コントレイルとちぎれ雲

葉月凛

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『警察から英司に連絡あったんだ?』
『ああ。あと、その……櫻井さん、からも』
『あ、櫻井さんから連絡あったの?』
『ああ。……てか、今ここにいる』
『えっ!』

 その日、英司が会社から出ると櫻井が待ち構えていたらしい。

『ええと……その……しつこくして、悪かった。もう電話もしない。……今まで、ありがとう』
『……うん。俺も』
『元気でな』
『うん。英司も』

 ほんとに好きだった、と言いかけて、やめた。そんなこと言わなくても英司は分かっている。

 英司との付き合いは、おそらく電話の向こうにいる櫻井に見守られながら、静かに終わったのだった。

 今日は、その櫻井が事務所に来る日だ。
 あの事件の日に行った病院の医師から2週間後にもう一度来るように言われており、共に行くことになっている。

「本城君、ちょっといい?」

 午後のレッスンが終わり、人がいなくなったところで美奈子に声をかけられた。

 ちなみに、美奈子には今回の事件のことは伝えていない。

 珍しく改まって窓際のテーブル席に着く美奈子を不思議に思いながら、向かいの席に腰を下ろした。

「絵里ちゃんね、このまま退職することになったのよ」

 木下絵里は櫻井音楽事務所の社員で、現在妊娠中の彼女はずっと休みを取っている。その絵里が不在中のアルバイト、ということで薫はここに来ていた。

「え、具合悪いんですか?」

 双子を妊娠中の彼女は一時入院していたが、確か最近退院して、今は自宅静養している筈だ。

「あ、それは大丈夫なんだけどね。元々はね、あの子の希望もあって、ぎりぎりまで働いて出産したらまた復帰してもらう予定だったんだけど……ほら、双子だったじゃない? やっぱり体調も落ち着かないし、生んでからも双子の世話ってなると、仕事と両立は難しいだろうって」
「そうなんですか」

 確かに、1人だと思ってた子供が2人となると、色々予定が狂いそうだ。子育てなど想像もつかない薫だが、双子の世話はかなり大変だろうことくらいは分かる。

「うん。それでね、本城君が良かったら、なんだけど。正社員、どうかしら」
「え」
「そんなにお給料は出せないんだけど。この2ヶ月、本城君に来てもらってすごく助かってるのよ、ありがとう。このまま来てもらえたら私としては嬉しいんだけど、どうかしら」
「え……えと」
「あ、返事は今じゃなくて大丈夫よ、ゆっくり考えて」
「あ……はい」

 それから美奈子は、正社員になった場合の待遇や保証について、ひと通り説明してくれた。

「話はそれだけよ」

 席を立った美奈子に続いて、薫も席を立つ。席に戻る美奈子に、慌てて声をかける。

「あ、あの……お話、ありがとうございます。考えます」

 誰かに自分を望まれるというのは、やはり嬉しい。前の会社を辞めた時も、周りの人に惜しんでもらえたことは、ありがたくて忘れられない。自分に向けられるそういった気持ちは、大切にしたいと思う。

「よろしくね」

 振り向いた美奈子が、にっこりと笑った。

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