コッタとランマ

矢栗 龍

文字の大きさ
1 / 1

コッタとランマ

しおりを挟む

 「只今から新店の打ち合わせを行う。商品部部長、営業部長及び各担当者、関連部門担当者は直ちに第一会議室に集合するように」
 スピーカーから、だみ声が流れてくる。専務取締役営業本部長である若林信吾の声だ。
「おい、杉田。お前が担当だろ、早く行かないと専務にどやされるぞ」
販売促進部企画課で隣に机を並べる海藤が俺に声を掛けた。
彼とは同期入社であり、配属された部署も同じという縁で仲がいい。尤も同期の友達というよりは賢兄愚弟といった関係に近い。どちらが愚弟かって? それは追々判る事なので、敢えて触れないでおこうと思う。
「やれやれ、新年早々ミーティングかよ。今から明日の会議に使う資料をプリントアウトして本日の業務は目出度く完了の予定だったのに……。この分じゃ九時ごろまで帰れそうもないな」
 俺はぼやきながら必要書類を抱え、席を立つ。
「おい、杉田。パソコンはちゃんとログオフしていけよ」
 いけねえ、慌てて俺は自分のデスクのパソコンをログオフする。
我社も最近とみにコンプライアンスだの内部統制だの情報管理が非常に厳しくなってきた。
特に企画課は、新店オープンスケジュールや開店時のセール情報はもとより既存店の全ての販促計画など、競合他社に漏れると命取りになりかねない重要な情報を管理しているので尚更神経を使う。
俺が勤務している株式会社MOTOKIは、初代元木雄一郎が海外の雑貨や食品等の輸入卸業として発足させた。現在では直営店や全国のスーパーなどに雑貨、食品を卸す専門商社として業績を伸ばす一方で、家具やブランドバッグ、貴金属まで扱い品目を増やしていた。お陰で会社規模の割には商い高が大きく伸張し、社員は休みさえ満足に取れないほど忙しい。
現在は二代目の元木雄太が社長を勤めるが、初代と共に業容を拡大し今の商社に育て上げた専務の若林が実質営業を牛耳っている。
その専務からの召集である以上、直ぐに馳せ参じなければまたどやされるに決まっている。それでなくとも俺は次から次へと仕事が舞い込むため、済んだ案件は片っ端から忘れる事にしている。
ある時、専務から昨年のデータを問われ、すっかり忘れ去っていた俺は即答が出来なかった。
「お前は名前が杉田浩太だけに、過ぎたこったと忘れているのか」と怒鳴られた。
「申し訳ございません。ですが、パソコンには過去一年間のすべての資料は保管してあります。必要とあればすぐに取り出せるようにしております」
「そうやってパソコンに頼るから駄目なんだ。重要な数値はここに叩き込んでおけ」そう言って専務は自分の頭を指した。
「これは杉田だけじゃない、全員に言っているんだぞ」
 居並ぶ役員たちも神妙な顔でその言葉を聞いていたのを思い出す。
それからは事あるごとに専務から揶揄されるのだ。今では後輩までに『スギタコッタさん』と呼ばれる始末。
「杉田、俺は先に帰るから会議室にいく前に、例のものを貸してくれ」
 そうだ、海藤にCDから取り込んだ音楽データを渡すのだった。バッグからUSBを取り出し彼に放り投げ、俺は一目散に会議室へと駆け出した。

 ミーティングを終えて販売促進部に戻ったときは十一時を過ぎていた。当然、部署の連中は全員退社しており誰もいない。下手をすると終電に間に合わない。明日の資料は家で準備することにして急いでコートを羽織り会社を飛び出した。
 翌日は朝早く出社した。昨日持ち帰ったはずのデータが無く、会社に忘れたと思い早く家を出たのだ。だがオフィスのどこを探してもデータは見つからなかった。会議は午後だから準備時間に余裕は有るが、折角一週間かけて作った資料が見つからないと一大事だ。これから作成しても到底午前中で纏め上げられる代物ではない。
続々と社員が出社してくるのを横目に見ながら一人黙々とデスクの引き出しやパソコンの中を調べる。
「おはよう、杉田。今日も冷えるな。あれ、どうした? 朝から何をゴソゴソとやってるんだ」
 隣席の海藤が出社してくるなり声を掛けてきた。
「ああ、おはよう。今日の会議に使う資料が無いんだ。紛失しちまった」
「何だって、大変じゃないか。お前は整理整頓しないから机の上も書類だらけだ。紛れ込んだりしてないか」
 綺麗好きで神経質な海藤には、俺のデスクの惨状が我慢なら無いのだろう。汚いものにでも触れるように書類を恐る恐る摘まみ上げる。
「いや、そこには無い。実は昨日家で準備しようと持って帰ったはずなんだ」
「じゃあ、電車に置き忘れたとか」
「しかしバッグに入れておいたはずなんだ。落っことすことは絶対にない」
 二人のやり取りを聞きつけ、回りの社員たちも集まってくる。
そのとき課長が出社してきた。
「おはよう。どうした朝から何の騒ぎだ」
「先輩が今日の会議の資料を失くしたそうなんです」
止める間もなく後輩の中山がチクル。
「何だと、本当か。杉田」
 最悪だ。課長にはばれたくなかったのに中山の奴、余計なことを……。
「どこで失くした。いいか、落ち着いて考えろ。昨日の行動をよく振り返ってみろ」
 ああ、うるさい。そう捲くし立てられては落ち着いて考えられるわけがないじゃないか。
「他の書類の中に紛れ込んでないか」
「いえ、さっきも海藤に言ったんですが、書類には紛れることは有りません。まだプリントアウトしてませんから」
「エッ、どういうことだ、杉田」課長が問い直す。
「ですからまだデータはUSBメモリの中です」
「おい、杉田。それを早く言え。それじゃやはり落とした可能性が高いじゃないか。駅の遺失物係りに問い合わせてみろ」課長が噛み付くように怒鳴る。
 おろおろする俺に海藤が何やら合図する。
「それには及びませんよ、課長。私に任せてください。大丈夫すぐに見つけます。さあ、みんなも自分の仕事に戻って」
 海藤が課長を宥め、みんなにも自分の席に戻るように言う。
「おい、大丈夫なのか」小声で海藤に耳打ちする。
「USBならここにあるよ」
 みんなから見えないように、海藤が右手に持ったUSBメモリを俺に見せる。
「お前が昨日俺に貸した音楽データのUSBだ。失くしたのがUSBメモリと早く言えばこんな騒ぎにならなかったのに」
 そうか、新店ミーティングに急いで駆けつけ、その前に海藤にメモリを渡したことをすっかり失念していた。
「課長、ご心配をお掛けしました。海藤のお陰でメモリは無事見つかりました」
 課長が安堵したように表情を崩すが、何も言わなかった。

 その日会議を無事終えた俺は、課の連中を飲みに誘った。迷惑を掛けた埋め合わせだ。
 いつも贔屓にしている居酒屋「久衛門」に向かう。この店は昼間はランチ定食を提供してくれるので、会社の連中も昼夜を問わずよく利用する。忘年会もこの店を使った。
料理が安くて美味いのがその理由だが、この店には香代子という看板娘がおり、彼女を目当てに足繁く通う連中も多い。ご多分に漏れず俺もそうなのだが……。
「あら、いらっしゃい。今日は何名?」香代子が出迎えてくれた。
「エッと……十人かな」
「課長さんはいらっしゃらないの?」
「あれれ、香代ちゃん。あんな中年オヤジが気になるの? こんなに若いのが来てるんだから少しは嬉しそうな顔をしなよ」
 そんなお喋りを横で海藤が微笑みながら聞いている。彼はこの店に来る前に課長が俺を呼び止めたのを知っていた。
「うちの課は少人数といっても十一名いる。お前の奢りじゃ大変だろ。俺からのカンパだ。悪いけど俺は遠慮しておくよ。このズボンじゃみっともないしな」
 何をこぼしたのか、課長のズボンはよく見ると大きなシミが出来ていた。
 そんな訳で課長は俺に福沢諭吉を一枚手渡すと一足先に帰っていった。いい上司を持って俺は幸せ者だと有難く万札を頂戴したのは言うまでも無い。

 俺の坐るテーブルには横に中山が坐り、向かいの席には海藤と新人の佐々木が席に着いた。他の連中も隣のテーブルに腰を落ち着けた。
 飲むにつれ話題は仕事からプライベートの話になる。
「そういえば中山、彼女とうまくいってないんだって?」
 中山は俺の二年後輩で、総務部の深山みどりとは公然の仲だ。
「そうなんすよ。ここんとこ口も利いてくれなくって。一体どうしちゃったのか訳が判らないです」中山が愚痴る。
「何か心当たりは無いのか。彼女は何も言ってないのか」俺はしつこく尋ねた。
人のプライベートな話に興味をそそられる悪い性格だなと我ながら思う。
「いやらしい男、自分の胸に聞いてみればって言うだけで、それっきり口を利いてくれないんです」
「じゃあ、何かしでかしたんですよ。中山さんが自覚してないだけで」佐々木が口を挟む。
「しかし、本当に心当たりは無いよ。今週は運勢が悪いのかなあ、大西には泥棒扱いされるし……散々ですよ」 
大西というのは商品部のバイヤーだ。年間の半分は海外で過ごし買い付けに飛び回っている。当然、東京では半年程度しか暮らさないので、会社から独身寮をあてがわれている。そういえば彼は中山と同期で仲がいいのだ。
その大西から借りたDVDを既に返したにも拘らず、本人はまだ返してもらっていないと主張しているらしい。
「海藤さんなら何かわかるんじゃないですか」
「どうして」
「だって、杉田さんのUSBメモリも探し当てたじゃないですか」
 佐々木の言葉に反応して海藤が口を開きかけた。真相を喋りそうなので慌てて目配せをする。
俺が彼にUSBメモリを貸したことを忘れていたなんて絶対に知られたくは無い。また「スギタコッタさん」の面目躍如などと茶化されてしまう。それならば海藤のお陰で見つかったことにしておきたい。
「海藤さんなら、それこそ快刀乱麻にもつれた糸をばっさりと断ち切るように、謎を解いてくれるかと思って」
 思わず噴出す。向かいの席の海藤が嫌な顔をする。
「おい、佐々木。海藤のフルネームを知ってるか?」
「え、何ですか急に。知りませんけど」
「蘭馬っていうんだ。こいつの親父さんは坂口安吾が好きで付けたらしい。彼の作品の安吾捕り物控えがテレビで放送されていたんだ。題名が快刀乱麻、文字通りカイトウランマだ」
「へえ、でもスギタコッタなんかと違って格好良いじゃないですか」
「何だと、こいつ。お前は俺を馬鹿にしているだろう」
 黙って考え込んでいた海藤の眉がピクッと動く。
「ひょっとして君は大西君に直接DVDを返しちゃいないのじゃあないか?」
「ああ、そうです。奴は海外出張で留守がちなんで、あの時も独身寮の奴の部屋番号を教わって郵便受けに返却したんです。部屋番号は忘れないように手帳に書いて貰いました」
 そう言って中山はスーツの上着のポケットから手帳を取り出す。そこにはきっちりとした綺麗な字で809と書かれていた。
「それで謎は解けた。彼女の態度が急変した理由と大西君が君を泥棒呼ばわりする訳、この二つの謎は互いに関連している」
ポツリと海藤が呟く。
「凄い、海藤さんには理由が判ったんですか」と佐々木。
「まだ想像の域を脱してないが、明日になればはっきりする」
「おいおい、どういうことだよ。明日なんて言わずに今教えろよ」俺がせっつく。
「そうですよ、判っているのなら早く教えてください。彼女の誤解を解かなくちゃ」中山も海藤に訴える。
「理由が判っても彼女の怒りは解けないと思うけどな」海藤が冷たく言う。
「どういう事ですか? お願いします、教えてください」
 今にも泣き出しそうな表情で中山が懇願する。その様子に海藤も心を動かされたのかフッと一つため息をつくと口を開いた。
「たしか会社の独身寮は、笹塚にある九階建てのマンションを一棟借りしている。下層階は男性、上層階に女性の部屋が割り振られているそうだ」
「へえ、そうなのか。詳しいな」
「考えれば判ることだ。女性が低層階だと何かと無用心だろ。それに眺めや風通しの良い上層階を女性に宛がうのは至極尤もじゃないか」
「成る程、そう言えばそうだ」三人が頷く。
「それと男女が同フロアだと風紀上も宜しくない、だから上下で区切っている。但し男性の独身バイヤーが多いので住人の三分の二が男性だ。それから、社員といえども住人以外は部屋には通さないルールで、一階で管理人のおばさんが目を光らせている」
「そうです。その管理人さんがおっかない人なんです。彼女も寮住まいだから俺は良く知っています」
「そこだよ。君の彼女、深山みどり嬢もそこに住んでいるんだったな」
「でも部屋は何号室なのか知りません。さっきも言ったように女性社員の部屋番号は人事総務部でしか判らないし、本人たちも他人に教えないように言われているんです。エントランスから先はオートロックになっていますから、開けてもらうには住人をインターホンで呼び出して開錠してもらう必要があるんです。いたずらや近所迷惑を危惧してそういった措置をとっていると聞きました。そもそも大西の部屋でさえ、教えてもらわなければ知らなかったんですから」
「中山、君は大西君からDVDを借りたと言った。彼は海外赴任が多い。さしずめDVDは彼が海外からこっそり持ち帰った無修正のアダルトじゃないか」
「いやあ、お恥ずかしい限りですが、仰るとおりです」
 頭を掻く中山を眺めながら海藤が更に話を続ける。
「それをエントランス手前の郵便受けに入れたわけだ。DVDと一緒に何か手紙でも入れなかったか?」
「ああ、手紙というほどのものじゃないですが、お礼のメモを同封しました」
「文面はどういった内容だい」
「えっと、たしか……凄い興奮した。俺も彼女とこんな風にしたい……とか何とか」
「署名は?」
「文末に中山って書きました」
「みんな、もう判っただろう」海藤が三人の顔を見ながら話しを切り上げた。
冗談じゃない、ちっとも判らない。大西と深山みどりが同じ独身寮って事は判った。DVDが猥褻なアダルトなのも判ったが、それがどう結びつくのか。
そのとき佐々木がアッと声を上げる。
「佐々木は、気がついたようだね」
「いや、ある可能性に気がついただけです。まだ判らない事が」
「部屋番号かい?」
「そうです」
「中山、大西君に部屋番号を書いて貰ったときの二人の位置関係は?」
「え、どういうことですか」意味が飲み込めず中山が聞く。
「君と大西君は並んで坐っていたのか、それとも今の僕と君のように向かい合わせだったのかい? その時のように再現してくれ」
「向かい合わせで手帳を差し出して……アッ、そうか。天地が逆だ」
 中山が慌てて手帳の上下をひっくり返す。そこに書かれた部屋番号が809から608になる。
「マンションは九階建てだ。そのうち女性は三分の一で上層階となれば、大西が八階に住んでいる訳が無い。男性は六階までのはずだ」
「成る程、言われてみれば簡単な推理で謎が解ける。大西の部屋は608号室だったんだ。そうすると中山が大西の部屋だと勘違いした809号室の住人というのは女性の部屋ということになるな」
 俺はこれまでの幾つかの情報だけで冷静に真実を見抜いた海藤を尊敬の眼差しで見詰めた。
「それを明日人事部で確かめようと思ったのさ、恐らく深山みどり嬢の部屋だ」
「そんな……彼女にあのDVDを見られちゃったってことですか」中山が半分ベソをかいたような表情をする。
「それにご丁寧に署名付のメモまで入れた。『こんな風に彼女としてみたい』だったっけ?」
 海藤が気の毒そうに中山を見詰めながら言う。
「でも彼女も悪い気はしてないんじゃないか。それほど私に惚れてくれてるんだって案外感激してるかもな。こんなDVD見なくても私が……って言うかもしれない」
 俺は冗談めかして慰めてやった。
「先輩、他人事だと思って――」
 その夜は明け方まで中山のヤケ酒に付き合う羽目になったのだった。

 それから何日か経ったある日、喫煙室で煙草を吸っていると、中山が俺にこっそりと耳打ちをしてきた。
「何、それは本当か?」
「シッ、声が大きいですよ。俺、二人の決定的な場面に遭遇しているんですから」
「何です、何か面白い話ですか」
 新人の佐々木が近寄ってくる。彼は煙草を吸わないが、たまたま隣の自販機でコーヒーを買っていたらしい。
「駄目ですよ、二人で内緒話するのは。ほら、ガラス越しに海藤さんも気にしているじゃないですか」
 見ると煙が他へ行かないように遮蔽してあるガラス窓に、海藤が顔をくっ付けて中を伺っている。お陰で端正な顔がガラスに押しつぶされて、まるで猪八戒のようなご面相になっている。クールな外見に似合わず子供っぽい性格を持ち合わせた不思議な男だ。
「何だよ、何をこそこそ喋っている。二人で内緒話は駄目だ」
 まるで佐々木と同じことを言う。
「実はな、課長が香代ちゃんと出来てるらしいと中山が言うんだ」
「香代ちゃんというと、久衛門の香代ちゃんのことか? 無いない、そんなこと有る訳が無い」海藤が頭から否定をする。
「だって実際に、この間課長が香代子さんに白い封筒を渡しているのを見ました」
「何だって」三人が同時に声を発した。
「近道しようと会社の裏の路地に入ったら二人がいたんです。課長が彼女に封筒を押し付けながら、済んだことはお互い忘れようって言ったのを耳にしました。俺に気がつくと慌てて二人は離れたんです」
「中山、そんな重大なことを何故今まで黙っていた。それって金で解決しようって事じゃないのか」俺が非難めいた口調で責める。
「先輩にとって何が重大なのか知りませんが、そんなことべらべら他人には喋りませんよ、俺は」
「中山の言うとおりだ。他人のプライベートに余り首を突っ込まないほうがいいぞ、杉田」
 何だよ、お前たちも興味本位で話を聞きたがったくせに、と口まで出掛かった言葉を飲み込む。しかし怒りの言葉が自然に飛び出した。
「だけどそれが事実なら俺は課長を許せん。あの人は妻子有る身だぞ」
「何だよ、そうむきになるな。ははん、お前香代ちゃんに惚れてるな」
 海藤がにやつきながら俺の顔を見る。本当に鋭い男だ。俺は心の中を見透かされ、ギクッとする。
「いや、そんなことは関係ない。人としてあくまで倫理観の問題だ」慌てて言い繕う。
「へえ、先輩から倫理観なんて言葉が出るなんて思っても見ませんでしたよ。素直に認めたらどうですか。香代子さんに気があるんでしょ」中山が突っ込む。俺は渋々頷いた。
「それなら納得です。海藤さん、先輩のためにも真相を追究しましょうよ」
「余り気が乗らないが、杉田がこんな状態じゃ仕事も手につかないだろうし……仕方がない。さっきの話だが二人を見たのは何日の事だ」
「あれは、ええと、そうだ。皆で飲みに行った次の日です。ほら例のDVDの一件を海藤さんが解明した翌日です。そういえばあの時課長は来なかったですよね。あれ以来課長は久衛門に行ってないですよ。俺たちが誘っても断るし、まるで避けているように思いました」
「そうですね、昼飯も他の店ばかりです」佐々木も同調する。
海藤は黙りこくっているが、ピクッと眉が動いた。
「益々怪しいじゃないか。後ろめたいから店に行けないに決まっている。香代ちゃんは親爺さん自慢の一人娘だもんな。その娘に手をつけて、どの面下げて店に行けるってんだ」
俺は悔しくなってテーブルをドンと叩いた。
「まあ、待てよ。早とちりをするな。なあ、杉田。お前、これが何でも無かったらどうする」
「どうするって……」
「ぼやぼやしていると香代ちゃんを誰かに取られてしまうぞ。課長とは何でも無かったことを俺が証明してみせるから、お前はさっさと彼女に告白しろ」
「それは見ものですね。面白くなってきたぞ。でも海藤さん、証明できますか」
中山が海藤の提案に賛成して、はしゃいでいる。佐々木も笑っている。
「今日の夜は課長を誘って久衛門に行くぞ。そこで証明する。そうと決まったら仕事に戻ろう。何時までも油売っていられない」
 そう言い残して海藤は休憩室を出て行った。

「課長、今夜は是非とも我々にお付き合いして頂きます。このところ久衛門にはご無沙汰だと聞き及んでいますが、課長が本当に気にしていらっしゃらないのなら行ってあげるべきです。出すぎた真似をして申し訳ありませんが、是非そうなさって下さい」
 海藤の奴、何を言い出すのだ。課長に面と向かってとんでもないことを言い出した。
 中山と佐々木も驚いて目を大きく見開いて、課長の反応を伺うように見詰める。
 しらばっくれるか、怒りだすか、課長の言葉を待つ。
「知っていたのか。いや、拘っていないつもりなのだが、どうも行きにくくてな。君たちが誘ってくれて助かるよ」
課長が海藤に返した言葉は意外なものだった。

 その夜、久衛門へ向かう道すがら俺は海藤に尋ねた。
「一体どうなっているんだ。課長は自ら行きにくいと認めたじゃないか」
 俺の問いかけに答えず、海藤はにやにやしながらこう言った。
「心の準備は良いだろうな」
「何の」
「香代ちゃんに告白してもらうからな。約束だろ」
「待てよ、それは証明してからだろ」
「もう、課長が証明してくれた。後は香代ちゃんと親爺さんだ。ほら、着いたぞ」
 全員で暖簾を潜る。
「いらっしゃい。あ、課長さん」
 香代子が課長に駆け寄る。奥から親爺さんも出てきた。
「この度はうちの娘が大変な粗相を仕出かしちまって、本当に申し訳ござんせんでした。そそっかしい奴で、普段から注意してんですけど、親のあっしに免じてどうかお許しください」
 親爺さんと香代子が並んで課長に頭を下げている。
「いや、頭を上げてください。たいしたことじゃないですから、逆に気を遣わせたみたいで私も悪かったんです。さあ頭を上げてください」
 課長が二人にそう声を掛けている。
「一体どうなっているんだ」小声で海藤に囁く。
「課長が気持ちよくクリーニング代を頂けばそれで済んだことだったんですよ」
 海藤が口を挟む。
「海藤さん、ご存知だったの。課長さんがクリーニング代を受け取らなかったこと」
 香代子が海藤のほうを振り返った。
「うん、まあ。うちの連中が二人の仲を怪しいというんで少し推理をしたんだ。あの日、課長はズボンに大きなシミを作っていた。恐らく味噌汁か何かをこぼしたのだと思っていたんだが、翌日、中山が偶然会社裏の路地で二人を見たと言う。課長が白い封筒を香代ちゃんに渡し、早く忘れようと話しているのを聞いてしまった。これが誤解の元だった。あの封筒は香代ちゃんが課長に渡したのだろう。中山が見たのはそれを課長が押し戻す瞬間だった。だから課長が渡しているように見えたんだ。真相は香代ちゃんが何かのアクシデントで課長の膝に味噌汁か何かをこぼしてしまった。だからクリーニング代金を封筒に入れて渡そうとした。だが、課長は受け取らない。一方課長はもう気にしていない、忘れようといいながら、店にはどうも行きにくくて足が遠のいた。それが逆に親爺さんや香代ちゃんの気持ちを不安にさせたんだ。課長が金輪際、店の敷居を跨がない程怒っているんじゃないかって思った。違うかい」
「そうなんです。だから何回かお詫びに伺ったんです。でも今夜来て頂けてほっとしました」香代子が笑顔を取り戻す。
輝くような笑顔だ。俺はそんな香代子に見惚れていた。
「杉田が二人の仲を変に誤解しているので、余計なお節介だとは思いつつ真実を暴いてしまった。でもね、香代ちゃん。この騒ぎのお陰で一つはっきりした事実があるんだ。それは杉田から話をさせるよ。さあ、杉田」
 きょとんとする香代子の目の前に、俺は押しやられた。心臓が早鐘を打つ。何をどう言ってよいのかも判らない。
「あの、俺、前から香代ちゃんのことが……好きなんだ。付き合って欲しい」
「あら」小さく声を漏らした香代子の顔が、みるみる朱に染まったように赤くなっていく。
「こんなそそっかしい娘でいいのかい、杉田さん。香代子もあんたに惚れてるみたいだよ。いつもあんたの顔ばかり見詰めてるの気がつかなかったのかい」
「キャッ。止してよ、お父さん」香代子が親爺さんの胸を打つ。
 俺は信じられなかった。天にも昇る気持ちっていうのは、このことだ。
もう一度香代子の顔を見詰める。彼女も俺を見詰めている。
「何だか馬鹿馬鹿しくなっちゃいました。早く飲みましょうよ」佐々木が白けて言う。
「そうだな、私は浮気の嫌疑を掛けられ、海藤はそれが無実だと証明するために一肌脱いでくれた。何もしていない杉田がどうして美味しいとこを持っていくのだ」
 課長がぼやく。それが可笑しくて全員が爆笑したのだった。
 
 暑い夏が過ぎ時折爽やかな風が吹くようになって来た。そんな秋の気配が感じられるようになった有る日のことである。
俺が出社すると既に課長も出勤しており、部署内も異様な空気が充満していた。
「課長、おはようございます。何か有ったんですか」
「おう、杉田か、暢気なことを言ってる場合じゃないぞ。これを見てみろ」
 課長が握り締めていたチラシを俺に押し付ける。
 それは弊社とライバル関係にあるオゾングループの本日からの全国一斉大売出しのチラシだった。弊社は来週からセールを仕掛ける予定でいたので、それに先んじて手を打たれた形だ。
「うちが来週から仕掛ける情報を嗅ぎつけたんですかね。しかも目玉商品も同様の品物が我々のプライスを下回っていますね」
「それが問題なんだ。セールがバッティングするのは良くあることだ。我々が先行する場合もある。だが、この掲載商品の価格設定は全て微妙に我社を下回っている。情報が漏れたとしか考えられん。今もこのことで緊急役員会議が開かれている。販促部長も招集されて事情聴取の真最中だ。これを扱ったのはうちの課だろ。お前が担当じゃなかったっけ? 俺もお前も首が危ないかも知れん、覚悟しておけよ」
「そんな殺生な、もし本当に社内の人間が漏らしたのならそいつを厳罰に処するべきでしょ」
「だから、その漏洩した野郎の犯人探しが始まったんだよ。一番怪しいのがお前だって思われている」
 そう言う課長の顔がいつに無く真剣みを帯びている。その強張った表情を見た俺は冗談では無いことを悟った。
 突然デスクの電話が鳴る。すかさず課長が受話器に飛びつく。
「はい、販促企画課。はい、はい。エッ、判りました。直ぐに本人と伺います」
 受話器を置く課長の顔から血の気が引いている。
「杉田、俺はお前を信用している。だがお前のパソコンからオゾングループ宛のメールが発信された形跡が有る事が判明したそうだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺がそんな事する訳ないでしょ」
「すぐにお前を連れて役員会議室まで来いとの仰せだ。申し開きはそこでするんだな。さあ、行くぞ」
 課長が俺の腕を掴み歩き始める。まるで容疑者を連行するみたいに。部署の同僚が目を見開いてその様子を見詰めている。そのとき海藤が出社してきた。
「おはようございます。あれ課長、杉田が又何かやらかしましたか?」
 課長はそれに応えず俺を引き立てて部屋を出た。
 幾ら能天気な俺でも事の重大さに恐れをなしていた。しかもこれから役員のお歴々の前に引きずり出されて尋問されるのだ。そう考えただけで、気が動転していた。
落ち着け、落ち着いて身の潔白を証明する手立てを考えなくては……そう思うのだが焦るばかりで少しも考えが纏まらない。
エレベーターの中でも口が渇き、膝がガクガクと震えるのを抑えられなかった。
 役員会議室のドアの前に立って俺は、くるりと踵をかえして一目散に逃げ出したかった。
 課長がドアをノックし俺を連れて入室する。
 四角形に囲んだテーブルの真正面に社長と専務が坐っている。左右のテーブルには常務以下役員、執行役員のお歴々が雁首を揃えている。全員苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
 俺と課長は社長、専務と対峙する形で坐らされた。まるで被告人席だ。
「杉田、何で呼ばれたか承知しているな。素直に認めるか」
 若林専務が口火を切る。じっと俺を睨みつけている。
「私は何もしていません。本当です」
「では、君のパソコンから情報が流れたことをどう説明するつもりだ? 取り敢えずは君の言い分を聞こうじゃないか」
 本木社長が穏やかだが凛とした声で話しかける。
「全く訳が判りません。確かに私のパソコンから情報が漏れているのですか?」
「おい関口、この男に証拠を突きつけてやれ」
専務が社内情報システムを構築、管理している情報室長に命じる。
「我々は全社員のここ一ヶ月余りの通信履歴を調査しました。これは役員の皆様方にも失礼とは存じますが例外なく実施しました。結果、販促企画課のパソコンからオゾングループのアドレスに発信履歴が残っているのを発見しました。パソコンにはそれぞれ固有の管理番号が割り振られており、それが杉田君の使用しているものと判明しました。多分パソコン上では送信履歴や文面は消去されていると思われますが、先ほど部下がサーバーから復元に成功し内容を確認しました。約三百品目の商品と価格が一覧になっております」
 説明しながら、俺と課長にメールの内容をプリントアウトしたものを配る。
「どうだ、これでもシラを切るのか? それと最後に意味不明の文字が有るな。これは何だ、何かの暗号か」
 価格一覧表に目を通していた俺は、慌てて最下段の文字を見る。そこにはW6VBと記されていた。
 一体何なのだ、誰かが俺を嵌めようとしているのだろうか? この価格設定を知っているのは販促部企画課以外では仕入れを行った商品部の各バイヤーと商品部長を含めた役員だけだ。そうか、商品部国際調達第六課も関わっている。
「このW6というのは国際調達第六課という意味じゃあ――」
 俺が言いかけるのを遮るように専務が怒鳴る。
「他人に罪をなすりつけるのか。見苦しいぞ杉田。じゃあVBの意味は何だ。誰かの頭文字か? こんな頭文字の日本人なんていないだろうが」
「いや、それを私に言われたって……」
「杉田、見返りは何だ? 素直に答えない以上、お前は当分自宅謹慎処分だ。調査が完全に終わった段階で改めてお前の処分を決定する。まあ、懲戒免職は免れんと思うがな。よし、もう下がっていいぞ」
 専務の声が最後通告に聞こえた。
 どうやって自部署に戻ったのかも覚えていない。課長はずっと無言のままだ。
 心配する同僚たちの衆目を集めながら席に着く。
「一体どういうことだ」海藤が小声で尋ねてくる。
「俺は当分自宅謹慎だそうだ」そういい捨てバッグを持って帰宅準備をする。
「ちょっと待てって。課長、暫し社内から抜けだします」
海藤が課長に中座の許可を得る。
「俺も行きます」
「あ、待ってください、僕も」
 結局中山と佐々木も俺たちと共に席を外し社外に出る。
 海藤が俺をビルの向かいにあるシアトルコーヒー専門店に連れ込む。
「さあ、詳しく話して聞かせろ」
エスプレッソを飲みながら海藤がせっつく。
俺は、会議でのやりとりと証拠となった一覧表の存在を話して聞かせた。
「お前のパソコンからそれが送信されたのは何日のことなんだ?」
「先月の十六日の午後七時だ」
「十六日というと……」
 海藤は呟きながらスマートフォンを取り出しカレンダーを確認する。
「木曜日か、この日はお前が専務の緊急ミーティングに招集されていただろう。俺にUSBメモリを渡して会議資料を失くしたって翌日大騒ぎしたじゃないか」
「そうですよ、俺もはっきりと覚えていますよ」中山も口を揃える。
「そうか、あの日お前に言われてパソコンをログオフして席を離れた。戻ったのは十一時近かった。俺にはアリバイが有るじゃないか」
「それに専務も同席されていたんでしょう。あの人も耄碌したかな」
 中山が憎まれ口を叩く。
「そうと判れば直ぐに戻ってアリバイを証明しましょうよ」
佐々木が勢い込んで席を立ちかけた。
「まあ、待て。送信日時はタイマー設定で幾らでも誤魔化せる。それだけじゃあ、アリバイ証明にはならない」冷静に海藤が説明する。
「じゃあ、どうするんです」椅子に坐りなおした佐々木が口を尖らして尋ねる。
「簡単なことさ、真犯人を見つける」
「え、どうやってですか? 幾ら海藤さんでも今度ばかりは快刀乱麻に解決できますかねえ」中山が言う。
本人を前にして失礼な奴だ。ほら海藤が嫌な顔をしている。
俺は今、藁にも縋りたい気持ちだ。頼むから海藤のご機嫌を損ねないでくれ。
「いいかい、どうしてみんな情報システム室を疑わないんだ。構築、管理している部署がそんなことをするはずが無いと頭から信じ込んでいる。いわば盲点だ。やろうと思えば一番簡単に出来る部署だろ」
「それはそうですけど、どうやってそれを証明するつもりですか」佐々木が聞く。
「杉田、最後に書かれていた意味不明の暗号をもう一度教えてくれ」
「W6VBだ」
それを聞いて海藤は暫し黙り込む。視線はスマートフォンに注がれたままだ。
「僕が以前読んだ暗号の本によると、何かに置き換えるとか文字をアルファベットで何文字かずらすとか……例えばVDVDNLって判りますか? 三文字前にずらすとSASAKIです。僕の名前になるって訳です」
 佐々木が話していると、海藤が黙っていられなくなったのか顔を上げると口を開いた。
「元来他人に読まれない手法は大別して二つに分けられる。一つはステガノグラフィーといって、代表的なのは炙り出しだ。子供の頃、蜜柑の果汁で遊んだ事があるだろ。そしてもう一つがクリプトグラフィーといって、これが一般に言う暗号だ。
そしてその中にも転置式と換字式がある。転置とは読んで字のとおり単一文字を置き換える、要はアナグラムだ。例えば僕の名前KAITOUを並べ替えてTAIKOU(太閤)にするようなものだ。
換字の方は単語を全く別の文字に置き換えるコードと、単一文字を置き換えるサイファーがある。今佐々木が話していた手法だ。ただ、これには弱点があって、例えば英語の場合、アルファベット二十六文字中、一番頻繁に使用されるのはEだ。次がA。暗号で書かれた文章の頻度分析を行えば解読出来てしまう。ほら、エドガー・アラン・ポーの小説『黄金虫』にも炙り出しと頻度分析で暗号を解く場面が出てくるだろ。
サイファーは、暗号の主流として古くから活用されており、それだけに種類も多い。そして更に近代になって二度の大戦が起こり情報戦の重要性が再認識されてきた。エニグマという暗号作成機が発明され、より複雑化したホモフォニックやヴィジュネル――」
 海藤の悪い癖が始まった。このまま喋りだすと暗号について延々一晩中話し続けるだろう。知識をひけらかしているつもりは無いのだろうが、彼は何事につけ薀蓄を語るのが好きなのだ。隙を見て話しに割り込む。
「成る程なあ、しかしそんなことを聞かされても方法は何万通りも有るんだろ? 片っ端から試すわけにもいかないだろ」
「ヒントは6だ。この一文字だけ数字だ」海藤がそれだけ言うとまた考え込む。
我々三人はそんな海藤の顔をじっと見詰めるだけだった。
手持ち無沙汰な様子の佐々木が、空になったアイスコーヒーの氷をガリガリと齧る。
「うるさい」俺と中山が同時に佐々木の頭を引っぱたく。
「暢気に氷なんか齧ってる場合かよっ」中山が、すかさず突っ込みを入れる。
頼むぞ、海藤。お前の推理だけが頼りなんだ。
突然、海藤の眉がピクッと動く。
「て、お、ひ、こ……か」小さく呟いている。
「何だって、てお彦? 誰かの名前か?」黙っていられなくて思わず聞きとがめた。
「考えたんだが、そんなに複雑な暗号は使わないと思う。この犯人がプロ顔負けの暗号の知識を持っているとは思えない。もっと身近にあるもので、我々が日常一番多く目にしているもの、更にアルファベットと数字があるもの」
「パソコンのキーボードですね。だからさっきからスマートフォンを凝視していたんですね」佐々木が勢い込んで言う。
 俺は呆れ返った。それなら先ほどの暗号の解説は何だったのか。海藤の奴、佐々木が暗号について喋りだした途端、自分も話題に加わりたくて延々と必要の無い薀蓄を語ったのか。
そんな俺の気持ちに頓着もせずに、二人は額を寄せ合って喋っている。
「そう思ってそれらの文字をアルファベット入力じゃなくて、かな入力をしたら……」
「て、お、ひ、こ、になりますね。でもこれじゃさっぱり意味が判らないです」
 俺と中山は二人のやり取りを黙って聞いていた。
海藤は勿論だが佐々木も中々頭の回転が速い。俺は少なからず目の前の新入社員を見直していた。
黙って考え込む二人。
「うーん、この推理も矢張り違うようですね。カタカナに変換しても意味をなさないし、何かの頭文字でもなさそうです」佐々木が諦めたように言うと顔を上げた。
ボックス席の仕切りガラスに彼の困惑した表情が映る。彼が右手で髪の毛を掻き上げると、ガラスの中では同じように左手で髪を掻き上げる様子が映る。
ぼんやりとその現象を眺めていた俺は可笑しくなってクスリと笑う。
「何を笑っているんです」
「いや、すまない。お前の姿がガラスに映って、まるで鏡のように左右対称だったもんで、つい――」
「それが可笑しいんですか。こんな時によく暢気なこと考えられますね」
二人が言い合っていると海藤も釣られてガラスを見た。
じっとガラスを見詰める海藤の眉がピクリと動く。
「そうか、判ったぞ。おい、早く会社に戻ろう」
 言うが早いか、海藤はもう走り出していた。
「お、おい。俺はどうすれば――」
「何言ってるんですか、勿論杉田さんが来なけりゃ、話にならないじゃないですか」
 佐々木がそう言って俺の手を引っ張る。
 俺たちが社に戻ると、海藤が課長に何事か掛け合っていた。
「だから今さら専務に会ってどうすると言うんだ」
 どうやら専務に取り次いでくれと頼み込んでいるようだ。だが、課長は会議室に呼びつけられて萎縮してしまい埒が明かない。
「じゃ、いいです」
 海藤はそう言うと席に戻り、自分のパソコンで何やら操作を始めた。
コマンドプロンプトを開き、文字を打ち込む。画面がスクロールし始める。海藤が何文字か打ち込み画面を閉じた。
 直ぐに課長のデスクの電話がなる。ビクット肩を震わせ課長が恐る恐る受話器を取り上げた。
「はい、ア、専務。はい、はい。直ちに伺います」
 受話器を置くなり課長が海藤に怒鳴る。
「海藤、お前一体何をやらかした? 専務がお前の指定したメンバーをすぐに召集すると仰っている。俺と海藤、杉田もすぐに部屋に来いとの仰せだ」
「役員の皆さん方はパソコンに詳しくないですからね。良く理解できるようにちょっと前準備をします。先に杉田と行ってらして下さい」
 そう言って海藤は自分の私物のノート・パソコンを取り出し、何かを始める。中山と佐々木が興味深そうに覗き込んでいる。俺も気になるが課長に急かされ先に部屋を出た。

「海藤はまだ来ないのか。突然俺のパソコン画面に『今回の事件の真犯人が判明しました。役員の方々の召集をお願い致します』と文字が現れた時には驚いた。だが、役員を招集させておいて本人は何をしている。どうも販促企画課は教育が出来とらんようだな」
専務がじろりと課長を睨みつける。
「お待たせ致しました。申し訳ございません」
パソコンとプロジェクターを抱えた海藤が専務室にやってきた。
「今から今回の事件の真犯人とその手口を解明いたします。その前にプロジェクターを設置させて下さい。皆様によくご理解いただけるようにパソコンの画面を大きく映し出しますので」そう言って準備に取り掛かる。
「海藤、君の希望通り、外出されている社長を除き、役員を集めたぞ。準備しながらでいいから先ず俺の質問に答えてくれ。君はどうやって俺のパソコン画面に侵入したのだ?」専務が海藤に問いかける。
「そのことなら関口情報室長のほうが詳しいと思いますが、まあいいでしょう。社内LANでネットワークされたパソコンなら相手のパソコンの管理番号さえ判れば簡単に進入できます。問題は相手のパソコンに割り振られた管理番号が判らないことです。それを知っているのは情報室のメンバーだけです」
「では、君は何故俺のパソコン番号を知ったのだ」
「勘です。コマンドプロンプトの画面でmotokiPC001から順番に番号が割り振られているのを確認しました。順当に考えて001が社長、002が専務だと見当をつけたまでです。合ってますよね、室長」
「君の言うとおり一番が社長、二番は専務だ」
「関口、そんな判りやすい割り振り方をしているのか」専務が噛み付く。
「それは常務までの役員の皆様だけです。多分004以降は誰が誰だか判りません。そうでしょ、室長」
「そうです、三番の常務以降はあるルールに従って番号を割り振っていますが、それは明かせません」関口室長が言い訳するように付け加える。
「当然だ」専務が吐き捨てるように言う。
「さて、準備も整いました。正面のスクリーンをご覧下さい」
 スクリーンには海藤の私物パソコンのデスクトップが映っている。
「先ず、ネットワークで繋がれたパソコン同士なら侵入が簡単に出来ることは、既にご案内させて頂いたとおりでございます。次に侵入したパソコンを自在に操る方法をご覧頂きます。社内のパソコンで出来ればよいのですが私にはアドミニストレーターとしての権限がございませんので、私物のパソコンをご用意しました」
 説明しながら海藤がスマートフォンを操作する。パソコンには一切手を触れていない。
だが、スクリーンに映し出されたパソコンのデスクトップ上を矢印が移動し、エクセルの表を開く。今度はメールソフトを立ち上げ、エクセルシートを添付する。
 画面を凝視する役員の口から「おおっ」と驚きの声が上がる。
「ご覧頂いておりますように実際にパソコンに触れずにその内部に侵入し、更にそのパソコンからデータを送付することは可能です」
「ほう、理論的に可能だということは理解した。だが、それだけで杉田の潔白の証明にはならんだろう」
「専務、問題の価格一覧表が送付された日の同時刻、杉田にはアリバイが有ります。あの日、正確には十六日の午後七時ですが、数名の社員が彼と一緒にいました」
「誰だ、その人物を呼べ」
「専務ご自身が一緒におられたではありませんか。新店のミーティングを開催された日です」
「何と……あの日か」専務がそう呟くと、むっつりと黙り込んだ。
「しかし、君。そんなものはメール送付時間をタイマー設定すれば時間をずらせる。アリバイ証明にはならない」関口室長が反論する。
「確かに室長の仰られるとおりアリバイ工作は可能です。しかし、あの日のミーティングは緊急で開催されたものです。現に杉田も翌日の資料の準備をしている最中でした。ミーティングが開かれることは直前まで誰も知らなかった。そうですよね、専務」
「うむ、確かにあれはスケジュールにも組み込まれていなかった。それで俺が社内に一斉放送で召集を掛けた」
「有難う御座います、専務。お聞きのように予め杉田がアリバイを作るとすれば、あの日を設定するはずが無い。もっと確実にアリバイが証明できる日時を選ぶでしょう。ですからやはりあの日、あの時間に誰かが杉田のパソコンに侵入したと考えられます。ここまでは宜しいでしょうか」
「だがまだ杉田が完全に潔白とは言えん。それは真犯人が判明してからだ」専務が言う。
「判りました、では誰が犯人か、それをこれからお話し致します。先程の続きですが、侵入するには、そのパソコンの電源がオンの状態で尚且つ使用者が席を外している必要が有るのです。でないと、使用者が操作していないのに目の前でパソコンが勝手に動くのですから直ぐにばれてしまいます。使用者が席を外すのは休憩時かトイレ又は会議出席の場合でしょう。杉田が何時席を外しているのかは同じ部署の人間にしか判りません。しかしあの日のミーティングは専務が仰られるように社内に一斉放送されました。犯人にとってはまたとないチャンスが到来したのです。そしてその時杉田が不在でも、先刻室長が指摘されたようにタイマー設定を利用すればアリバイなど成り立たないと即座に判断できた人物」
「それだけでは何にも判らないじゃないか。その程度の知識を有する社員でミーティングに出席していない者など大勢いる」
関口室長が又もや反論する。
「お言葉ですが室長、杉田のパソコンを特定し、そこへ侵入して操作するのは一般の社員には不可能です。いや、勿論ハッカー並みのテクニックと知識があれば可能かも判りませんが、そうでなければ短時間で侵入を試みるのは無理です。それが可能なのは社員のパソコン番号を知り、アドミニストレーターの権限を与えられている情報システムのメンバーだけです」
「し、失礼な。君はうちの部署に責任をなすりつけようとするのか」関口室長が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「残念ながらそれが真実です」
「そうなのか? もう俺には何が正しいのかさっぱり判らん」
憮然とする専務。
「そこまで言うからには犯人の目星もついているんだろうな。き、君は一体うちの部署の誰の仕業だと言うのかね」
「そうだ、勿体ぶらずに言い給え。一体誰が犯人だというのだ」専務が焦れだす。
「それはメールの署名が教えてくれました。例のW6VBです。日本製のキーボードではアルファベット入力とひらがな入力が可能です」
「それは俺にも判る。俺は専らひらがな入力だからな。昔は富士通の親指シフトを使っていた。あれは便利だった記憶がある」専務の頬が緩む。
「専務にご理解して頂けて幸いです。つまりW6VBのキーのひらがなを拾い出すと、こうなります」
 海藤が画面にキーボードを大写しさせ一語一語拾い出す。
「ておひこ? 何だ、これは」専務が又もや不機嫌になる。
全く機嫌がころころと変わる。自分の理解の範囲を超えることが許せないのだろう。唯我独尊を公言して憚らない専務らしい性格だ。
「ておひこ、確かに意味が通じません。先ずこれをカタカナに変換します」
 スクリーンに大きくテオヒコの四文字が映し出された。
「左右対称文字というのがあります。例えばここにおられる関口室長ですが、関口は左右対称です。他には中や田、東、申、文、谷、茶、平、未、富、普、昔、森、替、暮、雷、少し凝った文字だと燕、輿、糞、墨なんてのもそうですし――」乗ってきた海藤が滔々と喋りだす。
「ああ判った、判ったから結論を言い給え」専務が辟易として遮る。
「テオは右に反転した文字を書き加えます、ヒコには左に書き加えます。そうすると浮かんできた文字は……」そう言って海藤がスクリーンを指差した。
そこには、元木 北口と映し出されていた。
「説明するまでも有りませんが元木は会社名です。関口室長、北口という社員は在籍していますよね」
 大きく目を見開きスクリーンを凝視する室長は、驚愕の余り海藤の問いかけに即答できないでいる。
「おい、伊藤。どうなんだ」見かねて専務が人事部長に声を掛ける。
「はい、確かに在籍しております。昨年、中途採用したメンバーです。前職がSEで相当な知識とノウハウを有しておりましたので採用いたしました。確か最終面接は社長と専務が――」
「聞かれたことだけに答えれば良い。余計なことを喋るな。おい、関口。何を呆然としておる。北口をここに連れてこい」専務が怒鳴る。
 関口室長は弾かれたように椅子から飛び上がると慌てて役員会議室から出て行った。
「今の専務の言葉にも左右対称文字が多いな。答える、余計の余、呆然の呆、すべて左右対称文字だな。意識して使用したのなら凄いもんだ……」海藤がぶつぶつ小声で呟いている。
それを聞いて俺は可笑しくなってきた。この男には緊張とか臆するといった感情は無いのだろうか。こんな場面でよくそんな暢気なことを考えていられるものだ。
 暫くして関口室長に連れられ北口がやってきた。がっくりとうな垂れている。
「北口が白状しました。金で買収されたそうです」
関口室長が申し訳なさそうに報告する。
「馬鹿もん。お前は一体何を監督しておる」専務が一喝する。
「伊藤部長、即刻懲戒免職の手続きをしなさい」
 取締役の馬場商品部統括部長がそう言うのを専務が遮る。
「いや、社長がお戻りになってから緊急の人事委員会を開催する。それまでは謹慎処分にしておけ。それと関口、お前も減棒処分を覚悟しておくんだな」
 がなりたてる専務に海藤が口を挟む。
「杉田はどうなります? 謹慎処分は取り消して頂けるんでしょうね」
「おお、勿論だ。杉田君、私もまさかとは思ったんだが君のパソコンから送信されたと聞かされたもんだから……いや、言い訳は止そう。申し訳ない。このとおりだ」
 専務が平身低頭しテーブルに額をこすりつけるようにして詫びている。いつも怖い存在の専務だが、自らの非を潔く認める。こういうところが社員に慕われる所以なのだ。
 俺は海藤に親指を立ててウインクをした。だが、海藤は何かすっきりしない様子で考え込んでいた。

 販促部に戻ってきても海藤はまだ考え込んでいた。
「どうした、事件は解決だろ」
「いや、どうも気に喰わない」
 向かいの席の中山と佐々木が聞き耳を立てている。
「なにが引っかかっているんだ」
「考えても見ろよ。北口は署名には暗号を使ったのに、どうして肝心の価格表には暗号を使用しなかったのだろうか? おかしいと思わないか」
「そりゃ、自分の名前を隠しておきたかったからじゃないのか。その事が一番重要だと考えたんだろう」
「普通は逆だろ、一番重要なのは価格表のはずだ。それさえ暗号にしておけば、誰にも気づかれないで済むじゃないか。という事は、すべての発想を逆転させて考えてみよう。彼にとってはオゾングループに情報を漏らした事実を認知させたかった。だからわざと価格表には暗号を使わず、誰にでも直ぐに判るようにしておいたんだ」
「お前の言っていることが理解できない。わざわざばれる手段を取る馬鹿はいないだろ」
「だから気に喰わないのさ。それともう一つ、ネットワークに詳しい彼が、どうしてあんな安直な手口を使ったのか。まるでわざと見つけやすくしているとしか思えない」
「それは何のためにですか」中山が口を挟む。
「ひょっとして杉田さんに罪を着せるためですか」佐々木が言う。
「俺があの販促計画の担当だったからだな。もし担当が海藤ならお前に罪を被せたってことだ」
「いや、そうじゃなくて担当がお前の案件であれば何でも良かったのさ」
「益々訳が判らない。オゾングループはあの情報が欲しかったんだろ」
「天下のオゾングループが、あんな程度の価格情報を欲しがっていると本気で思うのか」
「それは僕も変だと思ったんです。さっきも中山さんに話していたんですが、金で買収してまで知る値打ちは無いと思いますよ」佐々木が中山に頷きながら話す。海藤には敵わないが、この新人も結構勘が鋭い。
「まあ、そう言えばあの程度の価格設定は考えりゃ想定出来るな」
「だろ? 大した価値が有るとは思えない。だが、情報を漏らされた側は大騒ぎになる。何故なら、情報の重要度では無くて、情報が漏洩した事自体が大問題だからだ。内部統制を行っているのに体質の甘さが露呈してしまった。会社とすれば即刻、膿を出そうとする。つまりお前は懲戒免職ってことになる。北口の狙いはそこだと思うのさ」
「そんな……俺は奴に恨みを買う覚えは無い。部署も違えば面識だって無かった。どうして俺を嵌めるのか理由が判らない」
「北口はもしかして兵隊に過ぎないのかも知れない。もう一度、彼に詳しく話を聞く必要がある」
 海藤はそう呟くと情報室に電話を掛ける。北口は既に自宅謹慎のため退社していた。
今度は人事部に電話を掛け北口の携帯電話の番号を聞きだした。だが、何度掛けても電源が切られており繋がることは無かった。

 翌朝、俺と海藤は人事部から教わった北口の住まいを訪ねたが昨日から戻っていないらしく、夕刊と今朝の朝刊が郵便受けに挟まったままであった。
「北口が行方不明だそうだな」
 我々が出社するなり課長が声を掛けてきた。出先から海藤が人事部に連絡を入れたのだ。
「まあ、どうせ人事委員会では懲戒免職処分になるだろうから、奴がどこへ行こうが問題じゃないだろ。給料も今月分は差し止めたみたいだ。そんなに実害もないし賠償請求沙汰にもならんだろう。それより海藤、人事部に変なことを聞いたそうじゃないか」
「北口がいつ、どういった経緯で入社したのか、気になったものですから」
「まだ何か問題があるのか」
「判りません。北口は馬場部長の紹介で昨年の十一月に入社したそうです」
「ほお、馬場役員の紹介か。馬場さんも面目丸潰れだな」
 課長がそういい残して自分のデスクに戻る。その後ろ姿を見送りながら俺は海藤に囁く。
「お前、本当に馬場部長を疑っているのか。もし間違いだったら大変なことだぞ」
「間違っていなければ、もっと大変な事態になる」
 さらりと言うが、役員絡みの不正など有って欲しくない。それこそ社内に大激震が走る。
 事の意外な展開に、佐々木と中山が緊張した表情で俺たちの話しに聞き入っている。
「それより先程言ったように下半期以降のすべての資料を拾い出してくれ」
 社に戻る道すがら、海藤は俺にとんでもない推理を話して聞かせたのだ。
 北口は誰かの依頼で俺を嵌めた。入社歴の浅い北口にそんなことを依頼できる人物として浮かんだのが紹介者である馬場部長だった。そして昨日事件が露見した際、北口を即刻処分しようと言い出したのも部長だった。つまり馬場部長が北口を利用して何かを画策していたと海藤は考えたのだ。
そして北口が入社したのが昨年十一月。この期間に俺が携わった案件に何か問題が有ると海藤が言うのだった。
 それで昨年十月からの全データを調べようとの結論にいたり、俺はパソコンを立ち上げた。
俺はカタのついた案件のことは綺麗さっぱり頭から消え去るので、万一を考えて一年間はデータを纏めてパソコンに保管している。
「あれ、おかしいな。北欧フェアの資料の更新日時が十二月十日になっている。俺はフェアが終了して以来一度もこのフォルダを開いてはいない。十一月じゃないと変だ」
「それだ。北口はお前のパソコンに侵入してそのフォルダを盗み読みしたんだ。何かなくなっている資料は無いのか」
「すべてのファイルを開いた形跡が有るが、無くなってはいない。すべて揃っている。おかしいな、一体何を探していたんだろう。それとも北欧フェアじゃなかったのか」
「待て、もう一度考えてみよう。北欧フェアのフォルダが何者かの手によって開かれている以上、ここまでの推理に間違いは無いはずだ。だが、無くなっている資料やデータは無いというんだな。確かか? 見落としは無いだろうな」
「大丈夫、それぞれのファイルはナンバリングしてある。無くなれば直ぐに判明する」
「そうか、ではやはりその中に目的のモノが無かったということだ。見つけていれば事は秘密裏に収まっていたはずだ。だが幾ら探しても見つからなかった。そこで仕方なく乱暴な手段だが、お前を嵌めて会社にいられなくする手段を講じた……そうは考えられないか」
「しかしデスクや書庫の書類は荒らされた形跡は無いですよ。パソコン内のデータしか探していないのはどういうことです? 書類として残っているかもしれないじゃないですか」中山が言う。
「だから、プリントアウトされたモノでは無いと、犯人が教えてくれているようなものです。またはプリントするほどのたいしたものじゃないか、そう考えるべきですよね、海藤さん」佐々木が自分の意見に同意を求めるように喋る。
「待てよ、佐々木。ということは重要な価値が無いってことだぜ。どうしてそんな価値のないものを奪おうとするんだ」俺が反論する。
「我々には価値が無くても犯人にとっては重要なのかも判らない」海藤が言う。
「しかし普通そんなものは直ぐに捨ててしまうだろ」
「お前はどうする? 一年間は全ての資料を保管しているじゃないか」
「そんなことはお前や中山しか知らないことだぜ」
「忘れたのか、専務にスギタコッタと揶揄されたときに、お前は全役員の前で大見得を切っただろうが。私は全ての資料を一年間パソコンに保管してますって――」
「あっ、そうか。馬場部長も確かに聞いていた」
「そうだろ。北欧フェアで馬場部長にとって何か都合の悪いことがあったんだ。北欧フェアのフォルダ以外で別に保管している資料は無いのか」海藤が脇から俺のパソコンを覗き込むと、画面を指差した。
「おい、それは何だ、エトセトラと名前の付いたフォルダ」
「ああ、雑多なものが放り込んである。直接仕事に関わりのないものばかりだ」
 そう答えて念のためフォルダーをクリックする。書き損じの報告書や、没になった企画書などが入っている。取るに足らない同僚とのメールのやりとりも残っていた。
「お前、そんなものまで残しているのか? そんなんじゃメモリが幾つ有っても足りないぞ。下らないメールは削除しちゃえよ」
 海藤が呆れた様子で俺に言う。
 その時、俺はある事を思い出した。そうだ、メールだ。確か一度だけ馬場部長からのメールで間違った資料が添付送信されてきたことがあった。目でファイルを追う。有ったこれだ。インポ野郎ファイル。
「何なんだ、そのタイトル名は」
「役に立たないファイルだからインポ野郎ファイルさ」
 海藤が呆れたように首を左右に振る。中山がオーバーにずっこける。お前はリアクション芸人か! 思わず突っ込みを入れたくなるが、海藤と佐々木は完全に無視しているので言葉が引っ込んでしまった。
「君の豊かな発想には恐れ入るよ。これじゃ北口が探し出せなかったのも無理は無い。まあ、そのお陰で無事だったわけだが……」
 早速、ファイルを開く。それは北欧フェアに出品する家具の一覧表だった。
「どうしてこれが役に立たなかったんですかね」中山が首を捻る。
「内容がミスっているとの事だった。改めて馬場部長から再送された修正版を使用した。これは見ずに直ぐに破棄してくれと部長が言っていた」
俺が説明する傍で、海藤は暫くその画面を見詰めていた。
「これのどこがミスしていると部長は仰ったんだ」
 彼にも判らないようだ。海藤にもお手上げと知り、何故だか嬉しくなる。
「いや、はっきりとは言わなかった。俺も直ぐに修正版が送られてきたので、気にも留めずにこのフォルダに放り込んだ。それ以来この表は開けていない」
「おい、佐々木。経理に行ってこれらの納品書の原価と突き合わせてくれ。中山は例のアダルトDVD仲間に連絡が取れないか」
「シッ、声が大きいです。勘弁してくださいよ、海藤さん。大西の事ですね、奴なら今帰国中で自部署にいるはずですよ」
「商品部で会うのはまずい。こっちへ来られるか聞いてみてくれないか」
「合点承知」中山は親指を立てると直ぐに内線電話を掴んだ。

 数分後、大西がやってきたので、俺たちは部の商談室に席を移した。
大西は身長百八十センチを優に越す体格のいい男性だった。
「ヨッ」と中山に挨拶して笑う。日に焼けた顔に白い歯がこぼれる、中々の好青年だった。
「中山から聞きましたけど、北欧フェアについて何かお尋ねが有るとか」
「あの催事のバイイングは誰が担当したんだい」海藤が尋ねる。
「それはアイテムによって違います」
「家具は誰が発注した」
「家具は俺が担当なんですが、あのときに限っては一部アンティーク物については部長が仕入れられました。アンティーク物に関しては、我々にそのルートが無くて、確か代理店をかまして部長が商談から何からすべて仕切られたんです。凄い価値が有るヴィンテージ物中心に仕入れたんですが……」
「ん? どうしたんだい」
「大西、大丈夫だ。海藤さんは信頼できる人だ。遠慮しないで喋れよ」中山が口添えする。
 大西は中山の顔を見て確認するように頷いた。
「それが、ここだけの話ですけど、家具は大失敗でした。というか、我々は大成功だと思っていました。マリメッコの雑貨やらムーミンのキャラクターグッズ、アラビアやイッタラ、グスタフスベリのテーブルウェア、それにヤコブセンを中心としたインテリア家具類、ABBAやビョーク、Ace of BaseのコンピレーションCD等も大評判で完売しましたし、アンティーク家具もほぼ完売したと思っていたんです。それが、我々が完売したと思っていたのはほんの一部で、ストックがまだ残っていたらしいのです。結局、利益はすべて部長の仕入れた家具のお陰で吹っ飛んでしまいました。そして北欧フェア自体が失敗だと判断されてしまったんです。今は北欧ブームで、本来なら大成功のはずだったんですが、家具は部長直々の買い付けですから誰も文句は言えなくて。そのうち有耶無耶ですから、部下たちはやってられませんよ」
「ほう、そうだったのか。だが社長や専務には報告しているだろう」
「勿論、商品部のトップとして、失敗したことのお叱りは頂戴したと思いますが、自分が仕入れたことは隠していたみたいです」
 そこへ経理部で調べを終えた佐々木が戻ってきた。
「どうもおかしいです。杉田さんのパソコンに残っていた資料とつき合わせてみたんですが、軒並み原価が一桁違います。納品数も八十五点が百点に増えて納品されています」
「大西、うちの部の新入りの佐々木だ。佐々木、彼が商品部国際調達二課の大西だ」
中山が両者を引き合わせる。
「ああ、例のDVD騒動の――」佐々木がにんまりとする。
「エッ」大西が中山を睨むが当の本人は知らん顔をしている。
「いや、何でも有りません。佐々木です、宜しくお願いします」慌てて佐々木が言い繕う。
「ちょっとその資料を見せて貰えますか」 
大西が資料に手を伸ばす。一目見るなり彼は声を上げた。
「アンティークやヴィンテージの家具をこんなに仕入れていたのか。しかし僕が会場で現物を見た限りではせいぜい十数点でした。だから家具もほぼ完売したと考えていたんです」
「杉田、チラシに掲載された商品の数は幾つだった」
「チラシ掲載商品、チラシ、チラシと……」
俺はパソコンの資料を探す。「有った、資料によれば十五点だ」
「後から増えた十五点がそれだ。チラシに掲載する商品だけ正規に仕入れた可能性が高いな」海藤が唸る。
佐々木が訝りながら疑問を口にする。
「でも価格操作なんて、そんなのばればれでしょ。商品管理部が納品時に検品しているでしょ」
「彼らは値札と数量が合っていれば受け入れる。それにアンティーク家具を見て即座に十万円か百万円か見分けがつくかい?」
「うーん。百万円と言われれば、そんなもんかと納得しちゃいますね。アッ、でも残りは最低でも八十五点有るはずでしょ。それらは何処に消えちゃったんでしょう」
「あれは全て買い取りだから、本当に仕入れを行ったのであれば、今頃は倉庫に不振商品としてデッドストックされているはずです」大西が答える。
「恐らく、それはすべてアンティークであってもヴィンテージ物じゃない。そんな価値の無い贋物だ。そしてそれらの価格表が杉田に間違って送られてきた。今も言ったように、アンティーク商品の金銭的な価値なんて我々には判らない。数さえ合わせておけばそう簡単にはばれないと考えていたんだろう。だが、杉田がすべての資料を保管していると知った部長は慌てた。このままでは九月の上半期決算でばれてしまう」
「そうか、だから杉田さんのパソコンを細工し、杉田さん自身も会社から追いやってしまおうと考えた。もう月末まで残された日数が無いですからね、多少強引な方法を採らざるを得なかった。そこで元SEだった北口に細工をさせたんですね。実際はオゾングループに金で買収された訳じゃなかったんだ。多分、オゾンには北口が勝手に持ちかけた話だったんですね」
佐々木が勢い込んで話す。
「恐らくそんな筋書きだ。そして八十五点分の差額約一億円は――」
 海藤の後を受けて佐々木が続ける。
「部長が着服したと……」
 全員が顔を見合わせる。その場を重苦しい空気が包み込む。
「僕はこれから倉庫に残った商品を確認してきます」大西が立ち上がる。
「大西君、事は重大だが他言は無用に願いたい」
「判っています。僕だって部長を疑いたくない。この目で確かめて見るまでは、信じられない話ですから」
「俺も一緒に行くよ」中山が立ち上がり大西の肩を励ますようにポンと叩いた。
 二人が部屋から出て行くのを見送りながら俺は海藤に話しかけた。
「さて、役員の不正の事実を図らずも知っちまった訳だが、これからどうするよ。恐れながらと訴える訳にもいかんだろう。状況証拠ばかりで本人だって素直に認めるとは思えない」
 俺の問いかけに答えず海藤はじっと考え込んでいる。
「馬場部長自らが認めざるを得ないような状況に追い込むしかないと思います」
 佐々木が俺に答えながら海藤の表情を伺う。
「よし、その手でいこう。課長に許可を貰ってくる」
暫し思案した後に海藤が腰を上げた。
 おいおい、説明もせず勝手に動くなよ。
さっさと商談室を出て行く海藤を俺と佐々木は慌てて追いかけた。
「課長、決算も近いですから、大棚攫えの意味を込めてデッドストック処分セールを企画したいのですが――」
海藤が課長に話しかけている。
「おお、いいタイミングだな。しかし目玉になるようなアイテムは有るのか」
「ええ、北欧フェアで残ったアンティーク家具です。価格が高くて売れ残ったようですが五十パーセントから七十パーセントオフならお客様も喜んで飛びつくでしょう。あのまま寝かせて置くより少しでも換金したほうが会社のためにもなります。幸い今期は大幅に利益も出るようですし、特損に計上しても影響はないでしょう」
 また海藤が突拍子も無い事を言い出す。自分で価値の無い贋物だと言ったばかりではないか。そんな商品を出品出来るわけがない。
 課長は直ぐに席を立つと、販促部長に相談に行ってしまった。
 そのとき、晴海の倉庫に向かった中山から電話が入った。
――やはりここに残されている商品はヴィンテージ家具じゃなくて、そこいらに出回っているアンティーク家具だそうです。バイヤーの大西が言うのですから間違いありません――
 俺はその結果を海藤に伝えた。「ああ、そう」と海藤は気にも留めない。
「おい、どうするつもりだ。まさか贋物でセールは実施出来ないぞ。もうお前の考えにはついて行けない」
「お前が慌てるくらいだ。馬場部長はこの企画を知って、もっと慌てるんじゃないか?」
「罠に嵌めるんですね。本気で企画するんじゃ無くて、部長の反応を見る。さすがカイトウランマの海藤さん」
佐々木は賞賛しているつもりなのだが、本人は嫌な顔をしている。
「杉田、お前を汚い罠に嵌めようとしたんだから、目には目をだ。そのためには強力な助っ人が必要だ」
 そう言って、海藤は受話器を取り上げ、どこかに内線をするのだった。

 その週の経営会議は大揉めに揉めたらしい。海藤の企画書が議題に上がり検討された。
 大勢が可決とする中で商品部長の馬場が一人で猛反対したと聞く。
「元はと言えば商品部の失敗だ。それを特別損失に計上してでも処分してやるんだ。有難いと感謝こそすれ、商品部のトップである君が反対する理由が何処に有るんだ。それともこのまま決算を迎えるか? 今期は会計事務所の先生が連れてくるプロの骨董商立会いの下で棚卸を実施する予定だが、それでも良いんだな」 
専務が馬場部長を睨みつける。その迫力たるや鬼気迫るものが有って、全員が背筋を凍らせるほどであったらしい。
とうとう馬場部長は代理店と結託して不正を働いた事実を吐露したという。
 
 数日後、俺と海藤は専務に食事を誘われた。
赤坂の料亭に連れてこられた俺は、緊張して料理をゆっくり味わう余裕など無かった。
「北口の一件では君たちには迷惑を掛けた。その上、隠された真相まで暴きだしてくれた。お陰で商品部の体質を抜本的に見直すことが出来た」
「代理店には損害賠償請求を起こすのですか」
「いや、あちらさんのトップもご存知じゃなかった。営業主任が勝手にやったことで、向こうの帳簿には安い原価で計上されていた。但し、企業として信用問題だからな。残りの品物を高い値段で買い戻してくれるそうだ。幸い営業主任は全額使い込んでおらず、七割がた回収出来たそうだ。君たちには本当に感謝する」
「いえ、社員として当然の行動です。それより商品部長にはどなたが就任されるのですか」
「いや、それはまだ言えん。だが人材不足の我社だから玉突き人事で空白になる部署が出ることは否めん。そこで杉田、君が販促二課の課長代理をやれ」
「え、どうして。俺なんかより海藤の方が適任です」
「海藤君には監査室に行ってもらう。社長直轄の部署だ。今回の事件では社長も憂慮されてなあ。会社の体制に不備があるから起きた事件だと考えられている。今回のような役員の不正だと君たちだけではどうしようも出来なかっただろう。海藤君が俺に思い切って打ち明けてくれたから良かったものの――」
「エッ、じゃあ助っ人というのは……」
「そういうことだ、だが俺もいつまでも頑張ってはおれん。これから二代目を盛り立てていくのは君たち若い世代だ。どうだ、受けてくれるか?」
「はい、喜んで。課長として粉骨砕身、頑張らせて頂きます」
「バカモン、まだ課長代理だ。代理を取り除きたければ昇格試験に受かって等級を上げることだな」
「はい、承知しました。しかし専務、もうスギタコッタは勘弁して下さい」
「そう言われたくなければ自分で気をつけることだ。しかし今回の事件は君のその性格のお陰で資料が残してあった。何が幸いするか判らんものだ」
「正に怪我の功名って奴です」
「バカモン、調子に乗るんじゃない」
「やれやれ、結局俺は出世しても専務からバカモンと怒鳴られ続けるのだろうな」
 小さく呟いたつもりだったが専務が耳ざとく聞きつける。
「何だ、今何か言ったか。どうやら未だ怒鳴られ足りないようだな」そう言う専務の目は笑っていた。
「いえいえ、滅相も無い」
慌てて誤魔化す俺の様子が可笑しいのか、専務と海藤が大笑いするのであった。
















しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ある辺境伯の後悔

だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。 父親似だが目元が妻によく似た長女と 目元は自分譲りだが母親似の長男。 愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。 愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。

包帯妻の素顔は。

サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

処理中です...