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第五章、マタ来タル春
三十八話
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その日の昼下がり、柚は井上を探していた。
赤レンガが敷き詰められた歩道を、海老茶色の袴姿の女学生達が通り過ぎていく。
女学生達は銀座の街を行き来していた。
井上を探してかれこれ一時間が経つ。
本物の令嬢が集まるセレブ街といえば、今も昔も銀座と相場が決まっていた。
(映画って…何の映画なんだろう…?ホラーじゃなければ良いんだけど…)
小学生の時にホラー映画を観てから、少しトラウマ気味なのだ。話を聞くくらいなら大丈夫なのだが、映像となれば記憶に強く残るから苦手だ。
「できたらファンタジー、できたらファンタジー」
祈りながら井上を探す。ふと、劇場の方へ目をやると、特徴的な淡い水色の髪が見えた。白縹色の着物に、上には白い無地の羽織。薄いフレームの丸眼鏡までかけていた。
「井上さん、今日はいつもの洋装じゃないんですね」
「ええ、今日は和装にしてみました」
「新鮮ですね~!」
劇場の中は暗く、観客も満席とまではいかないが沢山の人がいた。
「嬢ちゃんと坊主、運が良いね~、今日の弁士は中々の腕前だよ~」
「坊主と呼ばれる程の年齢ではないんですけどね…僕」
「なぁ~に言ってんだ。若者は坊主だよ」
そう言って前の席に座る中年男性は煙草をふかし始めた。
明治の世は、現代より喫煙の規制が緩いみたいだ。
映画は無音だったが、弁士と呼ばれる人達が台詞や場面説明などを語っており、かなり楽しめた。内容は最近女学生に人気の教師と女学生の恋愛物だった。結末は見事結ばれてハッピーエンド。
井上曰く、何の映画が始まるのかは上映されるまで分からないんだと。
煙草をふかしていた中年男性は上映中、「良いぞ良いぞー!」とケラケラ笑っていた。
「どうでした?」
「楽しかったです!」
「それは良かったです」
劇場の外に出ても、そこには平坦な風景と平坦な道のりが続いているだけで、大喝采も舞い散る紙吹雪もなかった。
「井上さんも、主人公のようにああなりたいですか?」
「冗談はよして下さい。…ただ、日常から離れてああいったお話に没頭したい時はありますね。ただでさえ現実は忙しくて悲観的ですから」
気まずくなってしまい、しばらく無言で歩いていたら、井上が足を止めた。
「あそこの小間物屋に寄っても良いですか?」
「こまものや…?」
「はい」
井上は一つの小間物屋に入っていく。店に並べられている机には、簪や櫛などの装飾品や白粉に紅猪口などの化粧品をはじめ、塗り物の器や眼鏡に袋物などの日用品が置かれている。
井上はそれらをじっくり見ながら何やら考え込んでいる。
「良いの、見付かりましたか?」
井上が何かを購入し、満足げに戻ってきた。
「ええ」
とても嬉しそうな笑みだ。
「柚さん。手を出して下さい」
「…?」
井上は手の平より少し大きめの木箱を柚に渡した。
「これは…?」
「開けたら分かります」
柚は木箱の蓋を取って、恐る恐るといったふうに中を凝視する。
箱に入っていたのは、櫛だ。
「櫛…?」
「本当は簪でもと思ったのですが、中々良いのが見付からなくてですね…」
細かな桜が描かれたつげの櫛だった。櫛なら普段遣いができるし、なにより可愛い。
でも…
「こんな高価な物、貰えないです」
どう見ても一般の価格で安物と呼べる物ではない。櫛の表面も滑らかでつるつるだし、これが安物と言うのなら、自分の感覚を疑ってしまう。
「値段は気にしないで下さい」
「え、でも…」
貰ってばかり…というのも何だか気が引ける。
「では、今日一日の貴方の時間を頂きましょうか」
「…は?」
(ジカンヲ、イタダク???)
「それは一体どういう…?」
「では行きましょう」
休憩と腹ごしらえを兼ねて、柚と井上は近くの甘味屋を訪れている。
遠慮はいりませんよと言われたのは良いが、何を注文するか、いっそ注文するかどうかを迷いに迷った柚も、最後は井上からの笑顔の圧力に負け、値段も高くなく店のおすすめであるというあんみつを頼んだ。
しばらくして運ばれてきたあんみつは、とても美味しかった。
少しだけ小豆のつぶつぶした食感の残る餡は上品な甘さで、白玉と合わせると幸せな気分になる。そこへ寒天の口当たりの良さが口の中をさっぱりとまとめてくれた。
あんみつがこんなにも美味しいものだとは知らなかった。
「美味しいですか?」
「はい!めっちゃ美味しいです」
柚が夢見心地にスプーン片手に感嘆の息を漏らすと、井上はゆったりと美しい微笑みを浮かべた。
湯呑みの中とあんみつが入っていた器が空になると、会計を済ませた二人は甘味屋を出、また歩き出した。
人力車で家まで送ってもらう頃には、日はとっくに沈んでいた。
「ありがとうございました。今日は楽しかったです」
「僕もとても有意義な時間を過ごせました」
赤レンガが敷き詰められた歩道を、海老茶色の袴姿の女学生達が通り過ぎていく。
女学生達は銀座の街を行き来していた。
井上を探してかれこれ一時間が経つ。
本物の令嬢が集まるセレブ街といえば、今も昔も銀座と相場が決まっていた。
(映画って…何の映画なんだろう…?ホラーじゃなければ良いんだけど…)
小学生の時にホラー映画を観てから、少しトラウマ気味なのだ。話を聞くくらいなら大丈夫なのだが、映像となれば記憶に強く残るから苦手だ。
「できたらファンタジー、できたらファンタジー」
祈りながら井上を探す。ふと、劇場の方へ目をやると、特徴的な淡い水色の髪が見えた。白縹色の着物に、上には白い無地の羽織。薄いフレームの丸眼鏡までかけていた。
「井上さん、今日はいつもの洋装じゃないんですね」
「ええ、今日は和装にしてみました」
「新鮮ですね~!」
劇場の中は暗く、観客も満席とまではいかないが沢山の人がいた。
「嬢ちゃんと坊主、運が良いね~、今日の弁士は中々の腕前だよ~」
「坊主と呼ばれる程の年齢ではないんですけどね…僕」
「なぁ~に言ってんだ。若者は坊主だよ」
そう言って前の席に座る中年男性は煙草をふかし始めた。
明治の世は、現代より喫煙の規制が緩いみたいだ。
映画は無音だったが、弁士と呼ばれる人達が台詞や場面説明などを語っており、かなり楽しめた。内容は最近女学生に人気の教師と女学生の恋愛物だった。結末は見事結ばれてハッピーエンド。
井上曰く、何の映画が始まるのかは上映されるまで分からないんだと。
煙草をふかしていた中年男性は上映中、「良いぞ良いぞー!」とケラケラ笑っていた。
「どうでした?」
「楽しかったです!」
「それは良かったです」
劇場の外に出ても、そこには平坦な風景と平坦な道のりが続いているだけで、大喝采も舞い散る紙吹雪もなかった。
「井上さんも、主人公のようにああなりたいですか?」
「冗談はよして下さい。…ただ、日常から離れてああいったお話に没頭したい時はありますね。ただでさえ現実は忙しくて悲観的ですから」
気まずくなってしまい、しばらく無言で歩いていたら、井上が足を止めた。
「あそこの小間物屋に寄っても良いですか?」
「こまものや…?」
「はい」
井上は一つの小間物屋に入っていく。店に並べられている机には、簪や櫛などの装飾品や白粉に紅猪口などの化粧品をはじめ、塗り物の器や眼鏡に袋物などの日用品が置かれている。
井上はそれらをじっくり見ながら何やら考え込んでいる。
「良いの、見付かりましたか?」
井上が何かを購入し、満足げに戻ってきた。
「ええ」
とても嬉しそうな笑みだ。
「柚さん。手を出して下さい」
「…?」
井上は手の平より少し大きめの木箱を柚に渡した。
「これは…?」
「開けたら分かります」
柚は木箱の蓋を取って、恐る恐るといったふうに中を凝視する。
箱に入っていたのは、櫛だ。
「櫛…?」
「本当は簪でもと思ったのですが、中々良いのが見付からなくてですね…」
細かな桜が描かれたつげの櫛だった。櫛なら普段遣いができるし、なにより可愛い。
でも…
「こんな高価な物、貰えないです」
どう見ても一般の価格で安物と呼べる物ではない。櫛の表面も滑らかでつるつるだし、これが安物と言うのなら、自分の感覚を疑ってしまう。
「値段は気にしないで下さい」
「え、でも…」
貰ってばかり…というのも何だか気が引ける。
「では、今日一日の貴方の時間を頂きましょうか」
「…は?」
(ジカンヲ、イタダク???)
「それは一体どういう…?」
「では行きましょう」
休憩と腹ごしらえを兼ねて、柚と井上は近くの甘味屋を訪れている。
遠慮はいりませんよと言われたのは良いが、何を注文するか、いっそ注文するかどうかを迷いに迷った柚も、最後は井上からの笑顔の圧力に負け、値段も高くなく店のおすすめであるというあんみつを頼んだ。
しばらくして運ばれてきたあんみつは、とても美味しかった。
少しだけ小豆のつぶつぶした食感の残る餡は上品な甘さで、白玉と合わせると幸せな気分になる。そこへ寒天の口当たりの良さが口の中をさっぱりとまとめてくれた。
あんみつがこんなにも美味しいものだとは知らなかった。
「美味しいですか?」
「はい!めっちゃ美味しいです」
柚が夢見心地にスプーン片手に感嘆の息を漏らすと、井上はゆったりと美しい微笑みを浮かべた。
湯呑みの中とあんみつが入っていた器が空になると、会計を済ませた二人は甘味屋を出、また歩き出した。
人力車で家まで送ってもらう頃には、日はとっくに沈んでいた。
「ありがとうございました。今日は楽しかったです」
「僕もとても有意義な時間を過ごせました」
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