幸せになりたい!

矢野 零時

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4実家暮らし

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 理江は、新しく出直すつもりでいた。そう、会社があるこの街に、いつまでもいるわけにはいかない。大阪にでも行って、そこで就職をすることをも考えた。だが、そのためには大阪に住むところを見つけて、そこで就職活動を始めなければならない。だが、それも面倒でだるい。
 母は忠之との結婚がダメになったことを知っている。その母が前から「実家に戻って一緒に住まないかい」と言ってくれていた。ようは、母の老後の世話をして欲しいと言うことなのだ。その代わり、母が持っている家とアパートを理江にくれるという。不動産をいただけるならば、実家に帰ってもいいと思っていた。だが、兄の忠次郎が母の財産を独り占めにしてしまうことを黙っているとは思えない。そう思って、理江が兄の話を母にすると「何を言っているの。良枝さんは、私の面倒なんか、絶対にみませんと、言っているんだよ。そんな人が私に不動産の相続を要求することできるはずないよ」と母は言っていた。 
 良枝さんは、兄の奥さんだ。気が強く一度言い出したら、その言葉を変えようとはしない人だった。もちろん、兄は良枝さんに弱い。
「それに、こちらでのんびりとしていれば、新たな出会いが生まれるかもしれないわよ」と、母は言ってくれたのだ。
 そこで、理江は伊治市にある実家に戻ることにした。
 実家は、閑静な住宅街の中にあった。だが、理江が家に戻ると街並みは変わり出していた。家の前が広い通りだったので、喫茶店、花屋、そしてコンビニなどができていた。そう商店街に変わり出していたのだ。確かにわざわざバスに乗って中心街に行かなくても、この通りに商店があればちょっとした買い物ができる。
 だからと言って、理江の実家までもが、改築をしてパン屋になっているとは思ってもいなかった。
 店の名前はベーカリーベル。家の玄関だった所は店の出入口に変えられ、通路側の部屋には大きな窓ガラスをはめて、店の中に並べられたパンが見えるようになっていた。
 理江は出入口ドアにつけられた鈴の音を立てながら、店の中に入った。カウンターを前に、頭にタオルをまきクリーム色の前掛けをつけた母は笑っていた。
「お母さん、これは何よ。どうして、パン屋になっているの!」
「私がパン作りの講座に通っていたのは、知っているよね」
「それは知ってたわ。でも、パン屋を始めるなんて聞いてない」
「そう言ってなかったね。でも、理江はパン好きだったろう」
 たしかに、理江はパンが嫌いでなかった。でも、そういう問題じゃないと思う。
「店を開いて今日で三日目。お前を待っていたんだよ」
 言われてみれば、出入口に花が飾られていた。思わず理江はむっとした顔をした。母はすぐに猫なで声を出した。
「お前の部屋は昔使ったままにしてあるんだよ。それに送ってくれたお前の荷物は、部屋に運び込んであるからね」
 母ににこやかに言われたら、怒り続けてはいられない。ともかく、店の奥にある戸を開けて、家の中に入った。そこに本当の玄関が作られていた。靴をぬぎ廊下を歩き出す。戸を取り払われた母の寝室には機械が入れられ、パン作り工場と化していた。それを横目で見ながら、理江は階段をあがった。二階にある自分の部屋に入ると、懐かしい匂いがしてくる。片づけを始めようとしたが、簡単に終わりそうにないことに気がついた。これからここで暮らすことになる。そして、部屋代を母はただにしてくれると言っていた。
「スポンサーの手伝いをしてやるか」
 そう思うと理江は自分の部屋から出ると階段をおり、店に出て行った。理江の顔を見ると、母は嬉しそうだった。すぐに、母は前もって用意していたのだろう。レジ脇においていたコック帽とエプロンを理江は渡した。
 それを身につけて理江は店内に立ち、 改めて理江が店の中を見まわした。棚に置いてあるパンは食パンとクロワッサンだけだったのだ。
「お母さん、ちょっと種類がなさすぎるんじゃいの?」
「食パンに自信があるから、食パンの専門店にしたいと思っているのよ。食パンはもっちりタイプとさくっとするタイプを二種類焼いているわ。それにスライサーも買って、四つ切りした物や六つ切りにした物をビニール袋に入れて置いているわよ」
 思わず、理江はうなってしまった。パンを売っている店で食パンだけの専門店がないわけではない。だが、住宅が多い街の店ならば、食事に食べる調理パンも置いた方がいいと思われた。やはり、昼時間がきても、お客が入ってこない。
「朝は売れていたんだよ」と母は弁明をするように言っていた。それでも、夕刻には、食パンが一斤売れていった。
「明日の朝食に使ってくれるそうよ」と、母は喜んでいる。午後六時になって、母は店のドアに提げていた木板をひっくり返した。そこにはクローズと書かれている。そして、ドアを閉めて鍵をかけ、カーテンをひいた。
 だが、店の棚には、食パンが五斤も残り、クロワッサンも皿一杯分が残っていた。
「今晩は、パンを食べて貰わないとならないね」
 仕方がない。夕食として理江は母と一緒に売れ残ったパンを食べた。食パンをまずトーストしてバターを塗って五枚。次にイチゴジャムを塗って三枚食べた。さらに、クロワッサンを四個食べた。カロリーの点からみれば、とりすぎだ。喉が渇いたので、冷蔵庫からトマトジュース、コーヒー、牛乳を出して、理江は飲んでいた。
「私、明日の朝、何時に起きればいいのかしら?」
「なんだい、あんたはね。会社勤めの頃と同じく、ゆっくり起きてくればいいんだから」と、母は笑っていた。だが、嘘臭い。そう言ったのは、夕食時にパンばかり食べさした負い目のせいだったかもしれない。
 やはり、次の日。母は朝早くから起き出していた。パン作りを始める音が聞こえだすと理江も、いつまでも寝ていることができなかった。身支度をすると、母の側に行き、母に聞きながら手伝っていた。どうやら、理江は母の罠にはまったようだった。
 朝食は、店の中にあるイートインコーナーで焼き立てのクロワッサンを食べた。さすがに、焼きたてのパンは美味しかった。
「お母さん、私たちが食べきれなかったパンはどうするのさ?」
「私ね。アパート経営もやっているでしょ。そこの住民に売り付けてくるわ」
 なるほど、そんな手があるのかと理江は思った。でも、いつまでも、そんなことをしてはいられないとも思っていた。
 午前九時に店を開けた。すると母の顔なじみの人たちが来てくれた。この人たちには、これからも何度も来てほしい。でも同じパンばかりでは、あきられてしまう。新しく店ができたことを知り見に来てくれた人たちもいた。彼らは声を出しはしなかったが、店の中を見まわして、失望をしていたようだった。お客が途切れた時を見て理江は母の方に顔を向けた。
「お母さん、置くパンの種類を増やそうよ」
「カレーパンでも作るかい?それとも、あんパンにするかい?でも、それをするともっと早く起きなければだめだね」
 母はのりきでなさそうだった。昼の時間が過ぎた頃。午後三時に母は理江に店をまかして、アパートへ昨日の残ったパンを持って出かけて行った。アパートには、母子家庭の人が住んでいて、この時間には、子供たちだけなので、おやつ代わりに食べてもらったのだそうだ。子共だけの部屋にパンを持ち込んで、お金がとれるとは理江には思えなかった。
 母が帰ってきたので、今度は理江が出かけた。近くにあるコンビニに行き、生卵を三パック、ツナ缶を五缶やマヨネーズを二本買い、八百屋に行っては、タマネギを買い込んできた。
 理江が店に戻ると、母は買ってきた袋をのぞきこんで、「何を作るつもりなの?」と聞いてきた。
「見てわからないの?サンドイッチを作るのよ」
 忠之と結婚すると思って、料理教室に通っていたことがここで役立つとは思ってもいなかった。

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