妄想

矢野 零時

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妄想

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 忠之は、葉山高校にバスで通っている。
 その日の朝も、いつもの停留場でバスを待ち、やってきたバスにのり込んだ。この時間帯ではシートに座ることは難しい。忠之はバスの乗車口そばにある鉄パイプに寄りかかり、携帯を出してゲームをやりだした。
「よう、弘がいるバスにのってしまったな」
 後からのってきた守にあいさつ代りに言われ、忠之はバスの最後部のシートの方に顔を向けた。そこには、弘だけがすわっていた。弘は背もたれの上に片手をのせて誰もいない所に向かって、まるで誰かがいるかのようにヘラヘラと笑いながら話をしている。忠之は、すぐに携帯の画面に顔を戻しゲームの続きをやり始めていた。
 
 始めて弘と同じバスにのった乗客は、少し大声で話をして笑い声をだす弘に気づくと、嫌な物を見たように、眉をひそめ眼を細めてしまう。気でも狂っているのではないかと思うのだろう。だが、学校での弘は、忠之たちとまるで変わらない。普通に勉強もし、運動だってちゃんとやっている。学業の成績だって、上の下といったところだった。ともかく、忠之たちは、弘に慣れている。いや、このバスに常時のっている他のお客たちも弘には慣れてしまっていた。だから弘の隣の席はいつも空いていたのだった。
 
 だが、その日の朝は少しやばいことが起きてしまった。
 忠之たちがのっているバスに一人の老人がのってきた。老人は杖をつき、足が悪いのか、バスにのり込むのにも時間がかかっていた。バスにのるとすぐに空席を探し出した。ゆれるバスの中では老人は立っているだけでもつらかったのだろう。額に脂汗をかきだしていた。杖をつき、人の間をぶつかりながらも、弘の隣が空いているのを見つけてしまった。近づくと、その席に座ろうとした。
「何をするんだ!」
 そう言った弘は老人の腕をつかんで座らせない。
「空いている席に座って、悪いのかね?」
 老人は、不思議そうに弘の顔を見つめていた。
「爺さん、すでに座っている者がいるだろう。それなのに、そこに座るのかい?」
 老人は、もう一度弘の隣に空いているシートの上を見つめた。忠之にも、そこには何も見えなかった。老人は、今度こそ本当に腰をおろそうとした。すると、弘が老人を突き飛ばしたのだ。他の乗客の中に飛ばされた老人は、こわばった顔を弘に向けていた。
「どうして、こんなことをするんだ!あんた、どこの学校だ?」
 弘は、まるで老人の声など聞こえなかったように、見えない者と話を続けている。
「まずいな」と忠之の耳元で守がささやく。
 そんな時に、同じ高校の留美が屈み込んで杖をひろうと老人に手渡していた。そして、中年の女がわざわざ席を立って、「お爺さん、座ってください」と言って老人に席をゆずってくれていた。
「すまないね。ありがとう、ありがとう」と言って老人は座り、留美と中年の女に何度も頭を下げていた。

 愛校精神など持っていないと思っていた忠之も、このままじゃまずいと思った。少し注意をしておこうと思って、一時間目の授業の後、休み時間に忠之は弘の席に近づいていった。しかし、そもそも、なぜ、弘が空席で話をするのか、知らないことに気がついて、そのことをまず聞いてみた。
「弘、バスの中で、一体誰と話をしているんだよ?」
「誰と話をしているって、そりゃエルフだよ。知らないのかい?」
 忠之は、うなずいていた。本当に知らなかったからだ。そもそも横文字はきらいだ。だから、英語の成績はよくない。
「エルフはね。昔は森や山に住んでいたんだぜ。でも、人間たちが森を無くし、山を切り開いて、彼らの住む所を無くしてしまった。だからね。今は人間の住む街にいるしかないんだよ」
「本当の話しかい?ともかく、俺には、何も見えやしないよ。弘の妄想じゃないのか?」
「妄想か。あんたに見えないだけなんだけどな」
 そういった弘は顎をしゃくりあげていた。
「見えない者には、妄想かどうかも分からないだろう?」
「そうだろうな。だけど、それでいいんだよ」
「どうしてだ?」と、忠之は眼を細めていた。
「もし、エルフが見えるようになったとして、エルフが好きになれるのかい?」
「見たこともないのに好きになれるかどうか、分かるわけがないだろう」
「エルフはね。普通の人間じゃない。自分を見て、好きになれない奴はすぐ分かるんだよ」
「分かったからって、どうだっていうんだ?」
「そんな奴を生かしておかないということさ」
 弘は、そう言って忠之をにらみつけてきた。
「俺を、おどしているつもりかい」
 忠之がそう言うと、弘はへらへらと笑い出していた。

 忠之は誕生日に前から欲しいと思っていたマウンテンバイクを父から買ってもらった。そこで、バス通学を自転車通学に変えることにした。自分でも気づいていなかったが、弘と同じバスにのりたくなかったからかもしれない。マウンテンバイクの乗り心地は本当によかった。いつも風にあたっていたいと言って、忠之はブレーキをなるべく掛けないようにしていた。そして忠之は自転車にのっている時も首から携帯をさげていたのだ。

 その日、学校からの帰り、守への返信メールを片手打ちしながら自転車を走らせていた。
「きゃっ」と声がした。忠之が携帯から顔を上げると、自転車の前にセーラー服をきた女子高校生が立っていたのだ。忠之はあわてて、ハンドルを右にきる。忠之の自転車は車の前に飛び出して行った。
 携帯を掴んだままに忠之は空を飛び、回転をしながら、地面にたたきつけられていった。自転車が車の下で大きくゆがむのを見ながら、忠之は意識を失っていた。

 最初に、忠之の眼に入ってきたのは、真っ白い天井に吊り下げられた蛍光管だった。すぐに母の顔がのぞいた。もともとやせ顔なのに、さらに肉が落ちて頬がこけていた。
「気がついたの?」
「母さん、ここはどこ?」
「病院に決まっているじゃないか」
「そうか、でも、まだ頭がズキズキしている」
「しょうがないよ。地面にたたきつけられたからね。でも、車の下にならずにすんだだけでも幸いだったよ。もし、そうなっていたら死んでいたわ」
 母が泣いてくれていた。忠之は生きていて本当に良かったと思いながら、ふたたび睡魔に襲われ眠りに入っていた。

 その日を境に忠之の体は回復にむかった。思ったよりも後遺症はなく歩く時に少し右足をひきずるだけだった。だが、時々物がゆがんで見えるような気がしていた。
 学校ヘは、夏休みあけに、ふたたび忠之は通いだすことにした。もちろん、自転車通勤をする気はもう無くなっていた。またバス通学に戻るしかない。
 二学期の最初の日。しばらくぶり、忠之はバスにのった。
 弘の声が聞こえてきた。
 前の忠之ならば、携帯のゲームをやって、それに集中して弘の方など見ないでいられた。だが、事故の原因が携帯だったこともあって、今は携帯を持ってきてはいない。
 集中する物などない忠之の耳に弘と話している者の声が、はっきりと聞こえてきたのだ。
 その声は甲高く、耳障りな声だった。思わず、弘の方に顔を向けてしまった。たしかに、弘の隣に何かがいた。
 これがエルフなのか?
 いや、エルフだ!
 顔は大きく普通の人の倍くらいの大きさがある。顔の上にはあちらこちらにコブができている。醜かった。思わず忠之は顔をしかめていた。その途端、エルフと眼があってしまった。エルフの顔は、さらに醜くなり、開けた口の中に牙が見え出していた。
 それに気づいた弘は忠之の方に顔を向け叫んだ。
「眼をあわすな。早く、横を向け」
 だが、忠之は引きつけられるようにエルフから眼をそむけることができなかった。弘の隣から立ち上がったエルフは、乗客をかきわけながら大きく口を開けて忠之に近づいてきていた。
                                                  
                                         



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