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第12話
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御影多緒と森下美卯が中学2年生になってすぐの大会。
多緒は2年生で唯一のスタメンに選ばれた。このときはまだ「見かけ倒し」と呼ばれる前で、高さと上手さ、そして強さでもゴール下を支配する力を持っていた。
この日の相手チームのセンターは、3年生の後藤田真奈美。身長173cmで横幅もあり、中学生女子選手としては恵まれた体格。多緒もまだ180cmに満たなかったので、多緒にとっては初めてとなる、互角といえる身長の相手とのマッチアップだった。
相手の後藤田にとっても、自分より大きい相手は初めてで、「負けられんな」と気合いが入る。
2人は試合序盤からインサイドでバチバチにやり合った。
まず後藤田は、ローポストでゴールに背を向けてボールを持つ。そこからパワーでディフェンスの多緒を押し込もうとする。多緒は相手の背中を押さえて堪える。細身の多緒に比べて後藤田のほうが重量とパワーがあるようだ。しかし多緒もその身長に見合う体重と筋力がある。簡単には押し込まれない。「こいつ、強い」。後藤田は苦労しながらも、なんとか多緒を押し込んで距離を作ると、すかさずターンしてジャンプシュート。このプレイは後藤田の十八番だ。これまで何人もの相手センターを高さとパワーでねじ伏せてきた。
しかし多緒も瞬時に反応し、長い脚で一歩踏み出してジャンプ。懸命に腕を伸ばしてなんとか指先がボールに触れ、シュートを外すことができた。
後藤田は驚いた。このプレイでボールに触られたのは初めてかもしれない。多緒の高さ、腕の長さ、ジャンプ力ももちろんあるが、押し込みに抵抗して十分な距離を作らせなかったこと、そしてその距離を大きな一歩でぐっと縮めたことで可能なブロックだ。「やっぱ今まで相手とは違うぞ」。後藤田は悔しさを味わいながらも、「ねじ伏せてやる」と闘志を燃やし、同時にワクワクしている自分に気がついた。初めて感じる好敵手に出会えた喜び。芝居がかった言い方をすれば、「楽しめそうな相手ね」といったところか。
一方の多緒も驚いていた。これほどのリリースポイントの高さに対するのは初めてだ。かろうじてボールに触ることができたが、ちょっとでも反応が遅れたら決められそうだ。しかし、多緒もまた喜びの感情があることに気づいた。「この人相手に自分がどこまでやれるか、思い切りやり合いたい」。
次は多緒のオフェンス。ペイントから少し距離をとり、ボールを受けながらゴールを前に見る。多緒は力で押すタイプではない。2度フェイクを入れて、後藤田がわずかに重心を前にした瞬間、左から抜きにかかる。後藤田は必死についてくる。多緒が身体を当てる。普通ならこれで相手が下り距離を作れるはずだ。が、後藤田のフィジカルの強さに多緒が弾き返される。
「くっ!」
多緒は体勢を崩しながらなんとかレイアップ気味のシュートを放つ。外れた。
ファーストオフェンスはどちらも相手のディフェンスに阻まれた形だ。
「すごいマッチアップだな。」
両チームの選手やコーチ、オフィシャルや審判さえも、この2人の見応えある戦いに試合を忘れそうになる。
その後も2人はほぼ互角に攻防を繰り返した。
試合はややロースコア。それぞれ、多緒と後藤田というインサイドの得点源がいつもより抑えられている。
しかし、後藤田は徐々に多緒の高さに対応し始めていた。ステップバックからフェードアウェイ気味に飛び、シュートも高めに放つ。こうなっては多緒でもブロックはできない。いつもと違う距離感と軌道で最初は入らなかったシュートも、徐々に確率が上がってきた。
多緒は感心する。「この人、すごい。試合中にアジャストしている」。しかしそんなことを言っている場合ではない。いい位置でボールを持たれないように押し出そうとするが、パワーでは有利な後藤田は簡単には押し出されない。2人は激しくポジションを争い、一進一退の僅差で前半を終えた。
ハーフタイム、ヘッドコーチが多緒に指示を出す。
「パワープレイでは向こうに分がある。オフェンスはもっと外でプレイして、相手を外に引きずり出せ。ガードやフォワードが空いたスペースに飛び込むようにしろ。ディフェンスではポジション争いよりも、ボールを持たせないようにしっかりディナイ。いいな。」
これが功を奏した。多緒の長い腕でのディナイで、後藤田がボールを持つ回数は減っていく。オフェンスでも多緒が外に出ることで、後藤田がインサイドでヘルプディフェンスに行けなくなっていた。多緒のチームは第3クォーターにジリジリとリードを広げ、8点差で最終第4クォーターを迎えた。あと8分(中学では各クォーターは8分)。点差があるとは言え、まだまだどちらが勝つかわからない状態だ。
いや、点差や勝敗も重要だが、多緒と後藤田、センター同士の意地をかけた戦いは、それを超えたところで行われているようでもあった。ほぼ出ずっぱりの2人は激しい接触に体力を削られながら、死闘を繰り広げていた。
多緒がディナイでパスをカットした。ルーズボールは多緒のチームの森下美卯が拾った。そのまま走る。速攻だ。多緒も走る。が、後藤田のほうが先に行っている。このまま美卯のレイアップ行けるか?いや、後藤田がなんとか美卯の横につく。美卯はゴールに視線を定めたまま、左後ろにいた多緒にノールックパス。多緒はボールを受けるとそのまま一直線にゴールに向かって行く。後藤田が多緒を防ごうとする。スピンムーブでかわすか?いや、ここは突進あるのみ。多緒は思い切りジャンプ。後藤田にのしかかるようになり態勢を崩しながら、顔と腕はまっすぐリングに向け、ボールを放った。シュートは決まり、ファールももらってフリースローを得た。
2人はもつれながら、後藤田が多緒の下敷きになる格好で倒れた。多緒はすぐに起き上がり、後藤田を起こそうと手を差しのべる。
が、後藤田はその手を払いのけた。そして苦々しい顔でこう言った。
「汚ねえ手で触んな!」
その光景を近くで見ていた美卯は、まぁちょっとしたトラッシュトーク(今どき珍しいが)、くらいにしか思わなかった。相手にしてみれば、なかなか自分のプレイができないまま点差を広げられているこの状況では、かなりフラストレーションを溜めているはず。それがちょっと態度に出てしまっただけだろう。
多緒はけっしてケンカを買うような性格ではないが、巻き添えでテクニカルファールを受けるかもしれない。美卯は茫然と立ちつくす多緒を後藤田から離し、フリースローラインに向かわせた。
美卯はそのときは気づかなかったが、多緒の様子はヘンだった。ボーっとして、自分の手を見ていた。「汚い手?なんでそんなふうに言われちゃうの?あたし『汚い』って思われてるの?肌が黒いから?」。
「汚い手」は単なる言葉のアヤだろう。深い意味はないはずだと頭ではわかる。でも心の奥底でくすぶる、自分の黒い肌に対するネガティブな反応を打ち消すことはできなかった。いつだって肌の色や髪質を揶揄され、差別や偏見に晒され続けてきた。心ない言葉や、あきらかに悪意のある言葉で1人枕を濡らした夜は数しれない。
それでもバスケが支えてくれた。自分の体格と身体能力を活かすことができ、「この身体でよかった」と、他の人とは違う自分を肯定することができた。なによりコートでは敵も味方も(見た目や出自に関係なく)リスペクトしあう気持ちを持ってくれる。
それが今、あろうことかコート上で思わぬ言葉を浴びせられたのだ。「コートこそ自分が自分でいられる場所」と思っていた多緒にとって、そのショックはどれほど大きかっただろう。忘れたい過去の記憶の数々が、そのとき頬を濡らした液体の味まで鮮明に、容赦なく多緒に襲いかかる。それを振り払おうと努力することすら忘れていた。
審判が、
「ワンスロー。」
と言いながら、フリースローラインに立つ多緒にボールを投げてきた。多緒はボーっとしたまま、「あ、ボール、くる。取らなきゃ。あれ?どうやって取るんだっけ」。身体が自分の物じゃないみたいだ。どうやれば身体の各部が動いてくれるのかわからなくなっている。「あれ?おかしい」。ぎこちない動きでファンブルしそうになりながらボールをキャッチする。ずっと触ってきたバスケットボール。手に馴染んでいるはずなのに、違和感しか感じない。初めて触れる未知の物体みたいだ。
それでもなんとか、いつものとおりラインと足の位置を確認しながら3回ドリブルをついてから構える。ゴールを見ると、リングははるかに遠く、高く、小さく感じる。シュートを放つ。足、脚、腰、肩、肘、手首、指先、1つずつ確認しないと動かないみたいだ。すべてがバラバラでまったく連動しない。カチコチの身体で打ったシュートは、当然外れた。エアボール。それも打った瞬間に傍目にも「ダメだ」とわかるほどの外れっぷり。
「オッケーオッケー。ディフェンス、守ろう。」
美卯はそう言って多緒の腰の辺りをポンっと叩いた。
多緒のディフェンス。インサイドで後藤田がポジションを取ろうと押してくる。多緒は押し返そうとする。が、まったく力が入らない。「あれっ?おかしい」。押されるがままにポジションを取られる。ウイングの選手が後藤田にボールを入れようとしている。「ディナイしなきゃ」。多緒は腕を伸ばそうとする。しかし、伸びない。腕が硬直してしまったかのようだ。後藤田にボールが入り、すぐさまターンしてシュートを打つ。「ブロック」。これは飛べた。しかしタイミングが遅いし高さも足りない。簡単に得点を許してしまった。
「おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。おかしい」。オフェンスに向かいながら、多緒の頭は混乱し、軽いパニック状態だ。
オフェンスでも多緒はポジションを取れない。それどころか、後藤田に対峙すると身体がすくんでオロオロするばかり。「おかしい。おかしい。おかしい」。あたしの身体、どうなっちゃったんだろう?
多緒の動きが悪いのを見て、ヘッドコーチは交代を命じた。ベンチに下がった多緒に聞く。
「どうした?どこか痛むのか?」
コーチはケガを心配していた。
「…いえ、どこも傷んでいません。でも、おかしいんです。なんか、身体がうまく動かせないんです。」
多緒も自分の身に何が起きているのかさっぱりわからない。ヘッドコーチは腕組みをして、
「今日はもう出ないほうがいいかもな。」
と言った。多緒の動きがよくないからではない。選手=生徒の安全が最優先だ。さっきの接触と転倒からおかしくなったのは明らかだ。当たり方も転び方もそれほどひどいようには見えなかったが、軽視はできない。まだ身体のできていない中学生。疲労も極限の状態では、ちょっとしたことでも大きなケガになる可能性はある。負けられないトーナメント戦であっても、まだ2年生で先のある多緒に無理をさせるわけにはいかない。
その後、多緒がコートに立つことはなく、チームは逆転負けとなった。
試合後、ヘッドコーチからの厳命で多緒は病院に行き、脳波まで検査されたが異常は見つからなかった。
数日練習を休んでから復帰すると、あの日のようなギクシャクした感じはなくなっていた。シュートなどはそれまでどおり流れるように打てるし決められる。しかし、完全に元に戻ったわけではなかった。相手を強く押そうとすると力が入らない。しつこいディフェンスをしようとしても手が出ない。他のプレイや練習ではパワフルだし、腕もまったく自由に動かせる。「きっと一時的な不調だ」。治すにはとにかく練習しかないと思い、それまで以上にバスケに集中する。しかし改善の兆しはない。
もう1度病院に行き、「心因性のものかも」と心療内科を紹介された。そこで受けた診断は、フォーカルジストニア。
いわゆるイップスだった。
多緒は2年生で唯一のスタメンに選ばれた。このときはまだ「見かけ倒し」と呼ばれる前で、高さと上手さ、そして強さでもゴール下を支配する力を持っていた。
この日の相手チームのセンターは、3年生の後藤田真奈美。身長173cmで横幅もあり、中学生女子選手としては恵まれた体格。多緒もまだ180cmに満たなかったので、多緒にとっては初めてとなる、互角といえる身長の相手とのマッチアップだった。
相手の後藤田にとっても、自分より大きい相手は初めてで、「負けられんな」と気合いが入る。
2人は試合序盤からインサイドでバチバチにやり合った。
まず後藤田は、ローポストでゴールに背を向けてボールを持つ。そこからパワーでディフェンスの多緒を押し込もうとする。多緒は相手の背中を押さえて堪える。細身の多緒に比べて後藤田のほうが重量とパワーがあるようだ。しかし多緒もその身長に見合う体重と筋力がある。簡単には押し込まれない。「こいつ、強い」。後藤田は苦労しながらも、なんとか多緒を押し込んで距離を作ると、すかさずターンしてジャンプシュート。このプレイは後藤田の十八番だ。これまで何人もの相手センターを高さとパワーでねじ伏せてきた。
しかし多緒も瞬時に反応し、長い脚で一歩踏み出してジャンプ。懸命に腕を伸ばしてなんとか指先がボールに触れ、シュートを外すことができた。
後藤田は驚いた。このプレイでボールに触られたのは初めてかもしれない。多緒の高さ、腕の長さ、ジャンプ力ももちろんあるが、押し込みに抵抗して十分な距離を作らせなかったこと、そしてその距離を大きな一歩でぐっと縮めたことで可能なブロックだ。「やっぱ今まで相手とは違うぞ」。後藤田は悔しさを味わいながらも、「ねじ伏せてやる」と闘志を燃やし、同時にワクワクしている自分に気がついた。初めて感じる好敵手に出会えた喜び。芝居がかった言い方をすれば、「楽しめそうな相手ね」といったところか。
一方の多緒も驚いていた。これほどのリリースポイントの高さに対するのは初めてだ。かろうじてボールに触ることができたが、ちょっとでも反応が遅れたら決められそうだ。しかし、多緒もまた喜びの感情があることに気づいた。「この人相手に自分がどこまでやれるか、思い切りやり合いたい」。
次は多緒のオフェンス。ペイントから少し距離をとり、ボールを受けながらゴールを前に見る。多緒は力で押すタイプではない。2度フェイクを入れて、後藤田がわずかに重心を前にした瞬間、左から抜きにかかる。後藤田は必死についてくる。多緒が身体を当てる。普通ならこれで相手が下り距離を作れるはずだ。が、後藤田のフィジカルの強さに多緒が弾き返される。
「くっ!」
多緒は体勢を崩しながらなんとかレイアップ気味のシュートを放つ。外れた。
ファーストオフェンスはどちらも相手のディフェンスに阻まれた形だ。
「すごいマッチアップだな。」
両チームの選手やコーチ、オフィシャルや審判さえも、この2人の見応えある戦いに試合を忘れそうになる。
その後も2人はほぼ互角に攻防を繰り返した。
試合はややロースコア。それぞれ、多緒と後藤田というインサイドの得点源がいつもより抑えられている。
しかし、後藤田は徐々に多緒の高さに対応し始めていた。ステップバックからフェードアウェイ気味に飛び、シュートも高めに放つ。こうなっては多緒でもブロックはできない。いつもと違う距離感と軌道で最初は入らなかったシュートも、徐々に確率が上がってきた。
多緒は感心する。「この人、すごい。試合中にアジャストしている」。しかしそんなことを言っている場合ではない。いい位置でボールを持たれないように押し出そうとするが、パワーでは有利な後藤田は簡単には押し出されない。2人は激しくポジションを争い、一進一退の僅差で前半を終えた。
ハーフタイム、ヘッドコーチが多緒に指示を出す。
「パワープレイでは向こうに分がある。オフェンスはもっと外でプレイして、相手を外に引きずり出せ。ガードやフォワードが空いたスペースに飛び込むようにしろ。ディフェンスではポジション争いよりも、ボールを持たせないようにしっかりディナイ。いいな。」
これが功を奏した。多緒の長い腕でのディナイで、後藤田がボールを持つ回数は減っていく。オフェンスでも多緒が外に出ることで、後藤田がインサイドでヘルプディフェンスに行けなくなっていた。多緒のチームは第3クォーターにジリジリとリードを広げ、8点差で最終第4クォーターを迎えた。あと8分(中学では各クォーターは8分)。点差があるとは言え、まだまだどちらが勝つかわからない状態だ。
いや、点差や勝敗も重要だが、多緒と後藤田、センター同士の意地をかけた戦いは、それを超えたところで行われているようでもあった。ほぼ出ずっぱりの2人は激しい接触に体力を削られながら、死闘を繰り広げていた。
多緒がディナイでパスをカットした。ルーズボールは多緒のチームの森下美卯が拾った。そのまま走る。速攻だ。多緒も走る。が、後藤田のほうが先に行っている。このまま美卯のレイアップ行けるか?いや、後藤田がなんとか美卯の横につく。美卯はゴールに視線を定めたまま、左後ろにいた多緒にノールックパス。多緒はボールを受けるとそのまま一直線にゴールに向かって行く。後藤田が多緒を防ごうとする。スピンムーブでかわすか?いや、ここは突進あるのみ。多緒は思い切りジャンプ。後藤田にのしかかるようになり態勢を崩しながら、顔と腕はまっすぐリングに向け、ボールを放った。シュートは決まり、ファールももらってフリースローを得た。
2人はもつれながら、後藤田が多緒の下敷きになる格好で倒れた。多緒はすぐに起き上がり、後藤田を起こそうと手を差しのべる。
が、後藤田はその手を払いのけた。そして苦々しい顔でこう言った。
「汚ねえ手で触んな!」
その光景を近くで見ていた美卯は、まぁちょっとしたトラッシュトーク(今どき珍しいが)、くらいにしか思わなかった。相手にしてみれば、なかなか自分のプレイができないまま点差を広げられているこの状況では、かなりフラストレーションを溜めているはず。それがちょっと態度に出てしまっただけだろう。
多緒はけっしてケンカを買うような性格ではないが、巻き添えでテクニカルファールを受けるかもしれない。美卯は茫然と立ちつくす多緒を後藤田から離し、フリースローラインに向かわせた。
美卯はそのときは気づかなかったが、多緒の様子はヘンだった。ボーっとして、自分の手を見ていた。「汚い手?なんでそんなふうに言われちゃうの?あたし『汚い』って思われてるの?肌が黒いから?」。
「汚い手」は単なる言葉のアヤだろう。深い意味はないはずだと頭ではわかる。でも心の奥底でくすぶる、自分の黒い肌に対するネガティブな反応を打ち消すことはできなかった。いつだって肌の色や髪質を揶揄され、差別や偏見に晒され続けてきた。心ない言葉や、あきらかに悪意のある言葉で1人枕を濡らした夜は数しれない。
それでもバスケが支えてくれた。自分の体格と身体能力を活かすことができ、「この身体でよかった」と、他の人とは違う自分を肯定することができた。なによりコートでは敵も味方も(見た目や出自に関係なく)リスペクトしあう気持ちを持ってくれる。
それが今、あろうことかコート上で思わぬ言葉を浴びせられたのだ。「コートこそ自分が自分でいられる場所」と思っていた多緒にとって、そのショックはどれほど大きかっただろう。忘れたい過去の記憶の数々が、そのとき頬を濡らした液体の味まで鮮明に、容赦なく多緒に襲いかかる。それを振り払おうと努力することすら忘れていた。
審判が、
「ワンスロー。」
と言いながら、フリースローラインに立つ多緒にボールを投げてきた。多緒はボーっとしたまま、「あ、ボール、くる。取らなきゃ。あれ?どうやって取るんだっけ」。身体が自分の物じゃないみたいだ。どうやれば身体の各部が動いてくれるのかわからなくなっている。「あれ?おかしい」。ぎこちない動きでファンブルしそうになりながらボールをキャッチする。ずっと触ってきたバスケットボール。手に馴染んでいるはずなのに、違和感しか感じない。初めて触れる未知の物体みたいだ。
それでもなんとか、いつものとおりラインと足の位置を確認しながら3回ドリブルをついてから構える。ゴールを見ると、リングははるかに遠く、高く、小さく感じる。シュートを放つ。足、脚、腰、肩、肘、手首、指先、1つずつ確認しないと動かないみたいだ。すべてがバラバラでまったく連動しない。カチコチの身体で打ったシュートは、当然外れた。エアボール。それも打った瞬間に傍目にも「ダメだ」とわかるほどの外れっぷり。
「オッケーオッケー。ディフェンス、守ろう。」
美卯はそう言って多緒の腰の辺りをポンっと叩いた。
多緒のディフェンス。インサイドで後藤田がポジションを取ろうと押してくる。多緒は押し返そうとする。が、まったく力が入らない。「あれっ?おかしい」。押されるがままにポジションを取られる。ウイングの選手が後藤田にボールを入れようとしている。「ディナイしなきゃ」。多緒は腕を伸ばそうとする。しかし、伸びない。腕が硬直してしまったかのようだ。後藤田にボールが入り、すぐさまターンしてシュートを打つ。「ブロック」。これは飛べた。しかしタイミングが遅いし高さも足りない。簡単に得点を許してしまった。
「おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。おかしい」。オフェンスに向かいながら、多緒の頭は混乱し、軽いパニック状態だ。
オフェンスでも多緒はポジションを取れない。それどころか、後藤田に対峙すると身体がすくんでオロオロするばかり。「おかしい。おかしい。おかしい」。あたしの身体、どうなっちゃったんだろう?
多緒の動きが悪いのを見て、ヘッドコーチは交代を命じた。ベンチに下がった多緒に聞く。
「どうした?どこか痛むのか?」
コーチはケガを心配していた。
「…いえ、どこも傷んでいません。でも、おかしいんです。なんか、身体がうまく動かせないんです。」
多緒も自分の身に何が起きているのかさっぱりわからない。ヘッドコーチは腕組みをして、
「今日はもう出ないほうがいいかもな。」
と言った。多緒の動きがよくないからではない。選手=生徒の安全が最優先だ。さっきの接触と転倒からおかしくなったのは明らかだ。当たり方も転び方もそれほどひどいようには見えなかったが、軽視はできない。まだ身体のできていない中学生。疲労も極限の状態では、ちょっとしたことでも大きなケガになる可能性はある。負けられないトーナメント戦であっても、まだ2年生で先のある多緒に無理をさせるわけにはいかない。
その後、多緒がコートに立つことはなく、チームは逆転負けとなった。
試合後、ヘッドコーチからの厳命で多緒は病院に行き、脳波まで検査されたが異常は見つからなかった。
数日練習を休んでから復帰すると、あの日のようなギクシャクした感じはなくなっていた。シュートなどはそれまでどおり流れるように打てるし決められる。しかし、完全に元に戻ったわけではなかった。相手を強く押そうとすると力が入らない。しつこいディフェンスをしようとしても手が出ない。他のプレイや練習ではパワフルだし、腕もまったく自由に動かせる。「きっと一時的な不調だ」。治すにはとにかく練習しかないと思い、それまで以上にバスケに集中する。しかし改善の兆しはない。
もう1度病院に行き、「心因性のものかも」と心療内科を紹介された。そこで受けた診断は、フォーカルジストニア。
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