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「兄上ーッ!!」

アサギがバンッ、と激しくドアを開け、それをそのままに駆け寄ってくる姿など初めて見る、とリツは泣き張らした目で苦笑する。

「ほ、本当なんですか!?赤ちゃん、いるんですか!?」

ママー、ママー、と開け放った玄関から子供達が入ってきたということは、アサギにしては珍しく子供達を置いて来てしまったということだ。
後ろから覗くカナトとソラがその慌てぶりに苦笑している。

「うん、そうみたい…」

「…っ、…っ!」

声を封じられていた頃のように声なく口をパクパクさせたアサギの瞳から涙が溢れ

「兄上…っ!兄上~!!」

おめでとう、と抱きつくアサギを抱き返しながら、リツは自分を恥じた。
アサギが子を宿したとき、彼は心を封じなければならないほど絶望のどん底にいたのだから喜んでくれるかと少し不安があったのだ。
けれど、全てを乗り越えた彼にとってそれはもう本当に辛い記憶ではない。

「僕が出来ることなら何でもしますから」

「そうしてくれると助かるよ」

応えたのはカナトである。
彼は仕事を休むわけにいかないから、いつでも様子を見に来てくれる相手がいるのは心強い。
通常の女性の妊娠とは違うのだから慎重にもなろうという物。万一子供に何かあればリツの心が壊れてしまう。

「あにうえ、赤ちゃんいるですか?」

不意に子供達が近寄ってリツを見上げた。
ユウが訊き、

「お腹にちっちゃいの!」

アオが歓声を上げる。

「このまぁるいのですか?」

ユウは言いながらじっと腹を見つめ、アオは首を傾げた。

「まだ喋らないね」

「でもぷかぷかしてます」

「…二人共見えるの?」

アサギの問いかけに二人は頷く。

「ちっちゃいまぁるいのいるよ」

「ぷかぷかで楽しそうです」

「そういや子供はわかるって言うよな」

ソラがその様子にどこか感慨深げに言い、そういえばアサギが生まれる前母に「お腹に男の子がいる」と告げた記憶があるリツはなるほどと頷いた。
ドラゴン型の魔獣故に人間の子以上に見えていてもおかしくはない。彼らの生態自体謎に包まれたままだが。







それから、半年。終焉回避から2年。
リツの腹の子はすくすく成長し、アサギの子供達は腹の子と会話が出来る、と言い張る。
もっとも、よく聞いてみれば子供達が言う事にキャッキャと笑うだけらしいが。
しかし彼らがそう言う度に、あぁ、ちゃんといる、とリツは安心するのだ。

だがそんな幸福と平穏に突如暗雲がさした。

「…師匠が?」

運動を兼ねて近所のアサギの家まで行き、2年以上前では考えられないのんびりとした他愛ない話をしていた所へやって来たのはケイとセンである。
2年前も既にそれなりに有名だった彼らは今では一流の傭兵と認められ人気が高い。
本日非番の、カナトと同じく警備兵に就いていたソラはかつての仲間が持ってきた情報に眉をひそめた。

アヤヒトとユキヤが行方不明なのだと言う。
加えて魔学都市ヘラクルス、鉱山都市ノームスが手を組み、ヒトハについて可も不可も表明してなかった傭兵都市ティルニソスに連合軍参加要請をかけてきたのだとか。
学園都市オーニソスは傍観の姿勢。

傭兵ばかりのティルニソスは大義では動かない。より金を積んだ者につく筈だ。

「アヤさん達はヒトハ受け入れを説得して回ってた。その成果は各都市ラーナに書面で送られてたんだが…」

彼らは受け入れを決めた3都市連盟の特使として動いていた。つまりは3都市の代表である。

「この間アクセロスに寄ったら数ヵ月前からパッタリと音信不通になったって言ってて」

そしてティルニソスに戻れば軍参加要請が入ったと言う。
これは彼らの身に何かあったな、と思わずにいられない。

「…しかも兵を纏めてるって…つまり戦争起こす気って事か?」

「ヒトハをどうにかしねぇと戦闘も辞さないっつー無言の圧力かける気なんだろ」

ヒトハの兄弟を子供達と一緒に隣室へ行かせておいて良かった。こんな話を聞いて気にせずに暮らせるほど、彼らの神経は太くない。しかし隠し続けるわけにはいかないだろう。
傭兵仲間が来た理由など、多くは思い付かない。

「…潜入するのか?」

「連盟の依頼だ。協力してくれないか?本当ならお前には言わないつもりだったんだが手が足りねぇ」

この敵味方がハッキリしない状態で他の傭兵と手を組むのは信頼に欠く。
相手は金で動く。敵に大金を積まれた傭兵は例え同じ傭兵仲間であろうと出し抜き命を奪うことさえ厭わない。

相手がどちら側についているか見極めるのに時間をかけるよりもかつての仲間の方が手っ取り早いのは確かだ。

そして今まで何も言わなかったラーナである父は、もっと早くにこの事実を掴んでいた筈。

「…ラーナ館に行く」

隣室を開けると、内容は分からないながら深刻な話をしていたのは伝わったらしく、ヒトハの兄弟は不安そうにソラを見る。
出掛けてくると告げたソラの酷くひきつった微笑みにアサギはリツと不安な顔を見合わせたのだった。








不安に揺らめく琥珀がソラを見る。
子供達を寝かしつけて、寝室に二人。いつもなら暖かく甘やかな空気が流れる部屋は、今どこかひんやりと冷たい。

「んな顔しなくても大丈夫だって!ちょっと行ってパパッと帰ってくるから」

ラーナ・シアに詰め寄り詳しい情報を聞き出したのは数時間前。もはや猶予はあまりないのだと憎々しげに言う父など初めて見る。
前回ウェンリスで行われた会合後から秘密裏に各地の情報を集めていたのはカッツ達、そしてアルマーだ。

娼館という開放的な空間で情報を落とす客は多い。他愛ない噂から時には本来重要機密である情報までペロリと話してしまえるのは、やはりどこかでそこが現実と切り離された空間だと思ってしまうからだろうか。

シアは事実を知れば動くだろう息子とカナトを巻き込むことを躊躇った。
今でこそ戦争が起きない限り大した危険もない警備兵に就いているものの、彼らは本来根っからの傭兵である。戦うことこそが本分なのだ。
それにより悲しむのはヒトハの兄弟。

しかし知られたからにはもう頼るしかない。アヤヒト達に育てられた彼はステュクスにまで噂が届くほどの傭兵に育ったのだから。
その噂を聞く度まだ生きていると安心していたのはすでに遠い昔のようだ。

やがてシアは重苦しい声でカナトとソラに出動を命じた。

「…ソラ」

何か言おうとして、ぐっと堪えたアサギはソラに抱きつく。

「本当は着いて行きたいです。…でも、僕が足手まといになるのはわかってますから…」

だから、と言いながら唇を寄せるアサギに柔らかな口付けを数回、ポロリと落ちた涙を指で掬って。

「だから、ちゃんと戻ってきて」

「うん、大丈夫。まだアサギに後ろの初めてあげてないしね~」

もう!と泣き笑いを浮かべるアサギを強く抱き締めた。

その頃、カナトもまた泣きじゃくるリツを抱き締めていた。
嫌だ、行かないで、と口にはしないけれど腕を掴んで離さない。

「リツ」

出発は深夜。あと少しで出なければならないのに、こんなに不安がって泣くリツを残して行く事に後ろ髪を引かれる。

「…リツ、ちゃんと戻るから」

嫌だ、と首を振る。
手を離してしまったら幸せな夢が覚めてしまうような気がした。

カナトがいるから見れる夢。カナトがいなければ壊れてしまう。

「リツ、ほらしっかりしろ。お前は俺が戻るまで腹の子守らなきゃいけないんだぞ」

言われてハッとした。
そうだ、この胎内にカナトと同じく大切な生命が宿っている。
自分が不安がれば子供にも伝わってしまう。

「今回は戦いに行く訳じゃないし、そんな心配すんな」

「…カナト…」

いつもみたいに頭を撫でられて、その拍子に溢れた涙を唇で拭われて。
それでもまだ行かないで、と言いそうになる唇を引き結ぶ。

「ヒトハがみんな安心して暮らせないと、お前との約束全部果たした事になんねえだろ」

自分達だけ助かる気はないけれど誰かに救われたいと願っていたあの頃、ヒトハ全てを救うつもりのカナトはリツにとって神様だった。
毎日毎日、時には皇帝の、時には見知らぬ貴族の腕の中からあの窓を見ていた。

今日は来るかな。

いつまで経っても開かない窓がリツの希望だった。

またあの頃に戻るのかと張り裂けそうな心が嫌だ、嫌だ、と悲鳴をあげる。
それでもリツはその手をゆっくりと離し膨らんだ腹を抱えるように抱き締めた。

(希望なら、ここにある)

既に胎動を感じるにまで至った、大切な生命。暗闇で待つばかりのあの頃とは違う。ここは光の中だ。

「この子は私が守るから…」

安心して行ってきて、とは苦しくて言えない。
それを理解しているカナトが優しく口付けて微笑んだ。

「俺だって生まれるの楽しみなんだぞ?顔見ないまま死ねるか」

腹に当てられたカナトの手の平の下で、宿った生命は元気に腹を蹴っていた。







今回の騒動を統括しているのは魔学都市ヘラクルス。
魔導師が多く住み、日々研鑽を重ねている都市だ。城壁に守られる他6都市と違い、魔法障壁が都市を囲み魔物の侵入を阻む。

都市の6箇所に設けられた細長い棒に魔力を込め障壁を造るその手法は、センティスで使われていた“核”の前衛となる技術に他ならない。
もしやそれでヒトハに目をつけたか、とカナト達は危惧する。そうであればセンティスの過ちをアティベンティスでも繰り返してしまう。

その筆頭であった王家の生き残りは既にその過ちを認め償いを始めていると言うのに。

魔法障壁に取り付けられた柱と扉だけの門扉は夜半である今は閉じられている。
秘密裏に事を進める為に行動は全て夜中だ。

リツは今頃寝ているだろうか、一人で泣いてはいないだろうか、と半月前に別れたきりの伴侶を思う。

「ここまで来たのはいいが、こっからどうするか、だな」

忍び込むのは難しくない。既に都市内に潜入しているカッツ達の仲間が門の見張りについている時間だ。

「ひとまず中を探るしかないんじゃねー?」

カナトの問いに望遠鏡で内部を窺っていたソラが答え、ケイ達も頷く。
アヤヒト達が捕まっているのならここの可能性が高い。特使を人質に、等よくある事だ。
だが、既に命を奪われているという可能性も捨てきれない。それを確認し、生存しているなら救出を、死亡しているのならそうなった経緯を探り奴等の目的を見極めるのが今回の任務である。

「門の周り、不審者なーし」

万一カッツ達の仲間だという相手が敵だった事を考え暫く様子を見てみたが、夜半だというのに門前を行き来する人々に不審な点はない。
最も、その通行人の殆んどが千鳥足の酔っぱらいだから今一信用には欠けるのだが。

「ここで考えてても仕方ないか。行くぞ」

事前に決めた合言葉に通用口は簡単に開き、中へと滑り込む。ラトゥル、と名乗った狼面の獣人から都市の見取り図を受け取り素早く夜の闇に溶け込んだ。

ラトゥルにはまだ任務がある。不審者を招き入れた等と嫌疑をかけられては困るのだ。

「この時間なら連れ込み宿のが早ぇな」

月の位置を見上げたケイが言って、

「ならそっち任せた」

カナトが答える。

「後で窓開けてくれ」

正面から堂々と客として行けばいい話だけれどこの4人で振り分けを行うならどう頑張ったって無理だ。今からベッドにもつれ込もうという雰囲気など醸し出せない。絶対無理。
そしてそれはソラも同意見である。

一瞬、ケイの表情にそれも面白そうだと浮かんだけれど遊んでいる場合ではない。
いつもの通り、彼はセンを連れ宿に入っていった。






ガタガタと立て付けの悪い窓から宿に潜り込み地図を広げる。
主だった建物や地下水路まで記されたそれはこの先重宝しそうだ。

「ラーナの屋敷はここだな」

微かなランプの灯りを頼りにカナトが指を差した場所をかつての弟子達は見つめる。
都市の北部は裕福層が住んでいるのか建物の面積が広い。
ラーナ邸はその最北、都市を見下ろせる高台の上にあるようだ。

「見る限り屋敷以外に建物はなさそうだね」

センの言う通り、屋敷の周りには建物らしき物は描かれていない。最も地図にないだけで建物がある可能性は否めないが。

「屋敷外に閉じ込めといてくれると助かるんだがなぁ」

カナトがぼやきながら何ヵ所かを指で辿るのを目で追う弟子達は何だか子猫みたいだな、なんて微かに思ったのは内緒だ。ケイ辺りが絶対激怒するから。

それにその指の先はそれぞれ屋敷を監視できる位置。実際には行ってみなければ分からないがその位置で隠れながらしばらくは様子見だ。その間緊急事態以外一切の連絡は取れないのだから互いの場所を把握しておかなければならない。

情報収集はラトゥルの役目。彼が集めた情報をカッツ達に伝え、カッツ達から連盟に伝わる。それをそのままカナト達にも伝えてもらう手筈になっているから、彼らは安心して屋敷監視に集中できるというわけだ。

「夜が明ける前に移動しろ。俺達は先に行く」

地図を頭に叩き込んで立ち上がったカナトに倣いソラも立ち上がる。
いつも賑やかで、情けない顔ばかりしているソラも今ばかりは真剣だ。アサギが見たら惚れ直すあまり倒れそうだな、などと思える最後の余裕を振り払い彼らは互いの拳を合わせた。

「ヘマすんなよ」

「そっちこそ」


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