女への想いが深まる私に比べ、彼女の方は戸惑うような態度を見せ始めた。余り自分のプライベート領域に踏み込まれたくないように感じられるのだ。
 それが証拠に、デートで帰宅が遅くなっても、家まで送ると言う申し出をやんわり断った。だから私は未だに彼女が何処に住み、どんな暮らしをしているのかさえも知らないでいるのだ。
 私は思い切って自分のマンションに彼女を誘った。嫌なそぶりも見せず彼女は大人しく付いてくる。
 自分の部屋に招き入れると、彼女は珍しそうに部屋の中をキョロキョロ見回す。
「あら、このソファ、カッシーナでしょ、凄い。やっぱり社長さんともなると違うわね」
 まるで分譲住宅の内見会のように、珍しげに各部屋を見た回る佐知江。
「すごい、ワインセラーもあるのね。うわぁ、高そうなワインがギッシリ」
「おいおい、余り見ないでくれ。散らかっていて恥ずかしいよ」
「ううん、そんな事ない。キチンと整理整頓されていて、とても男性の一人暮らしとは思えない。それにラグジュアリーなインテリア、時計だってケースに収納する程有るの? 凄い、ロレックスのオイスターパーペチュアル、これはパネライ、こっちはオーディマ・ピゲ、ドレス系ではパティック・フィリップやジャガー・ルクルトもある」
 そう言いながら飾り棚の写真立てを手に取る。私が逗子マリーナでクルーザーに乗っている写真だ。
「まあ、クルーザーまで所有しているの?」
「まさか、それは逗子マリーナでレンタルしたんだ」
「クルーザーはレンタルでも逗子マリーナに別荘が有るのでしょ? それだけでも凄いわ。一頃流行ったヤンエグって言葉どおりね、夏になったら連れて行ってね」
「そうだね、夏になるのが楽しみだ。だけど、やけに独身男性の部屋に詳しそうじゃないか?」
「バカね、何を言っているの」
  そんな軽口を叩きながらコーヒーを淹れ、改めてソファに並んで腰掛ける。
妙な沈黙が流れる。こんな時普通なら、黙って彼女を抱きしめ唇を奪うのだろうが、その前に確かめておきたい。先程から言おうと思いつつ中々きっかけを掴めないでいたのだが、決心してその事を切り出す。
「佐知江、僕は君ともっと深く付き合いたいと思っている。君はどう思っている? これ以上親密な交際に発展しない方がいいかい」
「どうしてそんな事を聞くの、私も明夫と付き合って楽しいし、もっともっと貴方のことが知りたいと思っているわ。でも私でいいの?」
「いいも何も、僕には勿体ないくらいだと思っている」
「それはまだ、私の事を何も知らないからだわ」
「それってどう言う意味?」
  私は訝った、彼女には何か人に言えない秘密が有るのだろうか? でもどうせ学生時代はヤンキーだった程度の事だろう。それとも私が妄想した様な酷い体験でもしたのだろうか? 不謹慎だが、話を聞ける事に私はワクワクする気持ちを抑えきれなかった。
 

二、佐知江の告白
「私は長野県の山深い村の出身なの。小さな村で今でも昔ながらの風習が色濃く残っていて、父親は地元の化学工場に勤務するサラリーマンなのだけど、明治時代の祖先は水飲み百姓っていうのかしら、貧しい農家だったの。一帯は大地主の持ち物で多くの人が小作人として土地を借りて農業を営んでいたわ。
その関係性は現在でも続いていて、今では大半の村民は農業に携わっていないのにも関わらず、地主一族は相変わらず村の重鎮として君臨していた。現在の当主は郷田康介というの。
父親の勤める化学工場は、農業をやめる人が増えるにつれて減る一方の農地が手を入れないで、荒れ果てるのを見るに見かねた郷田が誘致したものなの。当時は流入人口は増えるし、雇用拡大にも効果があったので村民も大歓迎だった。
ところがしばらくして、山の雪解け水が流れる村自慢の清流が、汚染されていることが判明したの。丁度日本の各地で公害が問題になっていた頃で、皆は化学工場が廃液を垂れ流しているからだと騒ぎ始めたわ。
 後になって判明したのだけれど、原因は他にあって工場が原因では無かったの。でも、村人達は工場を誘致した郷田を許さなかった。
 きっと長い間地主に虐げられ、言うがままに従っていた事からやっと解放される、今まで長い間何の疑問も持たず従ってきた村人がやっと目覚めたのね。
工場誘致の責任は只の口実に過ぎなかったのだと思う。連綿と続く大地主を頂点とする権力のピラミッド構造を打破する事こそが目的だったのね。
そうなると今度は郷田が工場関係者に逆恨みしだした。自分が誘致したお陰で人口が増え、農業をやめた人達の雇用対策にもなって、当時は救世主のように崇められたのに、その当事者である自分が、今度は手のひらを返したように村人から糾弾される。そういった人々の勝手さへの怒りも手伝ってのことだと思う。特に工場長だった父にはことの外辛く当たるようになった。
 そして、それは当事者だけで無く、家族や一族を巻き込んでの諍いへと発展していったの。
地主の娘である絵里と高校で同級生だった私も、彼女やその取り巻き連中から酷いイジメに遭ったわ。
 最初の頃は教科書や持ち物を隠す程度の意地悪だったのだけれど、段々とエスカレートして、最悪なのは田んぼの肥溜めに突き落とされたりもした。留めは文化祭の英語劇の主役に抜擢された私をやっかんで……」
 そこまで淡々と話していた佐知江が続けるのを躊躇した。どうしたの? と思いつつも口にはせず、私は再び佐知江が話し始めるのを辛抱強く待った。
やがて意を決したように佐知江は再び話し始めた。
「村には同年代の不良男子がいたの。絵里に気があってご機嫌とりに彼女の言う事を何でも聞く坂下良平という男子だった。高校の卒業を控えた少し前のことだった。その日は卒業式で答辞を読む私が先生と打ち合わせをしていて帰りが遅くなってしまったの。田舎なので外灯も少なく日が沈んで闇の広がる田んぼの畦道を早足で歩いていた時だった。突然、物陰から飛び出した男が私を押し倒した。凄い力で押さえつけられ……それでも必死で抵抗して夢中で足を蹴り上げた。おい! 男が誰かに呼びかけるとそれが合図の様に複数の手が伸びてきて私の両足首を捕まえて左右に拡げた。すかさず男の両足が間に割り込むとスカートを捲り下着を引き裂いた。そして……」
私は聞くに耐えなくなって佐知江の話を遮った。
「もうそれ以上話さなくて良いよ」
「ううん、貴方には話しておきたいの」そう言って佐知江は話を続けた。
「暗くてよく見えなかったけれどシルエットとその声で分かった、あれは坂下だった。そして足を掴んで坂下を手伝ったのは郷田絵里達。私はそれからショックと身体の変調で暫く村を出て隣町の大きな病院に入院する羽目になった。両親は最初訴えると言ったのだけど私は表沙汰にしたく無かった。
 卒業式の答辞は絵里が代役で読み、私の考えた文面を自分が考えたように読んで、父兄から絶賛を浴びたそうよ。父は会社に配置転換を願い出て私たち一家は村を出た」
 私は何も言えなかった。涙を流す佐知江をただ黙って抱きしめた。だが話はこれで終わらなかった。再び佐知江が口を開いた。
「上京して大学に通う頃にはすっかり立ち直り嫌なことを早く忘れよう、そう思うことにした。そのまま大手保険会社に就職した私は、社内恋愛で結婚を前提とした交際相手が出来たの。やっと幸せになれる、そう思った。この人と一緒なら生きていけるし守ってくれる、そう信じられたわ。
 ある日仕事を終えて自宅マンションのドアの鍵を開けた途端、いつの間に近づいたのか男性が私を押し込むようにして部屋に入って来たの。
佐知江、久しぶりだな。そう言う男の声、それは決して忘れることのない獣のように私を凌辱した坂下の声だった。私は身体中の力が抜け、恐怖に膝から崩れ落ちそうになったわ。
おっと、危ない。坂下はそう言うとニヤつきながら奥のベッドルームまで私を引きずるようにして運び、ベッドに押し倒した。声を上げないようにいつの間に用意したのかタオルを私の口に押し込み、思い切り私をひっぱたいた。
数回殴られた私は脳震盪を起こした。そうやって私の闘争心を弱めると、素早く私の右手をベッドの支柱に縛り付けた。もう片方も同じようにされると最早脚を虚しく振り上げる事しかできなかった。
「以前は手こずったが同じ轍は踏まねえ」そう呟くと坂下は脚も同様に支柱に縛り付けた。私の上着の前をはだけ、スカートをずらすと持っていたカッターでブラジャーの紐やショーツの脇を切り裂いた。そうやって隠そうにも隠せない全裸の私の写真をアングルを変えて何枚も撮ったわ。そして一晩中私を犯し続けた。
 明け方になって、警察にタレ込めばこのセクシーショットを彼氏に見せるぜ、俺のスケに手をだすんじゃねえ、そう言ってやる。そんな風に脅して私の財布の中身を全て奪って去っていった。
 既に犯されることに何のショックも無かった、それより坂下が彼の存在を知っていることに動揺した。わたしの勤務先も自宅もバレている。
 いつからあの男は私の周辺を調べていたのだろうか。そもそもあの男も上京していたのだ。そう考えると恐ろしさがこみ上げて来たわ。何より愛し始めた彼氏をこんな事に巻き込みたくはない。彼に迷惑は掛けられない。かといって、このままではいずれ最悪の事態を迎えることは火を見るより明らかだ。
 暫く考えた私は決心をしたの。財布の中に入れていた六万円は坂下に取られてしまったけど、カード類は無事だった。当面の資金はある、職場も彼も住まいも全て捨てよう。そう心に決めた私の行動は素早かった。幸い女性一人の身軽な独身生活だから。ただ、コーディネートして揃えたお気に入りのベッドやチェア、コツコツと揃えていた高価な食器類などは諦めて置いていくしかないと思った。
 当面の着替えを含む服、靴などをトランクに詰め込むと直ぐにマンションを出た。ぐずぐずして夜になれば、又坂下がやってくる可能性は否定できないと考えたの。
駅に向かう途中で会社に欠勤する旨を伝え、同僚の友達には今夜泊まらせて欲しいとお願いした。
 翌日から私は次の就職先探しに奔走したわ。都内、それも前の勤務先である日本橋界隈や住んでいた新木場などの東部周辺は避け、西部側を重点的に探した。しかしそう容易く就職口が決まるわけもなく、同僚の好意に甘えてもいられず、その内、寝ぐらはネットカフェ、荷物はコインロッカーに預けるようになった。
    結局仕事を見つけるのに人材バンクを通じて半年後に見つけることが出来た。それでも部屋を借りて定住することは恐ろしくて、今でもウィークリーマンションや敷金礼金なしの短期訳あり物件を転々としているの。だから私は住所不定の流浪の民」
 そう言って佐知江は自嘲気味に薄く笑った。
 私は怒りに震えた。こんな酷い話があるだろうか。佐知江は何も悪くはない。勿論彼女の話を全て鵜呑みにする訳ではない。彼女の一方的な話であるから、彼女にとって都合の悪い話は割愛しているかも分からないし多少の誇張があるかもしれない。しかし、それにしても酷すぎる。このままでは彼女の人生に希望はない。明るい未来への蕾は坂下や郷田絵里によって悉く摘み取られてしまうのだ。他人の人生を滅茶苦茶にする権利なんて誰にもない。酷い目に遭わせた奴らを殺してやりたい、本気でそう思った。
 私はそっと佐知江を抱き寄せると、涙を流す頬に口づけをした。涙の味がした。堪らなくなった私は彼女の唇にも優しくキスをした。
「今まで隠していて御免なさい。明夫さんに嫌われたく無かったから……でももうお仕舞いね。明夫さんと付き合って楽しかったし、幸せだった。今まで有難う」
「何を言い出すかと思えば…‥僕たちはこれからも付き合っていくんだよ」
「こんな汚れた私で良いの?」
「何を言うんだ、君は少しも汚れてやしない。薄汚れた人でなしは坂下や郷田達だ。君は綺麗だ」
   そう言ったものの、引き返すなら今のうちだぞと冷静な自分が心の中で呟く。今まで付き合ってきた女性たち同様に後腐れなく別れれば良い。
 だが、彼女の話しを聴いて、逆に一層愛情が強まった気がした。同情では無い、酷い目にあった彼女を幸せにしてやりたい。それが出来るのは私しかいない。その様に考えた。
 今まで付き合って来た数多の女性達、その中には佐知江が経験した程でないにしろ、私が酷い仕打ちをしてしまった女性もいたし、好きでも無いのに仕事を上手く進めるために、関係を持った女性もいた。過去のそれらの女性達への償いの意味も込めて、その分まで彼女を幸せにしてやるのだ、そう考えた。それに既に私は彼女に惚れてしまっていて、到底諦めるなんて出来ない。
「君が欲しい」 そう言って佐知江を抱きしめると、優しくついばむように口づけをする。
そのままベッドへと誘い、佐知江を抱いた。私は彼女の身体を慈しみ、壊れ物を扱うように優しく抱いた。
 穏やかにではあるが、激しく燃えた行為の後、心地よい気だるさの中で、考えを巡らす私は、ふと気になった事を佐知江に確かめる。
「新しい職場が今勤めている製薬会社だよね。そこは未だ坂下には知られてないんだろ?」
「そうよ、だから広報の仕事で雑誌インタビューなどは極力避けているのよ。ひょんな事で知られるかもしれないと思うと恐ろしくて」
「そうか、それでプライベートを余り話さなかった訳が判った。笑顔の中にも時折翳りを見せるのもそれが原因だったんだね」
「だから、もう私の事嫌になったでしょ? 今なら私も諦めがつく」
    無理だ、私はもう佐知江を愛してしまっている、今更別れるなど考えられない。その覚悟で君を抱いた。そんな事を口走ったと思う。
「貴方を巻き込みたくないのよ、判って頂戴」
「いや、僕が佐知江を守る」
「でも、どうやって?」
   そう言われても直ぐに良い考えが浮かばない。暫し黙り込む。
「そうだ、孫子の兵法だ。彼を知り己を知れば百戦危うからず。君は奴から逃げる事ばかり考えている。だけど、奴のことは知っているのか? 今奴はどこに住んでいて何をしているのか把握しているかい」
「そんな事を知りたくもない」
「君が姿を消して奴は必死で君を探している筈だ、現在どこまで調べがついているのか? どの辺りを調べているのか? それが判ればこちらとしては先手が打てる」
「でもどうやって調べるの」
「仕事上、僕の会社も取引先が多い。重要な取引会社ともなると、その企業の営業実態や資産状況など様々な事を調査する。そのためウチの社も大手信用調査会社に調査依頼を行う。彼らは無論個人的な調査はしないが、下請けで興信所などともパイプがある。そこに依頼しよう」
「駄目よ、そんなことまでしたくないわ。絶対に嫌」
    佐知江の気持ちは痛いほど判った。そんな事をすれば自分の思い出したくない過去まで白日のもとに晒される、それを危惧しているのだろう。
 しかし、このまま手をこまねいて、いつ居所がバレるかとビクビクして暮らしていくのも問題だ。第一、居所を嗅ぎつけられれば今度こそ終わりだ。逃げられないようにどんな卑劣な手を使ってくるか分かったものじゃ無い。
「兎に角そんな事は絶対嫌だから。もうその話は止しましょう、多分もう坂下も諦めてるわよ」
   そう念押しされれば、それ以上説得する気も失せてしまった。彼女が乗り気でないなら、彼女には悪いが黙って私一人で相談してみよう、そう考えた。
   月曜日、午前中に当面の仕事を片付け、後は宮田という部下に指示をしておいて、私は探偵事務所に向かった。
 宮田という男は部下と言うよりもビジネスにおけるパートナーに近い。私が社会人として最初に勤務した大手広告会社での後輩である。同じプロジェクトのスタッフとして仕事をした時に妙にウマが合ったのと、互いの能力を認める事で、それ以降もタッグを組む事が多かった。だから私が独立を考えた時に一番に彼を誘ったので有った。それまで付き合いのあったクライアントも、私と宮田のコンビには目をかけてくれ、大手が扱わない小規模な案件など、何かと仕事を回してくれたりした。
 その様にして着実に会社を成長させて来たのも、彼のサポートが得られたお陰で有り、今では殆ど彼が営業面を切り盛りしてくれているので、私は経営に専念出来ている。
だから、安心して私用でも出かける事が出来た。
 探偵については、信用調査会社の担当に紹介してもらった。話をすると、そういう事なら打ってつけの男が居ますよと言いながら、彼はその場でアポを取り付けてくれたのだ。
 その日の午後からなら体が空いていると言うので直ぐに会う約束をした。
 事務所は神田駅から五分程歩いた場所にあった。古い雑居ビルで、特許事務所や人材バンクなどの事務所が入居している。
 その事を案内板で確認した私は、エレベーターで四階に向かった。
外観は古びた印象であったが、内装はリフォームしたのか廊下の床や壁は明るく清潔感があり、意外な印象を受けた。煤けた壁や薄汚れたフローリングの床を想像していたのだ、探偵小説の読みすぎかなと一人苦笑する。
  ブザーを押すと「はい」とダミ声が応答した。
「朝、ご連絡を差し上げた村山です」
「どうぞ」ダミ声が素っ気なく応じた。
  ドアを開き中に入る。部屋には応接セットがあり、横にはパーティションで仕切られて見えないが、簡単なキッチンが有るのだろう。奥に続く部屋はドアで仕切られているが、恐らく探偵の仕事場となっていて、デスクやキャビネット等が有るのだろう。そこから大柄な中年男が姿を現した。
 私にソファに座るように手で促すと、自身はキッチンに姿を消した。再び現れた彼は、芳醇な香りを立ち昇らせるコーヒーカップを二つテーブルに置いた。
「まあ、まずは一口。コーヒーだけはこだわっていますんで」
 探偵の勧めに、遠慮なくカップを口に運ぶ。
 成程、自慢するだけの事はある。「中々美味しいですね」と伝えると探偵は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「自分でブレンドしたもんでして、気に入って貰えると嬉しいですな」そう答えた。
 横柄な感じで第一印象は最悪だったが、案外そうでもなさそうだと思い直した。それに紹介してもらった以上ここで帰るわけにもいかない。
 探偵事務所といえば、てっきりフィリップ・マーロウばりに、苦味走ったハンフリー・ボガードが現れると思った自分に苦笑する。
「ん、何か?」
「あ、いや。失礼」
「所長の須藤浩一です。電話であらかたの事情はお伺いしましたが、村山さんが交際されている女性がストーカーに悩んどられるとか。男から逃れるために転居したが、その男の現在の動向を調べて欲しいと、こういう事で宜しいんですな」
「その通りです。名前と実家の住所しか判りませんが、それだけで調べられますか?」
「大丈夫、多分一週間もしないで、かたがつくでしょう」
「費用は如何程……」
「成功報酬で構わんです、調査報告時に実費費用と共に精算ってことで」

   そんな具合に依頼した調査であったが、須藤はいとも簡単に調べ上げたようだ。
依頼して四日後には、早々と報告書を持参して会社にやってきた。
「早かったですね」
「調査内容が比較的簡単なものだったんでね、普通です」にこりともせずにそう言う。
「早速ですが、坂下良平は現在元浅草に住んどります。上京した当時は同じく同郷の女性のマンションに居候してヒモのような暮らしをしとったようだが、競艇場で知り合った男の誘いで組の構成員となり、それをキッカケに女と別れとります。坂下を誘ったのはジローと呼ばれるチンピラで、上野、浅草から錦糸町周辺を縄張りとする極栄会の構成員ですな。ジローは組の下っ端、要は使いっ走りでね、坂下を組みに引っ張り込んで、弟分としてパシリを手伝わせようって腹なんでしょうな。睡眠時間もろくすっぽ取れんようです。その代わり食いもんには困らんし、たまには女も抱かしてもらえる。そんな具合で、とても女にかかずりあってられんのと違いますか、女と別れたのもそのためでしょう。ましてや行方をくらました女の行方を追うなんぞ、してる暇はありゃしません。当面は安心でしょうな。詳しくはこの報告書に」
そういって大型の封筒を私に差し出した。
「因みに、ヒモ暮らしをしていた相手の女性も同郷と仰いましたが?」
「ああ、郷田絵里って女です。六本木のキャバ嬢ですわ。随分金を貢がせられたようですな」
 郷田絵里……貢いでいた訳では無いだろう、おそらく坂下を引き連れて上京し、佐知江を襲わせるよう指示をした。金はその謝礼だろうと考えた。 だから坂下が身動きできなくとも、主犯である絵里がいる。彼女がどう動くか? 事によっては坂下を通じて組の幹部に取り入るなんてことも、あの女ならしかねない。
 思いに耽る私を須藤が黙って見つめている。
「村山さん、何か隠してますな」須藤が眼光鋭く私を見つめて言う。
「表向きの依頼の内容はこれで済んだでしょうが、こちらを信頼して全てを話して頂かんことには、問題は解決しやしません。此方としてもそれによって調べ方が違いますんで」
「申し訳ない」私は素直に謝った。外見だけで判断していたが、中々どうして、この須藤という探偵鋭いじゃないかと思った。
「しかしこれ以上の調査は必要ありません。ただ単に現在の消息を知りたかっただけですので、有難うございました」そう言って一方的に話を切り上げたのだった。

 その夜、結局佐知江に隠しておけず、私は坂下に関する報告書を見せた。
黙って報告書に目を通していた佐知江であったが、ホッと安心したように顔を上げた。
「ほら、ここにも書いてある通り、坂下はもう私のことどころじゃないわよ」
そう言って私にもたれ掛かると甘えた声で私を誘うのだった。
「これで思い切り貴方と愛し合える。ねえ、抱いて」
  私の首に両手を回しそのままもつれ合うようにソファに倒れこんだ。 
 それから数日経った週末の夜、今夜も彼女が私のマンションに泊まる予定であった。
いつもの様に待合せ場所に向かう途中に佐知江から電話が掛かってきた。待ち合わせの約束の時間に遅れるのかなと思いつつ、スマホに出る。
「どうしたの、残業で遅れるのかい?」暢気に話す私の言葉を遮る様に佐知江が喋る。
「怖いの、アイツがとうとう私の居所を突き止めた」
「あいつ? 坂下の事? まさか……須藤さんの報告では今の坂下はそれどころじゃ無いって言っていたのに」
「でも、私のアパートの前で待ち伏せしているのよ。貴方と会う前に着替えを取りに帰ってアイツの姿が見えたので、慌ててひき返したの。幸い私に気がついた様子じゃ無かったので、一目散に逃げてきた。今、そちらに向かう途中。ねえ、今夜だけじゃなく当分泊めて貰えるかしら」
「勿論さ、当分帰らない方がいいと思う。食事しながら今後の事を検討しよう」
 努めて明るい口調でそう言って電話を切ったが、私の心はざわついていた。
佐知江と交際を続ける限り、避けて通れない問題なのだと今更ながら痛感した。須藤の報告を聞いて、簡単に解決したと思い込んだ己の浅はかさを呪った。須藤に再度調査依頼をしよう。
今度は徹底的に調査を行い、坂下がどこまで肉迫しているのかを知る事だ。最悪の場合は友人で刑事の近藤にも相談しながら解決策を講じる必要が有る。
何時迄も逃げ回ってはいられないだろうし、それでは何の解決にもならないのだから、いつかはあいつと正面から対峙し決着を付ける、警察沙汰になっても仕方が無い。そう腹を括るしかないだろう。
 レストランへと向かいながら私は一つの決断をした。それはこれを機に佐知江との結婚を前提とした同棲を始めるというものであった。
奴が彼女の現住所を突き止めたとすれば、もう自宅には帰れない。本当はもう少し彼女との交際を深め、じっくりと見極めた上で求婚しようと思っていたのだが、そんな悠長な事も言っていられなくなった。彼女を守ってやれるのは自分だけだ。
 私はレストランで佐知江に二つの提案を行った。一つは仮住まい生活を切り上げ、私と暮らすのはどうか、もう一つは今の会社を辞めて私の会社の経理を任せたいがどうか、との内容である。元々広報より経理や総務が希望である佐知江にとっても、良い考えだと思ったのだ。
それとは別の理由もあった。営業面については宮田がその大部分を担ってくれていて、私は経営に専念出来ているのだが、今後の為に以前から、デザイン業務だけで無く、業務の拡大をしようと考えていた。ただこれ迄は、忙しさにかまけて中々準備も出来ずにいた。佐知江が経理財務を担ってくれれば、空いた時間が新規事業に費やす事が出来る。そう考えたので有った。
「でも、私経理の実務なんて経験してないから、出来るかどうか」
「大丈夫、実務はしなくて良いんだ。勿論知識は必要だけど。君には財務経理の役員をしてもらいたいんだ。損益計算書や貸借対照表のチェックと分析、キャッシュフローと資金繰りの管理」
「ちょっと待って、私にはそんな難しい事、出来ないわ」
「大丈夫、僕がやっている事だから、僕を手伝いながらゆっくりと覚えていけばいい。いいね」その言葉に佐知江はコックリと頷いて承諾してくれた。
 翌日、私と佐知江は彼女の仮住まいのアパートに向かった。当面の必要最低限の荷物を運ぶためだ。
 佐知江には私の服で男装をしてもらった。幸い女性としてはタッパが有るので、シャツの腕まくりやジーンズの裾上げでサイズも誤魔化すことができた。
 男友達の二人連れを装いアパートに近づく。周辺に気を配りながら、のんびりと歩を進める。幸い坂下の姿は見えない。素早く部屋に入る。
女性の部屋に入るのは初めてではないが、男世帯と全く違い女性特有の花園感が有り、何となく緊張する。こんな場合でなければ、この甘い気分に浸ってもいられるのだろうが、今はそんな時ではない。
 大急ぎで最低限必要な物をスーツケースに詰め込む佐知江。その間も私は窓から周辺を伺う。結局、何事も起こらず順調に荷物を運び出し、コインパーキングに停めたレンタカーの軽トラックに積み込むと、大急ぎでその場所を離れた。
 運転中、何度もバックミラーをチェックするが、怪しげな車が追跡している気配も無かった。
「まだ当分はアパートを引き払わない方が良いよ。坂下はとうとう見つけたと安心しているはずだ。君が感づいたとは夢にも思っていないだろう。油断させておいて、その間に対策を講じるんだ」そう佐知江にアドバイスをした。
 無事、私のマンションに荷物を運び入れ、その日から二人の同棲生活が始まった。
 今まではクールな印象の我が家、悪く言えば殺風景な部屋が、女性用の雑貨や小物が並ぶ事で、華やかな雰囲気が醸し出された。これも悪く無いと内心で納得する。
 忍び寄る坂下に怯えながらも、同棲を始める事に軽い興奮を覚えた私は、佐知江を抱きしめる。彼女も同じ気分だった様で私の服を脱がせにかかる。互いの服を忙しなく脱がせあい、ベッドに潜り込むと貪る様に互いの身体を愛でるのだった。
 事が終わって真昼の気怠さの中、部屋を暗くするために引いたカーテンの隙間から差し込んでくる日差しが眩しい。私は改めて佐知江の細い身体を抱き締めるのであった。
 こうして同棲生活を始めた二人であったが、毎日一緒に暮らすと、今まで知らずにいた事柄がお互いに見えてくる。特に私の怖い夢については、夜中に酷くうなされる事を彼女が心配して問い詰めてきた。
 渋々、幼い頃のトラウマの事を話して聞かせた。黙って聞いていた佐知江であったが、翌日には会社からよく効く睡眠薬を持ち帰って来てくれた。
「これでぐっすり眠れるわよ」そう言って私に飲む様に勧めてくれた。
「それにこれからは貴方一人じゃないわ、私が何時もそばに居る。私の事を守ってくれる様に今度は私が怖い夢から守ってあげる」そうも言ってくれた。
 まるで新婚生活の様な日常であったが、楽しんでばかりはいられなかった。
 二人の幸せな生活を実現すべく、打ち合わせどおりに、やるべき事を淡々とこなして行った。佐知江が現在勤務している製薬会社については、直ぐに退職と言うわけにもいかず、引き継ぎを含め三ヶ月を要する事となった。だが、帰宅後の時間はたっぷりとある。私は毎夜、少しずつ会社の財務や経理の内容を佐知江に教えた。勿論、プライベートでも家計を彼女に委ねるようになった。  
 一週間後、坂下の再調査を行なっていた須藤から連絡が入った。
彼は開口一番、坂下が現れたと言うのは本当かと尋ねた。
この一週間ずっと奴に張り付いていたが、そんな素振りは見せないし、相変わらず使いっ走りで忙しく立ち回っているだけに見える。奴に似た人物を見間違えた可能性は無いかと言うのだった。
 彼には佐知江の事は話していない。当然須藤は私が坂下を見かけたものと思って、確かめているのだろうが、私としては実際に見たわけでは無いので、そう問われると自信が無い。佐知江の話を疑いもせずにいたので、見間違いじゃ無いのかと確認もしなかった。人間違いや勘違いの可能性がある事に今更ながら気づいた位であった。佐知江に再確認する必要があると思いながらも、須藤にはもう少し張り付いてもらう様にお願いをした。

三、怖い夢
 繁華街を佐知江が足早に歩いている。やがて繁華街を離れ裏通りに向かう。この先には須藤の事務所が入る古いビルがある。はたして彼女はそのビルへと入っていく。
 どうして彼女が須藤の事務所に? と訝りながらも見守る。彼女は須藤から坂下の居場所を聞いている。一体なぜ? ひょっとして自分から坂下に近づくつもりなのか? 会ってどうするつもりなのか。
 嫌な想像だが憎き相手をこれ以上のさばらせるわけには行かない。そう考えているに違いない。ひょっとして坂下を襲おうとでも考えているのだろうか? ダメだ、相手は凶暴な男性だ、女の細腕で敵う訳がない。そんな危ない真似は止すんだと心の中で叫ぶ。
と、突然場面が変わる。又、地下室へ降りて行く夢だ。駄目だ、このままだと怖い夢を見る。そう思うが目が覚めないまま、どんどん夢の世界へと入り込んでいく。
おや、誰かと連れ立って歩いているようだ。誰だ? ちらっと相手の横顔を盗み見る。薄暗い外灯の明かりに男の横顔が浮かび上がる。この顔、坂下。
先日、探偵からの報告書に添付されていた写真を見た記憶が強烈だったから、こんな夢を見るのだろうか? 
 それにしても今歩いているのは、どの辺りなのか、やけに薄暗い上に細い道だ。周りの建物を見て理解した。薄暗いはずだ、此処は新宿歌舞伎町、花園神社から新大久保方向へ進んだ、区役所通りから二本程東に入ったラブホテル街だ。何時頃なのか、人通りは途絶えている。真夜中でも人通りは絶えない新宿なのに……それに、どうして坂下と歩いているのか? 
 その時坂下がニヤついた表情を浮かべて話しかけてきた。
「久々だな、それにしてもあんたの方から連絡して来るなんて、どういう風の吹きまわしなんだ? まあ、こっちとしては久し振りにあんたを抱けりゃあ文句はねえ。おっと、どこへ行く、この辺でしけ込もうぜ」
「そこの細い路地を曲がった処にいい場所が有るの」私が喋っている。
 女の声になっている。夢の中では私は女性なのか?  そうか、佐知江だ。須藤から坂下の居場所を聞いて奴を呼び出したのだ。
    坂下が言われた通り細い路地に入って行く。路地を入ると防犯カメラは無い。
一歩わざと遅れて歩く私はいつの間に持っていたのか、包丁で坂下の背中、肩甲骨の下を目掛けて体ごとぶつかっていった。全体重をかけ刃渡り二十センチの包丁を根元まで深々と刺す。
「な、何を――」坂下が叫ぼうとするが声にならない。 
   すぐさま包丁を抜くと、坂下の背中から背広を通して鮮血が凄い勢いでシミとなって広がって行く。持っていたショッピングバッグに、血まみれの包丁と返り血を浴びたピンクのスプリングコートを入れ、手をウェットティッシュで拭う。
 路地を抜け明治通り沿いのコインパーキングに停めてあった愛車のマセラティに乗り込むと、大急ぎで現場から離れるのだった。
 これは本当に夢なのかと思った瞬間目が覚めた。並んで寝ていた佐知江が私の顔を覗き込む。
「どうしたの、酷くうなされていたわよ」
「何でもない、少しばかり怖い夢を見ただけさ」
「私があげた薬は? 飲まなかったの?」
「いや、飲んださ。喉がカラカラだ、水を飲んで来る」 
 そう言ってベッドルームからキッチンへ移動した。
喉が渇いたと言うのは、寝室を抜け出す口実で、冷蔵庫から缶ビールを取り出すとリビングのソファに腰を落ち着けた。
 先程の夢は何だったのだろうか。妙に現実味のある夢だった。ジッと掌を見つめる。手には坂下を刺した感触が残っているようなのだ。しかし夢とは言え、あれは私だったのだろうか? 佐知江なのか、それとも佐知江に扮した私のどちらなのだろうか? 現実にあり得ない設定である私の女装も、坂下にバレないのは夢だからだろうか。
結局そのまま眠れずに朝を迎えた。私は寝不足でもあり、ムッツリと黙り込んでいた。
「どうしたの? あれから眠れずにいたから気分でも悪い?」
 佐知江が朝食の支度をしながら尋ねてきた。昨夜の夢の話など出来る訳もなく、私は曖昧に返事して努めて明るく振る舞う。
 しかし、心中穏やかで無かった。夢というには余りにも現実的で、背中を刺した時の感触が今でも手のひらに残っている。あれは本当に夢だったのだろうか? そう疑わざるを得ないほど現実味を帯びていたのだ。
 慌ただしく朝食を終え、二人で部屋を出る。
 地下鉄に向かう佐知江と玄関で別れ、私は駐車場の愛車、マセラティ・クワトロポルテに乗り込む。ふと思いついてカーナビの運航軌跡を見つめた。
画面を新宿方面に移動させる。私の記憶では明治通りを新宿方面に走ったのは半年以上前だ。既に軌跡は消えているはずであった。しかし画面には、くっきりと軌跡が残されていた。 最近通った証拠だ。
 私は愕然とした。夢ではない、あれは現実なのだ。動揺を抑えきれず心拍が早くなる、手が震える、頭が混乱する。とても運転など出来ない、いや、仕事など手に着くわけがない。私はノロノロと車を離れ部屋へと戻った。
 直ぐにテレビを点けるとニュースが始まったばかりであった。アナウンサーが<今朝、最初のニュースです>と口を開く。
 それに続く内容に私は画面を食い入るように見つめた。
<被害者は上野界隈を根城とする極栄会の構成員で、新宿で殺された事から、当局は新宿権藤組との間で何らかのトラブルがあったと見て、背後関係を捜査しています>
 矢張り……現実だった。ニュースでは、警察は暴力団同士の抗争と判断していると報じていた。だが、そうではない。私が殺したのだ。いや、あれは私だったのだろうか? 女性の声、女物のスプリングコート。
 そう言えば佐知江が似たようなコートを着ていた覚えがある。
 私は急いで佐知江の部屋に行きウォークインクローゼットを調べた。だがピンクのコートは見当たらなかった。まさか佐知江が? それとも私なのか、混乱する頭を整理する。
しかしいくら考えても確たる結論は出ようも無い。はっきりしていることは、私か佐知江のどちらかの犯行だという事だ。
 佐知江の犯行ではないとして、彼女はもう、坂下が殺されたことを知っただろうか? 佐知江に電話して見よう、どんな反応を示すか確かめてみたい。そう思うものの、反応を見るのが恐ろしい気持ちもあって、中々踏ん切りがつかなかった。結局、昼食を摂るのも忘れて悶々と思い悩む内に日が暮れた。
    佐知江が帰ってきた。いつもより早いのは出先から直帰してきたかららしい。私の顔を見るなり彼女が言った。
「ねえ、ニュースを見た? 坂下が死んだわ。組同士の抗争みたいだって。天罰がくだったのよ。でも、もうこれで私は何も恐れずに生きていける。ニュースを見て小躍りしそうになったわ。あ、人の死を喜ぶ不謹慎な女だと思わないで」
「判っているよ、君が受けた仕打ちを思えば、無理もないと思う」
「もう私達何も恐れないで暮らせるのよ。結局、探偵に依頼したのは無駄だったわね。だから探偵なんか必要無いって言ったのに……ま、良いか。もう済んだこと。ねえ、夕飯には早いけど外に食べに行きましょう。もう恐れる事なく夜でも堂々と歩けるのだわ。ちょっとだけ奮発して豪華な食事がしたいわ。ねえ、そうしましょう」
   レストランに予約を入れた佐知江は、腰の重い私を急き立てて部屋を出る。
 この屈託のない表情や態度を見ていると、とても彼女があんな大それた事をしでかしたとは、到底思えない。
 その夜の彼女は最高に幸せそうだった。まだ日が暮れたばかりの宵の口なのに部屋に帰るなり情熱的に私を求め、そして燃えた。
行為を終えて私はいつのまにか泥沼に引きずり込まれるように眠りに落ちた。
 そして、又もや夢を見た。
 地下への階段を下りると、 何処かの公園だった。見知らぬ女性と並んで歩いていた。公園にも彼方此方に防犯カメラが設置されている。私はなるべくそれらを避けるようにして、女性を大きな繁みの方へ誘導し暗がりに分け入る。
「だから何も喋っちゃいないって、もう昔のことだし、今更蒸し返されたって私だって迷惑だもん。今は旦那と二人の子供と平和に暮らしているんだからさ」
 そう言って歩く女性から少し歩みを緩め背後に回る。坂下を襲った時と同様に背中を刺すと、女はその場に崩れ落ちた。
私はスマホを取り出すとカメラを自画像撮影にセットして画面を覗き込んだ。自分が誰であるかを確認するために。そこには紛れも無い私が映っていた。カツラを被って女装をした自分が……。
  そして朝が来た。
 今日は立ち寄るところがあるとの理由で、佐知江を送り出した私は、会社には出勤せずテレビを点けた。
 朝刊にはそれらしき事件は載っていなかった。テレビをザッピングしてニュース番組を探す。何処かの駅のホームでアナウンサーが喋っている画面が出る。
<私は今、新宿駅の中央線ホームにいます。昨夜通勤客で混雑するこのホームから女性が落ちて、丁度入ってきた電車に轢かれるという痛ましい事件が起きました>
  私は慌ててボリュームを上げた。
<ここ、新宿駅は都内でも有数のマンモス駅で、この駅から幾つもの路線が延びており、又私鉄、地下鉄への乗換駅でもあるため、通勤時間帯は多くの通勤客でごった返しています。ご覧の様に早朝の今でさえ、新宿駅にはこれだけの数の乗客の往来があります。   ピーク時には整列乗車の列が並び、ホームは真っ直ぐ歩けない状態となります。ですから中には整列乗車の先頭とホームの間、白線の外側ギリギリの処を足早に歩く人達が多く見られます。電車がホームに入ってくると大変危険なため、白線の内側を歩く様に駅員がアナウンスもしていますが、それでも歩く人達が数多くみられます。恐らく被害女性もその一人だったと思われます。目撃していた方の話によると、数人が一団となって歩いていたため危ないなあと思ったそうです。恐らくその一人とぶつかって足を滑らしたのでは無いかと話しておられました>
 ニュースを凝視していたが、レポーターの口ぶりではただの事故のようだ。
 私が夢を見たのは、昨夜と言っても明け方近くだったためか、見た夢の内容は今でも明確に覚えている。
 何処か人もいない公園で刺殺したのだ。場所も異なるし、そもそもこれは事故だ、それなのに私は何故かこのニュースが気になった。
 その後も、この事件の続報が知りたくてテレビに齧り付きネットを検索した。
 ハッシュタグ検索で新宿駅中央線事故を検索すると、関連記事が出るわ出るわ、 ネットでは凄く盛り上がっていた。ホームの端を歩く危険性を訴える意見や、ホームドア設置の迅速化を訴える意見が大半を占めているのだが、中には誰かが女性を突き落としたのを目撃したとの意見まで投稿されていた。
 ネット同様にテレビのニュースやワイドショーでも、この事故は大きく取り上げられていた。ただ、テレビでは事故そのものよりも、その背景にあるホームドア設置の問題が主として取り上げられていた。
 曰く、都営、東京メトロはホームドア設置がほぼ完了しているのにJR、私鉄各社の設置が遅れている事。その主たる理由は、特急や快速急行などによって車両の仕様が異なり、ドアの位置も異なるためである事。他にもホーム自体が必ずしも直線でなく、大きくカーブしている事や、その為列車とホームの隙間が空いている箇所が散見される等の問題などが有り、そう簡単には事が運ばないらしい。但し今回のような痛ましい事故をなくすためにも、早急なドア設置に取り組んでもらいたいという様な論調が主流であり、ネットに見られるような殺人事件の可能性を取り上げた局は、皆無で有った。
 やはりこの事故は関係のない出来事なのだろうと思い直し、他に殺人事件のニュースが無いか調べたが、東京近郊では交通事故による死者しか、報じられていなかった。
 夢は夢だけで終わる。そうだ、それが普通なのだ、正夢などそう滅多に起こるものでは無い。そう考えるのだが、矢張り何処か気になる。自分の頭……と言うより意識下で、あれは事故では無く、私の犯した犯罪なのだと認識している様なのだ。
 おしかし、私はあんな女性に見覚えはない。知り合いでもなければ口を効いたこともない。何故そんな女性を殺さなければならない?  
私が自覚も無いままに、無意識に見知らぬ他人を殺害したのだろうか? 本当に事実なのだろうか。でも夢の中では、女装をした私の顔だった。
 どう、解釈すれば良いのだろうか。あれは夢ではなく現実……私は夢遊病なのだろうか、横溝正史の小説である「夜歩く」の様に、いや、あれはそう見せかけただけで犯人は別にいた。では、ヒッチコックの「サイコ」のように他の人格が乗り移った二重人格者?   幼い頃から慣れ親しんだ「一人遊び」で最近は専ら佐知江になりきる事が多いため、私自身にも佐知江の人格が乗り移ったのだろうか? だから私にとっては見知らぬ女性であっても、佐知江の人格が現れた時に殺人を犯したのに違いない。
 私は脱力しソファからズルズルと滑り落ちるのだった。いや、待て。矢張りそんな考えは馬鹿げている。
  だが少なくとも坂下の殺害については、どう考えても私の犯行に間違いない。覚悟を決めた私は友人の近藤に連絡をとった。
 事情を掻い摘んで話し、新宿署に自首すると私が言うと近藤が慌てて止めた。
こちらから出向くからマンションで待機していろと言う。
 近藤が血相を変えて私の部屋にやってきたのは、それから小一時間程経過した頃であった。
「村山、どう言う事だ。お前が犯人だと? 兎に角、俺にわかるように話せ」
    私は、 今まで誰にも言ったことがなかった佐知江の過去、郷里での郷田絵里や坂下による酷い虐め、そして佐知江が上京すると、彼らも後を追う様に東京に出て来た事。
その挙句、今でも佐知江を付け狙っている事、その為坂下の身辺を探偵に調査依頼した事、それ以降夢で見た坂下の刺殺と、女性のホームからの転落死が、実際に起きた事などを吐露した。
   眉を顰めて聞いていた近藤であったが、話が進むにつれ表情を崩した。
「判った。お前のことだ、そんな酷い目にあった佐知江さんを不憫に思うと同時に坂下や郷田絵里に対する憎しみが思い余って、そんな夢を見たんだ。実際に犯行を仕出かした訳じゃ無いだろ。偶然夢の中で殺した相手の事を現実に殺された相手と思い込んでいるだけだ」
「違うんだ、坂下を刺した後近くのパーキングから車で逃走しているんだ。実際、愛車のナビの運行軌跡に残っている。夢じゃ無い、本当に起きた事なんだ」
「馬鹿な、それも偶然の一致だろ。お前、毎日が車通勤なんだろ。その周辺を走ったのを失念しているだけだ。それに、幾ら女装したって坂下が気付かないはず無いだろ。もう一件の女性に至っては、夢で見た内容とは場所も殺害方法も異なるし、その上面識も無い相手なんだろ。どうしてお前に殺す動機が有るって言うんだ。余り脅かさないでくれよ」
「だが、本当に転落事故なのか、突き落とした可能性は無いのか調べてくれないか」
「わかった判った。一応鉄道局の方で調べているから問い合わせてみる。恐らく何もないと思うがなあ。全く勘弁しろよ、お前を逮捕などしたく無いからな。疲れているんだろう、顔色も悪いし……今日はゆっくり休め、坂下殺しのホシは俺が絶対捕まえてやる」
    一大決心で告白したと言うのに、近藤は全く耳を貸さず帰っていった。
 私はもう考える気力もなくなり、グッタリとリビングのソファに倒れ込んだ。
近藤が言うように、もし私の犯行で無いとすると佐知江が起こした事になる。或いは先刻思いついた私の中の別人格である佐知江の犯行か?
 もし佐知江の起こした事件だったとすれば……二人目の被害者、私の見知らぬ女性について、佐知江にとっては殺す理由が有ったのだろう。その理由とは何なのだろうか。昔の虐めの絵里グループの仲間だったのだろうか? でも、それならば何故今頃になって? 
 そこまで考えてハッとする。本当に佐知江が憎いのは郷田絵里だ。今度は彼女が危ない。幾ら憎い相手でも殺人は許せない。佐知江の犯行ならば止めなければならないが、もし、私の無意識の犯行とするならば夜眠ることが出来ないでは無いか。眠れば必ず殺人の夢を見るのは想像に難くないし、それは実際に起きてしまう。まるでホラー映画の「エルム街の悪夢」のように。
 では、どうする、そこまで考えて気がついたことがある。坂下の住所を佐知江に教えた須藤も、今頃彼女の犯行だと気づいている筈だ。とすれば、須藤も絵里の身に危険が及ぶと考えているのでは無いだろうか。ならば今頃絵里のガードに動いてくれているかもしれないと甘い期待を寄せる。
 いや、チョット待て、あれは夢の中の出来事だったか? だったら須藤は何も知らない。
私にはもう現実に起こった事なのか、夢の中での事なのか、見境がつかなくなっていた。念のため須藤に連絡してみようと考える。
 他の事でも思いついた事があった。車の運航軌跡以外に、もう一つの証拠品である血まみれのコート。あれは何処に隠したのだろうか? 佐知江のワードローブには見当たらなかった。とすれば彼女の仮住まいのアパートだろうか? まだ引き払わずに残してあるあの部屋を調べて見よう。
 そう思いついた私は、急いで彼女の持ち物の中にアパートの鍵が無いか物色し始めた。しかし、何処を探しても鍵は見つからない。恐らく佐知江が他の鍵と一緒に持ち歩いているのであろう。だが、諦めるわけにはいかない。何としてもハッキリさせたい。
先日彼女の部屋に荷物を取りに行った時チラッと見たが、インテグラル錠と呼ばれる古くから有る形式で、鍵もシンプルなシリンダータイプだったと思う。そんなに複雑な鍵では無いので、素人の私でも解錠出来るのでは無いだろうか。そんな期待を抱き簡単な工具を手に、アパートへと向かった。
 昼下がりの住宅街という事もあり、人の往来も見受けられない。人目につかず解錠するのには都合が良い。
 焦る気持ちを落ち着かせながら、趣味で有るゼンマイ式機械時計の手入れに使う、極小のマイナスドライバーを鍵穴に差し込む。
中を探り二箇所の突起を押し込むと、ロックは簡単に外れた。
素人の私でも余りにも簡単に解錠できたことに拍子抜けすると同時に、やはり鍵は最新のディンプルキーでなければ安全性に問題があるのだと痛感する。
 再度周辺のようすを伺い、無人で有ることを確かめて素早く室内に滑り込む。
 二間ある奥の方の部屋に、簡単なビニール製のスーツケースが有る。中はあらかた私の部屋に移動したが、黒いスーツカバーに包まれた服が架けられていた。
恐るおそるファスナーを下げる。姿を現したのは想像通り、血で真っ赤に染まったピンクのコートであった。
 矢張り夢ではなく現実に私が殺したのだ。そして何故かこの場面を以前に体験した様に思えるのであった。デジャブ? そう思った瞬間うっすらとだがコートを隠しにこの場所へ来た覚えが有った。やはり、殺害したのは紛れもない、この私だ。
そう確信した瞬間、全身の血の気が引き、その場に崩れ落ちた。そして余りのショックで私はそのまま気を失ってしまった。
 
四、探偵の調査
 村山に二回目の調査報告を終え、彼が帰った後、 須藤は考え込んでいた。
どうもおかしい。村山は坂下が現れたと言っていたが、絶対にそんな事をしている余裕は、今の坂下にあるはずが無い。それ程組のチンピラやテカ、所謂駆け出しの三下には自分の自由になる時間は無い。
 見間違いではないか、そう問い詰めると村山の返答は曖昧だった。坂下の姿を見たのはどうも村山では無く、交際中の女性がそう訴えたのではないだろうか? とすれば嘘をついた可能性もある。村山は女の言う事を素直に信じているようだ。
 ただ、村山は何か隠している。今回の依頼は単なる素行調査では無い。それは坂下という男の素性からも推し量れる。ストーカー被害を受けているとの事であったが、それだけでは無い何か厄介ごとに巻き込まれたに違いない。それも村山ではなくその彼女の方だろう。
 だがそれならどうして一緒に俺の事務所に来ないのだ? 村山が彼女には黙って依頼をしたと言うことか。彼女には調査されると都合の悪いことでもあるのだろうか。
これは昔刑事だった俺の勘だ。これ以上の調査は結構と言われたがどうにも気になる。矢張り一銭の儲けにもならないがもう少し調べてみるか。
 郷田も坂下も長野県の同郷の出身である。ひょっとして村山の彼女も同じ村の出身なのじゃ無いか。現地に向かおう。
 直ぐにでも行動を起こしたかったが、現在抱えている案件が二件。 どちらも困難な依頼では無い。急ぎ、それらを片付け長野に向かったのは一週間後の事であった。
 特急あずさの車内から移り変わる風景を横目で眺めつつ嘆息する。全く損な性分だ、こんな儲けにもならないことをしているから俺の生活は常に火の車なのだ。そんなことを思ううちに、列車は早くも甲府についた。
 新ダイヤで、あずさは従来停車していた山梨や石和温泉を通過するのでその分早く感じるのだろう。目指す上諏訪駅で降り立った時にはとうに昼を過ぎていた。
都心では満開の桜もここでは未だちらほらと三部咲き程度で、矢張り都会の気温とは二、三度違うようだ。先ずは駅前で腹ごしらえをしようと思ったがすぐに思い直す。現地近くの食堂などに入り、店の従業員に聞き込みする方が良いと思ったのだ。
タクシーに乗り込み諏訪湖と反対方向の山並に向かう。すぐに街並みが途切れ山へ向かう坂道をひたすら走る。十分程度走ったところで木立が途切れ、見晴らしの良い丘陵地帯が眼前にとびこんできた。
 前方に工場が見えた。周辺にポツポツと商店や一膳飯屋、お洒落なカフェなどが点在している。須藤は適当な場所でタクシーを降りた。
さて、どこの店に入ろうか。過去の話を聞くには最近できた様子のお洒落なカフェより、昔からある様子の一膳飯屋が良いだろう、そう判断し飯屋の暖簾をくぐる。
 中には大きなテーブルが二つ、その周りを囲むように背もたれのない椅子が並べられている。須藤はその一つに腰かけた。
「おいでなんしょ」厨房から初老の女性が出てきてなごやかに迎えてくれる。
「良いところだね、都会のゴミゴミしたところで生活していると、空気さえ美味く感じる」
「そうずら、東京モンは皆そう言うだに」
「それでも昔とは変わったでしょうが、あんなでっかい工場もできて」
「そうじゃね、昔は穀物の作付けをしよったが、戦後になって外国から珍しい野菜が輸入されるようになって、特に高原野菜は此処の環境風土に適しとる言うんで、あっという間に広まりよった。今じゃ農家の大半が高原野菜じゃ。それと水が綺麗ずら、大きい工場が一杯出来よった。もう昔とは大違いじゃ。あ、そうそう何になさる」
お喋りを中断して注文をする。お喋り好きそうなこのオバちゃんなら何か聞き出せるかもしれない、そう須藤は思った。
 昼を大幅に過ぎているため他に客はいない。出来た料理を運ぶと、女性はテーブルを挟んだ須藤の向かい側に腰を下ろした。
 料理に口をつけながら須藤が尋ねる。
「昔は大地主がいて、大勢の小作人を使って大層羽振り良かったでしょうな」
「よう知っとらすな、ここら一帯も郷田一族が牛耳っとった。それが化学工場の汚染が元ですっかり、すやって(衰退)しもうた」
「郷田さんと言えば、確か東京に住んでる娘さんがいたような」
「あんた、よう知っとるんじゃね。生まれはコッチずら?」
「いや、俺じゃ無いけど友達がこっちの生まれなもんで」
「若いモンも大半が都会に出てしもた。残っとるんはこっちで所帯持ちになって農家か道の駅なんかで働いとるよ」
「郷田の娘さんと同級生なんかもいらっしゃるかねえ?」
「おるよ、道の駅で二、三人働いとるし農協勤めもおる」
 何の疑問も持たず女性が応える。
「何て人? 名前なんか分かると有難いんだけどね」
「両派閥共おるよ」
「両派閥?」
「ああ、あんたも知っとろう、郷田派と畠中派じゃ。さっきも言うたが、工場を誘致した郷田一族は、廃液の汚染問題で評判を落としたに。もう一方の畠中ってのは工場長じゃった」
 オバちゃんは須藤が詳しい事情を知ってると思っているらしい。だが、須藤には訳がわからない。素直に疑問をぶつけてみる。
「工場誘致した者と工場長じゃ仲が良いんじゃ? 対立なんぞせんでしょう」
「結局汚染は工場のせいやのうて、けんども村の者はそれをええチャンスやと、今まで大地主で威張りくさっとった郷田を許さなんだ。郷田はそれを逆恨みして工場側の責任者やった畠中を目の敵にしよった。それが親の諍いだけなら良かったんじゃが、それで終わらなんだ。こびい(小娘)たちも犬猿の仲で取り巻き連中を含めて、よういざこざを起こしよった。畠中の方やったかな、酷いイジメを受けよっただに」
「その取り巻きの中に坂下って名前の男性がおったでしょ、知らんかね?」
「ああ、あの不良小僧か。アイツは郷田のこびいを追わえて東京に行ったまんまや」
「畠中さんの娘さんはどうしてます」
「あの娘も東京の大学に入学した。その後は判らん。畠中はこのままでは一生郷田にいびられ、嫌がらせを受け続けると、会社に異動願いを出したようだに。ちょっとして一家は引っ越したずら」
    矢張り俺の勘は当たった。村山の彼女は畠中家の娘に違いない。そして、坂下は単なるストーカーでは無い。根本原因は郷田家と畠中家の諍いにあったのだ。後で市の図書館に出向いて、過去の地方紙を調べてみよう。工場の廃液汚染問題を詳しく調査する必要がある。そう須藤は考えた。
「で、その道の駅で働いている方の名前を教えて貰えますか」
    名前を聞き出し、食事代を払うと須藤は丁重に礼を述べて店を出た。
来る時、タクシーの窓から確かに道の駅の看板を見た。こちらからだと下り道だし、そう遠くでも無いようだからと、ぶらぶら散歩がてら歩いて山を下る。
    道の駅に着く迄に延々小一時間は歩いたろうか。思った以上に距離が有った。いくら爽やかな高原地帯といえど、流石に汗が噴き出す。
漸く目的地に着いた須藤は、汗を拭きながら道の駅名物のソフトクリームを注文する。一口頬張ると冷たさに頭の芯がキーンとなる。高原牧場の搾りたての牛乳が原料だけに濃くて美味い。
 売り子の主婦に小原恵子さんか佐々木淳子さんはいるかと尋ねる。
「佐々木なら私です、尤も今は成田姓ですけど。小原さんも今は前田さんです。あそこでレジ打っている彼女」
そう言って店内のレジに視線を向ける。須藤が見つめると視線を感じたのか相手がこちらを向く。
「ああ、失礼。旧姓しか存じ上げなかったので。で、成田さんは畠中佐知江さんと仲が良かったとか。畠中さんは高校時代郷田さんから酷いイジメに遭ったと聞いてますが」
 そこまで話した時、突然成田淳子の顔色が変わる。
「あんた何者? そんな昔の話忘れたわ。今は夫と二人の子供を持つ平凡な主婦なの。過去の事なんて思い出したくも無い。帰って、何も話しません。さあ、帰って」
    余りの剣幕に周りにいた観光客が怪訝な表情で須藤を見つめる。
 おいおい、俺は何も気に触るような事を言った覚えはないぞ。だが、迂闊だった。イジメを受けていた側なら正直に打ち明けてくれると考えたのが失敗だったようだ。ここは一旦引揚げよう、そう須藤は判断した。
    市街地に戻った須藤は図書館で過去の地方紙に片っ端から目を通す。飯屋のオバちゃんが話していたように、化学工場の流す廃液が汚染されているとの噂が原因で県の保健所が調査に乗り出したとある。だが、廃液は汚染されておらず、結局原因は化学工場より上流にあった産業廃棄物処理工場の垂れ流しであった事が判明したと報じられていた。
 その記事を見つけたのは図書館の閉館間際であった。 当初日帰り予定のつもりであったが、市役所での調べ物もあるのに、既に役所関係は閉館の時間である。
 明日出直すしかないし、再度成田淳子にも話を聞きたい。須藤は駅前のビジネスホテルに宿を取ることにした。

 その頃、成田淳子は東京に電話をしていた。
「もしもし、私よ、淳子。ねえ、今日変なオヤジが来てあんたの事聞いてきたわよ。え、何も喋っちゃいないわよ。昔のことは忘れたって追い返したわ。でも、アイツ勘違いしてんの、笑っちゃう。え、これから、でももう遅いし帰りは最終になっちゃう……え、坂下が……判った、じゃ、今から向かう」

    翌日、須藤は朝一番で市役所に向かった。できれば法務局にも行きたいところであるが松本まで出向く時間はない。
 個人情報保護法の施行以来、戸籍関係の閲覧は厳しくなっており、本人及び親族の委任状が無ければ、他人が自由に閲覧は出来ない。須藤は以前、合同捜査を行なった松本警察の知り合いに連絡を入れた。
<ああ、須藤さん。暫くご無沙汰しておりました。連絡を寄越すって事は、何かこっちに関わる事件ですか?>
 未だに須藤を現役の刑事と思い込んでいる相手に頼みごとをする。
「或る人物の住民票や戸籍附票を調べたいんですわ」
<お安いご用です、直ぐファックスで送らせます>
「いや、実はもう現地におるんです。役所に連絡して便宜を図って貰えると有り難い」
 <了解です。直ぐ連絡して用意させます>
   こうして須藤は知りたい情報を得た。急ぎその足で道の駅にタクシーで向かう。
開店前で忙しく準備をしていた女性に声を掛ける。
「成田さんいますか?」
 こちらに振り向く女性が須藤の顔を見るなり顔を綻ばせる。
「あ、昨日のお客さん」
  よく見ればレジにいた小原恵子、いや今は前田恵子だっけ……須藤が思い出すと同時に恵子が口を開く。
「淳子は昨晩新宿に行きました。最終で帰るって言ってたのに、今朝はまだ出勤して来ないし、遅れるって連絡もないんで自宅に電話しちゃった。そしたら大変な事が判って……」
「大変な事? 何が有ったんですか」
「淳子、死んじゃったんです。新宿の駅でホームから転落してそこに電車が……即死だそうです。夜に警察からの連絡があって、旦那さん慌てて車で新宿に向かったそうです。ただ留守番のお婆ちゃんの話しなんで要領を得なくてその程度しかわかりません。お陰でこっちはてんてこ舞い。こんな事を言うと酷い人間だと思われるでしょうけど、今だから仲良くしているけど、昔は大嫌いだったんです。だから死んだって聞いても余り悲しく無くて」
「そうですか、それで新宿へ何をしに行くのかは聞いてないですか?」
「ええ、そこまでは知りません。お客さんは刑事さん?」
「ん、どうしてそう思うんです」
「坂下って同級生が東京で殺されたらしいじゃないですか。淳子は昔、坂下と仲よかったからそれで急遽上京したんじゃ無いかなと思う。その捜査じゃ無いんですか?」
 何だと、坂下が殺された? 
「それは昨日の事ですか?」
「あら、嫌だ。今朝のニュースでも取り上げていましたよ、違ったの。昨日も坂下とつるんでいた淳子に話しかけて、昔のことは忘れたって淳子が大声で怒鳴っていたからてっきり……」
「チョット待った。坂下と淳子がつるんでいた?」
「そう、その事で私も話しておきたいことがあるんだ。ねえ、お客さんは何者?」
「これは失礼した、こういう者です」言いつつ名刺を手渡す。
「そう、探偵さんか。開店準備が終わるまで待っていてくれませんか。是非話しておきたい事があるの」 
    広場に据え付けてあるベンチに腰かけて須藤は頭を整理する。
坂下が殺された。昨日は過去の新聞ばかり読んでいて、一日中ニュースも目にしていなかった。新宿で殺されたと言っていたな、詳しく知りたい。
 須藤はスマートフォンを取り出すとニュースアプリを開く。
 坂下が殺されたのは一昨日の未明。場所は歌舞伎町、明治通りから二本横道を入ったラブホテル街。組同士の抗争か? と報じていた。急ぎ電話を掛ける。昔、刑事時代にペアを組んでいた当時新人だった奴が今確か新宿署にいるはずだ。
<はい、近藤> 
「久しぶりだな、コンさん」
<須藤のおやっさん? どうしたんです、今ちょうど駆けずり回ってる最中なもんで、込み入った話なら後にしてくれませんか>
「いや、その坂下の件で聞きたいんだ」
< この事件については、組同士のいざこざとの見方が有力視されています。縄張り外で極栄会の若いもんがうろついてたからです。今後は四課が上野署の四課と連携して組関係の動きをマークします。ですから今後は我々の手を離れます。でも何でおやっさんが坂下に興味を持ってんですか?>
「いや、チョットな。そうか、組同士の抗争と見ているのか。ひょっとすると見当違いかも知れんぞ」
<えっ、何か心当たりでも?>
「いや、まだ何とも言えん。もう少し調べて確信を持ったらお前に一番に連絡する。それと、別件だが、成田淳子という女性が中央線のホームから転落した事故だが……」
<ああ、新宿駅で転落事故が有りましたね、それが何か?>
「その女性だが、学生時代には坂下達とつるむ不良グループの一員で、相当のワルだったらしい。それで坂下が殺された事件で誰かから呼び出された様なのだ」
<本当ですか、おやっさんは今何を調べているんですか? どうして坂下や成田の事をご存知なんですか>
「だから今は詳しいことは言えん。だが、ひょっとすると成田淳子の事故も、坂下の殺しと繋がっているかもな。とすると、ホームから誰かに突き落とされた可能性も考えられる」
<マジですか。あの件は事故として処理されていますので、警察は型通りの聞き取り捜査しかしていません。早速ホーム設置の防犯カメラを調べてみます。もし突き落としたのが本当なら必ず映っているはずです。そうなれば逃走経路を辿るため駅中の全ての防犯カメラを調べる必要が出てきます。漸く坂下の件が手を離れたというのに、おやっさんのお陰で余計な仕事が増えちゃいます>
「そうか、余計な仕事か、ならばもっと余計な仕事を増やしてやろう。成田淳子の携帯電話は既に遺族に渡されていると思うが、急ぎ回収して通話履歴とメールを調べてくれ。誰から呼び出されたのかそれが知りたい」
<余計な仕事って発言は撤回します、怒んないで下さい。事件となれば、おやっさんに言われなくとも全て手抜かりなく捜査します。まずは急ぎ携帯電話回収と、ホームのカメラのチェックを行います>
「そうしてくれ、そして悪いが逐一報告してもらえると有難い。じゃあ宜しく頼む」
 そう言って電話を切った時、開店準備を終えた前田恵子が、こちらへ駆け寄って来るのが見えた。  

          五、夢か現か
 いつの間にか気を失ってそのまま眠っていたようだ。
 目覚めると「先刻の事は夢だった」となってくれ、そんな期待を込めて念のため再度私の目の前のスーツケースに吊るされたビニールカバーの中を確かめる。残念ながら私の願いも虚しく、そこには紛れもなく血まみれのコートが有った。
 これではっきりした、矢張り殺人は事実だった。私が犯した事は間違いない。佐知江は女性では背の高い方で、彼女のコートは私でも着られるし、逆に私の愛車は、キーを渡してあるので彼女も自由に使える。従って私か彼女のどちらの犯行なのか判断がつかないと思っていたのだが、もう間違いない。
 近藤に打ち明けても本気にしなかったが、これを見れば信じるだろう。これ以上の証拠は無い。この血液を調べれば坂下の血液型やDNAと一致するはずだ。
 直ぐにその場から近藤に電話を掛けるが留守電になっていた。無理も無い、今は殺人事件で駆けずり回っているのだろう。それと、私が訴えた女性のホーム転落事故の件も調べてくれているのだ。だからこそ早く自首して無駄な捜査を終わらせたい。
 留守電にメッセージを入れ、この部屋で待っていた方が良いだろうか。
 だが、今度こそ佐知江が罪を犯す可能性は高い。こうしている間にも次のターゲットである郷田絵里に危険が迫りつつあると思えるのだ。なんと言っても彼女が一番憎い相手なのだから。
 これまでの犯行が佐知江の仕業でないとするなら、彼女に過ちを犯させてはならない。かと言って、私には彼女の犯行を止めるべく説得する自信も無い。何故なら彼女の告白を聞いたあの時感じた怒りが、思い起こされるのだ。
 余りにも酷い郷田や坂下の虐め、いや虐めと呼ぶには度を越した虐待と暴力による、一人の人間の尊厳を踏みにじる行為の数々。それを思うだけで当事者でも無い私でさえ怒りに体が震えるのだ。
 話を聞いただけでもこうなのだから、本人の怨みつらみは如何程のものか想像もつかない。そんな彼女の犯行を諦めさせることなど到底出来ないだろう。
 彼女にとってはやっと逃れた悪魔が又現れたのだ。このままでは過去に受けた暴力や陵辱が又繰り返されるのだ。
 それに、今度は私も巻き込まれる。彼女はそれが一番気がかりのはずだ。考えようによってはそれを未然に防ぐために、彼女が止むなく講じる自己防衛手段とも言えるのでは無いか。
その様に考えている内に、徐々に彼女の気持ちに同調し、彼女の肩を持つ方へと傾きだした。
 その時ふと相手側はどうしているのだろうかとの思いが沸き起こった。
坂下が殺された事は郷田絵里も知らないはずは無い。成田淳子の件だって、事故か事件なのかは別として、転落死した事は知っている筈だ。自分の周辺で起きている異変に何も感づかない訳はない。それなのに何の動きも見せないのはどうした事なのか? 
 彼女の過去の行状から考えてこのまま大人しくしているはずも無い、そんな事はあり得ない。絶対に反撃に出る筈だ。それとも佐知江が襲ってくるのを手ぐすね引いて待ち構えているのだろうか? 坂下の所属する組を巻き込んで仕返しをしようと考えているのかも知れない。
ならば、余計に佐知江を止めなければ、逆に彼女が危険な目に遭ってしまう。
 これ以上罪を犯させないためにも、待ち受ける絵里の罠に嵌まらないためにも、佐知江に先んじて私が、彼女の替わりの刺客として行動しなければならない。彼女の代わりに復讐を果たすのだ。
 どうしてか不思議な事に、復讐すべきなのだという使命感のようなものが自分を突き動かすのだ。そう、ホーム転落事故が何の根拠も無いのに、私の犯罪であると確信したように、頭でそう考えているのでは無いのだ。心の中の深い部分から湧き上がってくるような不思議な感覚とでも表現するしかない。
 勿論、殺人などという行為は絶対に犯してはならない。だが、奴等の様な極悪非道な輩については、天誅を下しても良いのでは無いだろうか。そんな風に私は思い始めていた。ハンムラビ法典では無いが「眼には眼を、歯には歯を」だ。尤も原典ではその様な意味で使われたのでは無いのだが、佐知江に代わり私が奴等に罰を与えれば良い。
 もう私は自分でも冷静な判断ができなくなっていた。当然の様に、キッチンから文化包丁を取り出すと、タオルで巻いて上着の内側に隠し持った。
 そして郷田絵里が今夜も出勤している事を願いながら、私は六本木へと向かった。

六、秘密を知る者
 昼過ぎに 長野から戻った須藤は、近藤と落ち合っていた。
「約束通り俺の調査で判った事をお前に話しておこうと思ってな」
「一体どういうことですか」
「その前に頼んでおいた件はどうなった」
「携帯電話は回収しました。東京に出てくる直近の通話履歴が残っていました」
 そう言って近藤が須藤に携帯の履歴を見せる。
「あと、落ち合う場所の変更をメールで送っています」
 須藤がメールフォルダに目を通す。
「成程な、俺の思った通りだな」
「ええ、これから推理出来る事は、彼女は特急甲斐路でやって来た。この列車は七番線に入ってきます。メールではそこから四谷に向かうように指示されています。乗り場は同じホームの向かい側八番線です。それで、彼女は八番線側ホームを歩いていた。恐らくホシは甲斐路から降りた彼女の跡をつけて、機を伺っていたのでしょう」
「うむ、これで漸く事件の全貌が見えてきた。事の発端は坂下の身辺調査だった。依頼者の彼女が坂下からストーカー被害を被っているとの理由だった。だが俺の見る限りどうもストーカー程度の問題じゃないと感じた。依頼者にそこんとこを突っ込んだが頑として口を割らん。どうにも気になって勝手に調査を始めたって訳よ」
「おやっさんらしいや、物好きにも程がある」
「そのお陰で事件の解明に近づくんだ。感謝しろよ。その彼女というのは長野県の奥深い村の出身でな、詳細は省くが親と村の大地主が一悶着あって、それが子供たちの世代にも憎しみや妬みを産んだのだ。依頼主の彼女は……」
「畠中佐知江ですね、依頼主は村山でしょ」
「何だ、知っているのか」
「村山は俺の友人です。畠中佐知江の事も知ってます。二人は結婚を前提に付き合っているんです」
   そう聞いて今度は須藤が顔を曇らせた。
「そうだったのか、お前の友達は厄介な事件に巻き込まれているようだ。お前が助けてやれ」
「その件ですが先日、村山が変な事を言い出しましてね。俺が犯人だ、逮捕してくれって。よくよく聞いてみると夢の中で坂下と例の中央線ホームから転落死した女性、あれは事故では無く自分が殺したって話で、笑い話にもならないと思っていたのですが」
「おい、その佐知江という彼女は坂下と郷田絵里、そしてそのダチから苛めや嫌がらせを受けたと言っているんだな。それは確かか? 本当に佐知江本人がそう言っているのか? 地元では今でもその件で噂がはびこっていて俺も耳にしたんだが、どうも情報が錯乱しているようだ」
 そう呟いて、須藤はむっつり黙り込んで暫く考えに耽る。
「何れにしろ、坂下そしてダチの成田淳子が殺害されたのは事実だ、だとするとまだ本命が残っている。次は郷田絵里が危ない」
「じゃ、おやっさんの考えでは、畠中佐知江が今までの恨み、つらみの復讐をしていると」
「違う、噂を聞いて俺も最初はそう思ったんだが、大いなる勘違いだった。事実は全くの反対なんだ。いいか、よく聞けよ」
  そう言って須藤が驚愕の事実を話し始めた。
  話を聞き終わった近藤は、須藤と絵里を保護すべく六本木に向かう事にした。
だがその前にひとつだけ確かめたいことが有った。
 製薬会社を訪れ、受付へ向かう。果たして安達美希がいた。
「こんにちは。いつぞやはどうも」
 近藤が話しかけると安達美希が目を見開いて凝視する。
「土方さん、どうして? 弊社に何か」
 近藤を土方と呼ぶのを聞いて今度は須藤が驚いている。
「本名は近藤と言います。新宿署の刑事です。貴女と柳橋裕子さんに畠中さんの事で少々伺いたいことがあるんです」
「佐知江の事? 彼女に何か?」そう尋ねながらも直ぐに内線をしてくれる。
 暫くしてエレベーターから裕子が降りて来た。
「土方さん、お久しぶりです。昨年はどうもお世話になりました」
にこやかに応対する裕子の顔を見て、須藤が近藤を肘で小突く。
「お前、どうしてこんな別嬪さんを知ってんだ?」
 美希も裕子に小声で囁いている。
「土方さん、本名は近藤っていって刑事なんだって」
 気まずそうに近藤が頭を掻いて言い訳する。
「あんな場じゃ、職業上差し障りが有るもんで……失礼しました」
 それを聞いて裕子がクスクス笑う。
「それで、佐知江について何をお知りになりたいんですか? 彼女は本日お休みを頂いておりますが……」
 それは好都合と言いかけた近藤は、慌てて言葉を飲み込む。
「あの時、たしか柳橋さんが畠中さんについて薬剤師の資格がどうのと仰りかけてました。慌てて畠中さんが遮ってしまわれたので良く聞き取れませんでした。彼女にとって都合の悪い事でもあったんですか」
「ああ、そうでしたね。彼女は薬学卒で、薬剤師の資格を持っています、私達三人は同期なんですが、彼女は教育課程が六年ですから私たちより二歳上なんです。その事を隠したかったのでは無いでしょうか」
「ちょっと待ってください。と言うことは、彼女は中途入社じゃないんですか」
「いいえ、新卒採用です。ね、美希」
「ええ、そうですよ。入社式も一緒でした。中途入社って彼女がそう言ったんですか。どうしてそんな嘘を……」
「判りました、どうも有難う。須藤さん、今度は笹塚です。急ぎましょう」
「あ、ちょっと。佐知江に何か有ったんですか? 彼女近頃欠勤が多くて心配しているんです」
「申し訳ない、あとでゆっくりご説明に伺います。今は一刻を争う事態なもので……」
 そう言いながら近藤は須藤を急かし玄関を出ていくのだった。
 気持ちは焦るのだが、近藤にはもう一ヶ所行って確認したいことがあった。先刻、村山からメールが届き、笹塚に佐知江が今でも引き払っていないアパートが有り、そこに犯行に使った血塗れのコートが隠してあるとの内容であった。
 アパートの管理人に事情を話し、鍵を開けてもらおうとしたが、すでに鍵は開けられていた。村山が開けたままにして行った様だ。部屋には血まみれのコートが、吊るされていた。
近くの交番から巡査を呼び、鑑識に連絡を取ると、巡査に現場保存を命じ終えると、再び須藤と走り出した。
 その後、笹塚から六本木に向かった二人は、絵里が勤務しているキャバクラのある雑居ビルの三階にやってきた。店内に入ると黒服が近付いてくる。
「いらっしゃいませ。女の子のご指名は御座いますか?」
「えっと、源氏名は判らんが、本名が郷田絵里って言う女の子は居るか」
 須藤がストレートに尋ねる。
「困りましたね、本名を仰られても……」
「そうか、顔は判るんだがな」そう言って須藤がテーブル席を見回す。
「お客さん、困ります。先ずはこちらにお掛けください。こうしましょう、花びら回転方式で次々女の子を席へ呼びますので、そこから見つけてください。ただし当店はピンサロではございませんので会話をするだけです。女の子にはタッチなさらないように、念のため」
「いや、その必要は無い。見つけたぞ。今あっちのテーブルから奥のテーブルに移動した娘だ」
  黒服が須藤の指し示す方向を見る。
「ああ、アリサさんですね。判りました暫くお待ちを。それまでこの子達がお相手します」
 いつのまにか二人の女の子がテーブルの前にいた。二人を両側から挟むようにソファに腰掛ける。
「サキでーす、宜しくね」
「メイです。お客様はこちらの店は初めてですか」
「ああ、アリサさんにちょっと……ね」
「あら、もうお目当がいらっしゃるの。でも、私達とも仲良くしましょ」
 のっけから彼女達のペースで会話が進む。当然と言えば当然で、彼女達は真面目にお仕事に励んでいるのだろう、そんな事を近藤は思った。
「あら、こちらの苦みばしったお兄さん、ちょっとハードボイルドね。私のタイプ」
  隣に座ったメイがニッコリと微笑む。
「おいおい、そいつは女性に免疫が無いんだ。本気にしちまうぞ」と須藤。
「えーっ、そうなの。硬派な感じに弱いの。益々気に入っちゃった」
 注文したウイスキーが運ばれて来た。二人が素早く水割りを作り二人の前にグラスを置く。
「ね、乾杯しましょ。私達も何か頼んでいい?」すかさずサキがおねだりする。
  そんなお喋りをしている内に時が経ち、半時間程して漸く絵里がテーブルにやって来た。屈託の無い、愛くるしい笑顔で挨拶をして、席に着く。
 背負った過去や長く水商売をしている割に崩れた雰囲気が無い。佐知江の表情に時折浮かぶ翳も、この娘には微塵も無い。見かけは佐知江よりずっと幼く見えるが、きっと相当芯が強いのだろう、近藤はそう思った。
「郷田絵里さんだね、突然こんな話をして驚くかも知れないが貴女は命を狙われている。私は新宿警察の捜査一課の近藤と言います。こちらは元上司の須藤です。営業中は心配ないでしょうが帰宅時間が危険です」
 近藤は驚く絵里に説明を始めた。今夜は警護するため、待機しているので帰る際には連絡を寄越すように伝えた。

          七、復讐
 地下鉄を乗り継ぎ六本木に到着したのは、午後七時を少し過ぎた頃だった。この界隈では未だ時間が早い宵の口になったばかりだ。食事をしながら時間を潰す。
食事をしながら、帰宅中の絵里を、何処でどの様な方法で殺害するか、計画を練る。
 向こうは私の事は知らないであろう。黙って殺害しても、あの女は訳もわからず息絶えていく。それでは意味が無いのだ。
 過去の佐知江に行った悪行の数々を訴え、自覚させ、出来ることなら佐知江に対する謝罪のことばを口にさせ、懺悔をさせた上で殺してやりたい。
 風営法上閉店時間は零時であるが、この界隈では午前一時迄営業を続けている店が多い。但し感染症が再び猛威を奮い始めたので、昨年の様に夜の営業が禁止され、閉店時間が早まっている。

 私が頃合いを見計らって、店の近くに到着したのは九時頃だった。道路を挟んで向かい側に渡ろうとして歩を止めた。
 向かい側の歩道、今まさに店の有る雑居ビルから出て来る近藤を見つけたのだ。もう一人年配の男性もいる。あれは須藤では無いか。どうして二人が一緒にいるのだろうか。
 それにしても厄介な事になった。これでは閉店後、帰宅中の絵里を襲う事はできない。
 恐らくあの二人は店で絵里に会って来たのだろう。一旦店を出て何処かで閉店迄時間を潰すつもりなのでは無いだろうか。そっと二人の後をつける。はたして、二人は近くの喫茶店に入った。
 私は計画を変更すべく考えを巡らす。考えが纏まったと同時に急いで雑居ビルに取って返した。一目散にキャバクラの店へ急ぎ、ドアを開けた。
 黒服が愛想笑いを浮かべ近付いて来た。
「ようこそいらっしゃいませ。どの娘かご指名はございますか?」
 私はその男の手に万札を握らせながら、耳元で囁いた。
「先刻、出ていった二人組が指名したお嬢さんをお願いしたい。但し本人には指名した事は黙っていて欲しい。それと席に寄越すのはゆっくりでいい、アフターに連れ出せるよう取り計らってくれないか。それまでは別のお茶を引いている娘たちを相手にしているから」
 黒服が万事心得たという風に頷いてウインクする。指名がなく、お茶をひいている(テーブルに付いてない)女の子達の指名料迄面倒をみてくれる上客なのだ。身なりも先程の男たちと違い、一見客であっても今夜だけで相当の金を落としてくれるに違いない、黒服がそう値踏みしたのは明らかである。
 暫くして三人の女性がやって来て、私の両脇と正面に座る。閉店時間迄この女性たちを雑談しながら過ごすしか無い。そんな気分でも無いが、無理に明るく振る舞い、冗談を飛ばして上機嫌を装う。女の子達も三人もいれば話題にも事欠かないで、次々と興味深い話が続き、その場が盛り上がった。
 閉店三十分前に郷田絵里がテーブルにやって来た。それを潮に他の女性達は離席する。
「ようこそいらっしゃいませ。こちら初めて?」
 絵里が私のグラスに水割りを作りながら尋ねる。
「そうなんだ。一時間程前、君を指名した二人組がいたろ?」
 私のその言葉に絵里の表情に緊張が走る。
「心配しないで良いさ。僕が来たかぎり奴等には君に指一本も触れさせない」
「どういう事? あの二人も私の身に危険が迫っているなんて言っていたけど」
 絵里がさっぱり訳がわからないといった様に首を振る。
「それが奴等のいつもの手なんだ、自分達が守ってあげると言いながら、油断させておいて襲うんだ」
「どうして? 私が何かした? 貴方も二人組も一体何者なの?」
「君も知っているだろう、坂下が殺された事件。あれは奴等の仕業なんだ。これから君を店から連れ出す。奴等は必ず尾行して来る筈だ。何処か人目につかない場所に誘き寄せ、襲い掛かろうとした瞬間、待ち構えていた警察が御用という筋書きなのさ」
「貴方は刑事さんなの?」
「そうだよ、だから僕を信頼して言う通りにして欲しいんだ」
「判ったわ」
「じゃあ、そろそろ出ようか」そう言って彼女を促す。
 黒服に見送られてエレベーターに乗り込む。
 絵里がジッと私を凝視している。
「さあ、白状しなさいよ。貴方、刑事なんて嘘でしょ。あんな見え透いた嘘に騙される程私は馬鹿じゃ無いわ」
「そうか、ばれていたのなら仕方ない。はなから信じるなんて思っちゃいないさ。こっちはお前を連れ出せればそれで良かったんだ」
 私はそう言って包丁を彼女に見せ、脇腹に突きつけた。
「大人しく歩くんだ。少し散歩をしようじゃ無いか」
 彼女を引き寄せ、腰に手を回す。愛し合う恋人達の様に体をピッタリと密着させ、側から刃物が見えない様にする。そしてゆっくりした足取りで青山墓地へと向かった。
 
 その頃店を出た須藤と近藤の二人は閉店まで近くの喫茶店で時間を潰していた。
「こんな場所で野郎二人が顔突き合わせているより、あの店でラストまでいりゃ良かった」須藤が不服そうに言う。
「勘弁して下さいよ。あんな調子で入れ替わり立ち代りテーブルに来る女の子にドリンクねだられちゃ素寒貧になっちゃいます」
「違えねえな。俺たちにゃ縁のない場所って事だ」
「そろそろ閉店です。まもなく店を出る彼女から連絡が入る筈です」近藤が、そう須藤に告げた。ところが十分を過ぎ二十分を過ぎても電話は鳴らない。
「おい、おかしいぞ。店に行ってみよう」言うが早いか須藤が伝票を掴んで立ち上がった。
  二人が店の前に着いた時、さっきの黒服が帰るところに出くわした。
「おい、アリサさんはまだいるのか?」
「あれ、さっきのお客さん。アリサならしつこくアフターを迫る客と、とっくに店を出ましたよ」
「しまった、どんな客だった」
「まあ言っちゃ悪いけど、お客さん達とは違ってリッチな身なりだったな、金払いも良かったし結構イケメンだったし」
「おやっさん、村山に違いありません。何処かの公園にでも連れ込むつもりなんだ」
「この辺りは公園が多いからな。一番近いのは毛利庭園だが」
「まさか、あそこは六本木ヒルズから丸見えです。犯行を目撃される恐れがあります。
二人はどっちの方向に歩いて行ったか判りますか?」
「青山方面に歩いて行ったけど、どっかで美味い寿司でも食べながら口説いて、赤坂のホテルでシッポリなんてつもりなんじゃないの」
  黒服の下卑た想像を無視して二人は駆け出す。
「不味いぞ、青山公園だと思うが、青山墓地が隣接している。中に入ってしまうと広すぎて探しようが無い」
    須藤の言葉に冗談じゃないと近藤は思った。村山を犯罪者にしてたまるか。あいつは親友だ、そして俺が真犯人を捕まえると約束したんだ。自然と走るスピードが増す。
「先に行ってくれ。俺はそんなに早く走れん」須藤が息を切らしながら言う。
  それに構わず近藤は走り続ける。村山、早まるんじゃ無いぞ、待っててくれ、今行くからな、心の中でそう叫んでいた。 

八、真相
「どうして貴方の言う事が嘘だと判ったか知りたい?」
 私が返事もしないで黙って歩を進めるので、絵里は話を続ける。
「貴方、坂下を殺したのが二人組と言ったけど、だったらその二人がどうして私を襲うのよ、私から言わせれば良くぞ坂下を殺してくれたって快哉を叫びたい位なのに。言わば私の味方をしてくれたんだから」
 どう言う意味だ? この女は何を言っているのだ。
「貴方、本当は佐知江に頼まれたのね。あの子はいつもそう、以前は坂下を抱き込んで私を散々な目に遭わせた。坂下が組同士のトラブルで死んだと知って、やっと安心と思っていたのに。直ぐに貴方を抱き込んだって訳ね。で、どこまで行くんですか?  私を殺したいならさっさと殺して。佐知江や淳子に散々虐められ坂下におもちゃにされた人生……これ以上生きていても何も良いことが無い。私はもう疲れた。死にたいのよ。だから早く殺して」
 気丈にもそんな言葉を呟くが、背中に包丁を突きつけられる恐怖に耐えながら喋る声が震えている。
「君が虐められていた? 何を見え透いた嘘を……虐めていたのは君の方だ。親の恨みを受け継いで君が佐知江を虐めていたんだろ」
「はあ、何を馬鹿な事を。貴方、何も知らないの? 事実は全く逆よ」
「知ってるさ、元をただせば大地主である君の父親と、化学工場の工場長だった佐知江の父とのトラブルだった。君は親を見習って同級生だった佐知江に辛く当たった。自分だけでなく取り巻きだった淳子や君のいう事ならなんでも聞く坂下に佐知江を強姦させた」
「馬鹿な、事実は全く逆だわ。命乞いで言ってる訳じゃ無い、殺される前にきちんと事実を知って欲しいの。最初から話すから私の話を聞いてから殺して。
 父が立場を利用して村の人達を押さえつけていた事は知っていた。私も父の横暴が許せなかった。特に畠中さんに対する風当たりの強さは傍目にも酷過ぎた。だから畠中さんの娘である佐知江にはいつも謝ってたわ。でも佐知江は私を憎んだ。佐知江のお父さんは順調にいけば執行役員になる筈だったらしいわ。大企業の役員よ。でもあの事件の後、神経を病んで一線から退いた。いわば窓際への左遷ね。それも全て私の父のせいにされたの。
 もともと佐知江は上昇志向が強くて、父親が大企業の役員になれば、自分も役員の家族として憧れの優雅な暮らしが出来るのを夢見ていた。それがオジャンになった恨み辛みを全て私にぶつけて鬱憤ばらしをしたのよ。そし彼女の言う事ならなんでも聞く坂下に私を強姦させた。
私にとっては初めての体験だったのよ。本当に好きな人に捧げようと思っていたのに……それなのに、あの野獣が……その挙句妊娠させられた。死のうと思ったわ。でもそんな事をしたら、益々父の怒りを煽るだけだと思って考え直した。誰にも知られず堕胎して、卒業すると直ぐに上京した。何もかも忘れて再出発しようと思ったのよ。でもあの男が執拗に追いかけてきて……まともな就職口は全て妨害され、キャバクラで働かされた。そして給料の大半が巻き上げられた。本人はヒモにでもなったつもりだったんでしょ。上京してからも私の身体をおもちゃにして、好き勝手に抱いた。
 あいつは本当は佐知江に惚れている癖に手も出せないの。だからその代わりに私を好き放題にして、欲望を解消していた。私は佐知江の代用品って訳。私を抱きながら、達する瞬間「佐知江」って呼ぶの。私のことが好きで抱くのならまだしも……誤解しないでよ、坂下に好かれようなんて思いもしないけど、たとえばの話だから。私が好きで抱くのならまだしも、好きでもない女を佐知江とのセックスを想像して抱いているのよ。女性にとってこんな屈辱って無いわ。そして避妊具も付けないから、又もや妊娠させられた。
 あんな奴に二回も孕ませられたのよ。もう私の身体はボロボロになってしまった。あんな奴殺してやると決心して、あいつの腹を刺して、私も死のうと思った事もある。でも傷は浅くてあいつを殺せなかった。逆に私は今後一切逆らえない程の暴力と屈辱を与えられたわ。家畜同様の扱いをされた。その後も自殺を図ってリストカットもした。ほら、見なさいよ」
 そう言って絵里は手首を見せる。そこには一度ならず自殺を図った跡が、複数の傷として残っていた。絵里が話を続ける。
「でもあいつ、悪友に誘われて組に入ってからは、余り姿をみせなくなった。そしたら先日、組の抗争とかで殺されたと聞いてやっと安堵した。これで私も人生をやり直せるかなと、淡い期待を抱いたところだった。なのに今度は貴方が差し向けられた」
   黙って聞いていれば、この女。よくもいけしゃあしゃあと……
「黙れ、嘘をつくな」怒りに任せて包丁を握る手に力を込める。
「嘘じゃ無い。村山、早まるな」
 二人を見つけ、急いで駆け寄る近藤が叫ぶ。
「土方、邪魔するならお前も殺す。もう二人殺した、何人殺しても一緒だ」
「違う、お前は誰も殺しちゃいない。殺害したのは佐知江だ。いいか、よく聞け。お前が依頼した探偵の須藤だが、俺の元上司だ。彼はわざわざ長野に出向いて関係者から話を聞いて来た」
  その時、息を切らしながらやっと追いついた須藤が、その先を続けた。
「俺も最初は佐知江が虐めの被害者だと思っていた。だから友人だという佐々木淳子、今は成田淳子だが、彼女に話を聞こうとした。被害者側なら、どれだけ酷い仕打ちを受けたか、自発的に話してくれると思った。だが、彼女は逆に都合の悪い事を聞かれたように、猛烈に怒りだし俺を追い返したんだ。当然違和感を覚えた。
 翌日、再度話を聞こうとしたが、淳子は東京に呼び出され殺されてしまった。代わりに小原恵子が真実を話してくれたよ。郷田絵里は父親が畠中工場長に辛く当たるのを、常々申し訳なく思っていたらしい。畠中佐知江にいつも、ごめんねと謝っていたが佐知江は許さなかった。特に文化祭の英語劇の主役や卒業式の答辞など、悉く絵里が抜擢されるに至って怒りは頂点に達したのだろう。淳子や坂下を使って嫌がらせはエスカレートしていったんだ」
「嘘だ、佐知江は坂下と仲間だったと言うが、だったら何故、仲間を殺す? 淳子にたいしてもそうだろ。おかしいじゃ無いか」
「おかしくは無い。財産目当てでお前に近づいた佐知江は、嘘の過去を話しお前の気を引くことに成功した。ところがお前が彼女に内緒で須藤さんに調査依頼をしてしまった。彼女は調査依頼に反対したはずだ。嘘がばれるばかりか、事実は全くの正反対なんだからな。
 それに加えて坂下が、彼女がお前と付き合っている事を知って彼女を強請って来た。坂下の組の息が掛かっているサラ金で杉本が借金をしていて、二人の関係を嗅ぎつけたらしい。覚えているだろう、三人で飲んでいる時杉本がヤボ用で、先に帰った事があっただろう。あの時に呼び出した男が坂下だったのだ。奴は、上手く玉の輿に乗ろうとしている佐知江に、過去をお前にバラすぞと脅したのだ。そして、黙っていて欲しければ口止め料を寄越せと強請って来たのだ。
 彼女の計画は狂い始めた。過去をバラされれば全てがオジャンになる。と言ってこのままではその弱みをネタに、坂下から一生強請られる。だから殺す決心をしたんだ。そして逃走にお前の車を使ったのでナビに軌跡が残っていたんだ。俺はその夜の周辺のパーキングに設置されたカメラや近くの防犯カメラを調べた。そして遂に彼女がマセラティに乗り込む姿を見つけた。
 淳子をホームから突き落としたのも同じ理由だ。淳子からの電話で、探偵が長野までやってきて調査していると聞いた佐知江は慌てた。彼女が探偵に何を喋るか分かったもんじゃない。生かしておくのは危険すぎると判断したんだろう。それで坂下の死を理由に淳子を呼び出し殺害したんだ」近藤が言う。
  そんな、そんな馬鹿な話などあり得ない。どうしてみんなで私を騙そうとするんだ。
「嘘だ、俺は信じない。だったら土方、証拠をみせろ」
「お前、さっきから俺の名前をなんて呼んでいる? 俺の名前は近藤だ、忘れたか。村山、思い出すんだ。合コンの席で本名を名乗るのが都合悪いと俺が言って、杉本がそれなら新撰組繋がりで土方にしろといっただろ。思い出せ」
  私の遠い意識の中で懐かしい響きがする。「こ、近藤……」
「そうだ、思い出したか。何故お前が土方だと思い込んだのか、その理由は簡単だ。佐知江がお前を洗脳しているからだ。彼女も最初はお前との幸せな結婚を望んでいたんだろう、しかし、先程言った様に過去を知る人物を殺さざるを得なくなってしまった。それならばいっそ犯行を全てお前の仕業にしようと考えたのだ。
 こんな事を言うのは酷だが、彼女にとってはお前の財産が手に入ればそれで良かったんだからな。そこで俺の名前を土方だと思い込んでいる彼女が、お前を洗脳して記憶を刷り込んだんだ。それこそ佐知江が犯人だという動かぬ証拠だ。
 それだけじゃないぞ、成田淳子を呼び出したのは佐知江だと言うことは、淳子の携帯電話の履歴から判明した。その上、ホーム上の設置カメラに、淳子の横に佐知江が並んで歩く姿や、転落後足早に階段へと向かう姿も残っている。
 本来なら淳子の殺害はお前の記憶に洗脳したように、静かな中央公園で刺殺する予定だった。ところが、夜桜見物のためライトアップがされていて、その見物客に目撃される危険が生じ、計画の変更をせざるを得なくなったのだ。それならいっそのこと逆に多くの人でごった返していて、余り人々の記憶に残らない時間と場所での殺害を思い立ったと言う訳だ。だが、そんな雑踏での行為を洗脳させる事は不可能だ。それで夢と事実では、殺害方法と場所に違いが出てしまったのだ」
 そんな馬鹿な、佐知江が殺人犯……。
「佐知江の嘘はそれだけじゃ無いぞ。元々彼女は薬学部出身で卒業後直ぐに今の会社に就職している。その上宿無しなんかじゃ無かった。上京してからずっと、笹塚のアパートに住んでいる。お前も知っているあの部屋だ。そして部屋には犯行時に着用して血で汚れてしまったコートが隠されていたのはお前も知っているじゃ無いか、あれもお前が隠したのじゃない。佐知江がそこに隠していたのだ」
 次々と明かされる佐知江の真実と悪行の数々。それを聞く私は 余りのショックに思わず手にした包丁を取落す。彼女のアパートで見た血に塗れたコート、あれは私でなく佐知江本人が犯行時に着ていたのか。
「思い出せ、彼女に洗脳された覚えは無いか?」
  そう言われなくとも、私はまざまざと思い出していた。昨夜の事だ。

 私はまた怖い夢を見ていた。暗い部屋の椅子に座っているのだが、目の前に誰かが私の顔を覗き込むようにしている。顔は判らない、その人物の後ろに強烈な光を放つライトがあり、人物は逆光でシルエットとして浮かび上がっているのだった。手に注射器を持ち、私の腕に刺した。しばらく経つと意識が朦朧とし始めた。
「何を打った?」そう問いかけたが返事は無い。
  地底から湧き上がってくるような声がする。その人物が喋っているようだ。
「二人片付けた、しかし一番憎くて殺したい相手が残っている。郷田絵里、あいつを殺せ。殺せ、殺すのだ。この包丁を背中から肺に達するまで深く貫け。そろそろ土方が感づき始めた。邪魔をすれば奴も殺せ。奴は友達なんかじゃ無い。土方は我々の邪魔をする敵だ」
  私は朦朧とする頭の中で、何の考えも持たずその言葉を素直に記憶した。
 そうだ、そんな夢を見た。だがあれは夢じゃ無かったのか?
 土方、いや近藤が叫ぶ。
「恐らく佐知江は、お前に何か薬物を投与したんだ。思い出せ、合コンで新薬の話しが出たじゃないか。ノンレム睡眠学習出来る薬、あれを社内からコッソリくすねて来ることは簡単に出来たはずだ」
   ああ、なんて事だ、私が怖い夢を見るからと彼女が勧めてくれた睡眠薬。あれが睡眠学習用の薬物だったなんて。今や私はハッキリと思い出した。
 あの薬を飲んだ後、決まって怖い夢を見た。怖い夢を見ないために飲んでいた薬が、逆に怖い夢を誘っていた、いや、恐ろしい記憶を埋め込まれていたということか。
 初めて強烈に恋をした相手がまさか殺人鬼だったなんて……いや、待て。これも夢なんじゃないか? そうだ……あれから目覚めた記憶は無いじゃないか。夢だ、夢なんだ。良かった、もう夢は見たくない。早く目覚めろ。

          九、本当の現実
 ハッとして私は目覚めた。良かった、矢張り夢だったのだ。ベッドの側に佐知江が腰を掛けていた。
「大丈夫? 随分うなされていたみたいだけど」
  佐知江の顔を見て安堵し、緊張がみるみる解けて行く。良かった、金輪際あんな怖い夢を見るのは願い下げだ。
そして佐知江が優しく寄り添う姿にしみじみと幸せを感じる。
「嫌な夢を見たんだ」
 穏やかな口調でそう言いながら佐知江の方を見た。
 何か持っている。光が反射して、包丁だとわかる。二人を殺めたあの凶器。
「そ、それは」
 驚いて起き上がろうとするが、体が動かない。
「ちょっとの間大人しくしてもらおうと、筋肉弛緩剤を投入させて貰ったわ。大丈夫、その薬の効力は短いから、直ぐに元に戻るわ。だから仕上げを急がないとね。貴方は結婚するつもりで、私を信頼して家計も任せてくれた、お陰で全財産の口座も暗証番号も、実印の保管金庫も、全て掌握出来た。悪いけどもう貴方は用無しね。遺書も用意しておいたわ。殺人を起こした罪を認め、自身も死を選びますってね。それが最後の仕上げ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。これも夢なのか」
「残念ながら現実よ」
「待て、僕を殺しても、須藤さんや近藤が何もかも知っているぞ。君は直ぐに捕まる」
「須藤に近藤? フフフ、アハハ」
「何が可笑しい」
「いい事、良くお聞きなさい。須藤は坂下の素行調査以外、何もしてないわ。貴方がそれ以上必要無いって断ったじゃ無い。長野で真相を突き止めたって言うのは、貴方の妄想。それに須藤と近藤は知り合いでもなんでも無いわ。貴方の妄想と私が作り上げた架空のストーリーよ。それを貴方の脳に刷り込んだの。可哀想にまだ夢と現実が混濁しているようね」
 そう言って佐知江は薄く笑った。
 私にはもう何が現実で、何が夢なのか、訳が分からなくなった。
夢であってくれ、そして早く目を覚ませと胸中で叫ぶ。こんな風に殺されるのなら、眼を覚ましたとたんこちらから先に襲ってやる。
 その時、佐知江は包丁を大きく振りかざすと私の腹めがけて勢いよく振り下ろそうとした。
 果たしてこれはまだ夢の続きなのだろうか、それとも……。

           十、近藤の回想
 悪友の杉本から合コンの誘いを受けたのは昨年の年末だった。結婚して一年も経たない内に妻を病いで無くし、もう暫くは恋愛もしたくないと考えている俺にとっては、気乗りしない話であったし、刑事という立場上もまずいので、当然誘いを断った。
 だが、今回の合コンの主目的は何時迄も独身でいる村山の為に催すのだと聞き、更にお前が参加しないと人数不足で会がお流れになってしまう、杉本にそう説得されて本名と職種を明かさない事を条件に、渋々参加したのだった。
 村山はその席で畠中佐知江と名乗る女性に一目惚れ、相手も彼を気に入ったらしく、二人はその後交際に発展した。知り合ったのが師走だったこともあり、クリスマスや年越し、初詣と行事が立て続けにある事も幸いして、二人の仲は急速に近づいていった様子であった。
 唯一、村山が気になる事と言えば、彼女には、しつこく付き纏うストーカーがいるとの事で、俺も相談を受けたことが有った。
 同時にその頃から怖い夢を見てうなされることが増えたと村山が話していた。
 そんな彼を心配して、製薬会社に勤務する佐知江が、良く効く睡眠薬を持ち帰ってくれたらしい。
 嬉しそうに話す村山に、恐らくストーカーの件で佐知江を心配する余り、そんな夢を見るのじゃないか? そう答え、お互いに相手を案じる深い愛情を冷やかしたものだった。
 そんなある日のことであった。先日管内で起きた反社会的組織の、組員同士の抗争による殺人事件の捜査に奔走していた俺の元に、村山から電話が掛かって来た。
 新宿の殺人事件は自分の犯行だから今から自首したいというのだった。
 何を言い出すのかと驚くと同時に、村山の尋常ならざる様子に、慌てて彼のマンションに駆けつけた。
 村山が訴えるのは、自分が見た夢が現実に起こると言うのだ。
 新宿の殺人事件の被害者である坂下という男こそ、佐知江に執拗に付き纏うストーカーであった。それで彼に佐知江に付き纏う行為を止めるように再三に渡って忠告した。それでも無視するので、カッとなって包丁で刺し殺す、そんな夢を見た。するとその夜に殺人が実際に起きてしまったと言うのであった。
 更に昨夜も夢を見たと言う。新宿公園で女性を刺殺する夢だったそうで、その頃新宿駅中央線ホームで転落事故が起きた。あれも事故では無く自分がホームから突き落としたのだと言い募った。
 話を聴いて正直俺は呆れてしまった。坂下が佐知江に付き纏うストーカーだったかどうかは別として、話す内容はある程度筋道が通っている。だが、新宿駅の転落事故については、村山が見た夢と内容が大きく異なっている。夢で見たのは公園での刺殺であるが、実際に起きたのは駅での転落事故だ。どう考えても村山の仕業とするには無理がある。
 村山の仕業だとして、だったら突き落とした相手は誰なのか? 動機は何か? 答えられる筈だ。そう追求しても村山にさえ明確な根拠は無いので有る。
 余りのバカ馬鹿しさに親身になって心配する気も失せてしまった。
 村山には、恐らく仕事から来るストレスでノイローゼになっているか、鬱状態に陥っているのだろうと説得し、暫く休養を取るようにアドバイスしたのだった。
 その翌日、合コンで知り合った柳橋裕子から、連絡があった。村山と畠中佐知江の二人の事で相談したい事があると言う。
 彼女自身が、佐知江から村山の事で相談を受けたらしいのだが、彼女としてもどうして良いかわからず、彼の親友である俺ならば、何か知っているかも分からないと思いつき、連絡して来たらしい。その日の勤務後に彼女の職場近くの喫茶店で会う事にした。
「ご無沙汰しています、年末の合コン以来ですね」
「こちらこそ、ご無沙汰して申し訳ありません」
「で、二人の事で相談がお有りになるとか?」
「ええ、最近村山さんの様子がおかしいって佐知江が言うんです」
「様子がおかしいと言うと、どの様にでしょうか」
「ストーカーが付け狙っているから、アパートの独り住まいは危険だって仰って、佐知江をアパートから強引に自分のマンションに呼び寄せたらしいんです」
「ああ、その話は村山から聞いています。佐知江さんの郷里での問題に端を発して、後を追う様にして上京して来た輩が、佐知江さんを付け回しているとか」
「土方さんにもそのように話してらっしゃったのですね」
 そう呼ばれて近藤は、彼女達に偽名を名乗った事を思い出した。慌てて本当の事を伝える。
「あ、チョット待ってください。実は私の名前なんですが、本当は近藤と申します」
「はあ?」意味がわからないとばかりに柳橋裕子が反応する。
「職業も公務員には違いないんですが、実は新宿署の捜査一課の刑事です。立場上本名では都合が悪いので、偽名を使いました。今まで黙っていて申し訳有りませんでした」
「まあ、刑事さんだったんですか」一瞬驚きの表情を浮かべるが、直ぐに話題を戻す。「で、話の続きですが、佐知江も当初は同棲したいが為に、村山さんがそんな事をでっちあげているのかと思ったらしいのですが、どうやら彼は真剣にストーカー対策を行なっているようです。佐知江がストーカーに付け狙われていると信じ込んでいて、幾らそんな事実は無いと否定しても彼は聞き入れてくれないらしいのです」
「佐知江さんは、ストーカーなどいないって仰っているのですか? 本当ですか? 貴女達には隠しているだけじゃ無いんですか?」
「そうお考えになるのも無理は無いと思います。これまでに聞いていた話と、まるっきり違うのですから。でも信じて下さい。これまで近藤さんが聞いていた話は全て村山さんの作り話なんです」
「じゃ、これまで私が聞いていた話は全て嘘で、実際には起きてないって事ですか。村山の奴、どうしてそんな嘘を……じゃあ、ストーカーの坂下って男の存在は?」
「そんな男もいないそうです」
なんて事だ、若し裕子が佐知江から聞いた話が本当ならストーカー被害などないし、ましてや坂下などという男は、存在すらしないという事だ。俺が村山から聞いていた彼女にしつこく付き纏うストーカーの話、その為探偵に調査を依頼した事や、彼女のアパートを知られてしまったので、自分のマンションに匿っている等、全ては彼の勝手な妄想なのだろうか? 
 昨日村山はその男性を殺したので自首すると迄思い詰めていた。確かに話はおかしかった、あれは組同士の抗争であるし、刺殺された組員の名前も坂下では無い。新宿駅の事故まで、自分が突き落としたなどと言い出す始末だったのだ。
 その時は、余りの馬鹿ばかしさに、疲れてノイローゼ気味なのだろうと考えたが、そんな程度の話では無いようだ。今の村山は明らかに異常だ。
「それで、佐知江の事なのですが、彼女今日は欠勤しているのです。もしかして、彼女の身に何か有ったんじゃ無いかと、心配で……」
「判りました、これから村山のマンションに急行します」
 これは尋常ではないと察した俺は、すぐさま村山のマンションに向かった。
 俺を玄関先で迎え入れた村山はドアから顔を覗かせ開口一番こう言った。
「近藤、一昨日は済まなかった。訳のわからない事を言って、お前も面食らっただろう。俺が殺人を犯したなんて嘘だ、忘れてくれ。新宿の転落事故の件も、俺には全く関係ないし、成田淳子でも無かった」
 その言葉を聞いて俺がどれだけ安堵した事か。矢張り昨日は頭が混乱して取り乱していたのだろうと思ったのだ。正気に戻って安堵した。
「玄関先で話すのも何だ、まあ上がってくれ」
 そう言う村山は、昨日と違い落ち着いて見えた。
 リビングのソファに腰を落ち着けた村山が、再び口を開く。
「本当に昨日はどうかしていたんだ。お前も変に思っただろう? もう大丈夫だ」
 良かった、急いでやって来たが、取り越し苦労だったようだと思った。
 だが、それに続く言葉を聞いて今度は恐怖のどん底に突き落とされた。
「良く聞いてくれ。殺人を犯したのは佐知江だったんだ。事の発端は杉本の奴だ。三人で飲んだ時の事を覚えているか? あいつ、俺と佐知江の事を根掘り葉掘りしつこく聞いていただろう。そして、誰かと長電話していたと思ったら、用事ができたからって早々と帰っていったよな。実は杉本は女遊びやギャンブルで借金をしていたんだ。その借金をしていた街金融が極栄会の息の掛かった処だった。そうだ、お前も知っている坂下のいる極栄会だ。それで取り立て役が坂下という訳さ。坂下は借金苦で首が回らない杉本から、佐知江が玉の輿に乗ると聞きつけ、二人で結託して金銭目的で、過去をばらすぞと佐知江を脅迫して来た。佐知江としては過去の真実が露わになる事を恐れた。そりゃそうだ、事実は俺に話していた内容とは正反対なのだからな。そんな事が俺に知られてしまうと、これまで順調に進んでいた玉の輿計画が水泡に帰してしまうからな。だから佐知江は坂下を殺害する事にしたんだ」
「村山。お前、今何を言っているか、判っているのか。佐知江さんがそんな事する訳が無いだろう。佐知江さんは何処だ、何処に居る」
「未だ話は終わっちゃあいない。いいか、よく聞けよ。殺人を犯してしまった彼女は俺との結婚を諦め、逆に俺を犯罪者に仕立て上げる事にしたのだ。それで、勤めている製薬会社から新薬の催眠療法薬を持ち出し、俺にはよく効く睡眠薬だと偽って催眠療法を施し、全て俺が犯した犯罪であるかのように思い込ませたのだ。そして俺がその罪を悔い自殺を図る様に仕向けたんだ。それもこれも俺の財産を狙ってのことだったのさ。危うく殺されそうになった俺は逆に彼女の刃物を取り上げた。今度は杉本の番だ、奴は友人を売ったんだぞ、許せない」
「待て、落ち着くんだ、村山。お前、自分が何を喋っているのか分かっているのか? 佐知江さんの犯行だと? そもそも殺された組員の男は根っからの東京生まれで、坂下という名前では無いし、ましてや佐知江さんとは何の関係も無い。そんな男を佐知江さんが殺す訳が無いだろ。杉本の事もそうだ、彼奴は借金などしてはいないし、組員との接点など皆無だ。あの時は顧客からのクレームが入って、その対応に追われていただけだ。つまり、坂下なんて男はこの世に存在しない、お前の妄想上の人物なんだ。
 お前があまりにも、異常な行動を取ったり口走るものだから、佐知江さんが心配して、柳橋裕子さんに相談していただけだ。佐知江さんはそんな邪な考えなど持ってはいないし、ましてやお前の資産を狙ってもいない。本当にお前を愛し、幸せな生活を望んでいるのだ。
 お前は彼女のクールさやアンニュイで少し翳のある表情を浮かべる事に惹かれ好きになったんだろ。だが、それがエスカレートして彼女の性格迄屈折していると、お前自身が妄想してしまったのだ。お前が話している事は、全てお前の夢や妄想であって事実では無い。お前はいつからか現実と夢、いや妄想と言うべき内容との区別が付かなくなっているのだ。
しっかりしろ、村山。佐知江さんは何処だ、お前、佐知江さんに何をした? 彼女は何処に居る?」
「私ならここに居るわ」
 突然、村山の声が女性の様に変化して応えた。表情まで大きく変化して尋常では無い形相を浮かべている。
 俺の背筋に冷たい汗が滴る。村山は完全に狂っている、そう思った。
「馬鹿な事を言うな、村山。お前が佐知江さんである訳が無いだろう。本物の佐知江さんは何処にいる?」
「だから私が本物。先刻も言ったけど、あの偽物は明夫さんと結婚する事によって、玉の輿に乗ろうとしたの。でも、邪魔が入って計画がオジャンになると、その邪魔者達を殺害した恐ろしい女よ。その上その罪を明夫さんに被せ、自殺に見せかけて殺そうとした。そうすれば、会社も資産も全て自分のものになる。そう考えた上での行動なのよ。そんな女が本物である訳がない。そうでしょ。だから、この世からいなくなれば良いのよ。これからは本物の私が明夫さんとずっと一緒に、そう何時迄も永遠に寄り添って、幸せに暮らすの。もう何があっても二人は一緒。永遠に離れる事は無いのよ。何をするのも一緒、死ぬ時も一緒。こんな素晴らしい事って有る?」
 今、滔々と捲し立てている人物は村山では無い。完全に佐知江になり切った別の人格だ。こんな輩と真剣に対峙していても埒があかない。佐知江さんが心配だ、こうなれば勝手に家探しするしかない。そう考えた俺は、素早く立ち上がると奥の部屋に入ろうとした。
「待て、何処へ行く。人の家だぞ、勝手に動くんじゃない」
 怒号と共に背後から村山が物凄い勢いで掴みかかってくる。
 不意を突かれた俺は、そのまま横倒しとなり、村山に圧し掛かられた。
 親友だからと遠慮気味に対峙している俺と違い、村山は本気で向かって来た。馬乗りのままで俺の顔にパンチを二発、三発と浴びせる。
 これではやられてしまう、止むなくこちらも全力で反撃に出た。体勢を崩し体を入れ替える。村山を組み敷き、パンチのお返しを見舞ってやる。だが、今の村山は尋常では無い。火事場の糞力というが、人間離れした物凄い力で俺を跳ね飛ばすと、素早く起き上がり、俺の上半身に蹴りを浴びせて来た。たまらず壁際まで吹っ飛ばされ、強かに腰を打った。ダメだ、こんな事をしていては、こちらが益々不利になる。
 目の前には重い大理石のテーブルが鎮座しており、これにぶつからなくて良かったと思うと同時に、一瞬にして閃いた。
 床に倒れている俺に、中腰になって掴みかかってくる村山の手首に素早く手錠を掛け、もう片方をテーブルの脚に掛けると、素早く身を翻し村山から離れる。
「うおっ、何をする。汚いぞ、手錠を外せ」そう叫び、立ちあがろうともがく村山で有るが、大理石の重いテーブルはビクともしない。跪く姿勢以外どうしようもないのに、必死でテーブルをひっくり返そうと無駄な努力を続ける。
 今のうちに家捜しをして佐知江さんを見つけなくては、そう考えて素早く起き上がる。強かに打った腰が悲鳴を上げるが、無理を押して隣の部屋のドアを開ける。そこには誰もいなかった。奥のベッドルームの扉を開けた。
 そこには身体中滅多刺しにされ血みどろで倒れている佐知江の姿があった。

           十一、エピローグ
 本堂では読経が続いている。
 焼香を終えた安達美希と柳橋裕子がゆっくりとした足取りで斎場を後にする。
「佐知江も可哀想に……良い相手と幸せな結婚が出来ると思っていたのに」
「本当よね。あんな恐ろしい目に遭って亡くなるなんて」
「でも、彼にあんな妄想癖が有ったなんて、正直驚きよね」
「精神分析医の先生が仰るには、彼は典型的な二重人格者だそうよ。幼い頃の父親からの折檻が、大きく影響しているらしいわ。それに加えて彼の妄想癖でしょ。もう彼の中の佐知江の存在が大きくなりすぎて、自分でもコントロールできないらしい」
「もう元には戻らないのかな?」
「社会復帰の可能性は低いらしい、例え出来たとしても相当な時間が掛かるそうよ。近藤さんは足繁く様子を見に行っているらしいわ」
「あれ? 裕子どうしてそんなに詳しいの。ハハーン、さては近藤さんと……」
「チョット、勘違いしないで。私たちは何でも無いわ」
「いいから、いいから。私も合コンで引き合わせたカップルがあんな事になって責任を感じているのよ。貴方達だけでも幸せになって欲しいの」  
「だから勘違いだって。近藤さんには私が佐知江の事で相談に乗って貰っていたの。彼女は村山さんと付き合う様になって変わった事が二つあった。一つは欠勤や早退が増えた事。これらの変化はきっと村山さんに関係していると思った。村山さんが佐知江に悪い影響をもたらしているのじゃ無いか? そう思って近藤さんに相談をしたのよ。その時にあの人の名前が土方ではなく近藤であることや、刑事である事を知ったの」
「え、そうだったの。私には何も教えてくんなかったじゃない」
「ごめん、その時はそれどころじゃなくて。彼も村山さんが最近変だ、精神的に参っている様子だと言うの。でも話しているうちに、互いの話の内容が食い違っている事に気づいたの。それまで近藤さんは、村山さんが仕事に疲れてノイローゼ気味なだけだと軽く考えていたらしいのだけれど、事実を知って驚くと同時に、これは尋常では無いと感じたのよ。そして佐知江が無断欠勤で出社していないと知って、急いで彼らの住むマンションに駆けつけたって訳。後は美希も知っての通りよ」
 そんな会話を交わしながら二人は駅へと歩を進めた。

 分厚いドアには鉄格子のはまった覗き窓があった。中を覗くと、拘束衣を着せられ、髪を振り乱してもがく男の姿が見えた。
 すまん、村山。俺がもっと早く真相に気がついていれば、お前はこんな目にあわずに済んだだろうに。
「可哀想に、あんな拘束衣迄着せられて。あれでは全く自由が利かないでは無いですか。脱がせる訳にはいかないんですか」
 近藤が些か非難めいた口調で言ったためか、白衣を着た精神科医が反論する。
「仕方ないんです。興奮状態である間は、ああでもしないと危険なんです」
「暴れまわるのですか」
「いや、そうではなくて自身の身体を傷つけるのです。所謂自傷行為です。当初は自分自身と別人格とは、非常に良好な関係でしたので、性格も穏やかで何の問題も起こさなかったのですが、今や完全に二重人格者となり、徐々に本人の人格より別の人格の方が強く大きくなりつつある、そんな所見が伺えます。その人格が今では彼の肉体を乗っ取ろうと彼自身を殺害しようとしているのです。そんな事をすれば死ぬと理解していない様です」
「彼が本来の自分を取り戻して、自傷行為を止める事は出来ないのですか?」
「そうなるには相応の時間が必要ですし、必ずしも自分を取り戻す事が出来るかは、保証の限りでは有りません。強引に処置を行うとなると、彼の精神が耐えきれないで破綻する危険性が有ります。このまま徐々に回復を待つのが最善の方策だと考えます。それでも、殺人は精神錯乱状態での行為だと判定され無罪だった訳ですから、それだけでも不幸中の幸いだったんだは無いでしょうか」
 何が不幸中の幸いだ、声には出さず心の中で毒づく。 
 裁判では無実を勝ち取ろうが、精神に異常が認められたために、こんな場所に幽閉同然に入院させられ、一生を過ごす事になるのだ。
 俺があの時、彼の訴えに真剣に耳を傾けていれば……。だが、あの時点ではこんな事になるなんて誰も想像出来なかったのだ。
 許せ、村山。佐知江さん。本当に二人は似合いのカップルで、幸せになれただろうに。そう心の中で手を合わせながら許しを乞う近藤であった。
 
 
 完


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